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アマデウス・アウローラは途方に暮れていた。
アマデウスの長い人生の中、唯一取った愛弟子が最愛の妻を亡くしてもうすぐひと月。その間ミセルの仕事も義務も、アマデウスが魔塔主の権限で全て勝手に免除していたけれど、流石にあのミセルがひと月も魔塔を開けたともなれば多くの魔法使いや魔術師達から苦情や懇願が届くようになったのである。
ミセル・フォルトム。奇跡の天才、魔塔の至宝とも呼ばれるまごうことなき人類の宝。比較的感覚派であるアマデウスとは違い、理論を組み立て、現象を詳らかにすることを得意とするミセルによって齎された発見や利益は両手両足を使っても数えきれないほどにある。そんなミセルに師事を望む魔術師は山程存在しており、ミセルと議論を交わしたいと望む魔法使いもまた少なくない。
ミセルが妻を亡くしたことやその悲しみの大きさは、まぁひと月前の騒動からして知らない人間はまず居ない。それでも流石に事故から一ヶ月も経てば、ミセルを望む魔法使い達の声も無視できない程度には大きくなるのである。
「いやだなあ。憂鬱だなあ。何が悲しくて打ちひしがれてるであろう可愛い弟子の心にムチを打ちに行かなきゃならないんだ」
しかし、アマデウスはただのミセルの師ではなく、魔塔の主でもある。魔塔に籍を置く魔法使いや魔術師達の願いを一様に退けるわけにはいかない。アマデウスには、魔法という概念を作り上げ、魔塔を作った責任があるのだ。
「……分かってるけど、憂鬱だなあ〜〜〜」
「魔塔主様、良い加減にしてください。馬車はもうとっくに魔塔主様を待って下で待機していますよ」
「でもさあ〜〜……」
この頃秘書をさせている、成り立ての若い魔法使いは真面目な性格をそのまま表したような表情で眉間に皺を作っている。「君だって知ってるだろ」とアマデウスが唇を突き出すと、若い魔法使いはますます眉間の皺を深くした。
「知っていますよ。あれだけ騒がれていたんですから、当然です。……奥方の遺体は、まだ埋葬されていないようで」
「そう。ま、想定内ではあるかな。いやあ、まさかあの子があそこまで一人の女の子に執着するようになるとはねえ」
「だとしても、行き過ぎだと思います。あんな、……あんな酷い死体を、かき集めて、抱きしめて、血や肉片が付くのも気が付かないほど真剣に抱きしめるなんて。あの時のミセル様は、明らかに正気ではなかった」
「どうだろうね。案外、シラフであれだったのかも。ミセルはハイリを随分愛してたから」
「愛なんて。不毛です」
「不毛だよねえ。特に人間相手は」
アマデウスは頬杖をつきながら苦笑する。「どの道、置いていかれるのには変わりないんだから」と続く言葉には、弟子を気遣う色の他に、どこか寂しげな色が混じっていた。
魔法使いと、その前身である魔術師の違いは一つ。人という生き物であることを超越したかどうか、という点である。
魔法使い出現以前。つまり、アマデウス以前の時代には、この世界には魔術師だけが存在していた。魔術という未知の分野を解明するべく日々研鑽に励む、いわば研究者達。そんな中に彗星の如く現れて、魔法使いという全く新しい概念を生み出したのが、魔法使いの租、アマデウス・アウローラだった。
魔術を極めた先に、魔法がある。魔法に辿り着いた人間は自身の身体の時の流れさえ思い通りにしてしまえる神秘を手に入れる。魔力さえあれば食事も睡眠も、生きるだけなら摂らなくても構わない。頭を動かしたり戦ったりと、カロリーを使うことをするならそれ相応に生命活動も必要になるが、理論上は魔法使いになれば不老不死もまた夢ではない。
事実、アマデウスはもう千年以上は生きている。確かミセルは三百歳だ。三百年、自分の探究欲のため、研究のためだけに生きていた男がようやく愛を知ったのが今だった。
魔法使いに至るのに必要なのは、まず才能。努力や根性なんてものでは辿り着けない才能の境地こそが魔法であり、魔法使い。
人は誰しも魔法使いを一度は目指す。それでもその大半は魔術師にさえなれないほどの素質しか持ち合わせずに、魔法使いに至るほどの才能ともなれば更に稀である。
そんな魔法使いの祖であるアマデウスは、これまで聞き飽きるほどの賞賛を浴びてきた。
「それでも、私はあの子が羨ましいよ。あんな風になるまで人を愛せるって、一体どんな気持ちだろうね」
「魔塔主様」
「恨まれてるかなあ。変に不老長寿なんてオプション付けちゃってさ。よくもこんな人生に引き込んだなって憎まれるかも……」
「良いから行ってください、魔塔主様。御者が良い加減待ちくたびれてる頃です」
「あいでっ!君最近私への対応が雑じゃない!?」
「三十年もお世話をしているので、当然かと。魔塔主様にもすっかり慣れました」
「……三十年。うわあ。いつの間にそんな時間が。てっきり君ってまだ成り立てだとばかり」
「後輩がいないことを考えれば、まあそれも間違いではありませんが。ほらさっさと行く!」
「あいで!いてて!わかった、わかった、行くから!!」
蹴るのもうやめて!と偉大なる魔塔主が叫ぶ。偉大なる魔塔主を力技で蹴り出した今のところ一番若い魔法使いは、そんな魔塔主に仕方がなさそうにフッと笑ってただひと言、「お気をつけて」と送り出した。
あの人は唯一かつ一番弟子のミセル様が絡むと、すごく臆病になるのである。こういう時は、こうやって力技に頼るくらいがちょうど良い。
さて、そうして魔塔を追い出された魔塔主は、馬車に乗り込みその中でもまた「あ〜〜〜〜……」と項垂れた。アマデウスであれば、魔法を使ってあっという間にミセルの屋敷に行くことも可能だけれども、敢えて馬車を選んだのはアマデウスがミセルの元を訪問したと分かりやすく見せるためだった。
それ以上に、出来る限り先延ばしにしたかったアマデウスの悪あがきでもあったけれど。
それでも馬車は車輪を回す。アマデウスが着くな着くなと念じるほど、馬車は無慈悲にもミセルの屋敷へと辿り着いた。壮大な門は魔法がかけられていて、基本的にはミセルの許しがなければ中に入れないようになっている。師匠であるアマデウスだけが例外だ。アマデウスの方が魔法の腕は当然優れていて、門にミセルが施した魔法がみるみるうちにスルスルと解けて行く。巨大なギィ、と音を立てて門は一人でに開き、アマデウスは重い足取りを一歩先へと踏み出した。
『………アマデウス!!』
───幻聴が、聞こえたような気がする。
アマデウスはため息を吐いて俯かせていた顔を持ち上げた。まさかあの子の声が聞こえるなんて、アマデウスも中々ハイリのことを気に入っていたらしい。誰よりも無垢であった異世界人。人でありながら人を辞めた魔法使いへの偏見も差別も持たず、信仰を持つわけでもなく、ただ純粋な憧れと友情を与えてくれた少女。確かに、アマデウスもあの子のことが好きだった。
しかし、まさかここまで来てミセルと傷の舐め合いをするわけにも行かない。アマデウスはまた一歩重い足先を踏み出して、それから今度こそ視界に飛び込んできた幻覚じみた光景に動揺する。
「………は??…………ハイリ???」
確かめる、というよりは、意図せず溢れたような声だった。目の前にいる、死んだはずの人間がそんなアマデウスに目を見張る。あり得ないはずの光景。あり得ないはずの景色。
『…………視えるの!?』
あり得ないはずの、声。
まるきり幻のようなそれを、けれどアマデウスの"目,,が幻であることを否定する。
ミセル・フォルトムの妻、ハイリ・フォルトム。旧姓を、ハイリ・イノセ。
ミセルが長い人生の中で唯一愛した人であり、アマデウスにとってもかけがえのない友であったかつての少女は、確かにそこに存在していたのである。明らかに、命を亡くしたものとして。亡霊として。