出勤2
午前11時。
「おい、15分後にミーティングやんぞ!」
シェフの一言で厨房の雰囲気が一変した。
勢いの良い返事が聞こえて、各々がその時間に合うように作業を進めていく。
祐介も同様にミーティングの時間までに仕事を片付けなければならない。残ってるのは野菜類を切ることくらいだ。順調に切っていけば間に合うと祐介は判断した。淡々と冷静に野菜を切っていく。
「祐介悪い、ついでにコレも頼むわ。」
先輩の竹澤に声をかけられ、返事をする暇さえなく目の前に人参が置かれた。祐介は心に湧き上がる感情を抑えて竹澤に尋ねる。
「分かりました、何に使うための人参ですな?」
「ビーフシチュー付け合せや。シャトー。やっといて。」
竹澤は祐介の顔に一瞥もくれず自分の仕事を進めていた。
「シャトー剥きですね。分かりました、やっておきます!」
先輩から頼まれた人参の剥きものを先に終わらせることにして自分の仕事は途中でやめた。竹澤が自分の仕事を片付け、祐介も人参の剥きものを終えたころ、ミーティングが始まった。各々が身の回りを整理し、シェフの周りに集まる。
「今日の予約は多くないが土曜日だからな。入客は伸びると思って営業しろ。それと野菜の発注数が多すぎる。発注した奴が悪いが、あるものは仕方ない。スープに混ぜて使うなり、サラダに使うなり、工夫して在庫を減らしてくれ。以上だ。今日もよろしく。」
シェフがそう告げると、皆元気の良い返事をして持ち場についた。
「まもなくオープン致します、本日もよろしくお願い致します。」
サービススタッフが厨房に向かって話し掛けた。緊張感が張り詰める。どの人もみな眼光は鋭く、殺伐した空気さえ感じる。そして静寂が訪れた。嵐の前のような静寂。それを壊したのはサービススタッフだった。
「オーダー入りました!シーザーサラダお願い致します!」
サービススタッフが厨房に声をかけ伝票を所定の場所へ貼り付けた。それを皮切りに料理の伝票がどんどんと増えていく。
「ニューオーダーです。ピクルスの盛り合わせ1つです!」「ハイ!」
「ランチパスタセットお願い致します!」「ハイ!」
「コーンポタージュを2つお願いします!「ハイ!」
「ビーフシチュー1つお願い致します!」「ハイ!」
サービススタッフがバタバタと忙しくなっていき、厨房の中も次第に慌しくなっていく。厨房はまるで船のようだった。嵐が来て、波が荒れ、船長の命令に従い、弱った箇所は協力しあって修復し、団結して困難を乗り越えていく。誰もが必死にオーダーを全うしていき、声を掛け合い、ときに助け合って、ただ、嵐が去るのをひたすら耐え抜く。
嵐が落ち着いたころ、時計はもう14時30分を指していた。ランチも終盤とはいえ祐介はまだ手を抜けなかった。ディナーの仕込みを早急に始めていかないと間に合わなくなってしまう。追い込まれて落ち着きを失った心、疲労で休みたがっている体にムチを打って働くしかなかった。時間の隙をみてディナー仕込みに注力する。終わるか分からないほどの仕事量を前にしても、仕事を熟していく以外に逃げ道はない。
終わらせられなかった野菜のカットから取り掛かかった。祐介は竹澤に対する苛立ちをぶつけるかのように野菜を切っていく。
もしもドラマだったら、野菜に怒りをぶつけるなんて、と怒られてしまうのだろう。もしもドラマだったらもっとキラキラした物語になるだろうか。祐介は過去に観たレストランを舞台にしたドラマを回想した。ドラマでは仲間意識、チームの大切さを謳っていたのに、現実では仲間どころか敵とさえ感じてしまうことがある。祐介はまだ現実とドラマの境目で揺れていた。時間をかけて丁寧に仕事をしたくても、現実はそうはいかない。爆発的に増える伝票、罵倒が聞こえる職場。罪悪感を抱えながらも少しだけ手を抜いたり、ときには大胆にかわして、仕事をしなければ自分の心身が持たないと気がついたのだ。
野菜を切り終え、ジャガイモのスープの仕込みを始める。刻々と少なくなっていく時間と誤魔化しきれない疲労感。周りに分からない程度に少しずつ手を抜き、早め早めに仕事を進めていく。
いつか自分が大きくなったときには、自分たちがもっと自由に、お客さんにもっと優しさの伝わる料理が届けられる職場に変えてやるんだという野心をスープに混ぜ込む。祐介はスープを味見した。うん、我ながら美味しい。シェフの元へ駆け寄り、確認の催促をした。
「シェフ、味の確認をお願いします!」
「わかった、ちょっと待ってろ。」
祐介は再びスープの入った鍋の前に立ち、談笑しているシェフを待った。もう一度スープを飲み込む。美味しい。絶対大丈夫なはずだ。舌鼓だって打つはず。祐介は自信に漲っていた。
「おう、どれだ。」
シェフがスプーンを持って祐介の元に来た。
「このスープです。」
祐介は自分のつくったスープを指差す。シェフはそれを救い取り、じいっと見つめてからスープを口に運んだ。少し考えた後、シェフは口を開いた。
「味、薄いんじゃないか?もっと塩を入れろよ。ちょっと持ってこい。」
シェフの一言に祐介はショックを受けた。
「はい、分かりました。」
祐介は塩を取りに向かった。絶対的な自信はいとも簡単に折られてしまった。塩を渡した祐介の手はしっとりと汗をかいていた。
シェフは塩を2つまみ、雨のように振り入れた。軽くかき混ぜてプーンでスープを掬いとり、口に運ぶ。
「これぐらいだ。ちゃんと覚えておけ。」
シェフは祐介に汚れたスプーンを渡した。
「かしこまりました、ありがとうございます。」
汚れたスプーンを洗い流し、祐介はスープにそれを沈めた。掬い取って一口飲み込む。
一口で十分だった。祐介がつくったものとは同じものとは思えないほど美味しくなっていた。カメラのフォーカスを絞ったときのような、ボヤけていた輪郭にしっかりピントが合っていく感覚。祐介は悔しさ覚えながらももう1度スープを飲んだ。自分の不甲斐なさが味に姿を変えて喉を通り抜けていく。