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京都にての歴史物語

幽閉

作者: 不動 啓人

 薄闇の閉ざされた空間に波打つ荒き呼吸音。

 部屋の四方にはモノが散乱し、片脚を失った文机も横倒しになり隅に放置されていた。

 壁のそこかしこには衝撃の痕跡が刻まれている。下ろされた蔀戸しとみどの歪みもその一つで、歪みからは僅かばかりの陽の光が部屋の中へと差し込んでいた。

 一条の光。

 浮ぶのは五指が怪しく戦慄き蠢く、陽の反射たる燐光を帯びた腕。虚空の何ものかを掴もうと差し出されるが、何ものも得ずして彷徨い続ける。

「ああ、お上、なりません。これ以上民を苦しめるようなことはなさらないでください」

 懇願し悶え喘ぐその声音は、ひび割れ、か細く――どこか艶かしい。


 理性。

 早良さわら親王は藤原種継ふじわらたねつぐ暗殺事件の関与を疑われ、実兄である桓武かんむ天皇の命により乙訓寺おとくにでらに幽閉された。確かに早良と種継の関係は長岡京遷都に際して意見の対立などがあり良好ではなかったが、暗殺に関わるようなことは一切なかった。早良は潔白を訴える為に絶食し、身を慎んで静かに時を過ごした。


 怒り。

 幽閉から数日。早良の元には一度も桓武からの使者が訪れなかった。故に弁解の機会も与えられず、ただ無為な時間が過ぎるばかり。限界を迎えつつあった空腹が早良の神経を苛立たせ、不安を煽り、無情なる桓武への怒りが早良を支配し、やがて怒りの矛先は手当たり次第モノへと向けられた。


 絶望。

 更に数日。この頃になると肉体の衰えは著しく、比例して精神の衰えも著しくなり、怒りも最早枯渇して、絶望が早良を支配した。絶望は更なる絶望を呼び込む。早良の脳裏を支配していたのは桓武の思惑だ。もしや桓武は自身の皇子である安殿あて親王を立太子したいが為に、これを機とばかりに皇太子である自分を排除しようとこのような処遇を施したのではないかと。

 絶望が早良の全てを蝕んでゆく。


 幽閉から十日を迎える頃。

 早良の体は限界を迎えていた。土気色に変色した皮膚の下、脂肪は削げ落ち手足は棒のようで、血管ばかりが浮き上がって見えた。乱れきった髪に口元を覆う髭。眼窩は落ち窪み、剥き出しの眼球は絶え間なく微動し一点に留まることがなかった。起き上がることもままならず、板床の上に這い蹲る。

 一方で精神は肉体の束縛から解き放たれたように活発に働きだした。人はそれを狂気と呼ぶのかもしれない。

 早良は己の衰弱しきった肉体に、いつしか疲弊する民の姿を重ね合わせていた。

 民は疲弊に喘いでいた。幾多の自然災害に見舞われたばかりか、桓武が強行する二大事業、長岡京遷都と陸奥への出兵。それらは大きな負担となって民にのしかかっていた。彼らの多くは十分な食事を摂ることも出来ずに痩せ細っていた。まるで早良の様に。

 今や早良は民の苦しみを実感するに至った。

 この新鮮なる発見は早良を歓喜させた。

 早良は嘆く。民の苦しみを。

 早良は訴える。民の苦しみを知る者として。

 早良の目の前には易々と桓武が現れる。桓武に向かい、早良は諭すのだ。

「あなたはおわかりになっていない、民の苦しみを!」

 這い蹲ったまま右腕を伸ばし、桓武を掴もうとする。

「私は知っているのです、民の苦しみを!」

 今のままでは届かぬと、両手で上半身を支えて身を起こす。

「私は知っているのだ!民の苦しみを!」

 賢明に右腕を伸ばした瞬間、蔀戸の歪みから差し込む光に早良の顔が照らし出された。その表情は歯を剥き出しにし、妙に引き攣ったような、それは苦しみであり嘆きであり――喜悦する人のそれであった。

 しかし次の瞬間、左腕一本では自身の上半身を支えきれずに早良は床に崩れ落ちた。

 早良は口角を引き攣らせ、うつ伏せたまま呟く。

「どうぞ、民をお救いください……」

 薄闇の閉ざされた空間に、荒き呼吸音だけが波打った。


 幽閉から十日余りの後、早良は淡路島へ配流されることになった。

 干乾びた早良の肉体は移送されたが、途中、高橋津においてついに力尽きた。

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