幽閉された聖女を救ったのは……
月の光が静かに塔の窓を照らしていた。漆黒の夜に包まれたその場所は、王都の外れ、誰も近づかぬ禁忌の地に建つ、古びた石の塔。ひとりの少女が、冷たい床に膝を抱えて座っていた。
「また……魔力を吸われた……」
彼女の名前は美月。かつては現代日本に暮らしていた普通の高校生だった。ある日突然、光の柱に包まれ、気がつけば異世界──ルセリア王国に召喚されていた。
「貴女は、この国を救う“聖女”です」
そう言われて迎えられた最初の日。王族たちは彼女をもてなし、城の民も皆、歓迎していた。しかし、その歓待はほんの束の間だった。
数日後には、王と側近たちによって、彼女はこの塔へと幽閉された。
聖女の魔力は、この国を豊かにするために欠かせない。強力な結界を張り、新たな魔道具を生み出し、魔導兵器の動力源としても利用される。
だが、その膨大な魔力を制御するのは聖女自身ではなく、国家が管理すべきだ──そう判断された。
以来、彼女は「儀式」と称して魔力を吸い上げられ続ける、半ば生贄のような日々を送っていた。
部屋には何もない。魔力を封じる枷が両手首に巻かれ、力が入らず、逃げ出すこともできない。
「お母さん……帰りたいよ……」
美月は、塔に幽閉された日からずっと、誰かが助けに来てくれるのを夢見ていた。しかし、助けは一向に来ない。塔の外に広がる自由な世界は、彼女には手の届かない幻のようだった。
けれど、その夜──。
ガチャリ、と錆びた扉がわずかに開く音がした。彼女は咄嗟に身を縮めた。いつもなら、魔力を抜き取る神官か、監視の兵士が入ってくる。
(また魔力を奪いに? でも、そんな時間じゃ──)
扉の隙間から、ひとりの影が音もなく滑り込んできた。
「……誰?」
警戒しながら声をかけると、その男は顔を上げ、静かに言った。
「君を助けに来た」
月明かりに照らされたその顔は、どこか儚くも、優しい光を湛えていた。
「……助けに?」
「時間がない。立てるかい?」
「え……?」
「ここを抜け出すんだ。今しかない」
青年の声には嘘がなかった。それは、美月がずっと、夢にまで見た言葉だった。しかし、現実感が伴わない。
「待って……あなた、誰? どうしてここに……?」
青年は躊躇いがちに答えた。
「俺はライエル。元はこの王国の魔術師……だった。君がこの塔に幽閉されてから、ずっと、助け出す機会を探していた」
「どうして……私のことを?」
「理由なんて、今はどうでもいい。ここに居たら、君は魔力を奪われ続けて、いずれ死ぬ。それだけはさせたくなかった」
美月の胸の奥が、少しだけ熱くなった。目の前にいるこの青年は、自分のために危険を冒してここまで来てくれた。
「……わかった。行くわ」
美月は、震える足で立ち上がった。ライエルはすぐに寄り添い、彼女の腕を支える。
「魔力封印の枷……これも外そう。痛むかもしれないが、我慢して」
ライエルが懐から取り出したのは、淡く光る水晶のような石。封印を解く鍵だろうか。彼が短く呪文を唱えると、美月の両手首の枷が一瞬、赤く光り、カチリと音を立てて外れた。
その瞬間、美月の身体に、微かだが力が戻るのを感じた。
(魔力……戻ってきた……?)
それでも、完全ではない。数か月の幽閉と吸収で、彼女の力はほとんど枯れ果てていた。
「動けるか?」
「……少しなら」
ライエルは頷き、彼女の手を握った。
「なら、行こう。時間との勝負だ」
二人は塔の階段を駆け下りた。塔の中は静かだったが、警備が皆無というわけではない。見張りの兵士たちが、下の階に待ち構えている可能性もある。
「こっちだ、裏手に抜け道がある。塔の設計図を偶然手に入れてね。監視の薄い時間帯を狙ってきたんだ」
「……こんな私のために、命をかけて……」
「そんな顔をするなよ。俺は後悔してない。君を放っておけなかった、それだけだ」
塔の裏手へ出ると、ひんやりとした夜風が美月の頬を撫でた。見上げれば、満天の星空。あまりに久しぶりの外の世界に、彼女の目には涙が滲んだ。
「……本当に、出られたんだ……」
「まだだ、森に入れば追っ手が来る。ここからが正念場だよ」
ライエルは馬を用意していた。美月を抱き上げると、軽やかに馬上に乗せ、自らも跳ねるように乗り込んだ。
「しっかり掴まって!」
「う、うん!」
馬が夜の森へと走り出した。草を踏みしめ、枝をかすめながら、二人は暗闇の中を駆けていく。
背後から、遠くに鐘の音が響き始めた。逃亡がバレたのだ。
「まずい……急ごう!」
「ライエル!」
美月は、背中にしがみつきながら叫んだ。
「本当に、ありがとう……私、もう……死ぬしかないと思ってた。誰も助けに来ないって……!」
「大丈夫、俺がついてる。君はもう、ひとりじゃない」
その言葉は、夜風よりも優しく、美月の心を包んだ。
月が、二人の逃亡を祝福するかのように、森の奥深くまで道を照らしていた──。
◇◇◇
細い腕が、俺の腰にぎゅっとしがみついていた。
振り落とされないように──だけじゃない。寒さと恐怖、そして長い幽閉生活の名残が、彼女の身体を蝕んでいるのだ。
壊れ物に触るように、俺はそっと彼女の手を握る。
白いローブはすっかり薄汚れ、魔力を封じる枷の痕が、彼女の両手首に赤く刻まれていた。
「大丈夫、俺がついてる。君はもう、ひとりじゃない」
後ろから、美月の息が震えるのを感じる。しばらくの沈黙ののち、耳元にかすれた声が届いた。
「……どうして、私を……?」
「君を放っておける人間なんて、いないよ」
その言葉は嘘じゃなかった。でも、本当の理由は言えなかった。
彼女は俺のことを知らない。少なくとも、“今の俺”を。
当然だよな……
今の俺の名はライエル・ヴァーシュ。この世界に生まれた貴族の家の名だ。外見も、声も、そして名前も、前の世界とは違う。
彼女にとって、俺はただの“異世界の誰か”だ。
──だけど、本当は違う。
俺は、前の世界で君の恋人だった。
美月がいなくなった日。俺は何度もスマホを見直した。前日の「また明日ね」というメッセージを、何度も読み返した。
まるで、彼女だけがこの世界から蒸発したみたいだった。
どれだけ探しても、警察も、家族も、誰一人として行方を掴めなかった。
……結局、俺は何もできないまま、その後、事故に遭って死んだ。
気づいたら、赤ん坊として、この世界に転生していた。
最初は呆然としていた。でも、時間とともに悟ったんだ。もう二度と、あの世界には戻れない。ならば、この世界で生きるしかないと。
やがて、自分に常人では考えられないほどの魔力と、生まれつきの魔法の才能があることに気づいた。それに加えて、特別なスキルも備わっていた。
その後、見よう見まねで魔法を習得し、魔術学院に進学、異例の若さで宮廷魔術師になった。
そして、数年後。
「異世界から“聖女”を召喚する儀式を行う」
その話を耳にした瞬間、全身の血が逆流するような衝撃を覚えた。
そして、儀式の当日、異世界から召喚された聖女──それは美月だった。
名前も、姿も変わっていない。行方不明になった当時のままだった。
あの世界で救えなかった美月を、この世界では必ず救いたい。たとえ、もう一度俺を愛してくれなかったとしても──それでも、俺は美月を守りたいと、心からそう思っていた。
彼女を救おうと動き出した俺だったが、何度も失敗し、そのたびに命を落とした。しかし、転生の際に得た“死に戻り”のスキルが時間を巻き戻した。
美月を救うため、何度も救出を繰り返し、ついに彼女を救い出した。
「……ありがとう。あなたが来てくれなかったら、ずっとあの塔の中だった……」
美月が、かすかに微笑んだ。
その笑顔を、どれだけ夢に見たか知れない。
──けど、まだ言えない。
俺が“彼”だったことを。彼女が消えたあと、俺も後を追うように死んで、ここまで来たことを。あの世界の恋人だった男が、彼女を助けに来たなんて、そんな話──信じられるはずがない。
それでも、いつか……
すべてを話せる日が来るのなら、その時まで──俺は“ただの魔術師”として、君の隣にいよう。
そして、たとえ君が真実を知って、もう一度俺を愛してくれなかったとしても……それでいい。君が幸せに生きてくれるのなら、それだけで、俺は救われる。
その後の二人の未来は、ご想像にお任せします。
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