「四十九」沈倫うさぎ
「五十二」 ―序章―
やけに背の高いその男は、一月程前に始めて店に入ってきた。
くたびれてはいるが、仕立ての良さそうなネイビーのカシミヤのジャケットに薄いピンクのデュエボットーネのシャツ、チャコールグレーのパンツ、薄い茶色のスリッポンは少し傷つき汚れていた。
人生に見捨てられた男特有の、優しいが疲れた瞳と、低くくぐもった声が印象的で、バーテンはその男が自分と同じように意味を持たない人生に引き摺られている事を確信した。そしてバーテンとその男は心の奥で繋がり合い、静かな時間を差し当たりの無い少しの会話で、楽しむようになったのだった…
「四十九」の一 沈倫うさぎ
その少女は緑色の自転車にまたがり、私の隣で信号待ちをしていた。ゆるくうねる亜麻色の髪が肩にかかり、その朝の凍るような風に乱されていた。
彼女はやけに丈の短い赤色のダウンジャケットを着ていて、腰の辺りが丸出しになっている。破れ目の目立つダメージ加工のローライズのジーンズから、尾てい骨の真上のあたりに何かのタトゥが覗いていた。
こんな早朝に何処へ向かおうとしているのだろう?
などと、余計な思惑の中で彼女を見つめていると、彼女の大きな瞳が一瞬私の濁った視線を真っ直ぐに捕らえた。世間を舐めきったような表情の少女は、当然私の視線を下卑た物と判別し、彼女の視線は、すぐに真っ直ぐ目の前に伸びる渋谷に向かう長い上り坂に戻された。
この時間、まだ車の数は少ない、信号が変わる少し前に彼女は立ち漕ぎで飛び出して行き、私は独り取り残されたような気持ちで、彼女の残した微かな芳香を冷たい朝の空気と共に胸に満たした。
最後に私に手を振ってくれたのは、彼女のジーンズから覗くタトゥで、 あれは確かにミッキーマウスの耳だった。
私は少女と、影絵の様に型抜かれたミッキーマウスに、恋をした…
その朝、私は西麻布の交差点で独り、酔いどれていた。
行きつけのバーを、まるで帰港先のないボロ船が、あちらこちらの港を漂うように呑み歩き、凍え、震え、しかし日は昇り、二十一時間と三十分着続けたシャツの胸元から立ち上るやりきれない匂いに蒸せながら、酒に浸ったロクデモない脳を巡らし、このあとの時間の経過を計算していたのだ。
… 帰る… 九時に目覚ましをかける… 眠る二時間半… シャワーを浴び仕事に向かう…
その日は私の誕生日で、まったくどうしようもなく、救いようも逃げ場もない、最低の四十九歳のはじまりだった。
生まれついての「沈倫うさぎ」には変わりないのだけれど…
「四十九」の二 十字架
私は社長ではない。しかしサラリーマンでもない。友人の経営するアパレル系の企画会社を手伝っている。又、その他の企業とも契約による業務委託を受けている。明日はどうなるか判らないと言う事だ。
私がデザインをした友人のオフィスは、白く塗られたうちっ放しの壁と高い天井に囲まれ、千五百ミリのゼットラックを十本持つショウルームスペースと企画事務所スペースが薄い生成りの汎布によって区切られている。そして、何より居心地が良い。
私は時折ベランダに出て煙草を吸う。五階建てのビルの最上階から見る少し外れた渋谷の街並みには、世界のヤングファッションの中心に相応しいお洒落が大好きな若者達が、カップルであったり、友人同士であったり、一人であったりと自慢の髪型とファッションを披露しながら歩き回っている。
だからどうしたと言うんだい?
まったくやりきれない。この年になって、ここまで歩いて来た道程が憂鬱でしかたがない。逃げ出したい衝動を抑える為に使うエネルギーは仕事に使うそれと同量程度になってきている。
ファッションなんてくそ喰らえだ。
そして私は夕刻、酒を呑みに出かける。足りないものを埋める為ではなく。見つけられない物を探す為でもなく。ただ逃げたいが為に酒を呑む。
私はまだ開店して間もないバーが好きだ。まだ誰の手も触れられていない磨かれたテーブル。空気が冷たく張り詰めていてふやけた私の心をしっかりと受け止めてくれる。
カウンターに座り、煙草に火をつける。差し出される灰皿。
この店の気に入っている所は、早い時間は静かな事、一人客の常連が多く一人でも訪れやすい事、バーテンの口数が少ない事である。 毎夜、店主が一人で店を開ける。週末にはアルバイトの女の子がヘルプに入るが、酒はいっさい作らせないないらしい。店主はそれなりに飲み物に拘りを持って作っているらしく、やはり美味い。
十人程が座れるカウンターとボックス席が四つの小さなバーである。入り口近くの壁にスクリーンモニターが在り、いつも古い映画を無音で流している。
「今日はお早いですね?」バーテンが言う
「うん、暇でね…」
「何をお作りしましょうか?」
「そう、ドラフトを」
そして、壁にかかったモニターに映し出されている無音の少し前の映画を目で追いながら、差し出されたグラスに唇を寄せる。
最初の一杯が重要なのだ。二杯目からはただ酔いどれて行く為だけに存在し、最初の一杯だけが私に安らぎをくれるのだ。
突然入り口のドアが開き、数人の男女が入ってきて、奥のボックス席になだれこんだ。「マスター! 今日はユッケの誕生日だから昼間から呑んじゃってるんだ〜 ビール頂戴!」「俺も!」「私はスプモーニ!」「ジントニック!」
まだ七時を少し過ぎたばかりだ、この時間にこんなに出来上がっている彼らが羨ましくもあり、憎らしくもあった。大学生だろうか?
マスターが囁く
「すみません騒々しくて…」
「いや、楽しそうでいいじゃない」
「はい、なるべく静かにさせますから」
「いや構わないよ、お得意さん?」
「はい背中を向けている子が良く来て下さいます」
「歌ちゃん! 他のお客さんに迷惑かかるから、抑えてね〜!」
背中を向けていた子が振り向く…
あの子だ。あの朝の子だ。ミッキーマウスだ。
彼女は幾何学模様のプリントのワンピースを着ていて、いつかの朝とは若干印象が違い、大人っぽく見えた。そして何より彼女の目は完全に出来上がっていた。
彼女はよろける体をテーブルで支えながら立ち上がると、フラフラと私に近づいてきた。 そして、私の肩に手をかけると
「お兄さん、すみませんでした。怒ってる?」「いや、楽しそうでいいね。お兄さんじゃないけど…」
「良かった〜、でもオジサンっては言えないじゃん!」
「いや、オジサンでいいよ」
「じゃ、名前教えてよ! 私は歌です。君嶋歌」
「いいけど… 前島卓です」
「お!同じ島どうしだね!? いやー奇遇ですな〜、じゃタクさんって呼んでいいですか〜?」
「いいよ、歌ちゃん、かなり呑んでるの?」
それが始まりで、私の心の静寂の最後の夜になった。その後私は甘くとろけるような快楽を得るが、その代償は大きく、神が与えた美しくも鋭い十字架は、この時すでに私の背を軋ませはじめていたのだ。
「四十九」の三 魔女
私には子供が居る。十八歳の男の子と、一歳下の年子の女の子が二年前に別れた母親と暮らしている。離婚の原因などは聞きたくもないだろうし、話したくもない。どうせどこの誰の話を聞いても似たり寄ったりだろう。所詮、男は屑なのだ。
そして、人が心に思う事は誰にも止められず、心が生んだベクトルは生まれた瞬間に方向を定め、真っ直ぐに進み続ける。それは目的地に辿り着く為にではなく、ただ闇雲に進み続けるだけで、進む先に夢など無い。
多分、今もきっと別れた妻を愛しているのだろうし、子供達の未来は輝かしいとまでは言わないが明るい物だと信じている。やはりこんな私とは一緒に居るべきではないのだ…
その夜も私は酔っていた。午前三時を少し回り、この一杯できっと帰ろうと思いながら、ラフロイグのソーダ割を選んだ。実はそんな事を二時間余り繰り返していて、結局最後の一杯に相応しい酒など在りはしない事を再確認しているにすぎない。
悲しい事だが、体がアルコールを受け付けなくなるまで呑み続けるしかないのだ。
幸い明日は日曜で、午後の遅い時間にオフィスに行き、残してきた仕事を数時間片付ければよい。しかし、この一杯で必ず帰ろう… そう思いながら、ラフロイグ独特の香りを楽しみ、最初の黄金の一滴を口に含んだ時、美しい魔女はやってきた。
ドアを勢い良く開けて、冷たい風と連れ立って彼女が店に現れた。今夜は一人だ。
店に入るなり、辺りを見回し自分の居るべき場所を探す。その時そのバーにはカウンターに私が一人、奥のボックス席にカップルが一組しか居なかった。私と目が合う。彼女は又酔っていたが人の判別ぐらいは出来たのだろう、私の隣のスツールに滑り込んできた。「タクさん、ここいい?」
「はい、よろこんで!」
白い目でただ見つめ返される。
「タクさん、つまらないよ… マスター!ビール頂戴!」
「遅いね?呑んでいたの?」
「うん、ご飯食べてた」
「ご飯でそんなに酔うんだ?」
「うん。酔う」
その夜何を話したのかはあまり覚えていないが、とにかく二人は盛り上がり、今夜は呑もうと誓い合ってしまった。
冬の長い夜が終わり、店の外の街並みが青く浮び上がりはじめる頃、二人は「よし!帰ろう!」「帰ろう!」と連呼しながら、連れ立って店を跡にした。
かなり冷え込んだ夜だったが、私は寒さを感じなかった。
その後どういう経緯でそうなったのか、彼女は私の部屋のソファーに横になっていた。眠っているのか、大きな瞳を閉じている。
私はワインを一本取り出し、グラスに注いだ。その時彼女の瞼が突然開き、言った。
「タクさん呑み過ぎだよ!もうやめなよ!」 おいおい君に言われる筋合いはないぜ…
結局私は無言でワインを口に含み、又瞳を閉じてしまった薄い彼女の瞼を見つめていた。
私は静かに、彼女の少し上を向いた唇に唇を重ねた。そしてそっと彼女の手を握り彼女の眠るソファーの脇にもたれたまま、私も眠りに落ちていった。
とにかくその朝はミッキーマウスには出会うことはなく、ただ若く美しい一人の魔女が、冬の風に乗って、私の部屋に飛び込んで来たに過ぎなかったのだ…
「四十九」の四 月のウサギ
日曜日の事務所には私独りしかいなかった。
詰めれば土曜のうちに終らせる事が出来た仕事を、私は日曜に持ち越していた。
どうせ明日はする事もないのだ、開店したてのバーに行く事のほうが大事なように思えたし、何事も締め切りに追われないと完結出来ない、私の困った性格のせいだろう。
結局、歌とは先ほど四時過ぎに別れた。
私が浅い眠りから醒めたのは十一時を少し過ぎた頃だった。歌は口を半ば開けて死んだように眠っていた。私は彼女を起こさないように、そっと彼女の指を解き、こわばった身体をいたわりながら、静かに立ち上がった。 箱に残った最後の一本のマルボロに火を点け、グラスに残ったワインを口に含むが、直ぐに吐きそうになり洗面台に向かい吐き出した。そして、歌の所に戻った私は歌の煙草を見つけて、何本もの煙草を燻らせながら、一時間ほど歌の寝顔を見つめ続けた。
私が、そろそろ胃がアルコールを受け入れてくれる事を期待して、ゆっくりと又ワインに手をのばした時、歌の瞳が突然開きつぶやいた。
「まだ呑むの? やめなよ…」
今回は彼女の意見と私の胃の意見を尊重し、私はグラスを、そっとテーブルに戻した。
しかし、私には酔い続けなければならない理由があった。
歌を抱きたくてしかたがない。
「まだ寝ててもいい?」
「いいよ…」
そう言うと歌は又大きな瞳を閉じ、ゆっくりと両手を伸ばして私の左手を握った。そして静かに引き寄せると、私の指に唇をおしあてた。
思わず私は又歌に口付けをした。
そして歌の唇の間から漏れるすえたワインの香りを嗅いだ時、私の意志は閉じられ、私は歌の匂いと肌と声だけの世界に居た。
私は歌を抱いた。
ミッキーマウスは確かにそこにいたが、私はミッキーを汚して果て、平らな腹の上で果て、小さな胸の上で果てた。
その後、何かを食べようと二人で近所のカフェに出かけた。歌はガス入りの水とサラダにカラスミのパスタを頼んだ。私はグラスのワインとB.L.T.のサンドウィッチを頼む。
「タクさんはフランス人よりイタリア人より沢山ワインを呑むね…」
「いや、今日は特別なんだ」
そう、特別なのだ… 私は宝石を手に入れた。それも、暖かく、芳しく、柔らかで、刺激的な肌を持つ宝石である。
結局二人にたいした食欲もなく、しばらく皿をつついたあげく店を後にした。
店の前で向かいあって立ち止まり、私は歌に言った。
「じゃ、仕事頑張って」
「うん、連絡する」
笑顔で歌はそう言い、クルリと向き直ると、大股で勢いよく、風に髪をなびかせ、弾むように青山通りを歩いて行った。
残された私は、昨夜からの出来事を頭の中で整理しようと勤めたが、二日酔いに、ワインを重ねた頭では無駄な努力であったし、そのような何も考えられない状態に居る事が正しい選択であるように感じていた。
その後の2週間、私は歌に溺れた。
歌の時間が取れる時は、必ず会い、食事をし、酒を呑み、彼女を抱いた。
仮病で仕事を休み永遠の一日を彼女の小さな乳房を撫でながら過ごしたりもした。
とにかく彼女の肌に触れていたかった。彼女の匂いに鼻先を突っ込んでいたかった。
彼女はケラケラと良く笑い、全ての言葉に注意深く耳を傾け、的確な相槌を打ち、言葉を返した。
私と歌は、違う時間に生まれた独りの人格で在るかのように溶け合い。全てが楽しく、全てが馬鹿馬鹿しく、全てが快楽に包まれ、世間とはかけ離れた全く別の場所に迷い込んだ。
しかし二週間を過ぎたある日、歌は突然私の前から、いや世界から姿を消してしまった。
電話は通じず、さりげなく心当たりのありそうな人に尋ねたりもしたが、何の情報も得られなかった。あのバーにも現れず、誰も見かけていない。
私は彼女の住んでいる住所を知らず、彼女の友人を知らず、彼女の事を何も知らなかった。
ただ知っていたのは、歌を必要としている自分の事だけで、彼女の何も知ろうとしてこなかったのだろう。
それは単に怖かっただけの事ではなく、私は自分の事しか見ることが出来ない、どうしようもない淋しがり屋の醜く歪んだ一匹のウサギにすぎなかったからなのだろう。
その後の私の日々は、歌の居なかった元の生活に戻って行く筈であった。
しかし人生は決して元には戻れない事を痛感する。戻れはしないのだ。
歌の空けた穴は想像以上に大きく、傷はいつまでも疼き、私の堕落した人生はより一層腐敗した物に変わって行った。
腐った人生を背負った者には、酒は最良で、最後の防腐剤である。私は酒に溺れ続けた。
そして三ヶ月が過ぎた。
ある夜、例のバーで酔いつぶれそうになっていた私の隣のスツールに、歌は突然滑り込んで来た。
彼女の笑顔は本物で、彼女の匂いも、大きな瞳も、何も変わっていなかった。ただ、肩に絡んでいた髪が短くなり、前髪は短く切り揃えられていた。
「怒ってる?」
「…」
「大丈夫?痩せた?」
「…」
「髪切っちゃった」
「…」
私は言葉を全て奪われたミミズのように黙りこくり、口を開く事が出来なかった。
しばらく私達は黙りこくったまま酒を呑んだ。そうして十分ほど過ぎた頃、ようやく私は心の拘束衣から開放され、口を開く事が出来た。
「どこにいたの?」
歌はかつて見せた事の無いような最高の笑顔で私に言った。
「月に行って来たのよ。ウサギさん」
「四十九」 ―完―
「二十二」の一 微熱
歌は自転車に跨って、西麻布の交差点で信号待ちをしていた。
早朝である。
深夜の青山のカフェでのバイトを五時に終え、六本木のドンキホーテに寄り日用品の買い物をした帰りだった。
歌は広尾のマンションで「佐伯渉」と言う青年と一緒に暮らしていた。
渉とは一緒に暮らしだして半年が経っていたが、歌は渉の自分の自由奔放さをすべて呑み込んでくれる大きな優しさが好きだった。
西麻布の交差点から渋谷方面に向かう道には長い上り坂が待っている。バイト帰りの朝には気合が必要な場所である。
歌はふと隣に立つ長身の男の視線に気付いたが、視線を合わせないように目の隅で男を感じていた。
ありふれたジーンズに紺色のフラノのジャケット、ノーネクタイのシャツの胸元が開いている。男のベージュのトレンチコートは撚れて汚れているが良い品であることが感じられた。
余りに長い真っ直ぐな視線に嫌気が差し、歌は視線を男に向けた。男の視線は真っ直ぐに歌の視線を捉えたが、その微かな驚きの表情の裏には疲労が永遠の深さを湛えて広がっているようだった。
歌は思った。「変な男だわ、どうしてあんな目で赤の他人を真っ直ぐに見つめられるのかしら? こんな時間にかなり酔っていそうだし…」
歌は視線を戻し、横の信号機を目で拾い、正面の信号が変わる少し前に立ち漕ぎで飛び出して行った。
その時歌は男の視線を、背中にではなく、腰の中心に掘ったミッキーマウスのタトゥに感じた。
そして、その時ほどその子供っぽいタトゥに恥じらいを感じた事はなかった。
歌は高2の夏にそのタトゥを入れていたが、その時の歌には唯のシャレであり、大好きなミッキィ以外では、逆に本物っぽ過ぎて駄目なような気がしたのだった。
そしてその朝の歌のミッキーは、冬の朝の風の中で微熱を帯びていた…
しかし、歌は坂を上り切り、日赤通りの信号に差し掛かる頃にはその男の事をすっかり忘れてしまっていた。
そう、あの友人の誕生日会の夜までは…
「二十二」の二 黒い薔薇
その日渉の部屋には六人の男女が集まっていた。その中の一人、裕子の誕生日会を理由に皆で騒ごうと集まったのだった。
午後三時から始まった呑み会も四時間が過ぎ、皆で作った料理の残りも、ケーキの残りも皿の上で干乾びていた。 かなり準備した酒の類も底を着き、なんとなくゆるい倦怠が場を漂いだしていた。
歌が言った。
「ね〜皆んな〜どっか呑みに行こうよ〜!」「え〜?まだ呑むのかよ〜!?」
思わず渉が口走った。
歌は酒が強い。そこらの男には負けた事がない。そして酔うことが好きだった。
渉はあまり酒は得意ではなかった、付き合い程度には呑むが、酔うことが好きではなかったからだ。
「お〜行こうぜ〜!」
数人が叫ぶ。
「俺はいいよ〜 残る…」
そう言った渉に、歌が促す。
「なんだ〜渉 行こうよ〜」
しかし結局渉は残る事になり、残ったメンバーで歌がたまに行くバーへ行く事になった。バーとは言え時間はまだ午後七時をまわった所だ、客は少ない筈である。
歌は勢いよくバーのドアを開けた。辺りを見回す。店内にはカウンターに見知らぬ男が一人座っているだけであった。五人は男の後ろを通り過ぎ、奥のボックス席になだれ込んだ。
しかし歌は通りすがりに男を見てき気づいていた「あの時の男だ…」
「マスター!今日はユッケの誕生日だから昼間から呑んじゃってるんだよ〜」
歌はワザと大声で叫んだ。そして銘々がそれぞれの飲み物をオーダーする。
たったそれだけの事が、酔った若い男女にかかるとかなりの騒々しさを静かなバーに呼び込んだ。その騒々しさを他所に、歌の頭の中はその男に対する興味で一杯だった。
「何をしてる人かしら?」「何故いつも一人で酔っているのかしら?」「何故あんな淋しい目をしているのかしら?」「あの人は私に気付いたのかしら?」
歌は酔っていた。それ故大胆になっている歌の心は、男に話しかけるタイミングを計っていた。
その事が、歌のこの先の運命を大きく左右するとは思っても見なかったのだ。
五人の男女が起こす騒音の中に、マスターが叫ぶ。
「歌ちゃん!他のお客さんに迷惑かかるから、抑えてね〜!」
その声に歌は振り返り、丁度振り返った男と目を合わせた。
歌はわざと真実の酔いを超えた酔いを、目に溢れさせていた。 酔いに瞳を潤ませたその夜の歌の瞳は、鋭い棘を携えて露に濡れる一輪の黒い薔薇の様に美しかった。
意識して足元をふらつかせて立ち上がった歌は、男の居るカウンターに歩み寄った。
「お兄さん、すみませんでした。怒ってる?」「いや、楽しそうでいいね。お兄さんじゃないけど…」
「良かった〜、でもオジサンっては言えないじゃん!」
「いや、オジサンでいいよ」
「じゃ、名前教えてよ!私は歌です。君嶋歌」
「いいけど…前島卓です」
「お!同じ島どうしだね!?いやー奇遇ですな〜、じゃタクさんって呼んでいいですか〜?」
「いいよ、歌ちゃん、かなり呑んでるの?」
本来の酔いも手伝い、歌は思いのほか親しげな言葉を淀みなく続ける事ができた。
「今日はお友達の誕生会だから戻ります、又今度一緒に呑みましょうよ〜」
「そうだね、又今度、歌ちゃんがもう少し酔って居ない時にね…」
「私はいつも酔っています!お生憎さま〜
… 卓さん携帯教えてよ!」 二人は連絡先を教えあい、歌はボックス席に戻り、その夜は珍しく酔いつぶれ、友人に支えられ渉の部屋に送られた。
歌のその夜の恣意は、他愛の無い好奇心から生まれた物だったのかも知れない。
しかし、いつでも恣意と言うものは、単なる恣意では無く、心の深い部分で沸き起こる欲求に支配されている場合が多い事を、歌はまだ知る由も無かった。美しい薔薇の棘は他人を傷つける場合もあるが、薔薇自身を傷つける可能性も含んでいると言うのに…
「二十二」の三 魔女の時計
その夜、歌と渉は諍いを起こした。
自分を部屋に残し、友人に支えられながらベロベロに酔って帰ってきた歌に、渉は怒鳴った。
「何やってんだよ!」
渉が歌を怒鳴ったのはこの時がはじめてであった。
歌は渉を一瞥し、何も言わず倒れこむようにベッドに入り、眠ろうとした。
「おい!起きろよ! おい! 歌!」
「うるさいな〜! 眠いの!」
「どうしてそんなに呑んだんだよ?!」
「…」
「おい!歌!」
「いいことがあった…」
「何?」
そう言い残すと歌は瞳を閉じた。そして透けるような瞼の内側に卓の淋しげな横顔を思い出していた。
歌は二十二歳である。世間では一目置かれている有名私立大学をこの春に卒業するのだが、昨年から有名企業に次々と内定を決めている友人達の中、歌だけは就職が決まっていなかった。
別に就活を怠けていたつもりはない。しかし、心の何処かに真剣に取り組んでいない自分があったのだろう。試験前日に深夜まで呑み、当日の朝に慌ててエントリーシートを書き込み、試験会場に駆け込んだりもした。 それ故なのか… 人当たりもよく、聡明で、美しい歌であるのに、結果を導き出す事が出来ていなかった。歌は二年間続けているカフェのバイトで今を凌いでいる。今、歌には将来が何も見えず、むしろ先の事からワザと目を背けているような日々を送っていた。歌には一週間後に迫った卒業式が、憂鬱でならなかった…
あの夜以来、卓からの連絡は無い。
決して待っている訳では無いと自分の心には言い聞かせてあるのだが、心の何処かにどうしても取れない魚の小骨のように引っ掛かり一週間が過ぎ去っていった。
その夜、歌はカフェでのバイトを夜の十一時に終え、その後バイト仲間の大介と食事に出た。十二時を回りそろそろ帰ろうと話していた時、歌の携帯が鳴った。中学生以来の親友の元子からの呼び出しである。アルコールが少し回り、呑み足りないと感じていた時だったので、歌は二つ返事でオーケーを出した。午前三時前に青山の居酒屋を出た時、歌はかなり酔っていた。夜道を独り歩きながら、あの日以来、酔った歌を極度に嫌がる渉の事を思い、足取りの重さを感じていた。
「よし!もう一杯呑んでやれ!」
歌は帰り道から少しそれた所にある、あのバーを目指したのだ。
歌はドアを勢い良く開けて、冷たい風を道連れに店に入っていった。狭い店内をさっと見渡すと、カウンターに男が一人、奥のボックスにカップルが一組いるだけであった。 マスターに手を上げ、もう一度カウンターの男に視線を戻す。卓である。「やった!」歌は心の中で呟き、卓の隣のスツールに滑り込んだ。
「タクさん、ここいい?」
「はい!よろこんで!」
卓の居酒屋の店員を真似たつまらないギャグに、歌は無言で白い視線を返す事で答え、笑顔で囁いた。
「タクさん、つまらないよ」
「マスター!ビール頂戴!」
「遅いね?呑んでいたの?」
「うん、ご飯食べてた」
「ご飯でそんなに酔うんだ?」
「うん。酔う。」
その夜はとにかく楽しかった。くだらない冗談から、真面目な話まで、淀みなく会話は弾み、二人の年齢差の二十七年と言う時間は存在価値を失っていた。
歌は心で思った「アインシュタインより簡単に、私は時間を消してしまったわ…」そして歌は卓が今は独りである事を知ることで、さらにもう一つ心の壁を熔かし、遮る物すべてを失くしてしまった。
冬の長い夜も終わり、濃いブルーが空を浸すころ、ドアの外の寒気の中に、二人の歌が立っていた。渉の部屋に帰りたくない歌と、卓のそばに居たい歌だ。
「タクさん!もう少し呑みたい!」
「いいよ?」
「タクさんの部屋にお酒ある?」
「ワインぐらいならあるかな?来る?」
「うん!行く!」
しかし、卓は見るからにフラフラである。目も落ちている。そしてそれは歌も同じであった。
卓の部屋はそのバーから歩いて十分ほどの場所にある、アパートに毛の生えたような小さなマンションであった。しかし三階の卓の部屋は一人で暮らすには広すぎる1 L D K で、必要な物意外何もない殺風景と言っていい部屋だった。歌は部屋に入り二人掛けのソファーを見つけると、落ち込むように横になり、すぐに目を閉じた。そして目を閉じたまま、卓がワインの準備をしているのであろう音を聞いていた。
歌は思った「この人にもうこれ以上、自分を虐めるように呑ませてはいけないわ…」 卓がグラスにワインを注ぐ音を聞くと歌は目を開け、「タクさん呑み過ぎだよ!もうやめなよ!」と思わず口走ってしまった。
自分でもっと呑もうと、この部屋に誘った記憶も頭の隅にはあったのだけれど…
卓の手は歌の言葉で一瞬止まったかに見えたが、卓はそのままワインを口に含んだ。
卓は真っ直ぐ歌を見つめている。
歌は目を閉じた。
卓の唇が歌の唇に触れる。
歌は目を閉じたまま、卓に抱かれる事を心で欲した。卓の手が歌の手を優しく包むと、卓はソファーにもたれかかり、そのまま眠ってしまった。
卓の静かな寝息を聴きながら、歌は淋しさと同時に安堵を覚え、歌も又一瞬にして眠りの底に落ちていった。
窓の外にはもう、乾いた日差しが目覚めかけていて、魔女の時計の美しい針は、眠りの床を指し示していた。しかし、二人にとっての昨夜の時間は、確実に魔女の時計によって刻まれた時間であった…
「二十二」の四 魔法
歌は夢の中で卓を見ていた…
夢の中の卓は口から赤い液体を吐き出し続けていた。しかしそこに音は無く、静寂の中で卓は永遠に赤い液体を吐き続けているのだった。そしてその夢から目覚めた歌の目の前にワインを飲もうとする卓がいた。
「まだ呑むの?やめなよ…」卓は驚いたように歌を見つめ…今度は静かにワイングラスをテーブルに戻した。言葉と行動を見失った歌は「まだ寝ててもいい?」と呟いた。「いいよ…」卓の言葉に促され、歌は目を閉じる。 しかし、歌の唇は淋しかった。歌は目を閉じたまま、手探りで卓の手を取り、引き寄せて唇を押し当てた。
それを機に卓が歌に覆いかぶさり、唇を重ねてきた。それは軽い口付けだったが、歌の唇から思わずため息が漏れ、歌は卓にしがみついた。その時、卓の全ての枷と箍が弾け飛び、卓は1人の飢えた雄になった。歌の願いは叶えられ、歌の身体は熔け出し、歌の歌は喜びに艶めき、愛を奏でた。
静かな午後の日差しの中で、歌は卓の胸の中にいた。卓が囁く「お腹すいてない?」
「うん…すいた」
「何か食べに行こうか?俺 少し仕事にも行かなきゃ。」
「うん。でももう少し…」
卓の左の首筋に顔を寄せた歌は、唇を寄せ、鼻先を擦りつけ、甘い匂いの中を漂っていた。 卓の左手が歌の背中を撫で、歌は心の肌を撫でられるように癒された。
青山のカフェの三階席のテラスで、二人は遅いランチを取った。卓はここでも赤ワインをオーダーした。
「タクさんはフランス人よりイタリア人より沢山ワインを呑むね…」
「いや、今日は特別なんだ」
歌は思った「そう特別…じゃ私もワインを頼まなければいけなかったわ…」
しかし、結局二人はあまり食べ物が喉を通らず、かなりの料理を残して店を出た。店の前で二人は向かい合った。
歌はその日、まだまだ卓と一緒に居たいと思っていたが、今日卓の仕事の邪魔をするべきでは無いと思い、勢いをつけて言った。 「じゃ、仕事頑張って」
「うん、連絡する」
歌はそう言うなりクルリと振り返り、背中に心を全部集めて卓を感じながら、振り返らず、大股でその場を離れた。淋しさに打ち勝つ為にはスピードをつけて飛び出すしかない。 青山通りを表参道方面に颯爽と歩くが、目的地があるわけではない、ただいつまでも今日過ごしてきた時間の中にいたかったから、何処に向かうでも無く歩き続けていた。歌は思った、私は何処に帰ればいいのだろう?渉の部屋には帰れないわ…
結局その日歌は三時間ほども歩き回り、暗闇を抜けて渉の部屋に帰った。渉は部屋に居なかった。
歌は気絶するようにベッドに倒れこみ、それから十五時間眠り続けた。目が覚めた時も渉はそこに居ず、渉が部屋に戻った気配も無かった。午前十時を過ぎていた。携帯には卓からの着信もメールも入っていなかった。 歌は長い時間を掛けてシャワーを浴びた。鏡の中の自分の裸身に卓の面影が重なった。 午後三時、バイトに出かけた。
バイトの休憩時間に携帯を見る。卓からのメールだ!「歌に会いたい…」「今、バイト中なの」「何時に終る?」「十一時」「連絡して」「了解」その夜も歌は卓の部屋に泊まった。
二週間、歌は卓の欲求の嵐に翻弄され続けた。卓は二十四時間歌に会いたがり、歌を求めた。そしていつも酔っていた。
卓の仕事が終る、待ち合わせる、食事をしながら酒を呑む、部屋にもどり酒を呑む、宇宙の事を話す。抱き合う、眠る。
「今日はバイトを休めないかな?」卓に言われる。
「いいよ…」
翌日、卓は言う。
「今日はこのまま歌と居よう。仕事は休む」
歌は卒業式にも、その後のパーティにも参加しなかった。友人からの誘いも断り続けた。
そうして、一緒に居るあいだも、卓は常に歌の肌を求めた。 指で触れ、唇で触れ、手の甲でさすり、鼻先を押し付け匂いに埋もれたがった。
歌は疲れた…
そして思った「この人は、淋しいと死んでしまうウサギなのだわ…だから何時も酔っていたがる…」
疲れたからと言って、今の歌に帰る部屋はない。あれ以来、渉の居ない時間を見計らって着替えを取りに帰る以外、渉の所には帰っていない。もともと渉の部屋に歌の持ち物は着替えと小物が少しあるだけだったのだ。 一度だけ、渉と鉢合わせをした事があるが…お互い無言であった。
卓の熱情は、ぬるむ気配を見せない…
ある日歌は、卓の前から姿を消した…
「そう! 私は魔法が使えるんだって、いつも言っていたでしょう?」歌は独り言を呟き、渋谷の雑踏に消えて行った…
「二十二」の五 月の島
歌は北海道に居た。
北海道、松前半島の白神岬の先端から少し外れた松前町にある、月島と言う街に住む母方の祖父母の旧家に身を寄せていた。三月の末とはいい、この辺りには未だ真冬の陰が残っていた。毎年桜もゴールデンウィーク頃にならないと見ごろを迎えない。 歌はこの街が昔から好きだった。松前は北海道唯一の城下町であり、多くの観光名所がありその中には日本有数の桜の名所も多く、松前には二百五十種類一万本の桜の木がある。歌は光善寺の「血脈桜」が見たくて、この街に来たのだ。「血脈桜」にまつわる言い伝えとその悲しいがごとく雄大な美しさが好きだった。
※「血脈」=死んだ人が仏になれるようにお 坊さんが与える書付。
又、歌には実家にはどうしても戻りたくない理由もあった。歌は半年前まで両親の許で東京の板橋区に住んでいた。渉と暮らすと家を出た時に、厳格な父親と言い争い、それ以来父とはまともに話をしていなかった。それ以前にも父とはよくぶつかりあい、まったくの価値観の違いにうんざりしていたのだ。今更、たかが半年でおめおめと父の許に戻るわけにはいかない。
あの日、渋谷のディスカウントショップで北海道行きのチケットを買い、その足で祖父母の所まで来てしまったのである。歌の突然の訪問を祖父母は大変喜び、両親には秘密にする事も誓ってくれた。歌はバイト先と二〜三の友人に連絡を取り、渉に電話を掛けた。 渉は淡々と歌の願いを聞き、何も聞き返さず、衣類をダンボールに詰め送る事に同意してくれた。そうして歌は携帯の電源を落としたのだった。
どうしても見たかった桜の季節にはまだ一ヵ月早く、歌はしばらく間、毎日海を見て祖母の手料理を食べて過ごした。書店に立ち寄っては本を買い、海辺の暖かい場所を見つけてページをめくった。二週間が過ぎ、歌は祖母の紹介で、近所のお土産物屋のアルバイトを始めた。毎日がゆったりとした時間の中で過ぎ去り、むず痒いような苛立ちと、安らぎの中で、歌の中には何かが芽生え出していた。
五月、街の桜達が賑やかに咲き乱れ始める。観光客も増え、バイト先の土産物屋も繁盛を極めた。歌は毎日時間を見つけては、桜を見て歩いた。ゴールデンウィークも明け、街の喧騒も落ち着きを取り戻したある日、「血脈桜」の下で、歌は携帯の電源を入れた。
その瞬間、おびただしい数のメールが流れ込んできた。そしてその大半は卓からの物だった。それはあの日から約二週間続き、その後プッツリと途絶えていた。「ちゃんと生きているかしら…」「きっと死ぬほど呑んでいるわね…」歌は胸が苦しいほど卓のもとに走りたくなった。涙が溢れた。しかし、歌の前には雄大な桜がそびえたち、歌の過去への未練の前に立ち塞がっていた。「美しいのにこんなに悲しい…」
歌は一匹のウサギの呪縛を解くために、はるばる北の月の島に来た事を、今一度噛み締めた。
歌は携帯を捨てた。
それから二ヶ月たったある日、歌は東京に戻っていた。
「二十二」の六 帳と音による終幕
歌は自分一人の部屋を借りた。
土産物屋でのバイト代はほとんど手を付ける事無く持っていたし、事情を知った祖母が足りないお金を出してくれたのだ。
しかし、歌の部屋には何も無かった。必要、不必要関係なく、何も無かった。ただマットレスと布団だけは祖母が送ってくれた物があった。六畳のワンルームの隅に、真っ白いシーツの布団だけが寝そべっていた。「少しずつでいいわ、好きな物だけを揃えるつもりよ…」
歌はフローリングに寝そべって、履歴書を書いた。明日面接がある。小さな広告代理店を知人に紹介され、歌は初めて真剣に、職を求めたのだ。履歴書を書き終えた時は十二時を回っていた。
「その前に、ちゃんとしておかなければならない事があるわ」
歌は身支度を整え、最終電車に飛び乗り、あのバーに向かった。
やはり、卓はそこに居て、カウンターで一人酔っていた。歌は隣のスツールに滑り込んだ。卓の驚き戸惑ったような、ハニカンダ表情はいつかの夜と変わらなかった。しかし、明らかに卓は痩せていた。
「怒ってる?」
「…」
「大丈夫?痩せた?」
「…」
「髪切っちゃった」
「…」
しばらく二人は黙りこくったまま、酒を呑んだ。
そうして十分ほど過ぎた頃、ようやく卓が口を開いた。
「どこにいたの?」
歌はかつて見せた事の無いような最高の笑顔で卓に言った。
「月に行ってきたのよ。うさぎさん」
「月?」
「そう、ず〜と北の方…」
「どうして、突然?」
「…」
「何故? 俺達はあんなに同じで…ひとつだったよね?」
「…」
「もう一度戻ってくれるの?」
「…」
「…」
「これ読んで!」そう言いながら、歌は数枚の紙束を卓に押し付けて言った。
「私!明日面接なの! 今日はそろそろ帰るわ… 部屋も借りたの… 卓さんには教えないけど… これ読んで捨てて! じゃ!… ラビュ!」
そう言うと歌は いきなり卓に口付けをして、スツールを回し、大股で歩き去って行き、夜の闇と店に流れるブルースが二人の間に幕をひいた…
「二十二」 ―完―
「四十九」―追記―
私はその時何も言えず、何も出来ず、そのままの姿勢でうずくまるように、頭の中で鳴る時計の音を聞いていた。何分かが過ぎ、マスターが言う。
「大丈夫ですか?」
「え?うん…ああ…」
私はグラスに残ったワインを飲み干し、ボトルでとってあったワインをグラスに注いだ。 そしてやっと歌が残した紙束を広げ、ページをめくった。それは、私と歌が出会った夜からの、歌の日記のページを千切り取った束であった。
そこには歌がどれだけ私を愛したか、どれだけ私を受け入れようと努力したか、どれだけ未来を見ようとしたか、歌の苦悩が刻まれていた。
私は歌を求めるだけで、歌に溺れるだけで、歌を知ろうとしなかった… 私は鼻水をとめどなく流し、涙をこらえようとした。無駄な努力であった。しかしなんとか嗚咽だけはかみ殺し、文字を拾い続けた。
ある日を境に、歌は日記の中で、私をウサギさんと読んでいた。
「ウサギさんウサギさん、心配しないで、歌はいつでも一緒よ!」
「ウサギさん貴方は疲れ過ぎているわ、もう少し眠ったら…」
「ウサギさん貴方にお酒を控えさせる方法はあるのかしら?」
歌が私の前から消えてしまった日の前日から、歌の日記は三日間途絶え、祖父母の家に着いて二日目から、又日記は始まっていた。
「歌は北海道にいたのか… 月島… 本当に月に行っていたんだ」
「桜か… 俺は今年の桜を見たのだろうか…」 北の町での生活の中で、歌は若く力強い精神的変化を続け、その日記は「血脈桜」の下で歌が携帯の電源を入れ、卓のメールを見、その上で携帯を捨てる事が出来るまでに成長を遂げていた。
卓は涙の中で呟く「かなわないな…」
その日記は歌が新たな生活を手に入れる為の、職探し、部屋探しなどの東京へ戻るまでの詳細が書かれ、北海道最後の夜で終わっていた。
そして、最後に一枚、卓に宛てたメッセージがついていた。
********************
卓さん
歌は卓さんが大好きです。
何も言わずに遠くへ行って、貴方を苦しめ てごめんなさい。
あの時私には、あの方法しか見つけられな かったの…
私はあの時の貴方を受け入れる器も、受け 止める大きさも、変える力も持っていなか った。
私自身、自分自身の事さえ何も見えていな かったの。
でも、私は貴方が大好き。
いつまでも貴方に逢えた事を、誇りに思え るように頑張るつもりです。
応援していてね…
ラビュ!
********************
そうして歌は私の前から本当に消えてしまった。
過ぎ去った時間を取り戻すことは絶対に出来はしないが…
もし私がもう一度歌と出会ったあの夜に帰れたとしても、私に何が変えれたのだろうか?
あの日歌を抱かずに別れる事は出来たのだろう… しかし、その先に待っている事態は変わらなかったのではないだろうか?
あの日私も、歌も強くそれを望んでいたのだ、ただ状況を先送りに出来たに過ぎないだろう。
又は、その後の歌との関係を、もっと時間を掛けて、落ち着いて育む事が出来たのかもしれない。
確かに私は急いだ。二人の年齢差を考えた時、「私が歌の彼です」と言って、オメオメと友人や両親の前に顔を出せたであろうか? 嫉妬もあった。歌の周りに居る全ての男に嫉妬した。若く前途有望な友人達だけに留まらず、高収入で社会的地位のある知人など、何気ない会話の中で歌の口から出てくる全ての男に嫉妬したのだ。誰一人として、歌にとって私に劣る男はいないように思えた。現実的に、彼らの方が圧倒的に歌に相応しい男なのだから…
私は歌にしがみついていたのだ。自分の為だけに歌を拘束したがった。結局、自愛が強すぎたのだ…
その為、私は歌を失ってしまった。
今、私は歌を失くした事を、しっかりと認識している。
そして、初めて歌の事だけを考える事が出来た。
歌の人生にとって
歌の幸せにとって
私は不必要なゴミでしかない…
問題は私がただのウサギでは無く、沈倫したウサギであった事なのだ。
私は心から歌の幸せだけを願い、自ら死を考えた。
しかし本気で死に向き合った時、私は怯え、恐怖に竦み、改めて自分の陳腐な精神に気づかされた。
そうして私は酒に溺れ、衰え、腐敗した生活に沈殿し、私の古巣である、沈倫ウサギの棲家に逃げ込んでしまったのだ。
私にとって本当に居心地の良い場所は、もう此処にしか無いのかもしれない…
「五十二」その一 傍観者
バーテンは今年五十二歳になる。
渡邊悠一。黒い服だけを好んで着るようになって十年、無精髭の手入れを始めて、いつも髭面でいるようになって七年、以前のオーナーからその店を買い取って八年が過ぎていた。そして、バーテンを職にして十五年。音楽を生活の糧では無く、傷薬に変えてからも同じく十五年経っていた。
しかし、本当に傷薬になっているのか、傷口にすり込まれるスパイスになったのかは、彼も確信を得てはいなかった。癒しを与えてくれるのか、痛みを増幅させるのかは、その日、その夜に音楽を運ぶ空気の湿度と温度に関連があるようでもあり、月の明るさ、吹く風のリズムが決めてであるような気がしていたが、本当はその日の傷口の開き具合だけが影響しているのであろう。
バーテンは昔、フルボディのアコースティックエレキギターの錆びた絃で傷つけられるために、彼の指先は存在しているのだと信じていたし。ブルースを歌う事は、神が彼に与えた使命だと感じていたのだ、そう十五年前までは…
彼は酒が好きでこの仕事に流れついたが、バーテンを職にしてからはたまの夜更け、明け方から昼間にかけてしか酔っ払えなくなってしまった。酒が嫌いなバーテンなど存在しないのであろうに、バーテンと言うのは皮肉な職業である。しかし、彼は今、少しの酒と耳に流れ込む音楽、そして好きな女が側にいれば人生は捨てたもんじゃないと思えるようになっていた。
ジミヘンドリックスは二十三歳で死んだ。俺はまだ行きている。天才は早くに生きるべく使命をまっとうし、凡人はいつまでたっても人生の意味を刻めずに、生き恥を晒し続けるのだ。それも仕方がないことなのだろう。 バーテンはそんな事を思い、毎日を淡々と過ごしていた。
以前のその店のオーナーは、この街の夜の重鎮であり、街に、人に愛され、街と人を愛し、人生を謳歌して六十歳で死んだ。その店を、彼に譲って半年後の事である。
彼はその店を買い取ると、以前のハワイアン風の内装の一部分を作り直して、ハワイを感じさせる備品を取り払い、使い古された木目のカウンターや壁を生かし、ブルースを基調とし、バーボンとラムの種類に拘った酔いどれの為のバーに衣替えをした。
そして、客の居ない彼一1人の時間を癒すため、又、独りの客が何も語らず見つめる物を作るため、入り口の脇に入り口に背に向ける形で、モニターを一つ入れ、古い黴のはえた映画を、無音で映していた。
そしてマディ・ウォーターズやサンハウス、三人のキングなどのブルースを流し続けていた。
そんなバーテンの思惑では、本当の大人の酒飲みだけが、人生の苦痛を癒す為にやってくる、少し暗く侘しい店を思い描いていたのだが、以前の店の客がそのまま店を愛してくれ、新らたに、若い客までも連れてきてくれたりもして、結構気さくな入りやすいバーとして繁盛していたのだった。
そうそして、あとひと月頑張れば彼の休日が待っている。彼は年に一度、半月ほど店を閉めて海外を旅する事に決めていたのだ。昨年はインドに行き、今年はキューバに行く予定だった。世界の酒を学ぶ旅が名目だが、彼には学ぶ事などもう何も必要ではなく、生きている為の目標を一年に一度刻んでいるに過ぎなかった。節目が無ければ引っかかる物が何もなく、ずるずると何処までもずり落ちて行ってしまう事は目に見えていると思っていたし、それ程彼は自分の人生は意味を持たないものだと感じていた。ただ死ぬ機会が無いから生きているに過ぎないと呟いて…
「五十二」その二 傍観者
やけに背の高いその男は、一月程前に始めて店に入ってきた。
くたびれてはいるが、仕立ての良さそうなネイビーのカシミヤのジャケットに薄いピンクのデュエボットーネのシャツ、チャコールグレーのパンツ、薄い茶色のスリッポンは少し傷つき汚れていた。
人生に見捨てられた男特有の、優しいが疲れた瞳と、低くくぐもった声が印象的で、バーテンはその男が自分と同じように意味を持たない人生に引き摺られている事を確信した。そしてバーテンとその男は心の奥で繋がり合い、静かな時間を差し当たりの無い少しの会話で、楽しむようになったのだった…
その男は「前島卓」と名乗り、衣料品関係の仕事をしているようだった。
基本的にはいつも一人で店に現れるのだが、店に現れる時間はまちまちで、普通に店が一番混雑する時間帯に現れ、他の客と楽しそうに会話を楽しんで帰る日もあり、泥酔して明け方フラフラと現れ、もう呑めそうも無い酒を注文し、カウンターに突っ伏して眠ってしまう日もある。又、店を開けたばかりの早い時間にふらりと現れ、一人静かに酒との会話を楽しんで行く夜もある。
前島はその日も、店を開けたばかりの早い時間にやって来た。
「今日はお早いですね?」
「うん、暇でね…」
「何をお作りしましょうか?」
「そう、ドラフトを」
そして、モニターに映し出された無音の映画のシーンを目で追っていた…
その夜バーテンは、前島との緩やかな会話を楽しもうと、店を開けたばかりだと言うのに、自分のグラスにもビールを注いだ。そして、前島に話しかけようとしたその時…突然入り口のドアが開き、数人の男女が入ってきて、奥のボックス席になだれこんだ。
「マスター!今日はユッケの誕生日だから昼間から呑んじゃってるんだよ〜」「ビール頂戴!」「俺も!」「私はスプモーニ!」「ジントニック!」
やれやれ、困った子たちだ…
「すみません騒々しくて…」
「いや、楽しそうでいいじゃない」
「はい、なるべく静かにさせますから」
「いや構わないよ、お得意さん?」
「はい背中を向けている子が良く来て下さいます。」
「歌ちゃん!他のお客さんに迷惑かかるから、抑えてね〜!」
カウンターに背中を向けて座っていた歌が振り向く…
「君嶋歌」二十二歳 近くにある私立の大学の四年生である。歌は中学からその私立の学校に通っていて、中学を卒業する頃にはもうこの店に顔を出し始め、かれこれ七年ほどの客であり、それは丁度私がこの店を買い取った時期と重なっていた。
歌は大きな瞳と生意気そうな口元を持つ、美しい女性であった。しかし、歌は少し普通の女子大生とは違う種類の女で、会話では全ての大人の男達を黙らせてしまう強さと優しさウィットに富み、酒の強さは半端ではなく、底抜けに明るく、人生を自分自身で楽しむべくすべを備えていた。
しかしひとたび何かが彼女の心を乱し、鬱に入ってしまうと自分の殻に閉じこもってしまい、何日も部屋に閉じこもり、何をするでもなく天井を見つめて過ごすような女であった。その状態になった彼女にその時必要な物がなんであるのかは、誰にも見つけることが出来なく、私を含めた誰もが、そっと見守るしか手立てを持たなかった。そしていつもある日突然に立ち直り、明るく店に現れて何事も無かったように「マスター!ビール頂戴!」と笑うのであった。
その日振り向いた歌は、かなり酔っていた。そして、テーブルに手をかけながら立ち上がると、前島の席に向かってフラフラと歩いて来た。
そして、前島の肩に手をかけると
「お兄さん、すみませんでした。怒ってる?」
「いや、楽しそうでいいね。お兄さんじゃないけど…」
「良かった〜、でもオジサンっては言えないじゃん!」
「いや、オジサンでいいよ」
「じゃ、名前教えてよ! 私は歌です。君嶋歌」
「いいけど… 前島卓です」
「お!同じ島どうしだね!? いやー奇遇ですな〜 じゃタクさんって呼んでいいですか〜?」
「いいよ、歌ちゃん、かなり呑んでるの?」
その後二人は旧友のように十分ほど、言葉を交わしていた。
「今日はお友達の誕生会だから戻ります、又今度一緒に呑みましょうよ〜」
「そうだね、又今度、歌ちゃんがもう少し酔って居ない時にね…」
「私はいつも酔っています! お生憎さま〜… 卓さん携帯教えてよ!」
二人は連絡先を教えあい、歌はボックス席に戻っていった。
その後前島はその一杯を飲み干すと、珍しく早々に席を立ち、指でクロスを作りチェックを促した。
「お早いですね?」
「そう、明日仕事が早いんだ… それに持って帰りたい夢も出来たしね…」
「あ〜 そうですか… 火傷には気をつけて下さいよ…」
「はっはっは! おやすみ!」
「はい、おやすみなさい! ありがとうございました! 又!」
歌はと言えば、その後友人達のスローな酒の進みを尻目に、一人で騒ぎ、呑み続け、最後は友人に支えられて店を後にしていった。
その夜、バーテンは二人の出会いの場に居合わせた訳だが、彼の人生の記憶を辿れば、これはまさにむず痒くも、せつなく甘い、恋の始まりの景色である事を確信をしたのだった…
若く美しい魔女と、老いた美しい憂鬱の神が恋に落ちた瞬間に、バーテンは傍観者としてそこに存在し、これから始まるであろうストーリーに、彼の役はあるのだろうか?などと考え、他人事ゆえに一人ほくそ笑んで、彼は自分のグラスにコニャックを注いだ。
今夜はまだまだ続く、始まったばかりの物語もあれば、奥のボックスでは今正に終ろうとしているストーリーもある… バーテンは傍観者で在ることを、楽しもうとしていた…
「二十四」その一 恋
「佐伯渉」
渉の髪は頑固な癖毛で、緩いウェーブがしっかりと黒い髪全体にかかっている。一見柔らかそうな髪に見えるが、一筋縄では言う事を聞かない頑固者である。その髪を渉は中途半端な長さに伸ばし、中途半端にうねらせていた。背は一七三cmで一年中カットオフのジーンズを愛用していた。
渉は二十四才で、カフェのバイトで生活をしていた。いわゆるフリーターだ。
大学を卒業する時に、どうしてもありきたりの職に就く気が起こらなかった。それで学生時代から続けていた、バイトをそのまま続けながらズルズルと生活していて、卒業後二年が過ぎた。
酒をそんなに呑む訳でもなく、趣味といえば本を読むことが好きな事、それも三島や森鴎外、谷崎潤一郎などの純文学が好みで、月に十冊ほど読んでいた。他には愛用のバイク、一九七七年製のF E X 一二〇〇はダークオレンジとアイボリーのツートンで、改造を重ねたそのハーレーが、渉は自分の持ち物の中で何よりも気に入っていて、暇を見つけてはメタルパーツを磨き上げていた。その他に趣味と言えば、音楽がいつでも耳に聞こえていないと落ち着かない事ぐらいだろうか。ジャンルに拘らず何でも聴くが、レッチリには頭が上がらない。
渉が歌と出会ったのは大学二年の時で、歌はまだ高校生だった。
渉のアルバイトをしていたカフェに高校三年の歌がホールのバイトとして入ってきたのだ。そして、渉は歌を一瞬にして意識した。
渉には歌の全てが新鮮だった。歌は自由で、奔放で、生き生きとして、人生を丸ごと楽しむすべを知っているように見えた。そして何より歌は大人であった。
当時歌は、人に依存する事無く自己を生き生きと存在させているようにしか渉には見えなかったのだ。
しかし、早朝まで営業しているカフェのシフトは複雑で、渉と歌が同時にバイトを上がる事になったのは、歌がバイトに入ってから二ヶ月が経った頃だった。
「初めてじゃない?同じに上がるの?」歌が唐突に渉に話しかけてきた。
「うん…そうかな…」
「折角だから少し呑みに行かない?」
「いいけど…俺 酒 あまり呑めないよ?」
「いいよ!? 付き合って!」
渉の内側は、誰にも見せられないほど、舞い上がり、興奮し、喜びに満ちた。
「うん 行こうか?」
その夜、二人は明け方まで話し、と言うか、歌が明け方まで話し、渉はほとんど歌の話を聞いていたのだが…
渉にはその夜がとても幸せな時間で…
歌に恋をした。
「二十四」その二 神の予定表
歌が大学四年になった夏のある日、二人は渉の部屋で同棲を始めた。
今までも二人で遊んだ日はほとんど渉の部屋に泊まっていたし、歌が友人と呑んで、酔っ払って勝手に渉の部屋にやってきては泊まって行ったりもしていた。歌は合鍵を持っていて、渉が部屋に戻るといつのまにか歌が真昼間から眠っていることすらあった。
数年前から渉は歌の家に遊びに呼ばれ、歌の両親ともかなり親しくしてもらっていたのだし、週の内半分ぐらい歌は渉の部屋に泊まっていたのだが、まったく一緒に暮らす事には歌の両親が難色をしめしていたのだ。それが何故ここに来て両親の気持ちが変わったのか、渉はその理由にうすうす気付いていた。
歌は神経が弱く、一度何かがその心のどこかに引っかかると自分の殻に閉じこもり、部屋から一歩も出なくなったりする子だったのだ。その時の歌は未だに就職が決まっていなく、自分の将来が見出せずにいて、自分が何をしたく、何をするべきなのか、そしてその事を渉に色々と持ちかけていたりしたのだが、渉自身にすらその答えは見出せていなく、歌に対して満足なアドバイスを与えられずにいたのだ。
歌は彼女の迷宮の中に入り込もうとしていた。歌の両親はそんな彼女に気を使い、それでも歌が最も楽しそうに話す渉との同棲に許可を出したのだった。
そして歌は少しの荷物と一緒に渉の部屋にやってきた。渉は嬉しくて仕方が無かった。 これからは歌がいつも目の前にいるのだ。
一緒に過ごす日々が三十回の夜と昼を数え、二人の生活には一つのリズムが生まれつつあったかに見えた。しかし相変わらず歌は呑んで早朝に帰って来る事が多く、昼間の行動より夜の行動を好んだ。その為、バイトのシフトも夜の希望が多く、渉とはすれ違いの時間が続いた。
例え二人の歩く時間が昼と夜の世界に別れて在ったとしても、渉は歌を愛していると実感していた。
しかし歌は確実に苛立ちを募らせる日が増えて行っているようで、渉にはそれが気がかりでならなかった。
「僕は同年代の誰よりも大きな人間だと思っているし、そうあろうと努力している。それなのに何故? 歌は日増しに苛立ちを表すようになって来たのだろう? あの夜さえ僕は飛び切りの笑顔で彼女を迎えたのに…」
一週間ほど前に歌は何の連絡もせずに三日間部屋に帰ってこなかった。渉がメールを打っても、返信は来ず、電話にも出なかった。三日が過ぎた深夜二時、歌は酔って部屋に帰って来た。渉には歌が今夜帰って来るような予感がしていたのだ。
歌が玄関のドアをガタガタいわせてヨロケながら部屋に入って来たとき、渉は飛び切りの笑顔で両手を広げ「おかえり〜 歌ちゃん! 元気だった?」と言うだけに止め、歌を抱きしめた。
それほど渉は歌を広く受け入れ、大きく包み、愛しているつもりであった。それにも関わらず、歌の気分はどんどん落ちて行くように見え、渉は歌をどう愛したら良いのか日々悩み続けた。
歌は中々寝付かない夜が多いが、いざ眠りに付くと永遠と思えるほど眠り続ける女だった。歌の起きなければならない時間に渉が部屋に居れば、歌を起こし、それも何度も何度も優しく起こし続け、外出先にいても歌に電話をかけ、歌を起こした。それでも歌は電話を切った後に又眠りに落ち、バイトに遅れ、授業をスッポカス事が度々あった。渉は酔って化粧を落とさずに眠ろうとする歌には「はいはい、化粧を落として寝ようね…」グシャリと脱ぎ捨てられた歌の服をハンガーにかけ、洗濯物は率先してやり、部屋の掃除も歌を促し一緒にやった。
「僕がこうした生活を続ける事で、きっと歌にもいつか、歌にとって本当に今生活に必要な何かが見えるんじゃないかな?」「僕が歌を変えられなければ、歌は一生本当の幸せを見つけられないかもしれない…」そうような渉の気負いが、歌の心により負担を負わせ、歌の心をより深い迷宮に迷い込ませていたのだが、渉はそれを止める事は出来なかった。その時、渉にとって歌を愛する方法はそれしか見出せなかったし、歌を幸せに出来るのは自分ひとりだと信じていたのだ。
そして今、自分が歌を見放せば、もう誰にも本来の歌自身を愛せる男など現れないであろうと信じていたのだった。
道端には街路樹の金色の葉がキラキラとダンスを踊り、冬の初めの乾いた風が耳を痛めつける頃、それでも歌との生活は三ヶ月を迎えようとしていた。
明日は歌の友人の裕子の誕生日である。二人は数人の友人を呼んでパーティを計画していた。
しかし… その夜が二人の心の間に刻む事になる溝の深さは、神のメジャーでしか測ることはできず、その成り行きは美しい文章で、既に神の予定表になぞられていたのだろう…
「二十四」その三 苛立ち
その日は歌の小学生時代からの友人 裕子の誕生日会の為、午後一時には裕子を除く男女数人が渉の部屋に集まっていた。
皆でケーキを焼き、料理を作った。ケーキには一人一人のメッセージがデコレーションされた。
男性陣は天井にモールを飾り、部屋の飾り付けを担当していた。裕子にはそれらは秘密にしてあり、ただ渉と歌の三人でお祝いをしようと告げてあって、時間も午後三時開始の約束になっていた。
裕子が部屋にやってきてクラッカーが打ち鳴らされ、パーティは始まった。
その日の歌はご機嫌で、皆を率先してハシャギ、笑い転げていた。渉は久しぶりに元気に笑う歌を見つめながら無常の喜びを感じていた。
しかしその時間は長くは続く事無く、歌は見る見る酔って行った…「何故? 奴はあんなに呑まなければいられないのだろう?」
渉は一人ハイピッチで飲み続け、酔いが歌の瞳を潤ませ、言葉の尻尾が渦巻き初めるのを見つめながら思っていた。
始まりから四時間が過ぎ、料理もケーキの残りも皿の上で干乾びていた。かなり準備した酒の類も底を着き、なんとなくゆるい倦怠が場を漂いだしていた。
そんな中歌が言った。「ね〜 皆んな〜 どっか呑みに行こうよ〜!」
渉は落ちた。渉はそろそろこの会が開けてくれないかと密かに思っていたのだ。
渉は言った「え〜? まだ呑むのかよ〜?」 同時にその他数人が口走る。
「お〜 行こうぜ〜!」
あ〜 …もう止められない …渉の中には一種の苛立ちが芽生えていた。
「俺はいいよ〜 残る…」
「なんだ〜 渉行こうよ〜」歌がうながすが、その時渉は自分の中に芽生えた怒りを表に表さない事に必死であった。折角の会を台無しにしてはならない…
数人が立ち上がり後片付けを始める。歌が言う「いいよ〜 そんなの、後で私がやるから〜 さ〜 早く行こうよ〜!」
そうして渉は中途半端に片付けられた部屋に独り取り残された。
独り皿を洗いながら渉は心と体が自身の中に小さく縮んで行ってしまうように感じていた。皿が削れるほどいくら強く洗っても焦燥は癒える事は無かった。
「俺は歌を愛し続ける事が出来るのだろうか? 俺では力不足なのでは無いのだろうか?」 渉は鼻の奥に募る熱い痛みに耐えながら、黙々と皿を磨き続けた。
その夜歌は友人に支えられながらベロベロに酔って深夜に帰ってきた。
渉は思わず「何やってんだよ!」と怒鳴ってしまった。
渉が歌を怒鳴ったのはこの時が初めてであったが、渉は歌の瞳の中に浮んだ恐怖がそのまま怒りに変わって行くのを見た。
そして歌は何も言わず倒れこむようにベッドに入り眠ろうとした。
「おい!起きろよ! おい! 歌!」
「うるさいな〜! 眠いの!」
「どうしてそんなに呑んだんだよ?!」
「…」
「おい! 歌!」
「いいことがあった…」
「何?」
歌はそう言い残すと大きな瞳を薄い瞼で覆い、すぐに静かな寝息をたて始めた。
渉は独り孤独の中心に置き去りにされ、久しぶりに酒が呑みたいと思った。酔いたいと思った。
最後にもう一度歌の寝顔を見つめると、そっと部屋を出て、深夜の街に、狂騒の酒場に向かって歩き出した…
泣きたい気持ちに満たされてはいたが、その前にまだやることがあった。心と体をアルコールに漬して、酔いにまみれ、この痛みを癒さなくては…
「五十二」その三 ブルース
あの夜のあと一週間ほど、前島は店に現れなかった。
バーテンはあの夜以来の二人が、心の何処かに錆びた棘のように刺さり、気がかりであった。
何処か別の場所で二人は会っているのだろうか? 何故かなり頻繁に店にやってきていた前島があの日以来姿を見せないのだろう?
深夜一時、突然客の引けてしまったバーの中で、バーテンはぬるくなったビールを舐めながら、考えると言うでもなく、そんな思いを頭の中に漂わせていた。
そんな時ドアが静かに開き、前島がはにかんだ笑顔と共に店に現れた。
「いらっしゃいませ、お久しぶりですね?!」
前島は口を閉ざしたまま、片側の口角を上げ微笑んだだけだった。
「何をお作りしましょうか?もう呑んでいらっしゃいますか?」
「うん呑んできた。そう 少しサッパリしたカクテルを作ってくれないかな? 何かお勧めはある?」
「ありますよ… そうですね… ギムレットは如何ですか? 私特性のサッパリとした口当たりのドライな味ですが?」
「そう? じゃそれをもらおうかな?」
「かしこまりました」
そうしてバーテンがカクテルを作り始めると、前島がゆっくりと話し出した。
「先日、俺の母親が無くなってね… 葬儀で実家に帰っていたんだ…」
「あ〜 そうでしたか… それはお気を落としで、お疲れでしょう…」
「あ〜 さすがに少し疲れたかな…」
バーテンは作り終えたカクテルを静かにグラスに満たし、前島の前に差し出した。前島はそっと手を伸ばすとグラスの淵を中指と親指で挟み、ゆっくりと唇に近づけた。
バーテンは前島のこの酒の扱いが好きだった。まるで前島にとって唯一の親友が酒であるかのように、本当に酒を愛しむように扱う。
「うまいね! … どうやって作るの? 氷のフレークが表面に浮んでいてフローズンカクテルの様な口当たりだね…」
「はい。普通のギムレットはライムを使いますが… そう、チャンドラーはお読みになった事がありますか? 確か『長いお別れ』の中で、本物のギムレットはローズ社のライムジュースを使うんだって言う台詞が出てきます。ご存知ですか?」
「うん、こう見えてもハードボイルドは大好きだよ。その台詞は覚えていないけれどね… ずっと昔に読んだ記憶がある」
「そうですか… しかしローズのライムジュースで作るとかなり甘さの強いギムレットになってしまいます。ですから今はほとんど何処のバーでもフレッシュライムを搾ったもので作ります。しかし、ライムで作ると少し口当たりがきつい飲み物になります。ま〜それがギムレットの魅力なんですが… それで、今夜のような時には、私はライムの変わりにグレープフルーツを絞って使います。表面に浮んだ氷の屑は、ワザと荒く角を尖らせた氷を、ハードシェイクして氷の細かな粒を表面に浮かべます」
「ほ〜 …しかし… これは旨いな〜 さすがプロだね!」
「とんでもありません。これぐらい何処のバーテンでも作ります。」そう答えながらも、バーテンは喜んでいた。前島のような客に、酒を褒められる事はとても嬉しい事なのだ。
「お母様はお幾つで…?」
「七十三だった、癌でね… 十年前に父もなくしている。父は六十七だった、父も癌だった… 姉が一人いるが、天涯孤独になってしまった気分だよ… さっするところ両親の寿命を見ると、どう旨く転んでも、僕の寿命は七十歳止まりだね… あと二十年程で癌で死ぬんだろうね…」
「何を言ってるんですか。さあ! 呑みましょうよ!」
そう言うとバーテンは、前島の母親の弔いにシャンパンを空け、二人分のグラスにそれを注いだ。
その後一組のカップルが店に入って来たが、今夜はどうやらこの客で終わりになりそうだ。
バーテンはそんな事を考えながら、前島と二人でシャンパンを空けた。
午前三時をまわり、前島にラフロイグソーダを差し出し、前島がグラスに口をつけた時… ドアを勢い良く開けて、冷たい風と連れ立って彼女が店に現れた。
魔女の登場だ…
歌は辺りを軽く見回し、前島を見つけると、隣のスツールに滑り込んだ。今夜もかなり酔っているようだ。
「タクさん、ここいい?」
「はい、よろこんで」
「タクさん、つまらないよ」
「マスター! ビール頂戴!」
「遅いね? 呑んでたの?」
「うん、ご飯食べてた」
「ご飯でそんなに酔うんだ?」
「うん。酔う。」
今夜の二人は完全に息が合い、見る見る杯を重ねて行く。そしてバーテンには二人がより深い何処かへ揃って沈んで行くように見えていたのだ。
六時を回った頃、二人は口々に「よし!帰ろう!」「帰ろう!」と言いながら、揃って店を出て行った。
冬の夜明け前、ドアの外の蒼い景色の中で二人の吐く息は熱く白い陽炎と成って、ゆらゆらと明日へ昇っていくように見えた。
天上に在るものが必ずしも天国であるとはとは限らないのに…
バーテンは彼だけの為の、新しいシャンパンを開け、店を閉めた。
彼にも彼だけの時間が必要だった… 彼の中の彼のブルースは鳴り続けていて、その夜のバーテンのブルースは悲鳴に似た叫びを上げていた。
「二十四」その四 戻るべく場所
あの夜から渉は、部屋に戻る事が憂鬱になっていた。酔った歌を見たくなかったのだ。
渉は、酔った歌を見ると、歌が自分で自分を痛めつけているようにしか見えなかった。 そんな歌を見ていると、何も出来ない自分の無力さを痛感し、二人の時間の終わりを予感し、自分が小さく小さく縮んで行くように感じるのだった。
しかし、渉のそんな想いとは裏腹に、相変わらず歌は帰ってきたり来なかったりで、部屋に戻る夜は必ず酔っていた。そして、二人の会話は殆ど無くなっていた…
あの夜から一週間程過ぎたある日、その夜も歌は一晩中帰らなかった。
その夜初めて渉は感じた… 歌は別の男に抱かれている…
朝、渉は暫く使っていなかった寝袋と一人用のテントを引っ張り出した。学生時代によく友人とツーリングに出かけた時の物だ。
そして、何処に向かう訳でもなくF E X 一二〇〇に跨り、部屋を後にした。
今までどんなに歌が部屋に帰らなくとも、三日間連絡が取れなかった時ですら、歌が他の男に抱かれていると感じた事は無かった。昨夜それを感じた渉は、嫉妬と悲しみに一睡も出来なかった。
そして最も嫌だったのは、それが単なる憶測で、自分が勝手に歌を疑ってしまったのだと言う結果を迎えることであった。いや!心の底ではその結果を期待していたが、一度疑いを持ってしまった自分は変えられない。もう自分の信じる、自分の納得の出来る心が帰る場所は無い…
土曜日の早朝の道は空いていた。目的地の無い旅人にはむしろ迷惑な道であった。でも自分は行かなければならない。歌に合わせる顔が無い。会わせられる顔は二つ、歌を疑った顔と、歌に裏切られた自分の顔だけだ。どちらにしても救われる道は無い。
どんなにガラガラに空いた高速でも、救われる道を見出せない旅にはスピードの出しようがなかった。スピードを出せば、このまま死んでしまいたくなる事は、判りきっていたからだ…
渉はまだ朝の顔を残した大洗の海岸にいた。
右手には腹が減って買った、半分食べかけたハンバーガーを持っていた。それを握りつぶしながら… 初めて泣いた。大声で泣いた。俺は駄目な男だ… それから幾日か行き場の無い旅を続け、三日目の夜部屋に戻った。
歌が帰って来た形跡はあったが、そこに歌は居なかった。
その後二人は一度顔を合わせたが、歌は着替えを取りに戻ってくるだけのようで、そそくさと出て行った。何度か歌が戻ってきたらしい形跡は見受けられたのだが… 渉はチャンと話をして、全てに蹴りをつけたいと思う反面、未だに全てを終らせてしまう事に戸惑っていた。それ故、歌の行動を傍観していたのだ。
二週間が過ぎた頃から、歌はすっかり顔を見せなくなった。現れた形跡も残っていない。 歌の荷物の中には、歌のお気に入りの小物達があった。渉にはそれが気掛かりでならなかった。渉自身は、毎日その小物達を見て暮らすのは辛かったが、それらの無い生活を送っている歌の日々もきっと辛いであろうと思った。
そして、それらと過ごすよりも別の誰かと過ごす時間を選択している歌を、憎みもした。
そんなある日、突然歌からの電話が鳴った。
それは荷物を全部荷造りして、北海道に送って欲しいと言う申し出であった。
渉は何も言わず、それを承諾した。
その時二人が交わした会話は短く、
「北海道にいるんだ…?」
「うんお婆ちゃんのとこ… 血脈桜が見たくて… …お願いね…」
「うん。わかった」
渉は感じていた。こうして何も言わず、歌の願いを聞き入れている自分が、本当は腹黒く、何時までも自分が歌の帰る場所である事を、ひけらかしておきたいんだと言うことを…
当初、俺は歌の裏切りを許す事が出来なかった。
歌の顔を見るたび、歌が他の男に抱かれたであろう幻影が付いて回った。いくら忘れようとしてもその想像の光景は生々しく浮かび上がり、俺を解放してはくれなかった。もう駄目だ、俺にとっての歌は俺の知らない男に抱かれて喜びに震えている歌としか見る事が出来なくなってしまった。
しかし… 歌の声を再び聞いた今、俺は無性に歌に会いたくなった。全ての事実と妄想を凍らせて、もう一度歌をこの腕に抱きたくなった。
そしてその唯一の方法は、全てを許し、なすがままに唯、歌の戻るべき場所で在り続ける事なのだ。
俺はまだ歌を愛している…
「二十四」 ―完―
「五十二」その四 H E R O
その後二人はぷっつりっと店に現れなくなっていた。
そして、二週間を少し過ぎた頃、前島がフラリと独りで店に現れた…
「いらっしゃいませ、お久しぶりですね?」
「あ〜… 赤ワインを」
「はい、かしこまりました」
彼のように長年バーテンと言う因果な商売をしていると、客が話をしたがっているのか、黙っていて欲しいのかは粗推測出来るようになっていたが、しかしそれ程単純な事では無く、本当に独りで居たい人間はバーなどに現れはしない。
本当は話し相手を求めてやって来るのだ。 しかしそのタイミングと内容は客に選ばせなければならない。それが彼のバーテンとしての会話術でもあり、人生に置いての会話術でもあった。
グラスの赤ワインを半分程飲み干した頃、前島はやっと重い口を開いた。
「まいったよ…」
「何かありましたか? お疲れのようですけど?」
「…」
「…」
「歌ちゃんは最近店に来たかな?」
「いえ、最後に来たのは丁度前島さんがいらっしゃった夜でした。あれいらい見かけていませんね… 歌ちゃんが何か?」
「いや、いいんだ… おかわりを…」
「はい、かしこまりました。同じもので?」
「うん」
そうして前島は押し黙ったまま、二杯目のワインを少しずつ舐めるように呑んでいたが、半分程呑んだ後は、グビグビと二息ほどで呑み干してしまった。
「同じものでよろしいですか?」
「ああ… いや… いや、同じでいい」
「はい、かしこまりました赤ワインを」
そうして三杯目のワインを差し出した時、前島がきまりの悪そうに話だした。
「実は… 歌ちゃんとここ2〜3日連絡が取れない… 携帯も電源が入っていないようだ… メールの返信もない… 凄く心配している…」
「そうですか… あの子は以前から少しそう言う所がある子ですから… 心配はないと思いますが… その内何事も無かったように笑顔で店に現れますよ」
「いや! そう言うことじゃないんだ…」
「…」
「彼女の実家とか、友人の電話を知らないだろうか?」
「… 実家の方はわかりません… お友達は何人か知っていますが… お客様のプラーベートに関わる事なので、チョットお教えする訳には… …そうですね、私が数人に連絡を取って見ます。その上で何か判りましたら報告すると言う事で如何でしょうか?」
「そうしてくれると助かる… 是非! 何か判ったら教えてくれ!」
「判りました。今から二〜三電話してみます」
そう言ってバーテンはカウンターを外し、歌の友人数人に電話をかけた。しかし誰も何の連絡も受けておらず、一人は電話を入れたがどうやら電源が入っていないようで、何も判らないらしい。
バーテンは前島にそれを告げた。
「そうか… ありがとう… 」
「お力になれなくて、すみません…」
「いや、いいんだ… ありがとう…」
そう言って前島は残ったワインを飲み干すと、冬の乾いた深夜の闇の中に、独り彷徨うように帰って行った…
バーテンは思った。彼は歌を探し求めて闇の中を歩き続けるのだろうか? あの夜の後、二人に何が起ったのかは知る由も無いが、神様は二人を祝福しては下さらなかったようだ…
バーテンは独り、誰も客の居ない店のカウンターに座り、タンカレーのオンザロックを舐めながら煙草を吸った。そうして、客の居ない事を良い事に、日本語の歌で数少ない好きな曲を店に流した。
その歌は、磨かれたオーク材のカウンターの上を滑り、粗く削られた壁の板の上をひっかリつつ流れ、太い天井の梁に絡みつき、感傷的になっていたバーテンの心の襞に染み付いた…
ミスチルの桜井が囁いている…
「でもヒーローになりたい、ただひとり、君にとっての… 躓いたり転んだりするようなら、そっと手を差し伸べるよ…」
そろそろ私も過ぎた夢に傷つく事を止め、あの女の為に、私を愛してくれているあの女の為に、生きるべき時が来ているのかも知れないな… 人の為に生きようとする事が、唯一自身を救い、開放してくれる道なのかも知れない…
バーテンはそんな事を頭の隅に巡らし、午前三時を回ったばかりの店の看板を下ろした。そしてもう一杯、タンカレーをグラスにたっぷりと満たした。
取り敢えず今夜は、あの女の事を想い酔ってみる事にしよう… 考えるのはそれからだ… 人生は、嫌になるほど長く、まだまだ続いて行きそうなのだから、時間は十分に在るはずだ…
「五十二」その五 神の思惑
あの夜以来、前島は三日を空けずに店に現れる。
ただいつも既に酔って現れ、酒の呑み方も以前とは変わっていた。最近はほとんどワインをボトルでオーダーする事を好み、自分でグラスに満たし、ボトルを干して帰って行った。
そこには以前の様に酒を愛する面持ちは無く、その姿は、ただ酔うために、赤い液体に溺れようとしている濡れた一匹のどぶ鼠のようであった。
あれ以来歌の消息も誰もが掴んでいないようで、そんな夜が百日ほど過ぎて行ったであろうか…
その夜も前島は酔っていた。
夜十時を回った頃、既にしたたかに酔って店に現れ、最近のお決まりの赤ワインをボトルでオーダーすると、じっとモニターに映し出された無音の映画を見つめながら、黙ってワインを流し込み続けていた。
〇時を過ぎ、ボトルのワインの最後の一滴を搾り出すようにグラスに注いだ前島は、最後のグラスを見つめながらバーテンに尋ねた。
「マスターは今までどうやって辛い事から抜け出してきましたか?」
バーテンは困った…
「え〜 そうですね… 内容にもよりますが… 時間が許してくれるまで、痛み続けるしかなかったように思います」
彼は内心歯軋りをした。まだ… 許されていないこともあるさ…
「そうか… 時間か… やはりね… そうだね、僕は未だに時間に懺悔が出来ていないのかも知れないね、時間を恨みつつ過去を待ち続けている…」
「お気の済むまで待ってみるのもいいじゃないでしょうか? ただ… お体だけはお大事にして下さい。最近随分痩せたようにお見受けしますが?」
「うん そうだね…」そう言うなり前島は、そのままカウンターに静かに突っ伏してしまった。
その時勢い良くドアが開き、歌が入って来た。
歌はバーテンに軽く目配せすると、すぐにカウンターの前島を見つけ、隣のスツールに滑り込んだ。
歌は前髪が短く切り揃えられてはいるがとても健康そうに見え、この店に現れる時には珍しく、素面のようであった。
歌が隣に座った気配で、前島は頭を持ち上げ、隣の席に座った歌を見つめていた。
時間が止まったように、バーテンは息を呑んだ。
彼が何も言えないでいると、歌は前島の前のグラスを取り上げ、軽く一口を口に含んだ。そしてグラスを手の中でゆっくり回しながら、赤いグラスを見つめたまま前島に言った。
「起ってる?」
「…」
「大丈夫?痩せた?」
「…」
「髪切っちゃった」
「…」
バーテンは前島の前に新しいボトルとワイングラス一つを差し出すと、そっとカウンターの端に移動して、二人の会話に干渉していない態度を示した。しかし狭い店である…
その後十分ほど、二人は黙ったままワインを舐めていた。
前島が長く震えるようなため息の後、かすれた声で言った。
「どこに… いたの?」
歌は前島の声にその日始めて前島の方に顔を向け、最高の笑顔で言った。
「月に行ってきたのよ。うさぎさん。」
「月?」
「そう、ず〜 と北の方…」
「どうして、突然?」
「…」
「何故? 俺達はあんなに同じで… ひとつだったよね?」
「…」
「もう一度戻ってくれるの?」
「…」
「…」
「これ読んで!」「私!明日面接なの! 今日はそろそろ帰るわ…」「部屋も借りたの…卓さんには教えないけど…」
「これ読んで捨てて! じゃ!… ラビュ!」
そう言うと歌は いきなり前島に口付けをして、スツールを回し、ドアを押して夜の中に帰って行ってしまった。
前島は凍りついた様に動かず、手にした紙束を見つめていた。
数分が過ぎ、バーテンはたまりかねて声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「え? うん… ああ…」そう言うと、前島はグラスに残ったワインを飲み干し、ボトルからワインをなみなみと継ぎ足した。その手は大きく振るえ、テーブルに滴が零れ落ちた。
バーテンは、それをすぐに拭い取った。
前島はようやく震える手で、歌が残した紙束を広げ、読み出した。そしてバーテンは前島から離れ、モニターの映画を見つめていた…
店内にはサンハウスのブルースを背景に、前島がページを捲るカサカサと言う乾いた紙の擦れる音だけが響いていた。
数分が過ぎ、前島は顔を上げ、紙束を捻り潰すとジャケットのポケットにねじ込み、トイレに向かった。そして席に戻るとバーテンにチェックを告げた。
「マスター ごめんね…」
「いえ、ボトルがほとんど残っています。もう一杯如何ですか?」
「いや、今夜はもう帰るよ…」
「そうですか… それではこのボトルは私が勝手にお出ししたものですから、御代は結構ですから…」
「いや、払うよ。」
「いえ、私が飲みますからご安心して下さい。私も今夜はワインが呑みたいのです。」
「そう? じゃ…遠慮なく。おやすみ。」
「おやすみなさい、お気をつけて。」
赤い目をした前島は、一歩一歩足取りを確認するように歩き、重そうにドアを押し、一度バーテンの方を振り返り、笑おうとしたように見えたが、その顔はただ引き攣っただけであった。
「お気をつけて。」バーテンが呟く…
残されたバーテンは、敗者の群れに置き去りにされたような気持ちであった。
前島が残したワインをグラスに注ごうとしたが思い留まり、残ったワインをすべて流しに捨ててしまった。そして、ロンサカバをブランデーグラスにタップリと注ぎ、煙草に火をつけた…
それから前島は、いや歌も、プッツリとその店に現れなくなった。
バーテンの生活はその後もなんら変わる事無く、毎日が永遠に続くと思われるように過ぎて行った。
いつかの夜に思った事は、結局彼の中でくすぶり続けてはいたが、何も変わる事が出来ずに流されるままに生きていた。
数ヶ月が過ぎ、憂鬱な夏がやっと逝き、静かな季節が夏の喧騒を冷まし始めたある夜… 突然、前島がその店に現れた…
「やあ!」前島は笑顔で手を上げ微笑んだ。
「いらっしゃいませ! お久しぶりですね! お元気でしたか? …いや! お元気そうですね!」
確かに彼は元気そうであった。最後に見た前島は頬がコケ、薄いクマが目の下に溜まり、皮膚はくたびれていた。それが今夜の彼は、張りのある肉を艶やかな皮膚が覆っていた。
「何を呑まれますか?」
「そう… ドラフトを…」
そして差し出したグラスを、優しく口元に運こび… ゆっくりと最初の一口を喉に流し込むと、深いため息をついた。
「うまいね。マスターの注ぐビールは…」
「はっはっは! ありがとうございます!」
「…」
「どうしていらしゃったんですか?」
暫く手に持ったままのグラスを見つめていた前島は、静かにグラスを置くと、ポツリポツリと話し始めた…
「あ〜 色々あった…」
「…」
「あの夜… あの夜から、僕は酒に溺れ続けた… 一月ほどで血を吐いて倒れ、入院した。 まっ 一ヶ月ほどだったけどね… でも死に掛けたんだ… 酒も煙草も取り上げられて一ヶ月…」
そこまで話すと、グラスに残ったビールを一気に飲み干し、指でもう一杯を即した。
私が次のグラスを差し出すと、軽く一口啜り、又とつとつと話し出した。
「僕は死ぬ事に怯えた… 怖かったね… 暗い所に行ってしまうのが… そしてそのまま酒と煙草を止めて、暇に任せてスポーツジムに通ってみたりしている… はっはっは! こんなに自分は臆病者なんだって改めて実感させられたね… フラレて当然だってね…」
「そうでしたか… 大変でしたね… 」
「まっ 結局今は酒も煙草もやっているけどね、はっは! でも程ほどにね… しかし、程ほどは、旨いね!」
「そうですね… 程ほどは旨いですね!」
そうしてバーテンは前島と出会った頃の様な静かな会話を楽しんだ。
「歌ちゃんは来ているの?」
「いえ、あの夜以来… でも お友達がみえて、とても元気にしているようですよ!」
「そうか… それは良かった…」
「はい 良かったんですね… 結局」
「うん… さ〜 そろそろ帰ろうかな? 又来るよ!」
「えっ? もうお帰りですか?」
「うん… 程ほどかな? はっはっは!」
「はっは! じゃもう一杯だけ! 私のおごりで特別に旨いカクテルをお作りしますよ!」
「そう? じゃ 頂こうかな? いいの?」
「はい! 今夜は快気祝いですから。」
そして、バーテンは心をこめてシェイカーを振った。
まさか彼の勧めたその一杯が作り出す時間が、人の人生を左右する力を持つ事になろうとは… 神は何を考えているのだろう?
翌日バーテンは、神について考えた。
神は唯の悪戯好きなのか、全てを見通しているのか、崇めるべきなのか呪うべきなのか…
そしてバーテンは一つの結論に達し、心に誓った。
最後まで、俺の人生も含めた上で、最後まであの二人の行き先を見極めてやろう…
バーテンは呟いた、
人生は、本当は面白いのかもしれない…
「五十二」 ―完―
「二十二」 ―追記―
秋…
歌の毎日は充実していた。
希望の職に就き、仕事にやりがいを見出し、毎日が活気に溢れ、規則正しい生活が続いていた。
歌の部屋には、お気入りの物達が少しずつではあるが確実に増え、毎日の生活に不自由する事はなくなっていた。
「今の私なら… あの人を、ちゃんと愛せるわ…」
歌は あのバーに向かって 夜の帳を開くように 力強く弾む様に歩いて行った…
「二十二」 ―完―
季節は過ぎるが、終らない
輪廻のように繰り返され
心の性も終り無く
人は誰もが淋しがり、倫理を沈めて生き過 ぎる
静寂と狂騒の狭間には、辿り着くべき場所 も無く
混沌と明白の混血が、決して交じり合う事 無く存在し
今を感じる現実は、明日を思う幻想に絆さ れている
私は
唯、今、貴女を愛したいだけなのだ…
それ以外、何も見えていないのだと人々に 罵られようが
唯、今、貴女を愛せる事の幸せを、感じて いたいだけなのだ
「四十九」沈倫うさぎ ―完―