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『思えば、あの頃のミセルってすごく人を馬鹿にした態度だったよねぇ……』
気を抜けばふよふよと浮き上がってしまう身体のまま、頬杖をついて独り言を呟いた。ミセルはやっぱり私に気が付かないまま、真剣な表情で古い本を読み込んでいる。朝から晩までずっと同じ体勢のまま。いくら魔法使いが食事を殆ど必要としないからって、これではあまりに不健全だと思うのだけれど。
『別にあからさまに人を見下してるってわけじゃないけど、滲み出てるっていうか、諦めてるっていうか、期待してないのが丸わかりというか。理屈っぽいしどことなく嫌味だし、ミセルの興味の先と言えばこの世界の未知ばっかりで……。結構しっかりひとでなしだし、正直、私もあの頃はミセルのことが苦手だったなぁ。ねえ、覚えてる?この家に来た最初の日、ミセルってば私に、被検体らしく大人しく、健康にさえ気遣ってくれたらそれで良いって言い捨てたんだよ?』
人の心がないというか、わからないというか。多分わかりたいとも思ってないんだろうな、とか。私があの時ミセルに抱いていた印象といえば、そんなものに尽きた。自分とラエトゥスが本当は面識がなかったこととか、異世界人のサンプルが欲しかったこととか、簡単なネタバラシと説明だけすると自分はさっさとこの地下の研究室に篭っちゃったし。
恐らく、私が逃げることはないと分かっていたのもあるのだろう。家族とも離されて、家を無くして、やっと出来たと思った家族はあっという間に死んでしまった。私が行ける場所なんてどこにも無くて、そもそもこの世界の常識も碌に知らなければ、お金を稼ぐ方法すら知らなかった。必然的に私はこの屋敷で大人しくしていることしか出来なくて、毎日本を読んで過ごしてたっけ。
それから、思い出したように現れるミセルの健康診断みたいな定期検診を受けて、いつだったかな。紙に私のことを書き込むミセルに話しかけたら、ミセルがそれに応えてくれたのだ。
我ながら切り出した話題も中々良かったと思う。ミセルは自分の知らない異世界の話には比較的によく耳を傾けてくれて、同じ屋敷に住みながらずっと他人だった私達は、少しずつ会話を重ねるようになっていった。
『……人って、やっぱり変わるものだね。少し前までは、それがすごく嬉しくて、幸せだったけど』
色々なことがあった。私達は少しずつ距離を縮めて、まず友人になっていった。馬鹿をしたことだってある。私がミセルの手を掴んで、用水路の中を必死に走っては大きな蜘蛛や蛇から逃げたことも。馬鹿みたいなことをして、馬鹿みたいに笑い合って、いつしか元の世界や研究の話みたいな真面目な話だけじゃなくて、くだらない話を交わすようになっていった。
ミセルの目に、柔らかな色が混じり始めたのはいつだっただろうか。ミセルが伸ばす手が、優しいものになったのはいつだったか。
魔法使いにとって、髪の毛はとても大きな意味を持っている。魔力を宿すという性質があって、多くの魔術師や魔法使いは髪をとても大切に伸ばして他人には触れさせない。だけどいつからかミセルは私に長い髪を触れさせて、編ませるようにさえなっていた。ミセルが魔法で編むよりも、余程不恰好な三つ編みまじりのポニーテール。ふざけて二つ結びにしたことも、思い切ってラプンツェルみたいな大きな三つ編みにしたこともあった。
ミセルはその度に呆れ、笑い、時々「合理的だ」と言って喜んだ。二人で並んで町を歩くことも増え、前みたいに荷物を持たされることはなくなって、エスコートされるようになった。
「すきだ」と、最初に告げたのはミセルの方だった。その時私はまだ恋というものを知らなくて、随分と戸惑っていたように思う。それでもミセルは、あのミセルが顔を真っ赤に染めて真っ直ぐに言葉を告げたのだから、私もまた顔を赤くして真剣にミセルのことを考えたのだ。
そうして私達は恋人になって、夫婦になった。
ミセルは、最初に会った時が嘘のように真っ直ぐに私を愛してくれた。ミセルは、私が思っていた何十倍も愛に真摯な人だった。
私はずっと、ミセルの変わりようが面白くて、嬉しくて、幸せだった。ミセルが私にだけ見せてくれる陽だまりみたいな笑顔が好きだった。ミセルが私にだけ時折見せてくれる、無垢な少年のような表情が好きだった。ミセルが私にだけ向ける、甘やかな瞳に恋をしていた。
だけど、死んでからずっと思うのだ。
こんな風になってしまうくらいなら、私はミセルに関わるべきではなかった。ただの被検体として、研究材料として、同じ屋敷に住んでいるだけの他人であり続ければ良かったと。
だって出会ったばかりの頃のミセルなら、一人の人間が死んでしまったくらいで、私が死んでしまったくらいではこんな風には決してならなかったはずだから。私がミセルを変えてしまった。そのせいで、ミセルは今、こんなにもボロボロになって苦しんでいる。
それを嬉しいと思うには、私もまた、あまりにミセルという存在が大きくなりすぎていた。
『……今日は、もう辞めよ。ミセル、少し外の空気を吸ってくるね』
外の空気吸うも何も、今の私には肺すらないわけだけれども、そこはもう気分の問題である。相変わらず届くことのない声をそれでもミセルにひと言かけてから、私はドアをすり抜けて、すっかり落ち込んだ様子で地上へ登った。
私の身体は相変わらずガラス張りの部屋の中、色とりどりの花達に囲まれていて、まるで眠っているような表情でそこにある。ミセルの手がけた作品とも言えるそれを横目に、私はいっそ憎らしいほどの快晴を見せる空を睨むように見上げながら庭を歩いた。
地縛霊、というものなのだろうか。もしかしたら未練の問題かもしれない。私はこの屋敷の外、というか庭の中でも一定距離以上を進めず、門にすら辿り着けないようになっている。本当は町にでも出て、霊能力者とか、私が視えるひとでもいないか探しに行きたいのだけれどもそうは行かないのだ。幽霊も中々に世知辛い。
『……いっそ、誰か来てくれないかな』
私が行けるギリギリのところまで足を伸ばしてしゃがみ込む。視線の先には門があって、今はちょうどそこに馬車が停まったところだった。
『………はあ』
だけど、馬車が停まったくらいで今日も今日とて門に異変はない。人が降りてきて、一人でに門が開いた程度の………
『………………えっ!!??』
噂をすればなんとやら!噂というか願望だったけど、あまりにもタイミングが良すぎる!とうとう一ヶ月も変わりがなかったこの家に、私もミセル以外の人が現れた!!
しかも、門が勝手に開いたことからして、恐らく客人は魔法使いか魔術師だ。そういえば、ミセルがあんまりにもSAN値がピンチな様子ですっかり頭から抜け落ちていたけれど、教授とも呼ばれる魔法使いが魔塔に出勤しなくなって一ヶ月。確かにそろそろ呼び戻されてもおかしくはない。
そのついでに、最悪ちょっと平手打ちくらいならしても良いから、ミセルのことを正気に戻してくれたりしないかな。その点を思うと理想的なのは、やっぱりミセルと同じ魔法使いなわけだけど。
『………アマデウス!!』
私はわっと声を上げた。今日の私はとことんついている!
なんと言っても現れたのは、白いローブの魔法使い。オーロラの髪を持つ、魔塔で一番偉い魔法使いにしてミセルの師匠。アマデウス・アウローラだったのである。
馬車から降り立ったアマデウスはどこか憂鬱そうにため息を吐いて、それから屋敷を見つめ、更にははしゃぐ私に気がついて、ぽかんと彼にしては珍しく、呆気に取られたように口を開いた。
「………は??…………ハイリ???」
『…………視えるの!?』