4話 ぼっちな俺の、偽物な元カノ
これまでよりちょっと長くなりましたが、過去篇です。
俺が織本里香と付き合い始めたのは、中学二年の頃だった。
当時の俺はただ他人に気に入られようと躍起になっていた。入りたくもないサッカー部に入り、好きでもないアイドル グループや俳優の話題を作ったり、とにかくクラスで一人にならないよう、精一杯の努力をしていた。もともと顔は悪く無かったし、クラスに溶け込んで人気者の地位を築くのも難しくは無かった。
そう。今の俺とは真逆の立場で、真逆のことをしていたのである。
まったくもって気に入らない、思い出しても怖気が走る、俺の黒歴史。俺があと何年間生きようと、あの頃の俺を許容しようとは思わないだろう。
そして中2の始め頃、始業式の二週間後くらいの時、クラスの雰囲気も大分落ち着いて、一人ひとりの地位も決まってきたころ、それは起きた。
昼休みの教室で繰り広げられる、いつものように他愛のない会話。どこへ行き着くのかも分からない、本当にどうでも良い話。
そしてその言葉は、唐突に投下された。
「そういえば、唐墨、お前付き合ってる奴いんの?」
その言葉を言ったのは、クラスの男子生徒だった。その日は男子のみで話していたので、本当に何気ないひとことだったのだろう。
しかしその言葉に、皆一斉に反応した。
「あ、それ俺も聞きてぇ!」
「てか、唐墨ならいるっしょ」
全員の視線が俺に集まる。
しかし当時彼女などつくる気もなかった俺は、当然こう答えた。
「いないよ」
その時、全員が興味を無くしたように視線を外し、脱力したのを俺は覚えている。
そして、最初にこの話題を投下した男子生徒が、決定的な一言を言い放った。
「マジかー。つまんねーの」
その瞬間、体中を電撃が走ったように俺は硬直してしまった。
『つまらない』それは、俺にとって最も聞いてはならない一言だった。
人気者であり続けるには、他人を楽しませ続けなければならない。つまらないという一言は、人を楽しませることに全てを注いでいた俺にとって、なにもかもを否定する言葉だったのだ。
そこから先、昼休みが終わるまで俺はどうしていたのか記憶に無い。
中学二年の俺にとっては、存在を否定されることはあまりにショックが大きいものだった。
そしてその日から、俺の目標は彼女作りになった。だが付き合うということは、誰かを好きにならなければいけない。これまでのサッカーやらアイドルグループやらのように好きでもないという気持ちで付き合えば、それが周囲や相手に露見したときに軽蔑の視線で見られるのは当たり前だろう。
そうなれば、せっかく『クラスの人気者』の地位を保つために動いているのに、その地位を手放すという結果になってしまう。
こんな立場とルックスなので、実は告白されたことは何度かあるのだ。
だが相手のことを好きではない…好きにはなれない俺は、その全てをフッてきた。
クラス全員の好感度を、ゲームのように見立てて等しく一定に保ってきた俺は、彼女達を自分とおなじ一人の人間だと、思えなくなってしまったのかもしれない。
これは、人を人として見てこなかった俺への報いだと、そう思った。
今の俺からすれば、そんな風に自分を客観視して見ることは自分すらも人として見ていないことだと思うのだが。
そうこうしているうちに、1ヶ月が過ぎた。
1ヶ月間ずっと、彼女を作るすべを考えたが、全く思い浮かばなかった。
1ヶ月間、クラスの奴らと話す度に、いつまたあの話題が来るかと思うと気が気でなかった。
だれそれと付き合ってるとか、だれそれのことが好きだとか、いわゆる恋バナという物が、思春期の人間にとっては男女問わず大好物なのだ。いつその話題が振られてもおかしくはなかった。
だが、いつまでもこの綱渡りのような状態が続くとはとても思えない。極端な話、今日の放課後にでも、一言『そういえば-…』と切り出されないとも限らない。そしてそのとき、また失望されるのは絶対に嫌だ。
焦りとストレスがつのり、俺の精神は限界を迎えてかけていた。
そんな時、俺は織本里香を認識した。
「織本里香と出会った」ではないのは、織本も俺と同じクラスだったからだ。1ヶ月前にはもう、織本とは出会っていたというのに、俺は対外的な織本を知っていても、本質的に「織本里香」という存在を認識していなかった。
俺は人を好きになれないと悩んでいたこの時も、彼女を見るのではなく、そのステータスしかみていなかったのだ。
それをこの後、思い知ることになる。
「あのっ!!綾瀬くん!」
放課後、サッカー部の練習に行こうとイスを立った俺を、一人の女子生徒が呼び止めた。
俺の目の前に来たとき、まるで全身で「勇気を振り絞りました!!」とアピールするように、彼女は頬を赤らめながら、こう言った。
「ちょっと…屋上まで来てくれませんか?」
突然の言葉に、クラス中が騒然となった。
色めき立ったクラスメイトとは裏腹に、このときの俺は、「ああ、コイツも俺みたいな奴に傷つけられなきゃいけないのか」と思った。今の言葉を聞く限り、十中八九織本は告白するつもりだろう。しかし俺は織本のことをなんとも思っていない。当然、告白などされても断る。彼女がいくら勇気を出そうと、俺の心には響かないのだ。
彼女のステータスは知っていた。かなり女友達が多く、活発で容姿もかなり整っている。一年の頃、どっかのクラスのバカな男子が学年全員の男子に回した「恋人にするならランキング」でも、たしか一位だったはずだ。
いつもは活発で明るい彼女が敬語まで使って俺を呼ぶとは余程大事なことなのだろう。
俺は今までの経験から、告白できずにフられるより告白した後にフられる方が精神的ショックが少ないと知っているので、
「ああ、良いよ」
と、軽くOKする。
クラスが騒がしくなったのを完全無視して、俺は織本と一緒に屋上に向かう。その間、ずっと織本の顔は真っ赤だった。
屋上は本来立ち入り禁止で、南京錠がつけられて入れないようにしているが、生徒達の間で有名な抜け道として、左から七番目と八番目の鎖を知恵の輪のように動かすと外れるのだ。一体誰がこんなものを調べたのだろうか。
とにかくその抜け道を使って俺達二人は屋上に足を踏み入れたその瞬間、彼女の雰囲気が一変した。
「はあぁぁー。つっかれたー!!」
……
………
「…は?」
「ん?なにとぼけた顔してんの?いつもみたいにクールな顔してよー!」
そこに居たのは、恥じらいなど欠片もない、いつもの織本里香だった。
「……どういう、ことかな?」
織本は先ほどまで、恥ずかしさに顔を真っ赤に染めて、俺に何かを頼んでいたのだ。告白ではないにしろ、なにかしらの大事な用事だと思っていた。
だが、目の前にいる織本は、いつものように明るくて、クラスの人気者そのままの彼女だ。
まさか、だまされたのだろうか。ドッキリ大成功なのだろうか。
「ありゃ?この反応は気づいてなかったかな?」
すると織本はさらに表情を変えた。
「……失望しちゃうなぁ」
思わず、背筋が凍った。その表情は俺を蔑むように、いや、明らかに蔑んでいた。
だが、一瞬でこうもコロコロと表情を変えられるものだろうか。いや、表情だけではない。口調や仕草、雰囲気まで変わっている。
そんなことができるのは、役者ぐらいだろう。つまり…
「…演技だった、ってことか?」
「ピンポーン!せーかい。さっすが綾瀬くん、理解が早いねー。さすが私が見込んだだけのことはあるよー」
そこにはもう先ほどまでの冷酷な表情はなく、またいつもの彼女に戻っていた。あとちょっと上から目線だった。
「でも、出来れば最初から分かっていてほしかったかな」
「あれが…、演技…」
俺を誘ってからここに着くまでの間、ずっと演技をしていたのか。誰にも…俺にも分からない演技を。
「そ。演技だよ。ついでに言うと、今のこの性格も、演技なんだよね~」
「…は?」
今、なんて?
「だから、今のこの口調も、この表情も、この仕草も、この性格も、ぜーんぶ偽物だってこと」
……マジかよ…。
今の彼女は、普段の彼女と変わらないように見える。それが演技だということは、普段の彼女そのものが演技であるということだ。
「お前は…いつも演技でそのキャラをやってきたのか…?」
俺がそういうと彼女は当然のように頷いた。
「そうだよ?
ていうか、なんでそんなに驚いた顔してんの?」
可愛らしく小首を傾げ、そう問うてくる。これも演技なのだろうか。俺には全部が自然体にしか見えない。
「なんでって…普通、生活全部でその性格を演じるなんて普通は無理だろ。そりゃ驚くさ」
すると彼女はさらに首を傾げ、
「なんで無理なの?」
と、本気で分からないというように問うてくる。
俺はこのとき、彼女はズレているんだな、と感じた。その言葉が、本当は誰に向かっていたのかも考えずに。
「そこからか…。普通は、そんな息の詰まるような生き方してたらストレスが溜まったり、ボロが出たりするだろ。でも俺が見る限り、お前は自然体に見えたよ。気負った様子もないし、そんなことが出来るのはかなりすげぇと思うよ」
すると、彼女は唐突に、しかし俺の心をめちゃくちゃに揺さぶる一言を言った。
「でも、それは綾瀬くんと同じだよね?」
「……っ!!」
…そうだ。みんなに慕われるように、みんなに嫌われないように生きること、それを『演技』以外、『偽物』以外の何物でもないのではないか。
常に人に望まれるキャラクターを演じ、みんなが楽しいという空気を作り出さなければ、人の好感度は上がらない。少なくとも多対一の場合は。
そしてそんなことが自然体で出来る奴は、ほんの一握りの才能がある奴だけだ。
そして何より決定的なのは、俺がこのキャラでいることを計算していることだ。
意識的に自分を演出しているのだ。
その一点において、俺は彼女と全く変わらない。もし彼女がズレているならば、俺もとっくにズレている。
「綾瀬くんも、私と同じ、みんなを騙して、みんなに慕われるように、自分の立場を守るために、立場を確保するために、自分を偽ってるんでしょ?」
まったくもっておっしゃる通り。彼女の発する一言一言が、全て俺の心に落ち着く。彼女の言葉は、俺という存在を的確に定義している。
そしてその全てに、俺は納得してしまう。まるで誰かに『お前は人間だ』と言われているかのように、何の感慨も浮かばず、なんの疑問も抱かず、一部の隙もなくそれを受け入れてしまう。
そうして、彼女の言葉に返すことばはこれしかない。
「ああ、そうだな。」
それだけしか返せない。返すことが出来ない。完全に、議論を交わす隙もなく、彼女の言葉はピタリと俺に当てはまったから。
まるでピースが一枚しかないパズルのようだ。なにも無いから悩むこともできない。ただはめ込むという行為しか生まれない。俺が今悩まなければならないことは別にある。
「俺、そんなに分かりやすいか?」
そう。俺は彼女までとは言わずとも、自分が偽物であることをかなり上手く隠してきたはずである。自分が偽物であると、一瞬とはいえ忘れてしまう程に。
そんな俺の演技を、しかし彼女は見抜いた。これはもしかしたら、他のクラスメートにもバレているかもしれない。それが、俺にとって唯一の危惧だった。
「うーん、心配無いと思うけどなー。綾瀬くんはかなり上手く隠せてると思うよ?私が気づいたのだって、綾瀬くんが昔の私と同じようなことしてたからだし。バレてるとしても私たちと同じような人たちだろうから大丈夫だよー」
「そりゃ良かった」
「そもそも、他人に気に入られる為の演技なんて、どんな人でも多かれ少なかれやってることだしねー。バレたからってあんまり気にしなくてもいいとおもうよ」
「そうか」
もっともこの言葉も演技で、まったくのデタラメを言っていることもあり得なくは無いのだが。
「てか、そんなことはどうでもよくて。そろそろ本題に入ってもいいかな?」
俺にとってはどうでもよくないが。
「ああ。俺もそろそろ部活が始まるからな。手早く済ませてくれ」
「うん。じゃあ率直に言うね。綾瀬くん、私と付き合って」
…は?
今の話の流れのどこから、その言葉が出るんだ?
「……目が点になってるとこ悪いんだけど、お返事貰えないかな?やっぱり私じゃダメ?」
そう言って、上目使いにたずねてくる。
「いやいやいやいや、ダメとか良いとか以前に、なんで付き合おうっていう選択肢が出てくるんだよ?そこまで俺のこと知ってんなら、俺と付き合おうなんて普通思わねぇぞ」
一年の時から、既に沢山の人間を騙して来たのだ。嫌悪感を抱かれこそすれ、好意など抱くはずもないだろうに。例え俺と同じでも。
「そりゃあ、私は普通じゃないからね~」
しかし彼女は軽く否定する。
「あなたと同じことを、小学生の頃から続けてきた私は、あなたを見ても嫌悪なんて感じないよ。そもそもそんな感情があったら、これまで私は偽物でいられてないしね。
そして綾瀬くんも、それは同じはず。私のことを嫌悪すれば、それは綾瀬くんと綾瀬くんのこれまでの行為を嫌悪し、否定することになるから。
だから私は、私のことを知っても嫌悪しない…いえ、嫌悪出来ないあなたを、綾瀬唐墨くんを、私の彼氏に選んだの。ズルいでしょ?」
まるで俺の内心を見透かしたような言葉だった。
俺の葛藤や罪悪感も、彼女は既に経験し、乗り越えているのだろう。
「まぁ、本当の思惑は別にあるんだけどね。もちろん、綾瀬くんが好きっていう感情もあるんだけど」
「思惑ってなんだ?」
正直、俺の気持ち的には、織本里香と付き合う方に傾きつつあった。俺にとってもメリットの無い話ではない。俺が自分を偽っていると知っても変わらないのは織本くらいだろう。彼女作りで悩んでいた俺にはベストな人間だと言える。
だが曲がりなりとはいえ付き合っていくのなら、知っておけることは知っておきたい。彼女は本音を隠すことも出来たのにそれを匂わせる発言をしたのは、それを俺に知られても良いから、もしくは知って欲しかったから、だ。
もう部活は始まってしまった。だが、俺は織本里香という人間を、最後まで知らなければならない気がした。
やはり聞いてもらいたい話だったようだ。普段どおりの淀みない口調で話し始める。
「私と綾瀬くんの違いって、何かわかる?」
彼女は唐突に話を始めた。
「性別とか、生まれた家だとか、名前とか、そんなくだらないことじゃなくて、もっと本質的な、人を騙すことについての話」
俺と織本の違い…?
「それは…年季じゃないか?俺と織本じゃ、人を騙してきた年季が違う」
俺は去年からだが、織本は小学生の頃からやっていたようだ。
「うん、大筋は間違ってない…というか、結局はそこに落ち着くんだろうけど、それは原因であって結果じゃない。年季が違うから、もっと大きな違いが生まれたの」
そのあと、織本里香は、いつもと変わらない表情で、いつもと変わらない口調で、こう言った。
「私、本当の自分が思い出せないんだよね」
その瞬間、俺は彼女との決定的な違いを知った。
「私ね、小学校五年生から、ずーっとこんなことしてたんだ。毎日毎日、1日も欠かさず、学校でも家でもネット上でも、どこでも構わず演技してた。一人でいるときだって、そんな自分を演じてたんだよ」
俺はそこまでの事はしていない。家では素の自分で居るし、家族で遠くに出かけたときなんかも、演技なんて全くしていなかった。
「で、ずーっとそんなことしてたら、疲れちゃったんだ。二つのキャラをもってて、演技をするごとに『これは本当の自分じゃない』って葛藤があって、次に発する言葉や行動を意識的に選んで。そんなことを人に会うたび、人と関わるたびにやってたら、さっき君も言ってたけど、疲れちゃうよね」
あははー…--と、そう言って笑う表情は、少し、ほんの少しだが、自嘲しているように見えた。これも偽物なのだろうか。
「そして、ある日気づいたんだ。なんの変わりも無い、ただの平日の1日。確か木曜日だったかな?とにかく、なんでも無いようなその日の、なんでも無いような放課後に、なんでも無いような話をしてるとき、ふと気付いたんだ」
そう言って、一度言葉を切った。まるで自分の中の迷いを振り切るように。
「偽物でしかいないなら、それは本物と変わらないんじゃないかって」
「……」
それは…違うんじゃないか?
そう言おうとしたのに、口が開かなかった。何故なら彼女のその状態こそが、俺がこのまま生きていって、目指しているものだと思ったから。
「そしてその瞬間、私は私を捨てたの。
よくあるでしょ?ドラマとか映画とかでも、役者が演技してるところしか知らなかったらその人はドラマのキャラクターとして、キャラクターの名前で見ている人に認識されるじゃない?あれと同じだよ。 私は織本里香が演じる『織本里香』というキャラクターになっていたの。
だから私は、織本里香を忘れて、心の底からキャラクターになろうとした」
なろうとした…か。それはつまり、そういうことなのだろう。
俺はその後の展開を予想しつつ、先を促した。
「それで…どうなったんだ?」
「何にも変わらなかった。ううん…もっと酷くなった」
ここからだと感じた。ここからが、彼女が本当に俺と付き合いたい理由と関係してくるのだと理解した。
続きが決して良いものではないことは、さっきの語尾から分かっている。だがそれでも、俺は聞く必要があると思った。この先を聞かない理由はいくらでもある。部活の練習もあるし、なんなら有りもしない急用を思い出してもいい。だが俺は彼女のただ一人の同類として、彼女のただ一人の理解者として、この続きは聞かなければならないと思った。彼女がそれを望んでいるのか分からないから促しはしないが、彼女が俺に言いたいことを全て話すまでここにいるつもりだ。
俺が黙って言葉を待っていると、彼女はまた喋り始めた。
「最初は良かったんだ。考えなくてもスラスラと言葉が出て、仕草が出来て、とっても楽だった。でも、みんなとひとしきり話した後、自分のカバンを取ろうと思って席に戻ろうとしたんだ。そしたら、自分の席がどこなのか、自分のカバンがどれなのか、分かんなくなっちゃったんだ。…ううん、違う。知識としては場所は覚えてたんだけど、そこが本当に自分がこれまで慣れ親しんだ机なのか、自分が座ってきたイスなのか、自分が持っていたカバンなのか、自分が使っていた教科書なのか、自分が書いたノートなのか。それは絶対に自分のものなのに、どことなく他人の物のような感じだった。
そうして呆然と教室を見渡した時、私はここは本当に自分の教室なのかって思ってしまった。
教室から出た後、ここは本当に自分の学校なのかと思ってしまった。
校門を出たとき、ここは本当に自分の通学路なのかと思ってしまった。
そして自分の家の前に来たとき…」
そこで一旦言葉を切り、しかし口調は最初と一切変わらないまま言った。
「ここは本当に私の家なのか、と思っちゃったんだ」
そのとき、俺は恐怖を感じた。自分の家を、自分の家と思わない…いや、思えないことは、彼女にとってどれだけつらかっただろう。そしてもし俺がそうなっていたら……
「別にそれ自体は大したことなかったんだけど」
「大したことがない?大ありだろ!!」
思わず、俺は声を荒げた。
「なんで…なんで自分の家を忘れて、大したことないだなんて言えんだよ!!」
言いながら、俺の頭の中の冷静な部分はひっきりなしに警鐘を鳴らしていた。この学校で俺が声を荒げたなんて、今のが初めてだ。
今までの俺とは明らかに違う勢いに、しかし織本は全く変わらない声と表情でいる。
「だって、感じているのは『この』私だもの。本物の織本里香の心は傷ついてない。私は織本里香が楽をするために織本里香に作られた偽物。彼女が傷つかなければ、私は満たされる」
だからか。だから俺がいくら声を荒げても、彼女の心には響かないのか。
俺は今まで、誰に、どんな勇気を持って、どれだけ頑張って告白されようとも、心には何も変化がなかった。
それと同じなのだろう。彼女にとっては、俺の必死の言葉も何の意味も持たない。
俺が話しているのは織本里香ではない。織本里香が作った偽物なのだ。そして、本物はもういない。彼女に向けた言葉も、ただの一方通行だ。
「で、結局お前が俺と付き合いたい理由はなんなんだ」
なんとなく、だが分かってきた気がする。彼女が言いたかったことが。それを確かめるため、続きを促した。
彼女は迷う素振りも見せずにこういった。
「私は、自分が欲しい。私は偽物だけど、偽物でもいいから自分が欲しい。そして本物になりたい。忘れてしまった織本里香なんかどうでもいい、私は私を本物にしたい」
まるで二重人格のような話し振りだ。
「それが俺と、なんの関係がある?俺には織本にできることなんか何一つない」
「綾瀬くんと一緒なら、私は本物になれる気がするから。集団と言うものを理解して、私と同じことをしている綾瀬くんだからこそ、こんなことも話せた。これまで誰にも話せなかったのに。
その一点だけでも、綾瀬くんは特別だよ。だから、私はあなたを選んだ」
これで終わり。とばかりに、織本は口を閉じた。最後まで口調は変わらなかった。なので、本心を語っているのかは全然分からない。
だが俺は、信じてみようと思った。俺は織本のようになりたいのだから、織本を観察でき、さらに彼女クラスメイトに落胆されることはなくなる。何より秘密を知られている以上、そばに居なければ俺が安心出来ない。
完全なる損得勘定のみで、俺は答えた。
「付き合っても良いよ」
俺と織本は、偽物の笑顔で笑いあった。
こうして俺は、織本里香と恋人になった。
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