娘の願い
父よ、父よ。
呼ぶ声がする。
父よ、父よ。
呼び声はどんどん近くなる。
「おはようございます。父よ」
声は結実し、東雲になった。
「父よ、お願いがあるのです」
「なんだい? 東雲」
頑頭は、ようやく現に覚め、我娘に問い返す。
「父が誘われた会議に出て欲しいのです」
「何の会議だい?」
頑頭には娘の言い分がまったくわからなかったが、辛抱強く、その趣旨を探ろうとした。
「第286回 L1不可視天体監視連絡会、です」
意味は分かるが、意図がまったく分からない。試しに我娘に尋ねてみた。
「それは東雲のお願いなのかい?」
東雲は、ふるふると首をふる。
「シノノメのお願いではありません。なぜなら、シノノメは、『第286回 L1不可視天体監視連絡会』が何なのか知らないからです」
「あゝ、そうなんだね」
状況が良くなっているのか悪くなっているのか、まったく分からないが、あと2、3質問するくらいのことはできそうだ。
「それは、その…、東雲の曾祖母とか、もっと歳上の人とか、そういう人たちのお願いなの?」
「吉祥ズは、関係ありません」
そう、この娘は、祖先のことを吉祥ズと呼ぶのだ。いま思い出した。
頑頭は、戸惑いつつも、こういう時は、単純に聞き返すのが一番、という結論に達した。
「じゃあ、誰のお願いなのかな?」
「ユータのお父さんのお願いです。ユータのお父さんは、父に会議に出席して欲しいそうです」
「そう…」
答えは得られたが、それで何かが解決するわけではない。何度も経験したことだが、あらためて遭遇すると身震いする。
小さき人を前に、頑頭は慎重に言葉を選んだ。
「ところで…、最近、優多くんとは仲良くしてる?」
「それは、もう」
東雲は、満面の笑みでもって、えへん、と胸を張った。
「かつてないほどの親密度です。断然、仲良しです」
「そ、そう…」
頑頭は世の大抵の父親と同じようにたじろいだが、なんとか踏み止まって聞き返したのは、驚嘆に値する。
「それで…、その、変わらず、優多くんとは結婚したいと思ってるの?」
「いや、それは〜」
「え?」
意外にも首を傾げて考える東雲に、父は途惑う。
「以前はお嫁さんになろうと思っていたのですが、最近はそうでもないです」
「どうして?」
「お友だちが増えましたからね。ユータのお嫁さんは、増えた方のどちらかで良いと思います」
ベッコウちゃんと、コーラルちゃんの、どちらかと結婚すれば良いということだろうか? 我娘の意外な心変わりに、頑頭は質問を重ねる。
「嫌いになったの?」
「ユータがですか? いや、全然、そんなことはありません。大好きです」
「じゃあ、どうして?」
「好きなだけでは、結婚はできませんからね」
一般論としてはそうだが、10歳の女の子が言うようなことではない。
「まあ、何と言うかですね。ユータは面倒くさい人です」
我娘の言い分に、父は優多の父親のことを思い浮かべていた。付け加えれば、優多の母親のことも…。確かに面倒ではある。
「友だちとしては良いんですが、一生の伴侶としては、苦労するんだそうですよ、ああいうのは。吉祥ズが教えてくれました」
「あまり苦労はしたくないよね」
「いや、別に、苦労するのはいいんです。苦労するのは嫌いじゃないし、この件に限って言えば、しがいもあります。それに、ユータの場合は、自分で何でもできるので、手もかからないし、苦労と言ったところで、たいしたものではない。そうではなくて…」
「何が、問題なの?」
父の問いに、もどかしく娘が身をよじる。
「ユータは特別ですね?」
「まあ、そうとも言えるね」
「唯一無二というのは、厄介です。ユータで何かしたい人が出てくるのは困る。ユータは優しいですから、手が空いていたら、助けてしまうかもしれない。そうならないよう、ユータのお父さんもお母さんも気をつけていますが、シノノメの母、みたいな手合いも、いるわけですからね」
「あゝ、なるほど」
「新しいお友だちにしてからが、何考えてるか良くわかりませんし…、デザイナーズチルドレンでしたっけ? …まあ、ユータの手前、仲良くはしますけれども…」
「…」
「ですから、これは吉祥ズにも言われたんですけど、世界が全部滅んでしまって…」
「何だって?」
「たとえばの話です。父よ。たとえばですからね。それで、たとえば全世界が消滅して、ユータとシノノメの二人きりになりましたら、その時は、躊躇することなく添い遂げようと思うのです。未来永劫、二つを一つにです。何も面倒はない。ユータと一緒なら、二人だけでも、飽きることもないでしょうし、ユータは面白いですからね。だから、ずっと一緒でかまわないのです。でも…、実際には、そんなことは、ちょっと無さそうですし…」
「言いたいことは、分かるような気がするよ」
「わかっていただけましたか」
東雲は満面の笑みをほころばせた。
「うん、わかった。会議には出るよ。優多くんのお父さんにもよろしく」
ありがとうございます、と一礼して、東雲は、ふれふれと、去っていってしまった。
妖精みたいだな、東雲の後姿に頑頭は轍の面影を重ねた。あの二人、互いに否定するのだが、本当によく似ている。
頑頭は目を瞑って考えた。
娘の頼み、ということだけでも、本来、会議に出る理由には十分である。重ねて、優多くんの父親の依頼が大本であるなら、そもそも、断る理由などないわけである。
ーーそれにしても
アレシボ茶会かあ、頑頭は嘆息した。いままで避けていたツケ、と言われれば致し方ないが、苦手なものは苦手なのだ。
「接続用に、新しい、いや、中古のPCを用意しないといけないな」頑頭は椅子から立ち上がった「中途半端な性能のヤツだ。途中でフリーズするようなヤツ。ウイルスでも差し込んでおければなお良しだが、かえって面倒か。型落ちのを探さないといけない」
屋敷のセキュリティは、どうする? とてもじゃないが、あんなところと直接繋ぐわけにはいかない。すべてパケットが遮断されてしまう。とすると、外部か…
会議の前に少し準備が必要だな、と頑頭は思った。
次回投稿は5/9 18:00の予定です。