EP 2
神獣の鼻と、黄色い悪魔
「あァ? なんだこの人間のガキは」
世界を揺るがす神々の睨み合いの中、お玉を持って割って入ったリアナを見下ろし、狼王フェンリルは鼻で笑った。
「引っ込んでな、ネエちゃん。俺様は今、この落ちぶれた元・同僚たちと因縁のメンチ切り合ってんだよ。俺の鋭い牙で、このヤクザもどきとジャージのオバサンの首を食いちぎって――」
「てめぇ……俺の弁当を止めた大罪、指パッチンで塵にするだけじゃ生温いぜ」
フェンリルの背後に控える獣人の舎弟たちとケバい女が、「やっちまえフェンリル様ぁ!」「この小汚い屋台ごとぶっ壊してやりましょうや!」と囃し立てる。
ルチアナは「あーあ、アタシ知らない。おでんの汁飛んだらジャージ洗うの面倒くさいんだけど」と後ずさりし、デュアダロスは額に青筋を浮かべて右手を高く掲げた。
一触即発。
神と神獣の神気が太郎国の路地裏で激突し、大爆発が起きる――かと思われた、次の瞬間。
「――デュアダロスさん!!」
リアナの、凛とした、しかしどこか怒気を孕んだ声が響いた。
ピタッ、とデュアダロスの右手の動きが止まる。彼は【服従の輪】の恐怖がDNAレベルで刻み込まれているため、リアナの声には逆らえないのだ。
「私、言いましたよね? **『私のお店で、いざこざは厳禁です』**って!」
「お、おう。だが嬢ちゃん、こいつは俺の弁当を……」
「言い訳は聞きません! そして、そちらのフサフサのお客様も!」
リアナは、おでん鍋からスッと視線を外し、フェンリルを真っ直ぐに睨みつけた。
「他のお客様の迷惑になるような騒ぎ方は、ポポロ亭ではお断りします! 仲良くおでんを食べられないなら、お帰りください!」
「ハァ? 誰に向かって説教してんだ、この小娘。俺様は泣く子も黙る狼王フェ――」
フェンリルが凄み、鋭い牙を剥き出しにしてリアナに顔を近づけた、まさにその時である。
リアナの手が、常人には見えない速さ(太郎国のスパルタ義務教育で鍛えられたクロスボウ装填並みの速度)で魔法ポーチへと伸びた。
取り出したるは、太郎国のスーパー『タローマート』で特売だった、おでんの相棒【お徳用・ねりからし(大容量チューブ)】。
「フンッ!!」
「あ?」
ズボッ!!
リアナは、フェンリルの自慢の、そして最も敏感な『狼の鼻の穴』に、ねりからしのチューブの先端を全力でねじ込んだ。
そして、迷いなくチューブの腹を両手でギュウウウウウッ! と絞り出したのである。
「…………ッッッッッ!!??」
静寂。
一秒にも満たない、しかし永遠にも似た間の後。
「――――ッギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!!」
太郎国の歓楽街に、狼の断末魔が轟き渡った。
犬科の嗅覚は人間の数万倍と言われている。ましてや相手は、神気によって極限まで研ぎ澄まされた『神獣の鼻』である。
そこにダイレクトに注入された、大量のカプサイシンとアリルイソチオシアネート(からしの辛味成分)の暴力。
それは魔法でも闘気でもない、純粋な『物理と刺激』による、脳髄を焼き切るような激痛だった。
「ごふっ!? ぎゃぁぁ!? 目がぁ! 鼻がああぁぁ!! 痛い! 痛い! スジが通ってねえええええ!!」
フェンリルはアロハシャツを掻き毟り、涙と鼻水とよだれを撒き散らしながらアスファルトの上をのたうち回った。
神獣の圧倒的なオーラなど見る影もなく、ただの『からしを鼻に注入されて悶絶する哀れな男』がそこにいた。
「もう。おでんには、適量のからしを少しだけつけて、静かに食べてくださいね」
リアナは空になったチューブをポイッと捨てると、何事もなかったかのようにニコニコとお玉を握り直した。
「ヒィィィッ……!!」
その光景を見ていたフェンリルの舎弟たち(獣人のチンピラ)と女は、あまりの恐怖にガタガタと震え上がった。
あの、喧嘩最強で誰も逆らえなかった狼王様が。
魔法も闘気も使わず、ただの『黄色いペースト』によるワンパン(ワン絞り)で、白目を剥いて気絶させられたのだ。
「あ、あ、あのフェンリル様が……一撃で……!」
「なんて恐ろしい女だ……! 逆らったら、俺たちもあの黄色いチューブの餌食に……!!」
チンピラたちは一斉にアスファルトに土下座した。
「あ、姉御ォォォ!!」
「俺たち、一生ポポロ亭についていきます!! どうか命(と鼻の粘膜)だけはお助けを!!」
「え? 姉御? いえいえ、私はただの女将ですよぉ」
満面の笑みで大根を皿に盛り付ける無慈悲な料理姫と、白目を剥いてピクピクと痙攣する神獣。
その横で、デュアダロスは『やっぱりこの小娘が一番ヤバい』と背筋を凍らせてコーラをすすり、ルチアナは『アタシの可愛いフェンリルが……』と顔を引きつらせていた。
かくして、屋台『ポポロ亭』はオープン初日にして、太郎国における『絶対に逆らってはいけない最強のシマ』として、裏社会にその名を轟かせることになったのである。




