小悪魔の罠(2/2)
+
そうして来たる、次の金曜日―――ついに仕事帰りのお家デート。
今日はメイクも朝から少しだけ濃いめ。
ピンク混じりのブラウンシャドウ、ブラウンアイライナー。
服もこの日初おろしたのAラインの白スカート。トップスはお気に入りの水色でここぞの勝負時に着ると決めてるやつ。
髪の毛もちょっとだけ巻き髪だし、胸張って頑張ったって今の私なら言える。
だから、そんなだから、
「市田さん、今日も一段と気合入ってるね。」
「…またばれました?」
「うん、ばればれ。」
隣の席の品川さんにすぐにそう気づかれてしまう。
実は、月曜日も彼女に何か良いことあった?って聞かれたばかり。恰好とかは今日と違っていつも通りだったんだけど、彼女いわく、表情がにやついてたらしい。
きっと品川さんは女子力高めの大人さんだから、分かっちゃうんだろう。何ならそのうち好きな人―――速水さんのことだって一番にばれちゃいそうだ。
実はもう気づかれてたりして?
なーんてさすがにそれはないか。
「デート?」
「あ、えっと、」
そこでちらっと一瞬藍色のスーツを遠目で見て、
「…はい。」
頬が火照るのを感じながらこくんと私は小さくうなずく。
「可愛いなぁもう。
こっちまで照れちゃったよ。」
そう言う品川さんは、わざとらしくパタパタと顔を手で仰いで見せた。
「最近ますます綺麗になったもんね。」
「ええ?からかわないでくださいよ。」
「嘘言わないよ、本当だって。
みんな噂してるよ?市田さん最近雰囲気変わったよねって。」
「もうまたまたー!」
初耳ですよ、そんなこと。
「でも、長嶋さんにもたまにはかまってあげてね。
飲みに行ってくれなくなるかもってこの間泣いてた。」
「え?もうオーバーだなぁ。」
ねー、お母さんみたいと冗談を言って見せる彼女に私は笑い返す。
「じゃぁ今日は早く帰らなきゃだね!」
「ですです。18時過ぎぐらいに出るのが理想なんですけど…」
時計を覗くと、今はちょうど12時を回ったところだ。
「手伝いは何時から行くの、15時ぐらい?」
「そうですね。」
今している作業が結構かかるから、それぐらいになりそう。
「そっか……私にできることあったら言ってね。
今日ぐらい旦那に息子の迎え頼んでもいいし…。」
「お気持ちだけで十分嬉しいですから。」
さあて頑張らないとね、品川さんにも応援してもらったし。
「ちょっとこれ、雨宮さんに渡してきますね。」
私はそこで席を立った。
★
そんな風に品川さんと話している一方で、速水さんも速水さんで早く帰れるよう忙しなく仕事をこなしていた。
現に朝から電話三昧だし、午後にはお得意様との大事な商談が控えているから、午前の間に済ませておきたいことが山のように積もってもいる。しかし思うようにこなせないのが上の者の常。
「速水さん、この間のB社がまた話を伺いたいとおっしゃられてるんですが、」
「分かった。木野、いいよ繋いで。
あ、内川悪い資料出しといて。」
「分かりました。」
こんなふうに相手からかかってくる電話の応対に邪魔されることも少なくない。
もちろん
「速水さん△社に話をとりあえず聞いていただけることになったんですけど、ちょっと悩んでて。」
なんて俺の忙しさを無視して、問答無用に内川から質問攻めにもあったりするし。
「速水さーん、××会社がもう少し早く準備できないかって催促が。」
そんな相談にも応じないとだめだし。
「内川、雨宮さんの所に進捗状況確認行ってくれたか?」
「一昨日確認した時には、予定より1日分ぐらい遅れてるって言われてました。」
「そうか…。」
準備早くできないかって言われてる以上、こればかりは下の部署と相談してみないといけない。あくまで俺たちは応対の代表みたいなもんで、実際してくれてるのは雨宮さんたちだ。
「分かった。丁度昼、俺もした行く用事あるからお前は昨日頼んだヤツ仕上げて。」
木野はこれメール送っといて。
こんな目まぐるしいやり取りを、出勤して1時間も経たないうちに味わったんだから今日は相当イレギュラーなことに振り回される日なのだろう―――市田が家にくるってのに。
頼むからこんな日に限って問題が起こらないでくれよ……!
そんなせつな俺の願いが通じたのか、はたまた普段の行いがいいからなのか(市田に言ったらそれは否定されるだろうけど)
「はぁ……、何とか終わった。」
時計の針が3つ回ろうとする前、思ったよりも早くに午前中のノルマを終えることができた。
とはいっても、当然努力だけでは事足りず、結局のところ期限が今日でないものを徹底的に排除していっただけ。現に、俺のデスクの端っこには書類の束がタワーのように積み重なってる。
来週がオソロシイことになりそうだがともあれ、この調子だと6時30分とかには仕事を終えることができる。午後も馬車馬のように働かなきゃだが、市田とお家デートできることに引き換えたら軽いもん。というか望むとこだってんだ。
けど市田はどうだろう。
今日に限って残業とかになったりしないよ…や、市田ならありえる。絶対ありえる。
思わずくすって笑ってしまいそうになるぐらい、彼女は“そんな”娘なんだよな。
俺はちらりと彼女のデスクの方を覗いてみた、
と。
「速水さん、一息つけそうですか。」
「お、びっくりした。」
その俺の視線を奪うかのように、首を傾けて目の前に侵入してきた木野。ひと段落ついた人みんなにコーヒーを配ってたのか、お盆を片手に最後のコップをデスクに置いてくれる。
「そんなびっくりしなくても。
速水さんこそどうしたんですか?あっちの方ずっと見てましたけど?」
「いや、長嶋のとこ後で行かなきゃだから、アイツいるかなと思って。」
相変わらず変なとこ鋭いよな。
下手に誤魔化すと逆に怪しまれるから、不本意ながら長嶋の名を俺は借りることにした。
「んー、そうですか。
いつもありがとうございます、速水さん。」
「…や、別に。」
ふたつ、みっつ追及されると思っていただけに、素直に引かれると逆に驚いてしまう。俺はこくっと一口コーヒーを含んだ。
彼女も、俺の隣のデスクに座って、ふうふうと可愛らしくコーヒーを冷まし始める。
「内川くんお昼いかれてますよ。あと、鈴木さんとかも。」
「そっか。」
彼女が教えてくれた通り、見渡すと俺たち以外にデスクに座ってる奴はいない。
そういうのを管理するのも俺の仕事なんだけど、さすがに今日は余裕がないらしい。
「速水さんもお昼いかれないんですか?」
「んー、今日終わりそうにないから、軽くあとでとっとくぐらいかな。
木野はちゃんととれよ。」
ごくっと俺はコーヒーをまた飲む。
「なんか最近、楽しそうですよね速水さん。」
「え?」
突拍子もない一言にぱっと俺は彼女の方を振り向く。肩まで伸びたふわふわした髪の毛から覗く彼女の横顔は、少しだけ口元を緩めてて
「良いことありました?」
小首をかしげて俺を見つめてくる。
「……俺、そんな顔にやついてる?」
「ふふっ。さぁ?」
彼女はまた両手で持ってるコーヒーに向かって息を吐いた。
「今度また5人で飲めないですか?」
「5人って?この間の?」
彼女はこくんと頷いた。
「速水さんと、内川くんと私と、長嶋さんと。…市田さん。」
「あー、どうかな。聞いといてみるけど。
長嶋のとここれから忙しいだろうから。」
「だって、速水さん私と飲んでくれないし。」
「酔った木野は大変だから。」
えー、そんなことないですよぉと一歩椅子を近づけてみせた彼女に、自覚ないから大変なんだよと笑ってかわせて見せた。
「内川くんと3人で飲んでもいいですけど、内川くん速水さんとっちゃうんだもんなぁ。」
「そうか?」
「そうですよぉ。
……まぁ長嶋さんたちいても、市田さんに速水さんとられちゃうんですけど。」
そこで彼女は試すかのように俺を一瞥をした。
「そんなことないだろ。
あの娘は……長嶋と話すし。」
「ふーん?」
またしても木野はアヤシイ目つきで見てくる。
ってなんでそんな、夫の浮気を疑う妻みたいな目で俺は見られないといけないんだろうな?
「でも知ってます?速水さん。
市田さんの株、最近急上昇中なんですよ。」
「ん?」
「最近可愛くなったって。
まぁ元から影のファンはいましたけど、表立ってきたというか。」
「ふーん。」
名探偵のように語って見せる彼女の話を半分受け流すように、俺はまたコーヒーを飲む。
木野はこういう噂話本当に好きだからなぁ、どっから仕入れてくるんだ。
今度市田に、木野に気をつけろって言っとかないとな…、ってもう既に警戒してるかもだけど。
「たぶん彼氏さんとかできたんだと思うんですけど。」
「うん。まぁそりゃできてもおかしくないだろうね。」
当たりだ、あたり。木野当たってるから、そこらで変に探るのはよしてくれよ。
「で、私的にはーー」
ちらりとそこで木野は俺を見る。
やべ、俺ってばれてる?
と、次に彼女は不自然ににこっと笑顔を浮かべた。
「速水さん……だと思ったんですけど、周りは違うんですよね~。」
「…あぁ、そう。」
そこで俺はまたコーヒーに逃げ込む。
やば、木野また当たりだ。こえーなー、女の勘って。市田が会社には内緒にしておきたいって言ってた気持ちがごめんけど、初めて分かった気がする。
しかも無下には扱えない俺と同じ部署の後輩だし、また市田に謝っとかないとだなこりゃ…。
木野のことおっかないのに、丁寧にいつも対応してくれててありがとうって。
「誰だと思います?」
「さぁ?」
長嶋か?それともやっぱり、
「それがみんなこぞって雨宮さんの名前出すんですよ。」
―――――あぁ、当たってたか。そうだと思った。第一雨宮さんの方に好意があるのはあからさま出しな。市田ちゃんは気づいてないけど。
まぁ本当は本っっっっ気で嫌だけど、
「みんながそう言うんならそうじゃない?」
ここは同調しておいて、それでもって
「けど、本人たちが内緒にしたがってるなら、もうそれ以上噂するのはよくないと思うけど。」
そこそこにしとけと俺は彼女を制する。
上司として教科書通りの制止かた。これで少しはおとなしくなるといんだけど。そろそろ仕事戻りたいし、っていうかその雨宮さんに今から会いに行こうと思ってたところだし。
「まぁそうですけど~。
私は絶対速水さんだと思ったんだけどなぁ。」
「……あぁそう?」
ここは冷静に。相手にしないように。
「まぁでも、私もあんなところ見ちゃいましたからね~。
あれ見たら雨宮さんだって思っちゃいますよね~。」
ところが彼女のそんな一言で、俺のアンテナがぴくっと反応してしまう。
そんな俺の一瞬の変化に気づいた彼女は、
「気になります?」
と、にやつきながらすぐに追及。
「…や、別に。」
必死にそう平常心を装いながら、やらかしたと俺は内心でひどく悔やんでいた。
「ふ~ん。じゃぁ…」
「なに?」
そんな絶好のチャンスを逃してくれるはずもなく、続きをなかなか発しない木野に、俺から今度は尋ね返す。
「気にならないなら言ったっていいですよね?」
「は?」
「だって気にならないんですよね?
雨宮さんと市田さんが陰で何してようが。
なら言ったって速水さん何も思わないですよね?」
またしてもそこでお得意の笑顔を浮かべる木野。
「や、その理由おかし、」
そうして言葉を発した時にはもう遅かった。
彼女は椅子から立ち上がると俺の耳元にふわっと口元を近づけた。
そして、偽りの言葉を甘くあまくささやく。
――――それが、彼女の罠だと知っていても。
★
パタン、パタン―――私は一段一段階段を降りていく。
クリアファイルにいれた手元の資料を片手に握りながら、これを渡したらお昼にしようとマイペースなことを考えていた。
雨宮さんいるだろうか、お昼時だから彼ももしかしたらお昼をとっているかもしれない。
クリアファイルだけとはいえ、邪魔するの申し訳ないなと思いつつ…下の部署の扉に手をかけたその時
「あれ、市田さん?」
「雨宮さん!」
振り返らずとも声色で分かった。
「どうしました、今日は夕方からじゃなかったですか?」
パタパタと速足で駆け寄ってきた彼。どうやらエレベーターから降りて来たらしく、買い出しにでも行っていたのかその手には白い小さな買い物袋がふたつぶら下がっていた。
「はい。今来たのは手伝いとしてではなく本職で。
この書類を渡しそびれてて。」
「そうですか、頂きます。」
そのまま彼はクリアファイル越しに軽く目を通す。渡したのはこの間依頼がきた、商店街の案件のもの。長嶋さんにだいたいでいいからまとめて、もう渡しときなって言われたんだ。
「商店街……あれ、市田さん前もしてなかったですっけ?」
「そうです。嬉しいことに、評判がよかったみたいで話を聞いた方がうちもって依頼をくださって…。」
その時も長嶋さんと一緒にしてたんだけどね。
「また本格的に始まったらよろしくお願いしますね。」
「もちろんです。」
雨宮さんは任せてくださいとばかりに、クリアファイルをぎゅっとして見せる。
「でも市田さん大丈夫ですか?」
「え?」
「無理してないですか?
この案件もありますし言えないだけで、実は忙しんじゃ……」
「あぁいえ、そんな!
それも来月から取り掛かりでまだ全然余裕があって!」
私は安心させようと両手をブンブン思わず振って見せる。
「なら良いですけど。
言ってくださいね、ちゃんと難しいときは難しいって。」
「大丈夫ですよ。それに手伝いも楽しんです。
毎日勉強というか、これってこんなだったんだ!って発見もあって。」
まだ心配そうに見つめてくる彼を安心させようと私は明るくふるまう。
けど、今の言葉に嘘はなくって本当に手伝いに行かせてもらえてよかったって思ってる。
面白いからってのももちろんだけど、イベントの計画を立てるときも多面的に考えて練れるようになったんだ―――準備の面とかかかる時間とか。
もちろん前だって考えてたつもりだけど。
「今日お手伝い15時頃になると思うんですけど、大丈夫ですか?」
「それはもちろん大丈夫です。
今のところ特に問題ないので。」
彼はポケットから携帯を取り出して、通知を一応確認して見せる。
「じゃぁそれぐらいにまた伺います。」
「お待ちしてます。」
「雨宮さんは、まだお仕事ですか?」
「あぁいえ、あとちょっとしたらもうお昼とろうかなって。
丁度足りないものがあって買い出しがあったんで、お昼も買ってきて。」
今日は唐揚げ弁当ですと、袋の中を見せてくれる彼にお、いいですね!と私は微笑む。
「市田さんもこれからお昼ですか?」
「はい。キリがいいので。」
「お弁当持ってこられてるんでしたっけ?」
「そうですそうです。
残念ながら今日は唐揚げ入りじゃないんですけど。」
冗談を落とした私に、え、一個いります?と彼が笑い返す。
代わりにエビフライが入ってるんで大丈夫ですと言うと、今度は羨ましそうに雨宮さんが私を見た。
「じゃぁまた後ほど。」
そうして世間話をしている間に、階段から足音がしてちらちらと部署に出入りする人が多く見え始めたのでこの程度にとぺこっと礼をして私は立ち去ろうとする。
「あ、市田さん。」
するともしよかったらと、彼が私の背に声をかけた。
「何ですか?」
と私が振り返ったその時。
「雨宮さん。」
私の背の後ろにある階段から、もう一つ聞きなれた低温が響いてくる。
朝、盗み見してたその人―――「速水さん。」私は思わず、その名をぽつりとつぶやいた。
「お疲れ様です。」
階段にパッと雨宮さんが視線を移す。
「すみません、お忙しいところ。」
「いえいえ。」
速水さんは階段を降りると私の隣に来た。
「お疲れ。」
「お疲れ様です。」
緊張しながら私は彼に挨拶をする、恥ずかしくて目をあわせれない。
「内川から一昨日ぐらいに聞いてたと思うんですけど、××会社の状況について伺いたくて。」
「あぁはい。
速水さんじきじきってことは……」
「そうです、今日も催促あって。」
「なるほど。」
同じような苦笑いを浮かべる彼らに、私の顔もつられて渋る。
「結構優先させてやってるんですけど……ちょっと確認してきます。
待っていただいてもいいですか?」
「勿論大丈夫です。無理言ってすみません。」
「いえ、速水さんが謝ることでは。」
雨宮さんは駆け足で部署にガチャンと入っていった。
そのまま廊下に佇む私たち。
「何してたの?」
「渡す資料があって。」
「そっか。」
こくんと私は頷く。
「あのさ、」
「どうしました?」
ぱっとそこで初めて彼の目を見つめれた。
少しの沈黙の後、
「や、やっぱいいや。」
「え?」
彼は口にするのをやめ、何でもないとにこって微笑んで終わる。
何もないならいいけど……けど。
それっきり速水さんは珍しく無駄に話しかけてこない。オフィスのど真ん中でも、顔色を変えずに問答無用で話しかけてくる彼が、人気のない廊下で何なら黙ってふたりで立ってる方がおかしいのに。
「速水さん……?」
思わず名前を呼んで、
「なに?」
「いえ、なんでも。」
そう言ってくれた感じ別段普通だし、仕事がたいへんだから不機嫌なのかと思ったけどそうでもなさそう。でも若干感じる違和感。変な距離感。
わたし、何かやらかした?
そう思っても理由を聞けないまま、
「お待たせしました。」
何十秒も経たないうちに、パタンと雨宮さんが部署から飛び出してくる。
「えっと、やっぱり頑張って数日短縮できる程度というか…今も遅れてる状況なのでなんとも…」
引っ張ってきた関係書類をパラパラとめくりながら、申し訳なさそうにこたえる彼。
だが、一方の速水さんもその答えに気づいていたとばかりに、後ろ髪をかく困った素振りをみせながらも
「あーですよね。」
と雨宮さんに笑いかける。
傍から見ていた私はてっきりその後、速水さんが雨宮さんに無理を言うのかと思ったけど、
「××は無茶なこといつも言い過ぎなんですよ。
この間営業行ったときも大変で。」
って愚痴をはくだけで、決して彼にそれ以上の要求をしようとしない。
そして雨宮さんも、速水さんの愚痴に相槌を打ちながらしかし困りましたねと弱った表情を見せる。
いうなれば、阿吽の呼吸―――速水さんは速水さんで下の部署のことを、雨宮さんは雨宮さんでそんな彼の性格を理解して。
雨宮さんが速水さんのことをやり手って言った意味は、こういうとこも含めて買ってるからなんだろう。速水さんがこんなふうに雨宮さんと仕事してるなんて知らなかったけど。
あーあ、悔しいけどやっぱり恰好いいや。こうして仕事している姿をすぐ近くで見れるなんて、なんて贅沢なんだろ。
私はちらりと彼を盗み見た。
「まぁ、あとで良いように言っておくんで、
申し訳ないんですけど早々に遅れを取り戻してもらうことは可能ですかね…。」
「それはもちろん。
いつも遅れてばっかりですみません。」
「いえ、最後にはちゃんと計画通りに終えてくださるって分かってるんで。」
どうやらそんな二人を傍で見守っているうちに、早々に話に決着がついたみたい。
「じゃぁよろしくお願いします。」
「こちらこそ。」
ふたりはぺこりと頭をさげあう。
「市田さん。」
「え!?あ、はい!」
そのタイミングで唐突に私に話をふってくる雨宮さん。
「そんなわけでもしかしたら今日、いつもより長めにお願いするかもですけど、」
「あ、はい!」
急に名前を呼ばれて驚いてしまったが、そういう理由なら納得だ。速水さんと雨宮さんをいつも困らせてる××さん、なら私だって二人の力に、ってちょっと待てよ?
今日長めって―――あ、まずい。
「速水さん!」
気づいた私は彼に声をかける、
なんて雨宮さんの前でできるわけなく。
「先、俺戻ります。」
平然と速水さんは階段を昇って部署に戻っていく。
「待って」その言葉は私の口の中。
「市田さんもしよかったら今日することの引継ぎ今からしておきたいんですけど、」
もう一方の彼はそう言って、下の部署の扉を人一人入れる分開けて見せた。
わずか隙間しかないが、奥にいる宮崎さんがこちらに気づいて挨拶してくれてる。他にも私に挨拶してくれてる人が幾人か。
「あぁ。」
逃げれない空気に私はそのまま扉をくぐる。でもそこでもう一度階段の方を振り返ってみた。
当然藍色のスーツは見えない。ましてや階段を昇る足音も聞こえない。
「市田さんすみません、僕が呼び止めたばかりに時間とらせちゃって。
すぐ終わらせるので…」
「あ、雨宮さん。」
そう分かったときにはダメだった。
「ちょっと速水さんに用事を思い出して!」
そうして私の脚は雨宮さんと逆方向を向いて、階段を駆け上がる。
引き留める彼の声は耳に届かない。
だめだ、このままなんて。
このまま速水さんに何も話さないままなんて、お昼メールするとかサイアク夜まで持ち越すとかそういうのなんて。
違和感を感じる速水さんの前じゃ、絶対いやだ。
「速水さん!!」
踊り場から、藍色の背が部署の扉に入ろうとしているのが見えた。
そんな風に私が声をあげて追いかけてくるとは思ってもみなかったのか、びくっとなった背はパッと振り返って
「ど、どした?」
階段近くに歩み寄ってきてくれる。
「えっと、えっと。」
よかった、とりあえず引き留めれたと思った私は最後の段をゆっくり上った。
若干呼吸が乱れてる。
歳のせい?ってそんなこと気にしてる場合じゃないけど。
「とりあえずはいるか。…廊下響くし。」
速水さんに頷くと彼は先導して、部署の隣に設置されてる会議室に躊躇なく足を踏み入れる。
そこは本当に大事な時にしか使わない、隔離された部屋。研修とか面談とかそういうときにも使うけれど、私は年に何回かしかそこへ足を踏み入れない。
おそらく速水さんとか長嶋さんとか上役の人はよく使ってるんだろう、慣れた手つきでぽちっと電気のボタンを押してる。そのままかちゃりと鍵を閉めた。
「……いいんですか?」
思わず聞き返す。
「いいんじゃない?休憩中だし。」
から笑いを浮かべる彼に、少しだけ背徳感が薄まった気がした。
「それでどうした?」
「……うん。」
基本12名用の部屋。そこの中央にテーブルが設置してあって、ふわふわの椅子がきちんとお利口に揃ってる。
でも速水さんはそれを無視してテーブル上に座って、おまけにネクタイも少し緩めて完全二人っきりモード。
「カメラなんてないよ。」
とどぎまぎしてる私に思わず笑って言ってきた。
「そりゃ分かるけど。」
「うん。」
彼は微笑を浮かべて、一方で続けてちょっと疲れましたと珍しく弱音を吐いた。
「ちょっと近く来て、市田。」
「ダメですよ。」
相変わらず私は扉近くで動いてないままで。
「今日頑張って仕事こなしてたんだけど。」
そう彼がいうと負けてしまって仕方なしに、伸ばされた彼の右手指部分にそっと触れた。
「忙しかったの?」
「うん。市田は?」
「まぁまぁ?」
本当はケッコウ大変だったけど速水さんに比べたら、へでもないだろうから。
「速水さん。」
「ん?」
「…今日のことなんだけど」
上目遣いで、前髪の間から覗く彼の瞳にどきどきしながらも、優しい彼の雰囲気に話したかったことを切り出す。
そのまま私はもし手伝いが長引いて遅くなっても行ってもいい?と続けようとした。それで遅いからって断られたとしても、明日とかそれでだめなら来週とか。速水さんどうかな。
でも。
「またにしよっか。」
「え?」
「今日帰れないだろ市田のことだから、雨宮さんたちのことが気になって。」
速水さんは下を向いて苦笑いを浮かべる。
「それわざわざ謝りに来たんだろ?
ごめんな、市田にまで××のことで迷惑かけちゃったな。」
「あ、ううん……それは気にしないで。」
透視が外れることもあるんだな、そりゃそうか。
「速水さんは、忙しいの?」
恋しさからぎゅっと触れてる指に力をこめる。本当は気づいてほしい私の気持ち。
あーあ、楽しみにしてたのにな。
「昼から頑張んないとって感じかな。」
「そっか、私も頑張るよ。」
「うん。」
彼も軽くきゅっと手に力をこめた。
「ねぇ速水さん。」
「ん?」
そこで私は気になってることを聞いてみることにした。話してくれるか、彼がどういう反応するのか分からないけれど、そのために必死に追いかけたんだから。
「何か、嫌なところありますか?
直してほしいトコとか。」
「なんで?」
彼は顔をぱっとあげ、首を少し傾ける。
「なんとなくっていったら語弊があるかもだけど。
わたし、気づかない内にやなことしてそうで。」
日本語あってるかな、間違ってないよね?
「別にないけど。」
「…そっか。ならいんですけど。」
でも速水さん気づいてる?そう言いながら私に目を合わせてないこと。ちっとも表情が柔らかくないこと。
触れてた手だって、ぱっと離した……こと。
「市田の良いところつぶすようなこと、俺したくないんだよね。」
「え?」
「や、なんでもない。」
そこで彼は誤魔化すように笑う。この話はおわりねって続けて言いながら。
そう言われたらそれ以上追及できないことを彼は知ったうえで。
付き合うってこんなだったっけ。
嫌なことをそのままほったらかしにして、話し合うってことをしないままなぁなぁにお互いしたうえで。
速水さん。ねぇ速水さん。
「そろそろ戻ろっか。
バレたら誤魔化しきれないし。」
「……うん、だね。」
から笑いを私は浮かべた。
電気を切って人気がないか確認すると先に彼が出る、運よく誰も廊下にいない。
「じゃぁごめんけど、手伝いお願いね。
気を付けて早く帰れよ。」
彼は私の頭をポンと撫でる。
「うん、速水さんも。」
彼は先に部署に入ってった。