1回目仕手戦
● 1回目仕手戦
本木一也がなぜユタカ・インダストリー株に狙いをつけたのか。そもそものきっかけはひょんなことからだ。ある日のこと、本木は自慢のキャデラックで吹田市内を流していると、地下鉄御堂筋線の江坂駅の近くで江坂スポーツセンターという看板が目にとまった。行先看板に従って近くに行ってみると、広大な敷地にある江坂スポーツセンターが視野に入ってきた。遠くからゴルフ練習場のネットが見えた。大きな駐車場まで備えていた。彼は車をここに停めて中に入って行った。確かここは以前、北海道紡績の大阪工場があったところだと思い出した。工場敷地跡に3階建てのゴルフ練習場があり、テニスコートは室内・屋外あわせて10面、野球場や、美術館まである。備え付けの案内のパンフレットを手に取って見ると、美術館にはロダンやジャコメッティ、マルタパンの彫刻も展示されているようだ。併設のレストランには紡績工場の面影がある。工場の赤レンガの塀をそのまま残してレストランが造られている。
本木は不動産屋だ。大阪にこんな広大な土地が残っていたことに大変興味を持ち、自社に帰ってすぐさま、誰のものなのだろうと調べてみた。江坂スポーツセンターの運営会社はサン・ロードとなっていたが、これは北海道紡績が社名変更したものだった。更にサン・ロードには親会社があることがわかった。愛知の有名な自動車会社のユタカ・インダストリーである。
札幌証券取引所に上場していた北海道紡績は、大正時代から発展を遂げ、長年にわたり北海道経済を支えた名門であった。そんな名門企業がユタカ・インダストリーの子会社に成り下がったのも数奇な運命だ。主力の旭川工場が手狭になり、大阪吹田市に移転した。当時、紡績工場を支えたのは女工さんたちで、九州出身者が多かった。北海道では人を採用しにくく、大阪の方が都合がよい。こうして大阪へ進出したのだ。紡績は戦前、日本経済を支えた主力産業だった。しかし、戦後の高度成長期にしだいに斜陽産業になって行った。北海道紡績は紡績機械の設備更新のために、ユタカ・インダストリーから購入した繊維機械の代金が払えなくなるほどにまで、資金に行き詰まった。しかたなく、オーナーが保有する同社株式を繊維機械の代金に充てた。こうして、ユタカ・インダストリーは北海道紡績の持ち株を増加させることになり、同社を子会社化して行った。とうとう完全子会社になり上場が廃止されると、親会社の経営判断で紡績を断念して、多くの女子従業員を解雇したうえで、業種転換をはかった。かつての紡績工場はすっかり姿を変えて、スポーツセンターになっていたのだ。本木一也は大阪の一等地にこんなに広大な土地があるのを見て資産価値を推定し、うらやましく思った。何とか自分のものにしたいものだと思った。こうして、彼は親会社のユタカ・インダストリーに目を付けることになった。
ユタカ・インダストリーは、日本経済を引っ張るユタカ自動車の筆頭株主で、保有するユタカ自動車株の資産価値だけで1兆円を上回る。それなのに市場が評価するユタカ・インダストリーの時価総額は1兆円であった。言い換えると同社の本業である繊維機械、産業車両、カーエアコン用コンプレッサー、エンジンなどの事業はゼロと評価されていると言える。これらが評価されれば企業価値は倍でもおかしくない、と本木一也は考えた。更に同社は、グループのユタカ電装、愛心、ユタカ通商、ユタカ不動産などの株式を大量に保有している。いわば、ユタカグループの持株会社的存在だ。しかし、こちらも全く評価されていない。隠れた企業価値に目をつける仕手がこれを見過ごすはずがない。安い買い物になると本木一也は思った。
ユタカ・インダストリー自身の大株主はと言えば、筆頭のユタカ自動車が24.8%を保有し、その次は、東海BK、三井BK、三和BKと都市銀行が続く。銀行は安定株主とはいえないから、安定株主の持分はユタカ自動車保有の約25%に過ぎない。グループの中で安定株主比率が最も低い状況にあった。本木一也はここに目を付けた。自分のようなタチの悪い仕手筋が買い進めば、必ず、グループ会社が買い戻しに来るとふんだのだ。
こうしてユタカ・インダストリーに狙いをつけるに至った本木一也は、日本土地の名で市場において同社株を買い集めて行った。もちろん資金の大部分は、違法な上部団体から出ていた。ユタカ・インダストリー株をめぐる仕手戦が開始された。
本木一也は同社株を500万株ほどまで買い集めたところで、ユタカ・インダストリーに電話を入れた。「豊雅年社長はいらっしゃいますか。本木というものですが。」柳田勇治秘書室長が電話に出た。「どちらの本木様でしょうか。」「貴社の株主で、本木といいます。今、貴社の株を買い集めているので社長様にご挨拶を、と思いましてお電話を差し上げています。」柳田がしばらく間をおいて「あいにく社長の豊は不在でして、電話にでることができません。失礼ですが本木様のお電話番号をお教えください。」と答えた。本木が電話番号を伝えて電話を切った。実は豊雅年社長は在席だったのだが、柳田の判断で一旦電話を切ったのだ。わけのわからない人物からの電話をいきなり社長につなぐことはできない。秘書室長として当然な対応だ。
柳田秘書室長が豊社長に今あった電話の内容を伝えた。総務部長の谷川広が社長室に呼ばれ、3人で協議を始めた。「谷川君、電話をどう思う。」「いたずらかもしれませんが、本当に株主だったら、重要なのは本木さんがどれだけの株を持っているかということでしょうか?」豊社長が「株式市場で誰かが当社の株を集めているというのは事実か?」と谷川部長を見て言う。「わかりません。確かに最近、業績の割に株価は好調のようです。転換社債の発行やら無償交付などを行っているので、そのためかと思っていました。」と谷川が答える。「そうか、しまったな。誰かが集めていてもわからないんだな。」と豊社長が苦虫をかみ潰したように言うと、谷川も柳田も無言になってしまった。「もし、本当に誰かが株を集めているとしたら大変だ。こちらから電話してみよう。」と言って、豊社長は柳田が先ほど聞いた電話番号に電話させた。「本木様ですか。先程電話を頂戴しましたユタカ・インダストリーの秘書室の柳田です。」「ああ、柳田さんですか。」「社長の豊が社に戻りましたので、お電話差し上げました。」「そうですか。」社長にかわる。「社長の豊です。先程は不在で失礼しました。柳田から聞きました。弊社の株をお持ちだとか。」「そうなんですよ。貴社に大変興味があり、株を買っています。ある程度集まりましたのでご挨拶に伺いたいと思いまして。」と本木が穏やかな口調で話す。「挨拶に来ていただくのは構いませんが一体、どれくらいお持ちでしょうか。」と豊が尋ねると「そうですね。ぼちぼち買い始めていますのでまだまだたいした数にはなっていません。500万株を越えたところですか。」とはっきりと答えた。豊は驚いた。そんなに持っているのか。信じられないと思い、とっさに言った。「そんなにお持ちですか。」と言って後が続かない。本木が「それで、社長さんにご挨拶に伺いたいのですが。いつでもご都合のいい時に。」豊社長はうろたえていたが気を取り戻して「それでは早い方がいいですね。秘書室長がスケジュール管理をしているので代わります。」と言って柳田に替わった。こうして本木一也がユタカ・インダストリー本社に来社する日が決まった。
ユタカ側では、電話の相手の大株主を名乗る本木一也についての身辺調査が始まった。豊社長の指示で、総務部長の谷川が主幹事証券会社のノムラに聞くと、驚いたことに本木一也は元柳川会の構成員で、大阪の豊中あたりで不動産屋をやっており、それが柳川会のフロント企業なのだという。最近では池田バンクを手始めに手あたり次第、大阪の地方銀行に手を付け、「北浜の風雲児」と呼ばれているとのことだった。ユタカ側にとっては寝耳に水、青天の霹靂だった。まさか、買い占めに会うとは思ってもみなかった。
豊社長が谷川総務部長に対して、「500万株と言ったが、本木氏がどれだけうちの株を持っているか調べる手はないか?」と尋ねた。当時の日本の上場株式は、全株券の無券化までは至っていなかったものの、株券決済の部分的な合理化のため、株券等保管振替制度(保振制度)を採用していた。そのため、当時も、上場会社(名義書換代理人)が保振機構から実質株主は誰かについての通知を受け取って株主名簿を完成させ、株主とその持株数を確定するのは、半期に一度でしかなかった。ユタカ・インダストリーでいえば、年度末の3月末現在の株主名簿を4月中に作成する。この作業を通じて、期末時点での株主と各人の持株数が確定し、それにより、6月の定時株主総会での議決権を行使できる株主と各人の議決権個数が確定し、かつ期末配当金を受け取る株主と持株数も確定した。半期後もう一回、9月末現在の株主名簿を作成した。これは9月末現在の株主に中間配当を行うためである。このような事情により、株主名簿が作成されるのは3月末と9月末の2度だけであったから、その途中での株主の持ち株数は変わらない。
谷川総務部長が「申し訳ありませんが今、現在の彼の持株数はわかりかねます。早くて、3月末を過ぎて4月中旬まではわかりません。そのころには名義書換代理人であるTOYO信託銀行が作成する3月末の株主名簿が出来上がってきます。」と答える。豊社長は「谷川君、そんな悠長なことは言ってられない。会社の一大事だ。わかった、私が本木に直接会って、話してみる。」と語気を荒げた。