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幽霊、とでもいうのだろうか。
生前はまさかそんな迷信じみた存在に自分がなるとは思っていなかったけれど、なってしまったものは仕方がない。私が今の実態を伴わない幽霊として目覚めたのは、死んでから一週間も経たない頃だったと思う。
享年は19歳。死因は事故死。圧死でもあったのかもしれない。それとも打ち所が悪かったのかも。建設途中のレンガの建物が倒壊して、その側を歩いていたせいで巻き込まれてしまったのだ。
普段私が街に出掛ける時は大抵ミセルが一緒だったけれど、ミセルはその日外せない仕事があって一人だった。友人が新しく出した花屋に顔を出したついで、散歩をして帰ろうと思ったのだ。馬車を返して、随分と久しぶりに一人で街を歩いていた。
誰かの悲鳴が聞こえたような気がした。だけどそれに反応するよりも先に大きな影がいきなり私を覆い隠して、ハッとして上を見上げた時にはもう手遅れだった。瓦礫は私の目前まで迫り、逃げることもできないまま私は押し潰されて死んだのだ。
最期の瞬間、思い出したのはミセルのこと。あの人はあれで寂しがりやで甘えん坊なところがあるから、きっと悲しませてしまうと、人知れず泣くかもしれないと心配したのが最期だった。
だってミセルは、誰にも涙を見せられない人だった。私の前で泣いてくれるようになるまでも、大変だったのだ。とても、長い道のりだった。ミセルはまた一人で泣いてしまうのかもしれないって、それとも泣くことさえできないのかもしれないって思うととても悲しくて、心配で。もしかしたら私が幽霊として目覚めたのも、そのせいだったのかもしれない。
死んでから、数日後。死んだはずの私はどうしてか再び目を覚ました。住み慣れた屋敷で、ぽつりと立っていたのである。
ミセルが作った魔法で動くカレンダーが指し示す日付は、私が死んでからほんの数日しか経っていないことを指し示していたのに、それとは反対に屋敷は随分と淀んだ空気に包まれているようだった。使用人達は一人としていなくなり、きっといとまを出されたのだろう。
そんな屋敷で幽霊として目覚めた私は、その時はまだ自分が幽霊だとは気付いていなかったけど、とにかく真っ先にミセルを探すために屋敷を駆け回った。
夫婦の寝室、ミセルの書斎、食堂、テラス。あちこちを探してようやく見つけたミセルは、しかし本来解けば足元に付くほどの長さがあった髪を首元のところでバッサリと切り落とした姿で、あちこちが裂けたり破裂したみたいに押し潰された私の身体を、針と糸とで縫い合わせていたのである。
『…………ミ、セル……?』
なにを、しているの、と。掠れた声は、けれどミセルには届かなかった。伸ばした腕はミセルをすり抜け、呼べばいつだって真っ直ぐに私の目を見つめたミセルは、それでも私を振り向かなかった。
ミセルの端正な顔立ちはとても真剣な表情で"私,,を見つめていて、ステンドグラスを作れるほど器用なミセルの手は、ひと針ひと針丁寧に私の身体を縫い付けていた。ぶらりと中途半端に切れた手首を縫い合わせて、押し潰されてなくなったところには人魚の皮膚をあてて修復していた。時折まるで私が生きてるみたいに私に話しかけては思い出話を懐かしみ、形の良い唇がそっと私の髪に口付けられていた。
何時間も、何十時間も、何日もかけて、ミセルは丁寧にツギハギだらけの私を作り上げた。ミセルに言わせれば、治した、ということらしい。
そうして出来た"私,,に、ミセルはクローゼットにある私のドレスを着せて、私が生前気に入っていた揺り椅子に慎重に座らせた。身体が一向に腐らないのは、きっとミセルがそういう魔法をかけたのだろう。
ミセルはそれから、今まで欠かさず通っていた魔塔へ行くのを辞めて、自分の生活さえ後回しにするようになって、一日の殆どを地下にある屋敷の研究室で過ごすようになっていった。
ミセルが地下から出てくるのは、一日に一回。起きてすぐ、ガラス張りの温室に置かれた"私,,に「おはよう」を告げる時だけだった。それ以外の時間を、ミセルは地下の研究室で、どうやら私を生き返らせる為の研究に捧げているらしいのだ。
───幽霊になってから、何度だって思う。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
どうして私は、この人をたった一人置いて死んでしまったのだろう、って。