先輩からの洗礼
「ありがとうございました、失礼します。」
「失礼します。」
今日、何度目かのクライアントとの挨拶。
左手首を見ると16時を回っていたのもあり、恐らく時間的にこれがラストの外回りだと思う。
今回一緒に外回りをした先輩営業マンの山手さんは係長という役職で。
ちょっとふくよかな丸い体系に憎めない笑顔。
顧客別に対応出来る細やかな配慮と心遣いで営業部トップの成績の人だというのは柿本部長から軽く聞いていたけれど本当にその通りで、驚く程相手の細かいところによく気がつく人だった。
相手側の気を悪くさせず、自分のペースに引き込む話術。
資料を見せたり、時には実演しながら語るその姿は、テレビショッピングをリアルに見ているようで。そうかと思えば、全く営業はせずに世間話だけしていたかと思えば、帰る直前に資料を渡してみたり冗談を交えたり。
彼の考えの先に一体どんな営業のビジョンを見据えての行動で、テクニックなるものが一体どんなものなのか一緒にいても全然わからなかったし、一緒に営業すべき私まで聞き入ってしまって慌てたことも度々あった。
だけど実際何か言えるかと言えば何も言えず、終わってみればとにかく山手さんの後をついていくのにいっぱいいっぱいで、今日一日で何が勉強になったのかと言われたらあまりにありすぎて答えられないことばかり。
ただただ、初めての世界に漠然と戸惑いの連続だったというのが感想だった。
人前で改まって話をすることもこれまでにあまりなかったと思うし、仕事としても営業なんて初めて。人見知りも相まって、緊張の連続で言葉も出ない。
その中で何とか出来たのが挨拶だけだった。
帰りの車の中で、山手さんがふぅ・・・と大げさにため息をつく。
「・・・アンタさ、営業の何を教えてもらって営業部に来たわけ?」
それは、突然の豹変だった。
急激に車内の温度が下がったかと思う位、先程までクライアントに見せていた温厚な笑顔や態度がまるで嘘だったかのような冷たい視線を無遠慮にぶつけてくる。
そのあからさまな態度に、一瞬目の前の彼の姿が信じられなくなった。
同時に、私の中で何かが小刻みに震え、心臓が萎縮する感覚を覚える。
この感覚・・・!
かつて味わったことのある苦い苦しみを思い出させるような、そんな締めつけが私にじんわりと襲い掛かる。
「そりゃあ新人が来るって聞いてはいたけど、ここまでド素人だって聞いてねえよ。アンタ、今日のクライアントとの話の内容覚えてるのか?」
「・・・え?」
「メモ一つも取ろうともしない、仕事先を覚えようとしない。うちの会社の事すらろくに知らない。そんな相槌と挨拶だけの営業でどんだけ給料もらってるの?アンタ時給いくらよ?」
まくし立てられるように言われた言葉に、頭の中が瞬時に白くなる。
返す言葉が見つからない。
だけど、山手さんの苛立ちがわからないわけではない。
確かに今日の私は何もできなかった。出来ていなかった。
何をしたらいいのかすらわからなすぎて、何が大事なのかも見つけられなくて、初歩的なことであるメモ取りすら忘れていた。
「す・・・すみませんでした・・・。」
そっと胸に手を当て、飛び出しそうなほどにバタつく心臓を抑えながら、そう言葉に出すのが精一杯だった。
『今日、急遽営業部に異動を聞かされたから何もできなかった。』
・・・なんてただの言い訳だ。
メモ帳だって、代わりのものだって持っていた。
それに、メモなんて何にでもできたはずだ。
会社の事も、ヤマムラテックに派遣される事は事前に知っていたし、たとえ派遣先が営業部でなくても覚えておくべきだった事であり、今日まで調べる時間だってあった。
山手さんの言うとおり、・・・・私は、何もしていなかった。
自分の勤める会社の事を何一つ知ろうとしていなかった。
そんな事で、会社の名を売ろうなんて、できるはずがない。
失格だ・・・。
はぁ、と再び深いため息をつく山手さんの横でうつむきながら、苦しくなる胸に言い聞かせる。
これは、自分の非だから。
彼は何も悪くない。
傾きかける空の下、目の奥がツンとするのを必死にこらえ、唇を噛み締める。
何度目かの重い息をつくと、山手さんはゆっくり車を発進させた。
会社に戻る車の中の空気はひどく重くて、私の心には見えない刃物が深く突き刺さったような、沈痛な初日がゆっくりと幕を下ろしたのだった。