狩りの始まり
翌日。
森の空気は昨日までとは明らかに異なっていた。
湿り気はまるで形を帯びたかのように粘り気を増し、息を吸い込むたび、重苦しい空気が肺の底へと澱んでいく。
ここは『静謐の古森』の深部。
陽光は厚い樹冠に完全に遮られ、わずかに漏れ出す光すらも濃密な霧に乱反射して、視界を曖昧な白に染め上げている。
足元の腐葉土は水分をたっぷりと含み、慎重に足を運んでも、踏み込むたびに微かな水音が鳴る。
俺たちは、もはや道とは呼べぬ藪を、極力気配を殺して進んでいた。
前衛に立つザックは慎重に歩幅を保ち、後衛のナギは俺のすぐ斜め後ろで息を殺している。
即席のパーティにしては、悪くない連携だった。
「……止まって。ザックさん、前に出てください」
俺は腰の片手剣の柄を軽く叩き、短く告げた。
前方から漂う、圧倒的なマナの質量。
姿は見えない。だが、濃密な霧の奥深くで、何かが異常な速度で魔力を編み上げている気配がした。
「『敏捷付与』『反射付与』」
同時に、声には出さずザックの大剣へ『耐久付与』の術式を編み込む。
「な、なんだ急に――」
俺の編み上げた魔力が即座にザックの肉体と大剣へと浸透し、彼が戸惑いの声を上げた、その刹那だった。
霧の奥から、キィィィン、という高周波の鳴き声と共に、空気を歪めるほどに圧縮された魔力弾が放たれた。
濃霧に紛れた、完全な視界外からの不意打ち。
だが、俺の付与によって極限まで研ぎ澄まされた反射神経が、ザックの身体を間一髪で反応させた。
「なっ……!」
本人の思考すら追い付かぬうちに、ザックが咄嗟に大剣の腹を盾にして身構える。
直撃。
金属が軋むような硬質な音が森に響き渡る。強度の底上げされた大剣は砕けることこそ免れたが、その凄まじい衝撃にザックの巨体が後方へと数メートル、紙切れのように吹き飛ばされた。
「が、はっ……!」
腐葉土を深く削りながら、どうにか両足で踏みとどまるザック。だが、息をつく暇は与えられない。
魔力弾を放った勢いそのままに、白銀の閃光が霧を裂いて躍り出た。
四つ足が腐葉土を大きくえぐり、矢のような一直線の突進がザックへと肉薄する。
「クソ、舐めるなァッ!」
ザックは地面に深くめり込んだ両足で必死に踏みとどまるが、圧倒的な突進の圧力に体ごと押し込まれていく。
だが、彼は引かなかった。迫り来る白銀の角へ向けて、その重い大剣を上段から強引に振り下ろす。
押し込まれながらも、大剣の圧倒的な自重と重力を乗せて叩きつけたからこそ、その一撃は辛うじて角の軌道を逸らすことに成功した。
突進の勢いを殺せず大きくバランスを崩した獣。そのガラ空きとなった肩口を、刃が的確に捉える。
だが――ガキンッ! という乾いた音と共に、刃は硬い毛皮に無情にも弾き返された。
「なっ……硬ぇ!?」
全く刃が通らない手応えに、ザックが焦りの声を漏らす。
四足獣特有の強靭なバネが生み出す突破力に、魔力を帯びた獣特有の頑健さ。ただ一度の攻防で、彼我の差がその身に刻まれたのは明白だった。
しかし、ザックの動揺をよそに、獣はこちらを伺うように一旦距離を取った。
必殺の奇襲と突進、これらを立て続けに防がれた事で認識を改め、警戒を強めたのだろう。鋭い角をこちらに向けたまま、僅かに距離を保って低く唸り声を上げている。
全身を濡れた銀色の毛並みで覆い、頭頂部には鋭利な刃物を重ねたような白銀の角を戴いている。
間違いない。森の希少種、『銀嶺鹿』だ。
俺は視界の端で、即座に『状態確認』を走らせる。
【銀嶺鹿:レベル35】
【筋力 :118】
【耐久 :135】
【敏捷 :138】
【技量 :45】
【魔力 :105】
【精神 :38】
対して、俺が連れている二人組の数値を脳裏に並べる。
【ザック:レベル30】
【筋力 :112】
【耐久 :105】
【敏捷 :98】
【技量 :102】
【魔力 :42】
【精神 :65】
【ナギ :レベル28】
【筋力 :35】
【耐久 :45】
【敏捷 :60】
【技量 :85】
【魔力 :124】
【精神 :115】
(……なるほど。ハズレ、だな)
モンスターの能力にも当然個体差がある。この銀嶺鹿の耐久は135。対してザックの筋力は112。これではザックがどれほど必死に剣を振るおうと、鹿の皮膚を軽く裂ければ御の字だ。
ナギの魔法なら通るかもしれないが、それも当てられればの話だ。相手の敏捷値を考えれば、直撃させるのは至難の業と言える。
そもそも、当初の予定通りザックとナギの二人でコイツと対峙していれば、視界外からの一撃で前衛のザックが沈み、為す術もなく全滅していたのは間違いない。
(何にせよ難儀な相手なのは間違いない……俺の強化がなければ、だがな)
付与術は、決して万能な魔法ではない。
複数の項目を同時に強化しようとすればマナは分散し、効果は半減していく。
逆に、一つの項目に強化を絞り込めば、その効果は飛躍的に伸びる。
故に、適切なタイミングで、必要な能力を強化する。それが、エンチャント魔法の基本にして真髄だ。
この希少種を確実かつ迅速に仕留めるには、余計な補助をすべて捨て、リソースを一点に集約させる必要があった。
「ナギさん、氷の魔法で足を止められますね? 最大出力で。……ザックさん、他の補助は一切省きます。その代わり、一撃にすべてを乗せてください」
「おい、大丈夫なんだろうな!」
先程の一撃で全くダメージを与えられなかったザックが不安を隠せず思わず叫ぶが、俺は敢えてその言葉を無視する。
「……行きます。二人同時に施しますよ」
道中の、マナの消費を抑えた最低限の強化とは違う。正真正銘のエンチャント。
俺は両手を広げ、自身の魔力を深く絞り出すように、複数の術式を同時に編み上げた。
反射、敏捷、そして武器の強度保護。生存のためのあらゆる守りをここで切り捨て、それぞれの主兵装のみを一点突破で拡張する、制限無しのブースト。
「『魔力付与』。そして――『筋力付与』」
加えて、ザックの大剣へ『鋭利付与』の術式も編み込む。
――瞬間。
端から見れば、彼らの身体には何一つ変化は起きていない。
だが、術者である俺の目にだけは、二人の輪郭と大剣の刀身を隙間なく覆う、極薄の魔力の膜が張り巡らされているのが視認できた。
そしてステータスチェックに表示されている数値だけが、その変化の大きさを告げている。
【ザック:レベル30】
【筋力 :142(+30)】
【ナギ :レベル28】
【魔力 :149(+25)】
それは支援という枠を超えた、肉体に内包するマナへの強力な干渉だった。
「……っ、何これ。魔力が、体の奥底から勝手に……」
「……おいおい、なんだこの力は。腕が熱りやがる……ッ。それに剣が、異常に軽く感じるぞ」
二人の内側に宿るマナの圧力だけが、異常な高まりを見せていく。
今のザックの筋力値は「142」、対して銀嶺鹿の耐久値は「135」。この程度の差では両断とは行かないだろう。しかし、その不足分は剣の切れ味が補ってくれるはずだ。
その目に見えぬ『異常』を、希少種の野生の勘が的確に察知したのだろう。
これ以上待てば殺される。そう本能で理解した銀嶺鹿が、先程までの警戒をかなぐり捨て死に物狂いの突進を仕掛けてきた。
「ナギさん、今です。迎撃を!」
「……っ、いけ! 『氷界の檻』!」
向かってくる直線的な動きに対し、ナギの放った魔法は、もはやただの楔や妨害ではなかった。
銀嶺鹿の進行方向と周囲数メートルの地面から、大樹のような巨大な氷柱が無数に突き出し、一瞬にして空間を埋め尽くす。
行き先を失い、完全に機動力を封殺される銀嶺鹿。
「ザックさん、今です。角は避けて、首筋を一気に断ってください」
「……おおおおおっ!!」
激突。
氷の檻の中で身動きの取れない銀嶺鹿の首元へ、自らのものとは異なる力を得たザックの剣が真っ向から叩きつけられた。
空気を震わせる重い衝撃音が森に轟く。
極限まで鋭さを増した刃と、筋力142という純粋な暴力は、鹿の分厚い皮膚と筋肉に易々と食い込み、骨の髄、脊椎までもを一気に断ち切った。
素材として価値の高い白銀の角は無傷のまま、主を失った巨体が、ズシン、と重い音を立てて腐葉土の上に崩れ落ちる。
霧を真っ赤に塗りつぶす、鮮血の奔流。
森の希少種は、悲鳴を上げる間もなく絶命した。
静寂が戻る。
ザックの荒い息遣いと、ナギの杖からこぼれ落ちる冷気の音だけが、白く濁った森に響いていた。
二人は、自分たちが成し遂げた圧倒的な結果に、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「……信じられねえ。俺の一撃があれ程の……」
「……これが、エンチャント魔法の力なのね……」
陶酔に浸る二人へ、俺は外面の良い笑みを向ける。
「お見事。素材の価値を損なわない、完璧な連携でした」
(相手がライルなら攻撃の瞬間だけエンチャントを切り替える事も可能だが……即席のパーティーメンバーならこれで及第点だろう)
言葉とは裏腹の思考を思い描きつつ、俺は歩み寄りながら緊張を解いた彼らを労う。
「さあ、血の匂いで他の魔物が寄ってくる前に、素材の回収を。俺は周囲を警戒しておきます」
俺の言葉に我に返り、二人は弾かれたように頷くと、腰から解体用のナイフを取り出した。
ザックが手際よく皮を剥ぎ、ナギが慎重に白銀の角の根元へ刃を入れていく。
背後で鳴る、肉と骨を断つ生々しい音。
むせ返るような血の匂いが霧に混じり、鼻腔を強く突く。
俺は二人に背を向け、片手剣の柄に手を添えたまま、沈黙する霧の奥へと視線を巡らせていた。
――数分後。
背後で動く気配が変わり、解体作業が一段落したのを感じ取る。
俺は油断なく周囲を警戒したまま、振り返らずに声をかけた。
「……そろそろですかね?」
「……ああ、そうだな。……そろそろ頃合いだ」
ザックの返答。
だが、その声から先ほどまでの高揚は氷のように削ぎ落とされていた。
代わりにそこにあるのは、底冷えするような明確な殺意。
振り返ろうとした、その直後だった。
俺の背後で、ナギの杖が紫の燐光を放つ。
「『麻痺の抱擁』」
作業を終えた直後の、最も気が緩むはずの瞬間を狙った唐突な裏切り。
不意を突かれた俺の全身は、禍々しい紫の術式によって完全に飲み込まれたのだった。
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