2話 薔薇色の彼らの、空虚な日常
睡魔と戦った始業式と新任式が終わり、俺達生徒は教室に行くために廊下に張り出されたクラス表を一斉に見に行く。その波に乗り遅れればいつまでも腰を落ち着けることは出来ない。ぼっちたる俺はさしたる用事もないので、さっさと座るためにクラス表を見に行った。
人混みの中でお友達ときゃいきゃい話ながら行っている奴らもいる。
彼らの人生は、青春は薔薇色だ。カラフルで綺麗で楽しい世界に生きている。
まぁクラス変えはこれから一年間の交友関係を決定づける大切な行事だ。騒ぐのも無理は無い。
クラス変えとは、互いの友情を確認するためにかなり有効な手段だ。例えばクラスが離れてそのまま疎遠になるようなら、所詮はその程度の関係であるということである。逆にクラスが同じになれば、今までの友情を深めるか別のクラスだった奴と仲良くなるかで自分の立場が決まる。
しかしそれらに無関係なぼっちである俺は、オトモダチの壁をスルスルすり抜け、さっさと張り出されたクラス表を見る。
余談だが、ぼっちの特性の一つとして、異常に歩くのが速い、というものがある。
これは、友達と並んで歩く必要が無く、放課後に学校にいてオトモダチとのおしゃべりに興じるよりも、さっさと下校して一人ゲームやネットサーフィン、あるいは読書や勉学に勤しむことを選ぶぼっちが必然的に身につけるスキルだ。
閑話休題。
俺は生徒達の脇をすり抜け、表の見える位置に出る事に成功。しかし未だ人の中に居るのに変わりは無い。一刻も早く自分の名前を見つけなければ、人の波に流されてまた見れなくなってしまう。
しかし幸いというか運悪くというか、俺の名前はすぐに見つかった。
二年A組 一番 綾瀬唐墨
俺の名前は表の左上…その一番端に書かれていた。昨年度は出席番号二番だったのだが、一番だったやつは別のクラスに行っていた。
苦々しい顔をしながらそれを見た後、俺はまた人をかき分けて、ほとんど這い出るように人混みから抜け出した。
出席番号一番というのは、どうあってもクラスで目立ってしまう。
例えば最初の自己紹介なんかでもクラスで一番最初にしなければならないし、委員会や係が決まるまではプリント配布等の雑用を押し付けられる。授業中に問題を当てられるのも、先生によっては一番から順番に当てていくなどという方式を取る場合もある。ただ一番というだけで、名字が「あ」から始まるというだけで、かなりの不利益を被ることになるのだ。
そしてそれらの不利益が、さらに目立つ要因となり、デフレスパイラル的にこの輪廻は一年間繰り返されることになる。
普通に友達が居る人間ならば別に良いのだろうが、ぼっちの場合、それは悪目立ちという方向で目立ってしまう。なにか雑用を押し付けられるたびにいじられ、不利益を被るたびにより大きな不利益を被らなければならなくなる。利益があるとすれば、先生に対する印象が若干良くなるくらいか。
ぼっちは弱者だ。ぼっちが自分の事をどう思っていようと、大衆はぼっちを弱者と見る。
弱者のように見えるから、ぼっちを哀れんだり、けなしたり、いじめたりするのだ。
そして弱者が良い意味で目立つことを、強者は我慢出来ない。
だからその目立ち方を良いから悪いへベクトルを変え、自分の立場を守ろうとする。いつも目立たない奴がテストで良い点取ったりすると「ガリ勉」と罵ったり、時にはまぐれだのたまたま等と言って、功績自体を無かったことに、価値の無いモノにしようとするのも、自分の立場を守るためだ。
何故そんなことが言えるのかと言えば、中学時代の俺がまさにそんな奴だったからだ。今思い出しても虫唾が走る、強者の立場に固執しようと躍起になり、まるで舞台で踊るキャラクターのように自らを演じ、自分が優位に立てるような選択肢を、さながらゲームのように選んで進んでいたあの頃の俺…。何事もなければ、俺もあのまま高校生になっていたであろうことを思うと、気持ち悪すぎて吐き気すら催す。
だが俺は変わった。彼らは変われていない。俺とその他大勢の違いは、実のところそれだけなのだ。
自分も自らを演じ、相手も自らを演じている世界、それが許され、むしろ推奨されている日常。これを空虚と言わずになんという。
演じなければ人と関われないならば、俺は人と関わることをやめる。偽物で出来た関係など、どこまでいっても偽物の関係でしかないのだから。関わらなければ幸福になれないならば、俺は幸福を諦める。偽物で得た幸福など、どこまでいっても偽物の幸福でしかないのだから。
俺は間違っていないはずだ。
たかがクラス変えでどれだけ話を広げるんでしょうね