赤鰯と金の鎺
山本常朝の書いた「葉隠」に「横尾氏の話」の中に出てくる金の鎺が出てきます。その話にヒントを得て書きました。舞台は幕末です。
伊達伊織の父は格之進といい、一昨年前までご親藩の江戸藩邸詰め大番頭として三百七十石を得ていた。
しかし、先の将軍の第七男である現当主の幼い嫡子を、順当に次期藩主として擁立すべきだとする筆頭江戸家老と、次期の当主には、今は他藩にいるが藩祖の血脈を継ぐ十七歳の若君を迎え、来たるべき国難に備え、藩内の結束を図るべしという国家老との、お家騒動が起きた。それで、筆頭江戸家老が政敵の国家老に破れ失脚するや、国家老を中心に据えた藩は、伊達格之進をお役目懈怠という誠にあいまいな理由で六石二人扶持の島回り役同心という軽格にまで降格させた。
父の格之進が筆頭江戸家老に与して運動していたわけでもなく、国家老に反対していたわけでもない。
お家の家名を優先するか藩祖の血脈を優先するかというお家騒動に勢いがついて、当今流行りの佐幕派と倒幕派の政治的分裂状態にしたくない、それを避けよう、そう腐心していたにすぎない。
格之進の上役や同僚で、同じように行動し、同じような憂き目にあったものは十名を下るまい。
筆頭家老派を粛清することで、積極的に国家老に与した面々に役職と手当をあてがうだけではなく、この際、今後の藩の改革を思い通り進めるに、口煩き目障りな者を追い落として、それで浮いた数千石を仲間内で私してしまおうという陰謀であろう。
江戸藩邸から追放され一家で国元に戻った伊達家には、伊織の兄弟姉妹が四人と中間奉公の下男夫婦がいた。幸いなのは江戸で雇っていたもう一人の下男や婢の生活を見る必要がなくなったことぐらいであった。
当時、伊織は江戸で兵が集まる江戸の練兵館に十四で通い始め、十九歳で助教を務めるほどの剣術の達者であった。
また、国元には練兵館の先達が藩の撃剣指南役として仕官していた。
それで、現藩主が親しい水戸藩主斉昭や江川太郎左衛門らと懇意な練兵館主の斎藤弥九郎が、若き師範代として伊織を推薦したのでは、藩の国家老に追従するご重役たちも渋々十石ほどの俸給を認めて受け入れるしかなかった。
それで伊達家は父子合わせて十六石の小身となるが、それで生活が楽になるわけではない。
そこで伊織は斎藤弥九郎から中目録と一緒に頂戴した名誉の相模助真の銘刀を江戸にいるうちに質入れし百両を借り、少しでも家の面目を保とう、当座の生活が見苦しくないようにしよう、としたのだった。
伊織は、時世柄、尊王攘夷の思想に傾倒していて、近頃の幕府の低落では、攘夷も尊王も成し遂げられないと思っていた。だから、国家老派の勝利は藩主公のお家から将軍家の血脈が自藩から絶え、藩祖の血が再び流れ出すという意味で歓迎すべきことと考えていた。
だが、いくつもの由緒ある家の家禄が取り上げられ、国家老と数人の有力者に私されてしまう現実を見ると憤りは激しかった。
元々、藩内には時世や信念に関係なく、己の出世だけを念頭にしていて、お家騒動で新たに出世する機会を得た者たちが少なからずいた。そういう輩が、出世運という時世の賭けに勝った自分らの、奉公にたいする当然の報いが俸給であり、他家に下される罰もまた当然の報いと考えていた。
つまり、志を持つでもなく、派閥の有利不利だけを秤にかけ、その勝利の代償としての出世であり、身分だと考え、その高きを笠に着て、人を貶め、さも己に実があるように見せる武士にあるまじき慮外者を、伊織は許せなかった。
新しく出世して身分を得た者の中に、そんな損得勘定しかできない蝙蝠野郎の輩を見つけたなら、目に物を見せてくれると決心していた。
そんなある日、藩の剣術指南道場に笑い声が沸き上がった。
「なんや、あの赤鰯は、誰の持ちもんや」
「どこぞの田舎浪人が訪ねてきて置いたんちゃうんか」
「魚くさいぞ、道場に腐った魚持ってきたもんは返事をせい!」
赤鰯とは、伊織が国元の藩で撃剣教授の師範代を務めるようになり、その道場の太刀掛に置いてある伊織の佩刀を指して、口の悪い藩士が言い出したのは伊織も承知していた。
その鞘の古びた赤銅色が開きたての鰯そっくりだと言うのであった。
しかし、それが師範代の伊織の佩刀であることは、とっくに知られていて、数か月もいつも同じ場所に同じように掛けていて、それをとやかく言うものはいなかった。
それを今日に限って、大声で囃し立てるのは、三十前であろう、この道場で助教を務める井関弥次郎とその仲間たち5人である。
井関は三百石取り大広間番を務める井関丞之進の次男である。その仲間の大関、矢立、石田、車坂は井関弥次郎の取り巻きだし、矢立、石田はその親も井関丞之進の同僚だった。
「その赤鰯を寄越せ、不浄に沈めてやる」
「臭いもんを臭い所に捨て、蓋をするんは道理やな」
伊達伊織に聞かせるように言っているのは伊織にも分かった。
伊織は落ち着いた声で話す
「その佩刀は、某のもの。お手を触れられるな」
「これは貴殿の太刀でござったか、あまりにも赤鰯に似ておったので、危うく雪隠にでも捨てようかと思ったぞ」
「井関氏、色は褪せても、刀で傷んでも、武士の魂は魂です。鞘塗りや拵えに金を掛けられぬが、刀の振りようは心得ておりますので、魂は鞘の中に心を安んじております。心配ご無用に願いたい」
「赤鰯が武士の魂か、赤鰯がのう、ようほざいたものよ。赤鰯殿」
「井関氏、言葉が過ぎますぞ、某の赤鰯に魂が入っているかいないか試されるおつもりか」
大関、矢立、石田、車坂が囃し立てる
「おお、やれ!やれー!ご両人」
騒動を聞き付け、藩の撃剣教授である伊牟田要蔵が現れ、左右のものに
「静まれ、静まれ、先程より聞きおれば、弥次郎、お前、他人の侍の魂を赤鰯とは何たる言い草、同じ武士に対して云われなき侮辱。侮蔑を受けてそれを返さぬも無礼。真剣勝負で伊織に斬られても斬られ損ぞ」
「二人とも竹刀を取れ、どちらかが参ったというまでの一本勝負ぞ」
互いに防具を付け、竹刀をとり、伊達伊織と井関弥次郎は道場に立つ。
道場には二十人ぐらいいたが、皆、師範代と助教の勝負を見ようと左右に正座して居並んでいる。
井関はいつも道場で見せる遠慮がちな言動を捨て、今は己の嫉妬心を隠さない。
伊織だけに聞こえる声で
「藩主公のお陰お情け師範代殿、お覚悟召され」
年下の伊織だが挑発には動じない
「手加減無用です。兄弟子殿」
平正眼で間合いをとって対峙する。
一瞬間、睨み合う。相手の呼吸音が聞こえる。
伊織は井関の拳に目をあて、足の動きを視界にとらえている。
練兵館道場の鷹がお国で羽ばたくのだ。
「うおーぉ、うぉーぉらさぁー、めぇーん」
井関が気合を入れて甲高く叫び、面を狙ってくる。
伊織は、それと分からぬほど左に体を開き、僅かに遅れて竹刀を出す。
井関の竹刀の先から棟の上を己の竹刀で滑り押さえ、自分の体の正面中心を一気に一直線に斬り下げるように振り抜いた。
ばっちん!
竹刀が面金で曲がり撓りながら頭頂部を叩く。
井関の目に火花が散ったであろう。脳震盪を起こし、一瞬間意識が飛ぶ。
伊織は面を打ったそのままの勢いで井関の左鎖骨のあたりに体当たりをする。
躰の均衡を失った井関は腰砕けの姿勢で足を使えず、後ろ足でたたらを踏むように道場の羽目板まで吹っ飛ぶ。
伊織はそのまま追い込み、竹刀の嵐を面、胴、小手と降らせる。それも道具外れに当たらぬように。
竹刀で頭頂を打たれ一瞬意識が飛んだ後、羽目板にぶつかり足が床に伸びたままになった井関は、伊織の竹刀を自分の竹刀で防ぐしかなかったが、立ち上がる暇を与えない竹刀での雨霰の攻撃を防ぎきる術などあるわけがなく。負けを認めるしかなかった。
伊牟田要蔵が言い聞かせる
「双方、これを持って遺恨を忘れよ、侮辱したことも、されたことも忘れよ。良いな」
何日後かの道場稽古指導の帰り道、提灯を左手に持つ伊達伊織の目の前に覆面の武士が、暗闇から現れ、いきなり横殴りに切りかかって来た。
伊織は覚悟していたのか、無言で飛び下がり鼻に、下駄を脱いだ。一間ほど飛んだだろうか。
とにかく、きれいに下駄が脱げ、転ばなかったのは僥倖だった。
提灯は切られ、覆面武士の足元で燃えている。
あとはうまく刀を抜き合わせられれば戦える。
「伊達伊織、当藩道場の師範代と知っての狼藉か!」
「・・・」
相手が押し黙ったのに乗じて、鯉口を親指で切り、その鎬を根元で合掌するように挟んでいた鎺を親指の腹で一度撫でてから、美しい刀身を滑らせるように、刀を抜く。うまく抜けた。
刀を急いで抜こうとして対手から目を逸らしたりしては危険なのだ。抜く動作は相手に付け入る虚を与える危険な動きだ。それで伊織は声をかけることで相手に虚を作らせ、それに成功した。
侍の覆面の下から鎖頭巾が見えている。おそらく身には鎖帷子を着けているのだろう。
不意打ちが決まらなかった覆面武士はもう一度気合を取戻そうとする。
「くらえ!」
伊織は落ち着いて半歩下がった。対手の切っ先は地面を叩き、体は居つきの状態となった。居つきとは意識と動作の切れ目のことで、次の意識と動作までの間が空いてしまうことだ。その瞬間に斬ってしまえば造作なく斬れる。そういう瞬間の事だ。
その居ついた体を立て直す間を与え、伊織が言う。
「井関さん、止めるんだ。今引き返せば、今夜のことはなかったことにする。不意打ちに失敗した時点であなたに勝ち目はない」
伊織は、命のやり取りが初めてではない。江戸遊学中に無頼の徒を四人ほどとその用心棒を二人切り捨てている。
道場稽古で井関と対戦すれば十本勝負で四本とられるかもしれないが、真剣では負ける気がしない。
人切りは経験の有無がものをいう。
井関は、手加減されたと分かり、逆に憤激した。憤激は恐怖を忘れさせ、無我夢中の境地を作り出し、しゃにむに攻撃の手を繰り出してくる。
手加減すると命が危ないと、かかとを浮かし気味にして、足を使い、身を左右に振りつつ、剣先を除けながら、伊織は相手の拍子を読む。
井関の左右の袈裟斬りが、左袈裟切りから逆袈裟に返す瞬間に息を吸おうと、思わず居つきとなったのを見逃さず、井関の右の高腿を自身の左ひざをついた形で横殴りに剣を一閃した。
勝負はあったが、どう処置を付ければ、落ち度があって扶持を減らされたばかりの家の嫡男が、藩の吟味方を納得させ、生き延びられるだろうか。
慎み置くべき家のものが刃傷沙汰を起こしたのだ。お咎めは軽いものではなかろう。
井関の家も弥次郎の切腹のみで事が済めばよいが・・・。これ幸いと俸禄を取り上げかねぬぞ、腹黒い国家老一派のことなのだから。
伊織は井関が手放した刀を井関の手の届かない位置に蹴りやり、急いで刀の下緒を使って井関の太腿に血止めをする、そうする間に、ある考えが浮かぶ。
「井関さん、某は今これから脱藩します。井関さんは脱藩する某を止めようと刃傷に及び、傷ついたんだ。わかりましたね。横に薙いだので太腿の腱が多少切れているかもしれませんが、血脈は無事のようですのでしっかり養生してください」
井関は痛みに耐えながら、聞いた言葉が誠なのかと、驚きを口にする
「ああ、ああ、うむ、だが、しかし貴殿はそれで良いのか」
「某は京で国事に奔走しますよ。いとこたちも京に行ってるようですから、不思議とは思われんでしょう。井関さんは某の代わりに道場で師範代をやって身を立ててください」
「すまん。なんも考えなく嫉妬に任せて迷惑をかけたようだ。あああっ、いたた。ほんとうにすまん」
「赤鰯の切れ味は堪能いただけたようですね。この刀は無名ですが備前物で、無垢の金の鎺が入れてある業物ですよ。ただ、我が家には拵えを直す金が、逆立ちしたって出ないものですから、柄も鞘も赤鰯のままなんです。はははっ」
「赤鰯に金の鎺?」
「そうです、赤鰯に金の鎺です」
伊達伊織は伊達陽之助の従兄らしい。
幕末明治にずいぶん働いたが、最後は当時売れっ子の京芸妓と一緒になって、明治の元勲共に羨ましがられ、あらゆる褒賞や記録から抹消された、と本人がしきりに言っていたそうな。
本日(2026/08/04)朝、文書の乱れを意味が通るように修正し、ルビを振る漢字を増やしました。ストーリーに変更はありません。




