馬と鹿と哀愁と 2
ピンーーー、ポーン。
癖がある呼び鈴の押し方でドアの向こうにいるのがバヤだとすぐに分かった。「はぁい」と返事をして祐介は迎え入れる。
ドアを開けるとバヤがビニール袋をぶら下げて立っていた。
「ちーす。遅れました〜」
サンダルにTシャツ、下は膝が丸見えになっているダメージジーンズ。春とはいえど、夜はまだ肌寒い。祐介は挨拶を言うよりも、服装について尋ねたが、バヤはその質問を全く無視して「これ。」と言って袋をかざした。
白いビニール袋からは色とりどりのアルミ缶が透けて見えた。それがアルコール飲料であることが分かるくらいには祐介は大人になっていた。
「ありがとう。適当に寛いで。」
祐介がそう言うとバヤは適当に荷物を放り投げ、「じゃあ遠慮なく」と袋からビールを取り出した。
「相変わらず自由奔放だな。」
祐介は差し出されたビールを受け取りながら言った。バヤは
「相変わらず寂しい部屋だな。」
と皮肉で返す。
「うるせ、余計なお世話だよ。」
祐介はバヤの皮肉をひと蹴りしてビールのタブを開けた。乾杯してビールを飲む。特有の苦みが口に広がった。
昔と少しも変わらないバヤの姿は祐介に故郷のような安心感を与えた。まるで何年も前のことが昨日のように鮮明に思えたり、最近の出来事が何年も前に思えたり、タイムトラベルをしているように時間が歪みを感じる。
祐介は台所へ向かって角煮をよそり、バヤの前に置いた。
「どうぞ。味、ちゃんと染みてるかな?時間浅かったから、薄味だったらごめん。あとご飯もあるから。」
祐介は話しかけながら自分の分をよそってテーブルに置く。
「おお、サンキュー。まあ、たとえ染みてなかったとしてもその気持ちに俺の心が沁みるよ。」
バヤは角煮を口に頬張りながら答えた。
「ちょっと会わない間にずいぶんと寒いジョークを言うようになったな。年を取った証拠。」
祐介は言い切る前にテーブルの前に座った。
「そんなことない。まだピチピチの23だから。」
バヤはビールを喉に流し込みながら返える。
「年齢はおれも一緒だから、おれもまだピチピチだな。」
祐介は角煮を口に放り込んで言った。思っていたよりも味がきちんと染みていた。
「馬鹿、ピチピチとはいかないだろ。」
バヤが言う。
「23歳って微妙な年だよな。若いっていうには図々しいし、かと言って年取ったってわけでもないし。」
祐介はビールを飲んで言った。
「たしかにな。」
バヤはそう言って、少し間を空いてから続ける。
「でも歳をとったのは感じるな。テレビとか見ててもさ、年下ばっか。ネットを開けば結婚しただの、出産しただのって。」
バヤはビールを一気に流し込み、自分の言葉を噛みしめるかのように目を細め、黙った。
ビールが少しずつ胃袋に溜まっていくのが分かった。成人式の時は苦くて嫌な飲み物としか感じてなかったのに、気が付いたら飲めるようになった、不思議な飲み物。部屋の傷と同じ、知らぬ間に変化したことが増えていく。確かに変わっているのに気付けないのは、自分が少しずつ鈍くなっていくからなのだろうか。半分だけ開けた窓から、春風が電線を揺らしているのが見えた。部屋のなかに零れ落ちたような風が入りこんでくる。
「あ、そういえばさ、卒業式の前日のこと覚えてる?」
バヤは沈黙を破るように祐介に問いかけた。
「前日のこと?」
「ほら、みんなで制服のまま海に飛び込んだろ?あれも春のことだったなって思い出してさ。」
3階建ての小さな街にある唯一の中学校。駐輪場に置かれた自転車は潮風の影響で3年生のものはほとんどが錆びている。窓を開けっ放しにしてしまうと砂が舞い込んでしまうほど海に近かった。3年生の教室がある最上階からは海が一望できる。黒板を叩くチョークの音の隙間に入り込む、波の音。当時は苦戦していたノートをめくってしまう潮風の悪戯も、今ではひどく懐かしかった。
「あれか。覚えてるよ。楽しかったよな、家でめちゃくちゃ怒られたけど。」
再生ボタンを押したかのように、思い出が鮮明に蘇ってくる。
3月の海は予想以上に冷たくて叫び声をあげた。がむしゃらになって海をかき分けた。何の意味も目的もなく。水を吸って重たくなった制服は、身体にまとわりついて気持ちが悪かった。
帰ってからこっぴどく母に怒られ、知り合いのクリーニング屋を頼って無理やり制服を綺麗にしたもらった。
「俺も。なんであんなことしたんだろうな。」
バヤは笑いながら言った。
なんでだったんだろう?祐介は当時考えもしなかった疑問を改めて考えてみた。
たぶん。多分、反抗だったのだろう。時間という圧倒的なものに対する、中学生ながらの精一杯の反抗。金も車なく、あるのは期限付きの自由時間と錆びた自転車。馬鹿な記憶をひとつでも多く持って、中学校で過ごした時間を永遠にしたかった。この先も何年も笑い話にできるものが欲しかったのだ。
「理由なんてないよ。それが青春だからってだけ。」
祐介は敢えて痛い言葉を吐いた。自分でそう言って、あとから襲ってくる寒気のようなものをビールで流し込む。
きっと楽しい思い出が時間に流されてしまうことが怖かったのだろうなとも思う。一緒に居たいだけだったのに、制限時間は秒針が動く音を出しながら刻々と減っていく。反比例するように大きくなっていく悲しさ、寂しさ、怖さ。
青春の影に潜んでいたものが、ただの現実逃避だったと口にしたら、キラキラした思い出が途端にガラクタになってしまうような気がして、黙っていた。
「へぇ…。なんか痛々しいな。」
一方でバヤは祐介の考えを理解していない様子
だった。ぼんやりと窓の外を見つめている。
「痛くなければ青春じゃないんだってよ。なんかのキャッチコピーでそう言ってたろ?」
祐介はどこかの広告で見たキャッチコピーを思い出していた。
「痛くなければ青春じゃない、か…。」
バヤは缶に口につけながら言った。空っぽの缶が、くぐもった声が部屋に響かせた。
「まあ、今だって十分痛いけどな。」
バヤは手を左右に広げて床に寝転ぶ。
「なに、まだ青春してんの?」
祐介は煽り立てるようにバヤに問いかけた。それと同時にビールを煽り、空にする。
「いや、青春ってわけじゃないけどさ。」
バヤは天井を見上げて言う。
「じゃあ何なの?」
祐介は返事しながら、空き缶を台所まで運んだ。冷蔵庫の前に置きっぱなしにしていた特売の柔軟剤に足を思い切りぶつけてしまい、袋の硬い部分で小指を引っ掛けた。出血するほどではないけれど、皮膚が切れたように痛い。こんな思いをするくらいなら、買わなければ良かったと祐介は後悔した。
バヤは祐介が戻ってくるのを待ってから言った。
「結婚しようかなって思ってんだ。」
「何の冗談言ってんだよ。あ、今ご飯持ってきてやるから。」
祐介は再度台所に戻り、2人分のご飯をよそった。
「マジだよ。」
バヤは「いただきます」とお礼をしてご飯を口に運ぶ。
「本当なの?」
祐介もご飯を食べ、質問した。
「まひだって。」
口に入ってる食べ物がバヤを喋らせない。
「マジだって」と言っているんだろうなと祐介は解釈した。
「え?何も聞いてないよ。ていうか、彼女居たの?」
祐介は咀嚼していたご飯を飲み込んでから質問した。
「え?ごめん。言ってなかったっけ?」
バヤは缶チューハイのプルタブを開けて、飲み込んでいく。
「うん。何も。バヤもついに結婚かー…。」
祐介は沢山ある疑問を一旦飲み込んで、遠い目をした。
「でも、まだ悩んでんだよね。」
バヤはため息でも吐き出すように言い切った。
「悩んでんだ。行動派のバヤにしては珍しいね。そんなに慎重になるなんて。」
祐介はハイボールを開けた。ウイスキーの匂いがふわりと香る。
「うるせーな。」
バヤは笑いながらそう言うと、一人で語り出した。
「結婚するなら今の人なんだけどさ。まだ踏み切れないんだよ。今やってるアパレルの仕事はそんなに稼ぎが多いわけじゃない。それなりの貯金はあるけど、あんまりアテに出来ない。でも結婚すんなら式もあげたいしさ。彼女のためにも、自分の親のためにも。」
言い切り、バヤはチューハイに手を伸ばす。
祐介は「ワガママだなあ」とボヤいてハイボールの缶を手にした。
「彼女、子どもが欲しいんだって。」
そう言ったあと、バヤはチューハイを喉に流し込んだ。ゴクリという音が部屋に鳴る。
祐介も手にしていたハイボールを喉に流し込む。喉を焼くような辛さが祐介を酔わせていく。
「彼女、今年で32歳になるんだよ。日本ではさ、高齢出産は35歳以上の初産婦って言われてんの。一言で子どもが欲しいって言ったって、年の分だけ相応のリスクがある。流産する確率も上がるし、先天的な障害を持つ子どもが産まれる確率だって同じように上がる。30代前半までは10%ぐらいの自然流産の発生率も、30代後半になると倍の20%、40歳以上で40%にもなる。」
バヤは見せびらかすように喋るのではなく、あくまでも自然に言葉を紡いでいた。祐介はただ黙ってその話を聞く。バヤの言葉が続いた。
「彼女の話を聞いてると確かにそうだな、って納得するんだ。だけどさ、現実問題として子どもを産むってなると金の話は避けられないだろ。絶対的に養えないわけじゃないけど、迷惑がかかるかもしれない。好きな人には金で苦しんでほしくない。もちろん、自分の子どもにも。でもそうやってタイミングを延ばせば延ばすほど、リスクは着実に高まっていく。」
祐介にはバヤの抱えてる悩みが贅沢に思え、少しだけ毒づいた。
「でもそんなこと言ってたって、何年後かに金を持ってる保証なんてあるの?」
「保証はない。ないけどさ、今よりも金がある可能性はあるよね。」
バヤは可能性という言葉を強調して言った。
「タイミングに振り回されるくらいなら、もういっそデキ婚でもしてやろうかと思ったこともあったけど、それは向こうの親が許さないっぽくて。」
祐介はバヤにどんな言葉をかければいいのか分からなかった。なんとなく相づちを打ったのちに、ひとまず話の方向を変えてみた。
「そもそも相手は誰なの?」
「去年の秋くらいから付き合い始めた人なんだけどさ。」
アルコールのせいか、バヤの顔が紅潮している。
「うん。」
「俺、名古屋に旅行に行ってたじゃん?そのときの人でさ。」
「え?まさかナンパ?」
祐介はバヤに質問を投げかけた。
「そう、ナンパです。」
バヤの口元が微妙に緩んだのをみつけた。
「なんでお前はそんな突拍子もないことを…」
祐介は思わず呆れる。
「泊まったゲストハウスに居てさ。年齢は離れてるけど、めちゃくちゃ気も話も合うんだよな。不思議と居心地が良かった。ちょうど良い言葉が見つからないくらい、なんか運命的なものを感じてさ。」
バヤが興奮気味に話す。
「運命なんて、そんなんあるわけないだろ。」
一方の祐介は至って冷静に切り返した。
「運命としか言いようがない。他に言葉がない。会ったこともなかったのに、ずっと知り合いだったみたいな。前世は多分、この人と一緒だったんだろうなって思った。」
「ふうん。」
運命や前世といった類いのものを祐介は信じていなかった。
「誰が何と言おうと、俺が運命だと思ったならそれは運命なんだよ。」
バヤは得意げになってチューハイを煽った。水滴が撥ねる。
「でも、まあ、結婚するにしても、別れるにしても、早めに答えを出さないといけなさそうな状況だね。」
「うん。そう。そうなんだよ。」
一瞬、沈黙が流れる。原付きのモーター音が部屋のなかに転がり込んだ。茶碗のごはんも、角煮も、飲み物も、中途半端に手をつけられたまま箸が止まっている。
「じゃあ、」と先に口を開いたのはバヤだった。
「じゃあ今から2人で一気飲みしてさ、俺が勝ったら結婚する。んで、お前が勝ったら別れるってのはどう?」
祐介は怪訝な顔でバヤを見る。
「馬鹿か。酒の勢いに人生を任せるなんて。もっと真剣に考えろよ。」
バヤの言動に祐介は呆れた。
「真剣に考えたから、言ったんだよ。」
バヤはいやに冷静だった。
「あまりにも突拍子が無さすぎる。いくらなんでもそれじゃ無責任過ぎるだろ。」
バヤの冷静さに祐介は何となく腹が立った。
「いつまでも先延ばしにする方が無責任だ。」
「お前だけの人生じゃないだろ?」
「俺だけの人生じゃない。で。ここまで言うのは勝算があるから。」
バヤはドヤ顔をして祐介を刺激する。
祐介は決めかねていた。心の中に黒く渦巻く感情に気が付いていた。酒のせい、飲みの場という最低の言い訳も用意してある。積み重ねてたものが一気に崩れる美しさと楽しさを知ったのはいつからだろう。子どもが積み木を一気に壊すみたいな清々しさを味わいたくなった。ダメなことだと分かっているからこその背徳感が更に祐介を手招きする。どうしても悪いことに惹かれてしまうのは人間の本能なのかもしれない。
「分かった。そこまで言うなら勝負するよ。でも、どうなっても責任は取らないからな。」
祐介は冷蔵庫の中からビール缶を2本取り出す。
「よし。お前なら乗ってくると思ってたよ。先に飲み干した方が勝ちだからな。」
「もし、おれが負けたら?」
祐介が訊ねた。
「知らん。お前がやりたいけど、やれなかったことをやれよ。」
バヤはあっさりと言い切った。
「ずいぶん投げやりだな。」
「俺が興味あるのは、お前が負けてどうするかじゃなくて、俺が勝ってどうするかだからな。」
バヤが挑発的に言う。
「分かったよ。何か考えとく。でもお前が負けたら別れてもらう。おれが興味あるのは、おれが勝ってどうするかだからな。」
祐介はバヤの口調を真似て言う。
「大丈夫だって。親友に人生を狂わされてたまるかよ。」
バヤは笑いながら言う。あまりの軽さに本気なのか半信半疑になってしまう。
「それじゃあ。」
2人は缶ビールのプルタブに手をかけた。缶ビールは薄らと汗をかいていて手にかいた汗と混ざり合う。持ち上げた手から一滴の水が垂れた。