深く、奥へ
静謐の古森・中域
森の空気は湿り気を帯び、踏み締める腐葉土の音がやけに低く響く。
高くそびえる樹々が陽光を遮り、森の中は昼間だというのに永劫の夕暮れのような薄暗さに包まれていた。
ふと、微かな風の澱みを感じて、俺は歩みを緩めた。
薄暗い木立の奥から、生臭い水気と明確な敵意が漂ってくる。
「……前方に三体。来ますよ」
俺の静かな警告に、ザックが腰を落として剣の柄に手をかけ、ナギが短い呼吸で魔力を練り始める。
直後――。
湿った腐葉土を蹴り、森の影からリザードマンが三体、躍り出た。
先頭の一体が、鋭い爪を突き出しザックへ肉薄する。
「ザックさん、右からです。『筋力付与』」
俺の指先から放たれた魔力が、ザックの腕に吸い込まれる。
俺が通常の戦闘でかける付与魔法は、あくまで必要最低限だ。
ザックの剣筋は悪くない。だが、リザードマンの分厚い鱗を相手にするには、その踏み込みだけでは僅かに「浅い」と見抜く。
急所を捉えても、肉の薄い部分を削ぐ程度で止まってしまうだろう。
その予測される未来を、俺の付与で塗り替える。
対象の基礎能力と魔物の強度を天秤にかけ、効果的なダメージを与えられるギリギリのラインに強化値を調整したのだ。
「助かる! はあっ!」
本来なら鱗に阻まれ、浅い傷で終わるはずだった一閃が、その奥にある脊椎まで易々と届く。
抵抗を最小限に抑え、骨ごと断ち切る重い感触。
手応えを確信したザックが、流れるような動作で剣を引き抜き、次の一体へと意識を向けた。
「ナギさん、詠唱を急いでください。『高速詠唱』。右の二体の足止めを」
俺はナギの魔力循環に、指先で触れるように魔力を流し込む。
彼女が魔法を形にする際、魔素を練り上げるのにかかる僅かな「停滞」を、俺の付与が滑らかに繋ぎ合わせた。
「――っ、『氷結の鎖』!」
自分の予想を上回る発動の速さに、ナギの瞳に驚きがよぎる。
一拍早く放たれた氷の礫が、残る二体の足元を凍りつかせ、その動きを完全に止めた。
逃げ場を失い、身をよじらせる魔獣の眉間を、ザックの追撃が正確に貫いた。
毎回無駄に力を注ぎ込んでいれば、道中で魔力が枯渇することになる。
ダンジョンやフィールドの攻略を主とする冒険者にとっては、それは命に関わる事態だ。
魔力消費を抑え、効率を最大化することこそ、俺が長年研鑽してきた部分であり、戦場における付与術師の『役割』だ。
最後の一体が倒れ伏したのを見届け、俺は『状態確認』を展開する。
三体すべての生命力が完全に消失したことを数値で確認し、ようやく腰のナイフを抜いた。
まだ熱を帯びたままのリザードマンの死体に歩み寄り、流れるような手つきで鱗を剥いでいく。
解体した素材の汚れを払い、俺は腰に下げた小振りの革鞄へ、それらを次々と収めていった。
別のリザードマンを解体していたナギが、手を止め、落ち着いた声で感嘆を漏らした。
「……すごいわね、それ。マジックバッグでしょう? カインさん」
「ええ、まあ。そんなに良い物じゃありませんが」
「そんなことないわ。こんな小さな鞄に、そのサイズの素材をいくつも。……私たちのような中堅のパーティーじゃ、一つ持つのだって相当な苦労が必要なのに。羨ましいわね」
ナギは静かな、だが確かな知識に基づいた称賛の眼差しを俺の腰元に向けていた。
「……はは、ありがとうございます」
俺は曖昧な笑みを返し、指先で鞄の縁を撫でた。
――――――――――――――――――――――――
「カイン。これ、持っていきなよ。僕らの『お古』で悪いんだけどさ」
パーティーを離脱すると告げた酒宴の場で、ライルがいつもの穏やかな口調とは裏腹に、少し不器用に投げ渡してきたのが、この鞄だった。
「だが、これは……」
俺は鞄の重みを掌に感じながら、思わず言葉を詰まらせた。
マジックバッグ。容量拡張と重量軽減を併せ持つ、冒険者にとっては至宝とも呼べる希少品だ。
同時にそれは、かつて俺たちがパーティーとして初めて挑んだ過酷なダンジョンで、死に物狂いになって手に入れた、記念すべき最初の『共有財産』でもあった。
俺一人が持ち去るなど、理屈に合わない。
「いいんですよ、カインさん。私たちが、そうしたいと決めたんですから」
俺の躊躇いを見透かしたように、プリーストのミリィが穏やかな微笑みを向けてくる。
「そうだよ。ソロでやってくんでしょ? 誰も助けてくれないんだから、それくらい持って行きなさいよ!」
ウィッチのララは、顔をプイっと横に向けながらも、どこか鼻声でそう言い放った。
確かに、最近ダンジョンで見つけた新しいマジックバッグに比べれば、容量も劣るし使い込まれた「お古」なのは事実だ。
だが、冒険者にとって、マジックバッグはいくつあっても持て余すような代物ではない。
複数持っていれば活動範囲は格段に広がるし、万一の時のために物資や財産を複数に分けるなどしてリスクを分散できる。
単純に換金すればそれだけで数年は働かずに暮らせるほどの財産にもなる代物だ。
俺が離脱を告げたのは今日のことだ。事前に示し合わせる時間などなかった。
それなのに、別れの席で誰からともなく自然と「カインに持たせよう」という流れになり、あいつらは自分たちの貴重な財産を惜しげもなく手渡してくれた。
それがどれほど不合理な選択か、熟練の冒険者であるあいつらが理解していないはずがない。
そこに打算や理屈は一切なく、ただ不器用なまでの情があった。
彼らなりの、底抜けた厚意の塊。
言葉にするのを避けるように投げ渡されたその重みは、どんな訣別の辞よりも雄弁に俺の胸に突き刺さっていた。
――――――――――――――――――――――――
「……カインさん? どうかしましたか?」
ナギの落ち着いた声に、指先が止まる。
「いえ、なんでもありません。さて、先を急ぎましょうか。暗くなる前に良い野営地を見つけたい」
「ああ、そうだな。行こうぜナギ」
ザックが応じ、ナギを促して先に歩みを進める。
二人が数歩先行し、俺が殿を務める形で歩き出した。
その後ろ姿を、一歩引いた位置から静かに眺める。
剣士のザックは幾度かの戦闘でなかなかの剣筋を見せており、魔導師のナギも概ね状況に合わせた魔法を放っていた。
時折粗さも見えたが、このまま俺が最後尾からフォローしていけば、森の深部までは特に問題なくたどり着けるだろう。
俺は静かに、深部到達までの道筋と、その後の動きを脳内で描き直した。
――――――――――――――――――――――――
その後も何度か魔物との遭遇はあったが、いずれも致命的な事態には陥らず、その日の探索は順調に終わった。
夜は大きな樹の根元に陣取って、交代で火を囲んで過ごすことになった。
魔除けの香を焚き、パチパチと薪が爆ぜる音を聴きながら、ザックがポツリと身の上話を切り出してきた。
「……悪いな、カインさん。一人のところを無理に誘っちまって。でも、あんたのおかげで明日は予定より早く目的の場所まで行けそうだ」
「いえ、気にしないでください」
俺は穏やかに言葉を返す。
外面の良い、落ち着いた熟練者の仮面を一枚も剥がすことなく、ザックの話に相槌を打つ。
「実は俺たち、違う街から最近このリンドールに来たばかりなんだ。前は四人でパーティーを組んでいたんだが……」
ザックの声が、少しだけ低くなった。
「かつての街では、気の合う仲間四人で家族のように過ごしていた。だが、ある大きな討伐依頼の際、不運が重なって仲間を二人失った。残された二人では、その街に漂う喪失感に耐えられず、新天地を求めてここへ流れてきたんだ」
「……」
俺は穏やかな微笑を浮かべて、静かに耳を傾ける。
ザックの語る身の上話は、冒険者として生きる以上、決して珍しい悲劇ではない。
だが、そういう事情があるなら、剣士と魔導師という、継戦能力に不安のあるこの偏った構成にも納得がいった。
俺は揺れる炎を見つめながら、ふと、今はもう隣にいないあいつらの顔を思い浮かめる。
ザックの言う「家族」という言葉。そのひと言に感化されたのかもしれない。
(あいつらのことだ、新しい仲間と顔合わせと称して今頃酒盛りだな)
ふと、そんな考えが脳裏をよぎる。
だが、俺はすぐにその思考を切り離した。
ここは魔物が息を潜める森の夜だ。過ぎた感傷に意識を割き、警戒の糸をわずかでも緩めるような真似は許されない。
夜の番は、俺を含めた三人の交代制。
俺は自分の番が来るまで、あるいは終えた後、最低限のマナを練ってから速やかに仮眠に充てた。
もっとも、それは完全に意識を断つ深い眠りではない。
脳の片隅を鋭敏に尖らせ、周囲の微かな気配の変化を拾い続けながら、身体の疲労だけを抜き取っていく。
熟練の冒険者として長年培ってきた、生存のための「半醒」の眠りだ。
半醒の意識の中で拾う二人の気配は、ただひたすらに静かだった。
仮眠中の相手を気遣ってか、交代の際にも一切の私語はなく、衣擦れや薪をいじる音すらも最小限に抑えられている。
時折、焚き火の爆ぜる音だけがやけに鮮明に鼓膜を叩いた。
俺は無用な思考を凪がせ、静かに、しかし確実に夜が明けるのを待った。
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