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思い返せば、確かに夫は愛に真摯な人だった。
些細な仕草や言動からもそれが滲み出ていたように思う。部下には随分と厳しいこともいう上司だったようだけれど、私の前では決まっていつもの、何を考えているのか分からない飄々とした表情も柔らかく緩められて、話す時には高い背丈を屈めて目を合わせて、ちゃんと耳を傾けてくれていた。些細なお願いも、呆れるような我儘も、いつだって真剣に叶えようと奔走してくれるような人だった。
私を見つける度輝いた瞳。細められた優しい目。甘やかな声に、私を抱きしめる両手の力。まるで全身を使って私を愛しているのだと伝えてくれるような夫の愛は、いつだってどうしようもなく真っ直ぐで、疑いようもない程に愛だった。
だから私は、自分が夫に愛されて大切にされていることを一度として疑ったことがなかったし、未来のことだって一度として心配したこともなかった。きっとこの人の愛はどんなに時間が経っても揺るぎなくて、私の愛もまた褪せることはないのだろうと、心の底から信じて、安心して、幸せに暮らしていたのだ。
まさか夫の愛が深過ぎるが故の弊害が現れるだなんて、考えたこともなかったのである。
「おはよう、ハイリ。今日も外は晴れるみたいだよ。君の好きな花も咲いてる」
『おはよう、ミセル。今日も後ろの髪の毛が少し跳ねてる』
ふわりと微笑む私の夫、ミセル・フォルトム。何百年と生きていながら、青年と呼べるほどに若々しい姿。端正な顔立ち、高い背丈。魔塔に勤める魔法使いであり、国からも何度か表彰を受け、爵位を与えられるほど優秀な功績を残して来た人でもある。魔法使いらしく、魔力を貯蔵する為にと何年も伸ばしていた艶やかな黒髪は少し前に肩のところでバッサリと切ってしまって、ここ数日は数百年ぶりかの寝癖に悩まされているようだった。
魔塔では何人かの生徒も弟子として抱え込んでいて、教授とも呼ばれている人。その呼び名に相応しく厳格で規則正しい生活を好む生活をしていたこの人は、けれどここ最近、すっかり昼夜を忘れた生活を送っている。今だって、おはようと言いながら、起きて来たのは昼過ぎだ。
「昨日はね、中々面白い文献を見つけたんだ。やはり国立図書館にも偶には足を伸ばしてみるべきだね。隠された書庫にも入り込める貴族の身分も、今となってはありがたい」
『昔は貴族なんてしがらみだらけの立場、鬱陶しくてしょうがないって言ってたのに』
「もう少し研究が進めば、君の傷ももっと綺麗に治せるようになると思う。私は君がどんな姿だって、どんな人だったって、ハイリがこの世の誰よりも綺麗だって心の底から思うけれど、君はやっぱり気にしてしまうだろう?」
「君が悲しむ顔を見るのは嫌だ」と子供のような口ぶりで眉を下げながら、ミセルが私の手を取る。大きな縫い目がぐるりと一周ついた手首。手の甲から肘までが一部変色した皮膚。ミセルが修復した身体。それを心底愛しげに見つめるミセルの横顔を、私は何とも言えない表情で見下ろしていた。
『……ミセル、ミセル。ねえ、もう辞めて。このままじゃ、あなたまで倒れちゃうよ』
「ねえ、ハイリ。私は、俺は……。早くまた、君の声が聞きたいな」
『ミセル……』
雨の中の蕾が雫を溢しながら静かに綻ぶような、とても穏やかな、愛に溢れた表情でミセルはそっと微笑んだ。
どうしようもない程に真っ直ぐな愛情が向けられているのがわかる。だけど私が伸ばした手はミセルをすり抜け、かける声には気付いてすら貰えない。どんなに話しかけても、ミセルは私がここにいる事すら知らないままで、ミセルの柔らかな赤い瞳は相変わらず空っぽの"私,,を見つめたままだった。
事故によって私が命を落として、もうすぐひと月。
夫は今日も、私の死体と暮らしている。