~プロローグ~ ぼっちな俺の、変わらない理由
どうも、はじめまして。刺身醤油サーモンです。
また変な時期に小説書き始めました。
よければ読んでって下さい。
嘘つきは泥棒の始まり。
これは、「嘘つきな子は将来泥棒になるから、泥棒になりたくなかったら嘘をつくな」という意味の慣用句である。
しかしこの言葉を真に受けるなら、「嘘つきは泥棒の予備軍…、つまり犯罪者の予備軍である」という風にも取れる。
しかし俺達人間は、日常のさまざまな場面で嘘をつく。
漫画とかでもあるだろう。テストの点数が悪ければそれを隠し、鉢植えを割ってしまえばどうにかして取り繕い、宿題をすると嘘をついて友達と野球に出かけるなど、サ○エさんやらドラえ○んやらで良くあるだろう。
しかしその結果は知っての通り、最終的には罰が与えられる。
罰が与えられる、バチが当たると言うことは、それが罪であるからだ。
つまり、嘘とは泥棒の始まり…犯罪の始まりなどではなく、紛れもない「犯罪」なのだ。
「嘘」単体でも、罪として成立するのだ。
では何故、嘘つきは泥棒の始まりなどという甘い表現でぼかしたのか。「嘘つきは罪」と言われれば、泥棒の始まりなどという言葉より、ずっと嘘つきは減るだろうに。
なぜ、「嘘つきは泥棒の始まり」などという「嘘」を、言い始めたのだろうか。
その答えは、この言葉の提唱者は、自分が犯罪者になりたくなかったからであると推測する。
人間誰しも嘘をつく。学生であろうと社会人であろうとサラリーマンであろうとOLであろうと芸能人であろうと公務員であろうと政治家であろうとニートであろうとホームレスであろうと、そこに会話がある限り、嘘は生まれるのだ。
それは俺も同じ。そしてこの言葉の提唱者も同じであったのだろう。
そしてそんな奴が「嘘つきは罪」だなんて言おうものなら、それを言った本人が犯罪者になってしまう。
ゆえに嘘つきは泥棒の始まりであるなどという表現にし、自分たちは犯罪者予備軍であって罪は犯していないという保身を行ったのだ。
さて、さっきも言ったように、世の中のどんな人でも、一生の内に数えきれないほどの嘘をつく。
人と関わる限り、嘘というものはついて回る。
そして、その嘘を大抵の人間はごまかす。
あの嘘は状況がナントカだったからとか、この嘘はあいつがなになにだったからとか、自分の嘘を正当化し、仕方なかったと妥協して、うやむやの内に記憶の底に埋めてしまおうとする。
それで罪が消えるわけがないのに。
むしろ、嘘をより大きな嘘で埋める、という重罪を重ねてしまっている。
ではなぜ、そんなスパイラルは起きてしまったのか。
それは、最初に嘘をついたからだ。
自分の心に負け、または無意識のうちに、嘘をついてしまったからだ。
さらに言えば、人と関わったからだ。そもそも人に関わらなければ、嘘など生まれるはずもない。
しかし人との関わりが強要される現代社会において、人と関わらずに生きるのは不可能だ。
日本に居る限り、集団に所属するのは一種の義務だ。
ならば、集団の中にあって、集団の外に一番近い場所を俺は望む。
嘘という罪を、必要以上に犯さないように。嘘が当たり前という歪んだ世界に、溶け込まないように。
それが俺、綾瀬唐墨が、高校生ぼっちたる理由の一つである。
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