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無口な仔竜

作者: SS便乗者

バサッ・・・バサッ・・・

清々しく晴れ渡った空の下を飛びながら、僕は遥か眼下に見える人間達の村へと視線を移していた。

住み処のある山の麓に広がるその村はそれ程大きなものではなかったのだが、山間の小村にしては珍しく大勢の子供達が連日のように賑やかな笑い声を上げながら走り回っている。

つい前日5歳になったばかりの僕にとっては、そんな楽しそうな人間達の様子が何よりも興味深かった。

僕もできることなら、あの人間の子供達に混じって一緒に遊んでみたい・・・

だがそんな些細な夢は、僕が人間ではなく竜に生まれたというだけの理由で儚くも潰えてしまっていた。


尤も、住み処で暮らしていく上で人間達との接触が全く無いというわけではない。

この山には獣や山菜が豊富に存在し、山頂から幾筋も流れる大きな川は村の重要な水源になっている。

それ故山に足を踏み入れる人間の姿も特に珍しいものではなく、実際に僕も幾度か山道で人間を見掛けたことがある。

しかしながら僕が会いたいと思っている小さな子供達は当然山になど滅多に入っては来ないし、僕もお母さんに教えて貰っているとはいえまだ人間の言葉を話すことが出来ないのだ。

これではどう考えたって、人間の子供達と仲良くなることなんてできないだろう。


僕はそこまで考えると、何だか暗い気分になって静かに翼を翻していた。

これまで何度か聞いたお母さんの話によれば、もう200年以上も昔には山に棲んでいた竜の神様をあの村の人々が大切に祀って信仰していた時代があったのだそうだ。

しかし永い永い時の流れとともにそんな竜神様に対する信仰も薄れて忘れ去られてしまい、かつて山に棲んでいたという竜神様も何時の間にか姿を消してしまったのだという。

そんな竜神信仰が残っていた時代なら僕のような子供の竜が人間達の前に姿を現しても特に問題は無かったのかも知れないが、今となってはそれもできそうにない。

ふう・・・何か・・・人間達と仲良くなる方法があればなぁ・・・

僕は心の中でそう呟くと、ゆっくりと翼を羽ばたきながら山中の住み処に向かって降りていった。


その日の夜、僕はお母さんとともに洞窟の奥にある寝床に蹲りながら相変わらず暗い表情を浮かべていた。

「どうかしたのかい?ここ最近、ずっと浮かない顔をしてるじゃないか」

「うん・・・僕ね・・・人間の子供達と仲良くなりたいんだ。一緒に遊んでみたいんだよ」

「人間とかい・・・?確かに、あたしも小さい頃はそんな風に考えたことがあったねぇ・・・」

それを聞いて、僕はパッと顔を上げていた。

「お母さんも?」

「まあ、あたしの頃は人間達の間に竜神様の信仰があったからね。あたしにも自然に接してくれたもんさ」

「そうなんだ・・・」

人間と仲良くなりたいなんて言ったらてっきり怒られるかと思っていたのだが、意外にもお母さん自身が小さい頃に人間達と遊んでいたという事実についつい嫉妬してしまう。


「だけど今はもう竜神様もいないし、人間もあたし達のことを恐れるようになっちまったからねぇ・・・」

「やっぱり無理なのかな・・・」

「どうしてもって思うなら、竜神様に祈ってごらんよ。もしかしたら、叶えてくれるかも知れないからね」

成る程、確かに自分ではどうしようもない願いである以上、竜神様に祈ってみるのも手かも知れない。

「叶えてくれるかな?」

「それなりの試練は与えられるだろうけど、まだ竜神様がこの山にいるなら叶えてくれるはずさ」

試練か・・・竜神様に人間達と仲良くなりたいという願い事をしたら、僕には一体どんな試練が与えられるというのだろうか?

とは言えまだ竜神様の存在も願い事が叶うかどうかも分からない内から、そんな心配をしても仕方が無い。

僕はそう心に決めると、心の中で祈ったまま深い夢の世界へと落ちていった。


数日後、僕は特に当ても無くフラフラと山道を散歩しながら苦々しい表情を浮かべていた。

あれから毎晩竜神様に人間達と仲良くなれるように祈っているのだが、やはりもう竜神様はこの山にはいないのか願いが叶う気配はまるで感じられない。

お母さんもそんな僕の願いが元々望み薄と知っていたのか、何の進展も変化もなく過ぎていく毎日に落胆する僕を少しばかり憐れみのこもった目で見つめるばかり。

ああ・・・やっぱり、人間と仲良くなるなんて無理なのかな・・・

だがそんなことを考えて細い山道を歩いている内に、僕はふと前方から1人の人間が近付いてくる気配を感じてサッと素早く茂みの中に飛び込んでいた。

そして枝葉の隙間から様子を窺っていると、過去にも幾度か見掛けたことのある年老いた人間のお爺さんが大きな山菜籠を背負ったまま歩いているのが目に入ってくる。

重そうな荷物の割には山道を歩き慣れている様子から察するに、きっと頻繁に山に入っているのだろう。


やがて息を殺してお爺さんが通り過ぎていくのをじっと見守っていると、僕の隠れている茂みのすぐ傍で彼の足が不意にピタリと止まってしまう。

もしかして、見つかってしまったのだろうか?

だがそんな思いとともに恐る恐る茂みから顔を出してみると、お爺さんが僕の方ではなく前方を凝視したままその体を硬直させていた。

一体何が・・・?

そう思ってお爺さんが見つめている方向に首を振り向けてみると、明らかに彼よりも大きな1頭の熊が運良く出会った獲物を睨み付けながら涎を垂らしている。

「あ、あう・・・」

まずい・・・ただでさえ随分と歳を取ったよぼよぼのお爺さんなのに、あんな大きな籠を持ったままでは野生の熊から逃げることなどできるはずがない。

それにいきなり猛獣に出遭ってしまったせいか、お爺さんが驚きの余り身を竦ませてしまっている。

早く助けないと・・・!


僕は反射的にそう思い立つと、突然お爺さんに向かって飛び掛ってきた熊の横腹に硬い緑色の鱗に覆われた頭を力一杯打ち付けていた。

ドスッ!

「ガウッ!?」

流石に相手より体重が軽かったせいか大した痛手を負わせることは出来なかったものの、もう少しで獲物を仕留められると油断していたところに予想外の攻撃を食らった熊が慌てて森の奥に逃げていく。

「ふう・・・」

「おお・・・ワシを助けてくれたのかい、竜の坊や。ありがとうよ・・・」

え・・・?

てっきり今度は僕の姿に驚いて腰を抜かしてしまうかと思っていたお爺さんにそんな声を掛けられて、僕はつい呆けた声を上げてしまっていた。

尤も、それはお爺さんにとってはただのくぐもった唸り声にしか聞こえなかっただろうけど。

「何じゃ、まだ人の言葉は話せんのか・・・じゃが助けてくれたお礼じゃ、ワシの家に来るとええ」

僕はそう言われて何が何だか分からないままキョトンとその場に座り込んでいたものの、お爺さんがクルリと踵を返して歩き始めたのに気付いて慌てて彼の後についていくことにした。


お爺さんとともにしばらく山の中を歩き続けると、やがて人間達の村が近付いてくるのが僕にも分かった。

そのまま薄暗い森を抜けると、丁度森と村の中間の辺りにポツンと1軒の家が建っているのが見えてくる。

「あれが、ワシの家じゃよ」

そしてそんな声に導かれるようにしてお爺さんの家に招かれると、僕は初めて触れる人間の生活にドキドキと胸を高鳴らせながら静かにその門を潜っていた。

「お前さん、ワシについてきたところを見ると随分と人の暮らしに興味があるようじゃな?」

だが家の中に入るなり突然お爺さんに図星を突かれてしまい、ついついコクコクと頷いてしまう。


「ほっほっほ・・・やはりそうか・・・どうじゃ、お前さん・・・人間になってみたくはないかな?」

「え?」

その意外な質問に僕はまたしても低い獣の唸り声を漏らしてしまったものの、どうやらこのお爺さんは僕が人語を話せはしないまでも理解はできるということを知っているらしい。

い、いや、そんなことよりも・・・今、このお爺さんは僕に何て言ったんだろう?

人間になってみたくはないか、だって・・・?

そりゃあもちろん、そんなことができるのなら是非お願いしたいところだけど・・・

「ああ、そうじゃった。人語はまだ話せんのじゃったな・・・人間になってみたいのなら、頷くとええよ」

お爺さんにそう言われて、僕は半信半疑になりながらもゆっくりと彼に向かって頷いていた。


「ほほっ・・・そうかそうか・・・では、ほんの少しだけ待っとれよ」

やがて僕の返事を聞いたお爺さんが、そう言って真っ白な口髭を摩りながら家の奥の方へと入っていく。

更にはしばらく何やらゴソゴソという物音が聞こえたかと思うと、お爺さんが小さな椀に入った水と奇妙な赤い液体の入った小瓶を手に姿を現していた。

そして一体何をするのかと首を傾げていると、お爺さんが僕の目の前でその得体の知れない赤い液体をポタリと1滴だけお椀の水に垂らして静かに掻き混ぜながら僕の方へと近付いてくる。

「これはかつてそこの山に棲んでいた竜神様の血での。何でも、お前さんの願いを叶えてくれるぞ」

え・・・竜神様の・・・血・・・?

「今では竜神様もいなくなってしまわれたが、この血のお力だけは今も健在なのじゃ」

僕の願いを・・・何でも・・・?

いや、これが本当に竜神様の血だと言うのならそんな奇跡も確かに起きるのかも知れないが、どうしてこのお爺さんが200年も前に姿を消してしまったという竜神様の血を持っているのだろうか?


「何じゃその顔は?信じておらぬのか?」

僕は怪訝そうな表情を浮かべてそう聞いてきたお爺さんに思わずフルフルと首を振ると、緊張に震える手でお爺さんからそのお椀を受け取っていた。

取り敢えず、それを詮索するのは今度にしよう。

そしてもうほとんど普通の水と変わらないように見える透明な液体をじっと覗き込むと、僕は人間になりたいという願いを込めながら一気にそれを飲み干していた。

ゴクリ

「わっ!」

次の瞬間、僕は自分の体がパッと明るく光り輝いたのに驚いて思わず短い悲鳴を上げてしまった。

だが眩い光に包まれた自身の体が徐々に竜の形から人間のそれへと変わっていく光景を目の当たりにして、大きく目を見開いたまま事の成り行きを見守るようにキョロキョロと首を動かしてみる。

やがて大きく自由に動いていたその首も人間と同じ短いものに変化してしまうと、僕はすっかり幼い男の子の姿になった自身の変化にドキドキと心臓の鼓動を早めていた。


「しっ!声を出すでないぞ。もし一言でも声を発したら、すぐさま元の竜の姿に戻ってしまうからの」

僕はそれを聞くと、慌てて両手で自分の口を塞ぎながらコクコクと頷いていた。

硬い鱗に覆われた鼻先の長い竜の顔とは異なり、平坦な顔に柔らかい鼻や唇が付いた人間の顔。

その奇妙な感触に戸惑いながらも、地面にへたり込んでいた体をゆっくりと起こしてみる。

「これこれ、四つん這いになっとっても仕方がないぞ。人間なら、ちゃんと両足で立つのじゃ」

そんなお爺さんの言葉に、僕は恐る恐る両手を地面から離していた。

最初は尻尾が無くてバランスが取れないのではないかと心配だったものの、いざやってみると随分とあっさり両足だけで立ち上がれてしまう。

凄い・・・これが人間の体・・・

緑色の鱗や鋭い爪が無くなった代わりに、肌色の皮膚に覆われた5本の指が驚く程自在に動かせる。

竜の体の時に比べれば五感はやや鈍くなったような気がするものの、森で狩りをするのでもなければ特に問題は無さそうだ。


「ほれ・・・これが今のお前さんの姿じゃ」

そう言われて、僕はお爺さんが出してきた小さな姿見で自分の顔をじっと眺めてみた。

竜族特有の切れ長の瞳とは違う、何処か弱々しさのある黒くて丸い瞳。

鱗の色と同じ深緑の短い髪が頭を覆っていて、正直に言えば村の子供達とは微妙に格好が異なっている。

そう思ってお爺さんの方に不安げな視線を向けると、彼が部屋の奥から何やら古い服を持ち出してきた。

「さあ、これを着るのじゃ。少々ボロじゃが、お前さんには似合うじゃろうて」

見れば、確かに村の少年達が来ているのとはほんの少し赴きの違った服のようだ。

この姿でこの服を身に着ければ、異国の少年のように見えなくもないということなのだろう。

「もう1度言うが、絶対に声は出すでないぞ?村の皆には、生来言葉を話せぬ者として話しておくからの」

成る程・・・確かに、そうしてもらえると僕も助かる。

「では、お前さんを人間の暮らしに招待するとしようかの!」

やがて僕がゆっくりと頷いたのを見て取ると、お爺さんがそう言いながら家の扉を大きく開け放っていた。


それからしばらくして・・・僕はお爺さんとともに夢にまで見た人間達の村へと足を踏み入れていた。

時刻はもう昼をかなり回っていたものの、元気な子供達が大きな歓声を上げながら楽しそうにそこかしこを走り回っている様子が目に入ってくる。

「これこれ坊や達、この子も仲間に入れてやってはくれんかな?」

そして決して高くはないが良く通る声でお爺さんがそう言うと、あっと言う間に数人の人間の子供達が僕達の周りに集まってきていた。

「あ、爺ちゃん!どうしたのその子?」

「つい最近山の向こうの町から迷い込んできた子らしくての・・・今はワシの家で預かっておるんじゃ」

「へ~」

緑色の髪に見慣れない異国の衣服を身に着けた姿が珍しいのか、大勢の子供達の興味深げな視線が幾つも僕に投げ掛けられる。


「名前、何ていうの?」

「名前はワシにも分からんのじゃ。生来言葉が話せぬ身のようでな・・・文字も書くことができんらしい」

「そうなんだ・・・でもいいよ。一緒においでよ!」

唐突に子供達にそう言われて、僕は思わずお爺さんの顔に視線を移していた。

まさか名前も素性も分からない僕をこんなにもあっさりと受け入れてくれるとは思っていなかっただけに、嬉しさよりも困惑の方が先に顔に表れてしまう。

だがお爺さんがにっこりと微笑んだまま頷いたのを見て取ると、僕は満面の笑みを浮かべて子供達とともに走り出していた。


その日の夜・・・

僕はすっかり疲れ切った体を引き摺るようにしてお爺さんの家までやってくると、入口の扉をコンコンと軽く叩いていた。

やがてお爺さんに家の中に入れて貰うと、ようやく人心地付けるとばかりに大きな息を吐き出してしまう。

「どうじゃ?楽しかったかな?」

そんなお爺さんの言葉に、僕は思わずコクコクと何度も頷いていた。

「ならば、今日はもうお前さんの住み処へ帰るといい。また村へ行きたくなったら、ワシの家に来なさい」

そう言ってお風呂でお爺さんに体を洗って貰うと、僕は小さな声を出して元の姿に戻ってからお爺さんへの精一杯の感謝とともに住み処のある深い森の中へと飛び込んでいったのだった。


「ただ今、お母さん」

「おや、随分と帰りが遅かったね・・・心配したんだよ?」

既に深夜と言っても差し支えの無い時間だけに、お母さんが本当に心配そうな声でそう漏らす。

「ごめんなさい・・・でも今日ね、僕の夢が叶ったんだよ」

「夢って・・・人間の子供達と遊びたいっていう夢かい?」

「うん。朝に森で熊に襲われた人間のお爺さんを助けたら、お礼に人間の姿にして貰ったんだ」

そんな僕の突拍子も無い話に、お母さんは怪訝な表情を浮かべながらも静かにじっと聞き入っていた。

「それで今日1日、人間の村で子供達と一緒に遊んでさ・・・凄く楽しかったよ!」

「そうだったのかい・・・それは良かったねぇ・・・」

流石にお母さんも完全には僕の話を信じ切れなかったようだが、取り敢えず僕が幸せそうだったからか特に口を挟む必要は無いと思ったのだろう。


「とにかく、今日はもうお休みよ。その様子だと、大分疲れたんじゃないのかい?」

「うん・・・もうくたくただよ・・・お休み、お母さん」

あたしはそう言って自分の寝床に丸まった息子の姿を見つめながら、静かな物思いに耽っていた。

この子は竜神様の血を飲んで人間の姿になったと言ったが、幾ら竜神様の血とは言っても飲むだけでそんな奇跡を起こすような力は流石に無かったはず。

だとすればこの子が人間に姿を変えられた本当の原因は飲んだ血の効果ではなく・・・

成る程・・・200年近く前に人間達の間から竜神信仰が消えてからというもの久しくその姿を見たことは無かったのだが、どうやら竜神様はまだまだご健在ということらしい。

それと同時に、息子の願いも聞き届けてくれたということなのだろう。

だがそうだとすると、この子は間も無く願いを叶える為の代償とも言うべき大きな試練に直面するはず。

あたしはそれを思うと少しばかり胸を痛めたものの、今は黙って成り行き見守ることにしてゆっくりと目を閉じていた。


次の日も、その次の日も、僕は朝早く起き出して住み処を飛び出しては山の麓にあるお爺さんの家へと押し掛けて竜神様の血を飲ませて貰っていた。

大勢の人間の子供達と草むらを走り回ったり木に登ったりしている内に、竜の姿で暮らしていた頃は長く感じていたはずの1日があっという間に過ぎ去っていく。

石に躓いて転んでも木から落ちて背中を強か地面にぶつけても"痛い"という声さえ上げられないのは確かに些か辛いところもあったのだが、それでもこの楽しさに比べれば大したことではない。

そして今日は何時も一緒に遊んでいた子供達の内の1人が誕生日を迎えたということで、僕もその子のお祝いに呼んでもらえることになったのだった。


「おめでとう!」

「お誕生日おめでとう、エド!」

エドと呼ばれた6歳くらいの少年が、そんな友人達のお祝いの声に少しばかり顔を赤らめている。

人間達はこうやって、毎年自分の生まれた日を親しい者達とともに祝っているのだそうだ。

だが中々面白い習慣だなと感心しながらそんな子供達の様子を興味深げに観察していると、やがて彼らの前に黒っぽい色をした大きくて丸い物が運ばれてきた。

「わあ、チョコレートケーキ!」

「美味しそう!」

先端に小さな火の灯った細長い棒が6本突き刺さっているその奇妙な物体は、子供達の様子から察するにどうやら彼らの大好きな食べ物のようだ。

そしてエドがフゥーっという長い息を吐いてそれに灯っていた火を全て吹き消すと、その場にいた全員が歓声を上げながら先程まで以上に激しく彼を囃し立てる。


「じゃあ、ケーキを分けるわよ」

そうして何処か儀式染みたエドのお祝いが一段落すると、今度は大人達がそのケーキとやらを子供達の人数分に切り分けていた。

もちろん、僕の分も含めて。

「ほら、君も食べなよ」

そう言われて小さな器に取り分けられたそれを受け取ると、取り敢えず匂いを嗅いでみる。

竜より鈍い人間の嗅覚では余り詳しいことは判らないものの、微かに香ばしいような香りがする。

パクッ・・・

そして手渡された金属の棒で突き刺したケーキの欠片を恐る恐る口の中に入れてみると、ほんのりと甘い風味が僕の全身を駆け抜けていた。


お、美味しい・・・!

人間の食べ物を口にしたのは初めてだったものの、何時も食べている生肉などとは比べ物にならない程の感動的な美味しさに思わず残りのケーキも一気に口の中へと掻き込んでしまう。

だが小さな人間の口に粉っぽいチョコでパサついた生地を一気に詰め込み過ぎてしまったせいで、僕は間抜けなことにケーキを喉に詰まらせてしまっていた。

う・・・ぐ・・・く、苦しい・・・!

「あ、大丈夫?ほら、早く水を飲んで!」

無言のまま悶え始めた僕の異変に気付いた子供の1人が、すぐさま僕に水を勧めてくれる。

しかしロクに呼吸も出来ない状態で上手く水など飲めるはずもなく、僕は苦悶の表情を浮かべながら床の上に崩れ落ちたのだった。


ドン!

「・・・っ!」

とその時、近くにいた大人が僕の背中を掌で力強く叩いてくれた。

その衝撃で喉につかえていた物が外れ、途端に呼吸が楽になる。

しかしチョコの粉末が喉に残っていたせいで、僕は違和感に耐えられずについ咳き込んでしまっていた。

「ゲホッ!ゲホッゲホッ!」

しまった・・・!

そしてそんな後悔の念が脳裏を埋め尽くした次の瞬間に、ピカッという眩い閃光を伴いながら人間への変身が解けてしまう。

人の形をしていた手足は4本の指と鋭い爪を備えた竜のそれへと代わり、全身を覆っていた柔軟な肌色の皮膚は硬質な緑色の細かな鱗へと変化していった。

更には背中から白い翼膜を張った蝙蝠のような1対の翼が生え揃い、平坦だった顔が竜特有の細長い流線型のそれに形を変えていく。

「あ・・・あ・・・」

そして数秒の間を置いて元の仔竜の姿を取り戻した僕が床にへたり込んだまま顔を上げてみると、そこには老若男女を問わない人間達の驚きと、恐怖と、そして怒りの表情が無数に並んでいたのだった。


「え・・・ド、ドラゴン・・・?」

「こいつ、ドラゴンが人の子供に化けてやがったのか?」

「きっと子供達を攫って・・・く、食っちまうつもりだったんだよ!」

目の前で口々に発せられる、底無しの敵意に満ちた人間達の怒声。

だがどうして良いか分からないまま眼前に居並ぶ人々の顔を見上げている内に、僕は木の椅子で思い切り頭を殴り付けられていた。

「この野郎!こうしてやる!」

ガッ!

「よくも子供達を襲おうなんて考えやがったな!」

ガスッ!

「ぎゃっ!」

そしてそんな痛みと衝撃に驚いてエドの家を飛び出すと、大勢の大人達が殺気立ったまま執拗に僕の後を追い掛けてくる。

ガン!ドスッ!ゴッ!ビシッ!

更には石や木片や刃物といったありとあらゆる物を力一杯投げ付けられて、僕は正に這う這うの体で森の中へと逃げ込んだのだった。


「はあっ・・・はあっ・・・はあっ・・・」

やがて無我夢中で入口が見えなくなるくらい森の奥深くまで走ってくると、僕は全身から噴き出した疲労に負けてフラリと近くにあった大木の根元にその身を凭れ掛けていた。

「あぅ・・・う・・・うわああああああん・・・」

硬い鱗のお陰で石をぶつけられた痛みは大して感じなかったものの、人間達から拒絶されてしまったという深い悲しみが僕の両目から止め処無い涙を溢れさせていく。

あんなにも毎日楽しく遊んでくれていたのに、あんなにも仲良くしていたはずなのに・・・

当の子供達にまでまるで化け物を見るかのような怯えた視線を向けられて、僕はただ彼らと一緒に遊びたいと願っていただけの無垢な心をズタズタに引き裂かれてしまったのだ。


「う・・・ふぐ・・・あうぅ・・・」

一体、どれくらいの時間そうして泣いていたのだろうか・・・

僕は辺りがすっかり夜の闇に包まれていたことに気付いて静かに体を起こすと、住み処の洞窟に向かってとぼとぼと歩き始めていた。

もう、あの村に行くことは出来ない。

人間の子供達と一緒に遊びたいというささやかな夢は、既に粉々に打ち砕かれてしまったのだ。

そして失意の底に沈んだままようやく住み処に辿り着くと、僕は無意識の内に自分の寝床ではなく先に体を休めていたお母さんの胸元へとその身を寄せていた。


「おや・・・一体どうしたんだい・・・?そんなに泣き腫らして・・・」

「人間達に・・・えぐ・・・正体がバレちゃったんだ・・・それで大勢で追い返されて・・・うぅ・・・」

随分と長時間泣き続けたのだろう打ちひしがれた息子の姿に、あたしは小さな溜息を吐いていた。

何れこうなるであろうことは薄々感じていたのだが、いざ実際に深い悲しみに暮れる我が子を目の当たりにすると何だかあたし自身にもその責任の一端があるかのような錯覚を覚えてしまう。

だが如何にこの子が大きな悲しみを味わわされたのだとしても、あたしは何故か人間を責めるつもりにだけはなれそうもなかった。

人が竜を恐れるのは、ある意味で至極当然のことなのだ。

人間にはあたし達のような研ぎ澄まされた爪も、長い牙も、雄々しい角も、空を舞う翼も、太い尾も、鋼のように硬い鱗も、獲物を睨み据える鋭い瞳も、何1つとして備わってはいないのだ。

高度な知能という点では確かに他の追随を許さない種族であることは疑いようも無いのだが、1個の生物として見れば人間は自然界の中でも極端に弱い存在であると言わざるを得ない。

相手が意思の疎通を図れる存在であるのならまだしも、まだ人語を話すことも出来ないこの子が人間達の中で唐突にその正体を曝け出したのだとしたらこうなることは最初から目に見えていた。


「僕・・・明日からどうしよう・・・もう、あの村に行けないよ・・・」

「仕方が無いさね・・・短い間だけでも夢が叶ったと思って、潔く諦めた方がお前の為さ」

あたしはそう言うと、胸元で蹲る傷心の我が子を優しく抱き抱えていた。

きっとこれが、竜神様がこの子に与えた試練なのだろう。

そしてもしそうなのだとしたら、この苦境を何とか乗り越えることでこの子は本当の意味で夢を叶えることができるはず・・・

だが一体どうすれば深い心の傷を負ったこの子にそんなことができるのかにまでは想像が及ばず、あたしはもう1度だけ深い溜息を吐いて眠りへと落ちていったのだった。


その翌日から、僕は外を出歩く気力も失って1日中住み処で塞ぎ込んでいることが多くなった。

そんな僕の胸の内を表しているかのように雨季に突入した外の天気は連日のように大雨が続き、ただでさえ暗く沈んだ僕の心を殊更に痛め付けていく。

お母さんは一向に失意の底から立ち直れないでいる僕を見て時折心配そうな表情を浮かべているものの、自分ではどうすることも出来ないと理解しているのか特にこれと言って声を掛けてくることも無かった。

人間の子供達と遊ぶことが、今の僕にとっては唯一無二の楽しみだったのだ。

それをあんな形で奪われてしまったのでは、もうどうしていいのか自分でも分からない。

だが人間達に村を追い出されてから1週間程が経ったある日、土砂降りの中へ狩りに出掛けたはずのお母さんが急いで洞窟に戻ってくるなり僕にこう言ったのだった。


「坊や、何時までも落ち込んでないで早くおいで!山の上の方に避難するよ!」

「え・・・避難って・・・どうかしたの?」

「ここ数日の大雨で、今にも川が氾濫しそうなのさ。もしかしたらこの住み処も水浸しに・・・」

しかしあたしがそこまで言うと、息子は意外にもガバッと勢い良くその体を起こしていた。

「川が・・・氾濫・・・?それって、そんなに危険なの?」

「余程の大雨が続きでもしない限りこんなことは無いんだけどねぇ・・・とにかく、早く逃げるんだよ」

「だ、駄目だよ!ここも水に浸かるってことは、麓の人間達の村はもっと危ないんでしょ!?」

息子にそう言われて、あたしはハッと目を見開いていた。

確かに、山の麓にある人間達の村は山から流れる2本の大きな川に挟まれた立地の上に成り立っている。

もしその両方の川が雨による増水を受け止め切れずに氾濫したとしたら、あんな小さな村など一瞬にして濁流に押し流されてしまうことだろう。


「それはそうだけど・・・まさかお前、人間達を助けに行くだなんて言い出すんじゃないだろうね?」

「じゃあ見殺しにしろって言うの!?お母さんだって、昔は人間達と仲良くしていたんでしょ?」

そんな息子の必死な声に、あたしは喉まで出掛かった叱責の声を呑み込んでいた。

もちろんあたしとしても特に人間達を敵対視しているわけではない以上、村の人々が助かるのならそれに越したことは無いと思っている。

しかしだからと言って自らの命をも危険に晒してまで彼らを救う必要があるのかと問われれば、今のあたしはそれを肯定するだけの覚悟や自信など到底持ち合わせていなかったのだ。


「どうなの!?」

やがて質問に対する返事が無かったことで発せられたそんな息子の怒声にも似た大きな声に、あたしは情けないことに思わずビクッとその身を硬直させてしまっていた。

この子が酷い目に遭わされて村から叩き出されたはずの人間達の身をこんなにも心配しているのは、それだけ人間という生き物が息子の心の中で相当に大きな存在となっていることの表れなのだろう。

「そりゃあ・・・もちろんあたしだって人間達には助かってもらいたいさ。だけど・・・」

「もういい!僕だけでも助けに行く!」

「あっ・・・」

だが親としては当然とも言うべき我が子の身を案じる言葉が漏れた次の瞬間、息子はあたしの制止も聞かずに大雨の降り頻る洞窟の外へと飛び出すと麓にある人間達の村へと飛んでいってしまったのだった。

仕方無い・・・息子の身が心配でないと言えば嘘になるのだが、今のあの子には何を言っても無駄だろう。

この際、あの子の好きなようにさせてやる方が良いのかも知れない。

あたしはそう思って激しい雨の降り頻る洞窟の外に出ると、一応息子の様子を窺おうと思って大きな翼を広げたのだった。


一向に弱まる気配の無い大雨と強風が翼を叩き、僕はフラリフラリと左右に振り回されながらも何とか人間達の村に向かって懸命に翼を羽ばたいていた。

まだこの地に生まれて5年程しか経ってはいないものの、確かにこんなにも激しい暴風雨は今まで経験した記憶が無い。

白い水飛沫で霞む眼下に視線を投げ掛けてみると、普段はほとんど気にも留めないような小さな川が何倍もの大きさになって森の中を濁流で埋め尽くし始めている。

急がないと・・・こんな大規模な洪水に見舞われたら、あんな小さな人間達の村などきっと一溜まりもないに違いない。

彼らに正体がバレた時は確かに人間の大人達から酷い目に遭わされたものだが、たった数日間だけでも僕とともに遊んでくれたあの純真無垢な子供達には何の罪も無いのだ。

そしていよいよ森の切れ間を見つけると、僕はそこに広がっていた光景に思わずゴクリと息を呑んでいた。


「そ、そんな・・・」

かつて人間達の村があったはずの場所・・・

そこでは泥の入り混じった茶色の濁流がそこかしこで大きな渦を巻き、家々の屋根と思しき木造の建造物が所々その水面から僅かに突き出しているという信じがたい光景が展開されていた。

に、人間達は・・・?

だが一瞬絶望的な思いに駆られながらも周囲を見渡してみると、村の中でも最も高さのある村長の家の3階に大勢の村人達が集まっているのが激しい雨の中でも辛うじて視認できていた。

よかった・・・周囲に見える家々の1階部分はそのほとんどが完全に水没してしまっているが、大雨による洪水であれば流石に地上10メートル近い高さにある彼らの部屋まで水位は上がらないだろう。


しかし少しばかりの安堵感を胸に改めて人間達の様子を観察してみると、僕は彼らの内の数人が何やら窓の外を指差して大騒ぎしていることに気が付いていた。

そして彼らの見つめている先にそっと視線を移した次の瞬間、どうやら洪水から逃げ遅れたらしい3人程の子供達が高い木の上で幹に掴まったまま泣き喚いている様子が目に入ってくる。

恐らくは雨の中で遊んでいたところへ突然氾濫した川から濁流が押し寄せてきて、それから逃れようと反射的に木の上に避難したまま身動きが取れなくなってしまったのだろう。

木登りが得意な子供達なだけに何とか水の届かない高さまで登ることは出来たようだが、彼らの様子から察するにこの暴風雨の中で激しく揺れる木にしがみ付いているのもそろそろ限界なのかも知れない。

とにかく、今あの子供達を助けられるのがこの僕しかいない以上取るべき行動はもう決まっている。

僕はそう心に決めて激しく吹き付ける風雨に負けないように翼を羽ばたくと、子供達が掴まっている木の方へゆっくりと高度を下げていった。


「あ、見て!あのドラゴンが来た!」

「うわああああん・・・誰でもいいから早く助けてぇ・・・」

「パパー!ママー!」

僕の接近に気付いて顔を上げた子供・・・それは僕を誕生会の集まりに招待してくれた、あのエドだった。

彼は比較的安定した姿勢で木に掴まっているお陰か3人の子供達の中では1番落ち着いていて、必死に泣き叫んでいる他の2人とは対照的にまだ笑顔を浮かべる余裕があるようだ。

それに・・・きっとエドは僕が彼らを助ける為にやってきたことを既に知っているのだろう。

やがて僕がもう枝先に手を触れられるくらいにまで木に近付くと、エドが今にも足を踏み外して激しい濁流の中に落ちそうになっている他の2人の子供を指差して大きな声を上げる。

「僕はまだ大丈夫だから・・・こっちの2人から助けてあげて!」

そんなエドの声で半ばパニック状態に陥っていた他の子供達も我に返ったのか、僕の姿に気付いて恐怖と安堵の入り混じった不思議な表情を浮かべていた。


「た、助けに来てくれたの・・・?」

だが不安そうに震える声で投げ掛けられたその問いに僕がゆっくりと頷いたのを見て、彼らの顔に元の元気な笑顔が浮かび上がっていく。

そして木の枝にぶつからないように上手く姿勢を保ちながら両手を彼らの方に突き出してやると、2人の子供達が僕の左右の腕にしっかりと抱き付いてきた。

「う・・・お、重い・・・」

しかしその瞬間、両腕に預けられた予想以上の重量に危うく彼ら諸共濁流の中に落ち掛けてしまう。

如何にまだ小さな子供だとは言え、2人の人間を同時に運ぶのは流石に無理なようだった。

僕の腕にしがみ付いていた子供達もその事実を悟ったのか、渋々木の上に戻るとどちらが先に僕に掴まるかを決めようと何やら奇妙なことを始めている。


「せーの・・・じゃんけんぽい!」

「あいこでしょっ!」

どうやら、掛け声と同時に出したお互いの手の形に何やら優劣があるらしい。

僕の手ではとてもあんな器用な芸当はできそうにないが、確かに人間の手でなら簡単なような気がする。

「やった!勝ったよ!僕が先!」

やがて勝敗が決まったのか片方の子供が嬉しそうにこちらへ飛び付いてくると、僕は彼の体をギュッと抱き締めたまま大きく翼を羽ばたいて中空へと飛び上がったのだった。


バサッ・・・バサッ・・・

やがて思い切り翼を羽ばたける高さにまで何とか上昇すると、僕は抱いた子供を離さないようにゆっくりと他の村人達が待つ村長の家の方へと顔を向けていた。

更には色々な意味で大騒ぎしている彼らの傍まで近付いていくと、木の上に取り残された子供達の両親らしき人々が感謝と焦燥の詰まった表情を浮かべて開いた窓から幾本もの腕を差し出してくる。

そしてそんな救いの手の内に子供を引き渡すと、大勢の人々の間からわっという歓声が上がっていた。

「やったぞ!1人助かった!」

「ありがとう・・・本当にありがとう・・・!」

「お願いだ・・・うちの息子も助けてくれ!この前は本当に済まないことをした・・・」

つい先日僕に石を投げ付けて村を追い出したはずの大人達が、今にも泣きそうな顔で口々に声を上げる。

僕はそれにただ小さく頷いて窓から離れると、2人目の子供を助けるべく再び強風の中へ飛び出していた。


「は、早く・・・僕・・・もう落ちそう・・・」

やがて子供達が掴まっている木のところまで戻ると、もう疲労も限界らしい先程の少年が細い木の枝の上でその足を震わせながら泣きべそを掻いている。

僕はそれを見てすぐに彼の体を両腕でしっかりと抱き抱えると、1人残ったエドと一瞬だけ顔を見合わせてから空へと舞い上がっていた。

"僕はまだ平気"

そう言いたげなエドの表情を見て、これで全員助かるという希望が胸の内に涌いてくる。

そして首尾良く2人目の子供も無事に両親の手に引き渡すことに成功すると、僕はエドを助ける為に彼の両親の期待に満ちた視線を背に受けながらその身を翻していた。


それから数十秒後・・・

僕はまるで殴り付けるかのように激しく吹き荒ぶ風雨に負けじとこちらへ近付いてくる緑色の仔竜の姿に、何故だかホッと小さな安堵の息を吐いていた。

表面上は余裕があるように見せていても、たった1人で風に揺れる樹上へ取り残されているのはきっと自分で思っていた以上に心細かったのだろう。

そしてようやく仔竜がすぐ傍にまで近付いてくると、僕は彼に抱き付こうとしてしがみ付いていた木の幹から静かに手を離していた。

ゴオオッ!

だが掴み所を失って体が不安定になったその刹那、一瞬の強風が凄まじい力で僕を枝の上から弾き飛ばす。

「わっ!」

そんな余りにも突然の出来事に体勢を立て直す余裕などあるはずも無く・・・

僕は仔竜の方に片腕を伸ばしたままの姿勢で成す術も無く眼下の濁流の中へと落ちていった。


ドボーン!

「ああっ!」

あと少しでエドを助けられると思って気を抜いたその瞬間、僕の目に信じ難い光景が飛び込んでくる。

水中に落ちたエドは何とか泳ごうとして両腕をばたつかせていたものの、激しい流れに逆らうことが出来ないまま見る見るうちに遠くへと流されていった。

まずい・・・今エドを見失ったら、きっと彼は助からないだろう。

僕はそんな焦燥に何とか我を取り戻すと、全力で翼をはためかせながらエドの後を追ったのだった。


エドは一体何処に・・・?

そう思いながら視界の悪い雨の中で必死に眼下の水面に目を凝らしていると、やがて別の木の幹にしがみ付いているエドの姿が見えてくる。

だが流石に水面の上にまで攀じ登る体力はもう無いらしく、彼は必死に顔を顰めながら激しい流れに辛うじて耐え続けていた。

「助けて・・・うぶ・・・助けてー!」

時折顔に掛かる泥水に首を振りながらも、そんなエドの悲痛な叫び声が僕の耳にまで届いてくる。

仕方無い・・・少し危険だが、こうするより他に方法は無さそうだ。

僕はそう覚悟を決めてドボッという音とともに濁流の中へ飛び込むと、エドの体を片腕でしっかりと抱えていた。

そうして彼とともに再び激しい流れの中に放り出されると、残った腕と両足に翼に尻尾まで使って懸命に水の中で少しずつ流される方向を変えていく。

やがてそれが功を奏したのか水中から突き出していた他の家の屋根に辿り着くと、僕は疲れ切ったエドの体を何とかその屋根の上へと押し上げていた。


やった・・・これでしばらくは、エドも安全なはず・・・

だがそう思って自分も屋根の上に登ろうとした次の瞬間、急流に流されてきた大きな流木が運悪く僕の後頭部へと直撃する。

ガンッ!

「うあっ・・・!」

そして突如襲ってきたその激しい痛みと衝撃に思わず屋根に掛けていた手を離してしまうと、僕はそのまま荒れ狂う濁流の渦に呑まれて意識を失ってしまったのだった。


「ああっ!」

ようやく樹上に取り残されていた人間の子供達を全員救うことができたと思った次の瞬間、あたしは突然上流から流れてきた太い流木に打たれて濁流の底に沈んだ息子の姿に声にならない悲鳴を上げていた。

そして急流に押し流されていく息子を追うように焦燥に駆られた翼を大きく羽ばたくと、時折水面から覗く緑鱗を纏った手足を見逃さないように豪雨に霞む眼下を凝視する。

一向に首から上が出て来ないということは、きっと溺れて気を失ってしまっているのだろう。

だが早く水中から引き上げてやりたくとも、轟々と渦を巻く濁流の中からぐったりと気絶した息子を掬い上げるのは流石のあたしにも容易なことではない。

その上開けた村内で広範囲に視界が利く内に息子を助けなければ、深い森の中にまで達して更に救出が困難になってしまうのは目に見えている。


このままじゃああの子が・・・ああ・・・でもどうしたら・・・

半ば恐慌状態に陥った頭ではどんなに考えを巡らせても妙案が浮かぶはずもなく、ただただ無為な時間だけがゆっくりと無慈悲に流れていくばかり。

竜神様・・・もしいらっしゃるのならどうかあの子を救ってください・・・竜神様・・・!

やがて万策尽き果てたあたしは、咄嗟に我が子の無事を竜神様に願っていた。

人間の子供達とともに遊びたいという息子の願いを叶えてくれたのがもし本当に竜神様なのだとしたら、このあたしの願いもきっと届いてくれるはず・・・

そしてきつく閉じていた目を恐る恐る開けてみると、信じられないことに2本の木の間に引っ掛かった先程の大きな流木が激流に揉まれながら流されていたはずの息子の体をしっかりと堰き止めていた。


そんなとても偶然とは思えない奇跡的な光景に、あたしは不安と安堵の綯い交ぜになった表情を浮かべながら下降すると水面の上で翼を羽ばたきながら息子の体をそっと尻尾で拾い上げていた。

そしてそのまま2階建ての家の屋根の上にまで移動すると、たっぷり水を飲んでしまったのか大きく腹の膨れている息子を仰向けに横たえてやる。

とにかく・・・まずは水を吐かせなくては・・・

あたしはそう思い立って太い尾を少しだけ持ち上げると、まるで水風船のように膨張した息子の腹にその重い肉塊を振り下ろしていた。


ドン!

「うぼっ!?」

その直後、あたしの尻尾を叩き付けられて一瞬体をくの字に折り曲げた息子が苦しげな咳とともに大量の泥水を吐き出しながら目を覚ます。

「げぼっ・・・げほげほ・・・あ・・・う・・・お、お母さん・・・?」

「大丈夫かい?全くこの子は・・・あんまりあたしを心配させないでおくれよ」

そう言いながら大きな安堵の息を吐き出したあたしの様子に、息子が申し訳無さそうに視線を落とした。

「ごめんなさい・・・でも僕・・・」

「分かってるさ・・・お前が間違ったことをしたなんて、あたしは思っちゃいないよ」

「ほ、本当に?」


てっきり怒られるのかと思っていたところに予想外の言葉を掛けられて、僕は少しばかり困惑しながらもそっとお母さんの顔を見上げていた。

「さっきお前が溺れた時だけどね・・・竜神様に願ったら、本当に竜神様がお前を助けてくれたんだよ」

「えっ・・・?」

お母さんが・・・竜神様に願い事を・・・?

「それはつまり人間達から竜神信仰が消えた今も、竜神様はまだこの山にいるってことになるだろう?」

「うん・・・でも、どうしてなのかな・・・?」

「竜神様は、きっと昔のようにまた人間と竜が手を取り合って暮らせる日が来ることを信じてるのさ」

人間達と仲良く暮らせる日・・・もし本当にそんな日が来たら、一体どんなに素晴らしいことだろうか。


「それ・・・本当に叶うのかな?」

「そいつは分からないけど・・・人間を大切にしたいっていうお前の思いは、無駄じゃあなかったはずさ」

成る程・・・・竜神様が奇跡を起こして僕の命を救ってくれたことで、お母さんも竜神様の存在を信じてその意図を汲み取る道を選んだのだろう。

「それじゃあ、住み処に戻るとしようかねぇ」

「もう避難はしなくてもいいの?」

「空をご覧よ。あれ程の豪雨が嘘のように止んでるだろう?住み処が無事なら、もう心配は無いだろうさ」

本当だ・・・さっきまであんなに激しい土砂降りだったのに、一体何時の間に雨が止んでいたのだろうか?

だがとにもかくにも、もう危機は去ったのだろうということだけは理解できる。

そしてお母さんとともに急激に晴れ渡った空へと舞い上がると、僕は山の中腹にある住み処目指して清々しい思いで翼をはためかせたのだった。


「はぁ・・・」

人間達の村が大規模な洪水に見舞われたあの日から、今日で3週間が過ぎようとしていた。

あれ以来何度か人間達の村の様子を見に行こうと思ったのだが、今は洪水被害の復興に追われてそれどころではないだろうという理由でお母さんに止められたままズルズルと時間が経ってしまったのだ。

まあ幸いあの村では僕が救った子供達も含めて奇跡的に死者は出なかったらしいし、僕達の住み処も無事だったからその内十分な時間が経てば何もかも元通りになることだろう。

だがそんなことを考えながら薄暗い洞窟の中で狩りに出掛けたお母さんの帰りを待っていた時、僕は不意に外から複数の人間達の足音が聞こえて来たことに気付いてそっと顔を上げていた。

そして住み処の入口から差し込んでいる淡い陽光が幾つもの小さな影によって遮られたかと思うと、ややあって数人の人間の子供達が手作りと見える松明を手に恐る恐る洞窟の中に入ってきたのが目に入る。

その中には、僕が必死の思いで濁流の中から救い出したあのエドの姿もあった。


「あ、いた!」

「やっぱりここだったんだ!」

やがて暗がりの奥にいた僕に気が付くと、彼らが先程までの不安げな表情を一変させて弾んだ声を上げる。

どうやら、この子供達はわざわざ僕を探して深い山の中にまで入ってきたらしかった。

そして一体何事かと思って寝床の上で首だけを持ち上げたまま固まっていると、僕の前に並んだ子供達が皆満面の笑みを浮かべながら口々に大きな声を張り上げる。

「ドラゴンさん、この前は助けてくれてありがとう!」

「僕、ドラゴンさんが来るまでもう駄目だと思って・・・凄く怖かったんだ。本当にありがとう!」

「私ね、あなたがエドを助けてくれたのを見て・・・思わず嬉しくって泣いちゃったの」

だが次々と矢継ぎ早に浴びせ掛けられたそんな予想外の感謝の言葉に、僕は驚きで声を上げることも出来ないままただただ彼らの顔を見回していた。


えーと・・・ああ・・・どうしよう・・・こんな時に人間の言葉を話せたらどんなに良かったことか・・・

だが感謝に沸き立つ子供達を前に言葉が話せないという悩みを抱えて途方に暮れていると、森で仕留めた大きな猪を背に乗せたお母さんが丁度住み処へと帰ってきたところだった。

そして数人の子供達に囲まれて困惑していた僕の様子を目にするなり、お母さんが怪訝そうな声を上げる。

「おや、どうしたんだい?その人間の子供達は・・・?」

「わっ!お、大きいドラゴンだ!どうしよう・・・」

「で、でも・・・言葉が通じるみたいよ」

子供達も僕の何倍も大きなお母さんの姿に流石に驚いたようだったものの、人間の言葉が通じることに気付いた為か僕が思った程には大きな混乱は起こらなかったらしい。

「もしかして・・・このドラゴンのお母さん・・・?」

「ああ、そうさ・・・お前さん達は・・・わざわざあたしの子にこの前のお礼でも言いに来たのかい?」

「うん・・・このドラゴンが来てくれなかったら、きっと僕達助からなかっただろうなって思って・・・」

お母さんはそれを聞くと、ほんの一瞬だけ僕とその視線を交わらせていた。


「そうかい・・・それなら、是非とも一緒に遊んでやっとくれ。それが1番、その子が喜ぶはずだからね」

子供達はそれを聞いて僕の方へ向き直ると、まるで競うかのように皆で僕の両手を引っ張り始めていた。

「それじゃあ、一緒に遊びに行こっ!」

「村の大人達も、ドラゴンさんを追い出したことを謝りたいって言ってたからさ」

「ほら、早く早く!」

やがて半ば子供達に引き摺られるようにして体を起こすと、僕は笑顔を浮かべたまま大きく頷いたお母さんに見送られて子供達とともに洞窟の外へと出ていったのだった。


やがて周囲で楽しげにはしゃぐ子供達とともに曲がりくねった山道を人間の村まで下りていくと、僕はそこで繰り広げられていた光景に思わず目を瞠っていた。

激しい洪水のせいでそこここに立ち並んだ人々の家はその1階部分のほとんどが無惨にも濁流に押し流されてしまったものの、それでも僕の目にさえもう随分と復興が進んでいるように見える。

やはり村人の死者が一切出なかったということが、彼らの心の中に根強い希望を芽生えさせたのだろう。

そして流木や瓦礫を取り除く作業をしていた人間の大人達と目が合うと、彼らが何処か神妙な面持ちを浮かべながら僕の周りへと集まってきたのだった。


やがて僕の眼前に居並んだ大人達の内の1人が、おもむろに大きく頭を下げる。

それに倣うようにして、他の人々も揃って深い謝罪と後悔の念がこもった頭を僕に向かって垂れていた。

「あの時は、我々の思い込みで酷い仕打ちをしてしまって済まなかった」

「村の子供達を救ってくれて、あなたには本当に感謝しているわ」

確かに、エドの誕生会で彼らに正体がバレた時は本当に酷い目に遭ったものだ。

しかし後からよくよく考えてみれば、彼らが人間に化けていた僕に対してあれ程までに過剰な拒絶反応を示したのは寧ろ当然のことだったのだろう。

住み処でお母さんの姿を目にした子供達が一瞬怯えた表情を浮かべたことからも分かるように、人間達は表面上はどうあれ心の何処かではドラゴンを恐れている。

たとえ僕の方には彼らに危害を加えるつもりが全く無かったとしても、満腹で散歩をしているだけの僕の姿を見て逃げ出さない獣がいないように人間達もまた自身の身を守る為に僕を攻撃したのだ。

その心情を完全に理解できた僕としては、もちろん彼らの行動を咎めるつもりなどあるはずもない。

そしてそんな人間達の心のこもった礼にただ大きく頷くと、僕は満面の笑みを浮かべながら子供達とともに駆け出したのだった。


「ふうむ・・・どうやら、あ奴も無事に試練を潜り抜けたようじゃな・・・」

小さな人間の子供達と楽しげに遊んでいる仔竜の姿を少し離れたところから見守りながら、ワシは誰にも聞こえぬようにそんな小さな独り言を呟いていた。

とその時、村の復旧作業に汗を流していた若い男がワシの姿を見つけて声を掛けてくる。

「あ、爺さん!爺さんとこの瓦礫は、もう寄せられたのかい?」

「いんや、ほとんどまだ手付かずのままじゃよ。寝所を借りておる村長殿には、頭が下がる思いじゃわい」

ワシはそう言いながら、洪水の被害を受けて大きな瓦礫の山と化した自分の家を見上げていた。


「そいつは難儀だな・・・村の中の方は大体片付いたから、何なら何人かそっちにも人を回そうか?」

「いんや、それには及ばんよ。そろそろ、ワシも引っ越しを考えていたところじゃからの」

「引っ越すって・・・一体何処に?」

だが続いて投げ掛けられたそんな当然の質問に、ワシは不覚にも少しばかり声を詰まらせていた。

「そ、それはまだ決めておらぬ・・・これから探すところじゃよ」

「そうかい?それじゃあ、もし手が欲しくなったら言ってくれ。すぐに手伝いにいくからさ」

「済まんのぉ・・・」

そしてそんなやり取りを終えて若者が離れていったのを見送ると、ワシは小さく息を吐いていた。

ふむ・・・やはり、この村の人間は心の優しい者達ばかりじゃな・・・

あの仔竜がもっと彼らに深く受け入れられれば、また人と竜が相容れる日もやってくることじゃろうて。


やがてそんなことを考えながらもう1度だけ子供達と戯れている幸せそうな仔竜の姿を一瞥すると、ワシはそっと足音を殺しながら薄暗い森の中へと入っていった。

そして人間はもちろん獣や小動物さえもが周囲にいないことを念入りに確かめると、ほんの少しだけ目を閉じてその意識を集中する。

その瞬間、ワシは自身の体が眩い光に包まれる懐かしい感触を実に200年振りに味わっていた。

年老いたヨボヨボのお爺さんの姿をしていた体は徐々に大きく膨らみ始め、すっかり弛んでシワだらけだった人間の皮膚が少しずつ細かな純白の鱗へと変化していく。

更には股間と背中から人間の胴体程も太さがある長い尾と巨大な翼が迫り出したかと思うと、流線型に細長く尖った顔の周囲から全身の鱗にも負けない程に白く輝く美しい髭がたっぷりと伸びたのだった。


「ふう・・・やれやれ・・・流石のワシもこうまで歳を取ると、元の姿に戻るのも一苦労じゃな」

純白の鱗を身に纏う、有翼の巨大な白竜・・・

それがかつて村の人間達に竜神として崇められた、このワシの本当の姿だった。

だが時の流れとともに人々の間から竜神信仰が消えたことでワシは人間達との関わりの機会を失っていき、ついに迫害を受け始めたことを切っ掛けに1人の人間として彼らの中に溶け込んで生きる道を選んだのだ。

しかしあの仔竜が人間達の間に深い根を下ろしていた竜族に対する忌避感を払拭してくれたことで、以前のような人間と竜の良き共存関係を再び築くこともできるようになっていくに違いない。

やがてそんな希望に満ちた想像に年甲斐も無く心を躍らせると、ワシは200年振りの竜としての生活を始めるに当たってまずは住み処となる洞窟を探すところから始めることにした。


いや・・・寧ろこの際、あの仔竜の母親と番になるというのも悪くはないかも知れぬな・・・

元はワシの仕業だとは言え激しい洪水に流されて命の危機に瀕していたあの仔竜を願いに応じて救ってやったのだから、彼女もきっとそのくらいのことは受け入れてくれることだろう。

それに・・・あの仔竜の行く末も間近で見守ることができるしな・・・

そして他にも色々と考えを巡らせた末に結局あの仔竜の母親と同じ洞窟に棲むことを心に決めると、ワシは長い爪で口元の髭を整えるように摩りながら彼女の住み処を目指して歩き始めたのだった。


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