先代の手口
● 先代の手口
当時の若かりし吉田二郎は、挨拶を済ませて、ユタカ・インダストリーをあとにすると、新幹線で大阪への帰路に着いた。車内で父、本木一也がやってきたことを、もう一度振り返ってみた。そういえば父は絶対に新幹線に乗らなかった。ヒットマンなど常に誰かに狙われていることを恐れていたのだろう。大阪―名古屋間をいつも車で移動だ。急な襲撃をいつも警戒していた。帝国ホテル大阪、プラザホテル大阪、また名古屋キャッスルホテルなどを訪れるときも、決してエレベーターを使わなかった。阪急百貨店、阪神百貨店でも同じで、いつも階段を利用する。10階だろうが20階だろう歩いていく。密室で襲われたり、拉致されることを心配して用心深く行動していた。運転手付きの自家用キャデラックを持っており、名古屋へ移動してユタカ・インダストリー本社を訪問するときも、いつもそれを使っていた。
父は朝鮮半島出身者であった。在日ということで、子供の頃は馬鹿にされ、不遇の幼少期を送った。中学にはあまり行かず、関西の有力な反社である柳川会に誘われるまま、ついつい入ってしまった。生きていく上では仕方がなかったことだ。
父はカネ儲けの才覚に長けていた。柳川会のバックアップで日本土地株式会社という不動産会社を設立し、財をなした。元々反社の柳川会は関西で自ら地上げなどして不動産を買い占めていった。それでも足りず、日本土地というフロント企業を父にやらせて儲けを更に拡大させていった。晩年の父は、会の基盤を支える重要な存在にのし上がっていた。日本各地に多くある韓国系のパチンコ店から日本土地に資金が入り、これをもとに地上げを続け、とうとう豊中市玉井町の日本土地は500億くらいの金を持っていると噂されるまでになった。
木本一也は不動産だけでは飽き足らず、株にも手を出した。手始めに、会から任された資金をもとに大阪証券取引所上場の地元の池田市に本社を構える池田バンクの株を買い集めた。柳川会の大切なお金だ。柳川会が組員の検挙されるのも辞さずに、地上げ、薬物販売、みかじめ料の徴収等の不当な行為でせっせと集めたお金だ。
池田バンク側は自社の株が反社に買い占められるのを恐れて、柳川会に有利な融資を行った。当時は暴力団対策法などなかったから、銀行が反社への融資など通常取引しても、倫理的には問題があるものの、表面上は合法的だ。警察も民事不介入といって及び腰。こうしてまた資金が集まると次は豊中バンク、吹田バンクと次々に銀行株を買い占め、お金がお金を産んでいった。株の買い占めという錬金術に才能があったのか父、本木一也はいつしか北浜の風雲児と呼ばれるようになり、恐れられていった。
金融機関の株を買い占める手口は、後に大物総会屋小池隆一が第一勧業銀行に狙いをつけた際の手口と同じだ。父が先駆けであって、小池の方が父の手口を学習したのかもしれない。小池事件の結果、人格者として評価が高かった第一勧銀・宮崎邦次頭取が、自ら命を絶った。1997年6月に宮崎氏は東京都三鷹市の自宅で首つり自殺した。第一勧銀の総会屋利益供与事件が明らかになり、東京地検特捜部が第一勧銀本店、歴代総務部幹部宅などの家宅捜索に踏み切った。後に天下の大都市銀行が総額460億円に上る資金を一総会屋に提供していたことが明らかになったという金融史に残る大事件なのだ。
銀行は、世間にお金をまわし、経済を循環させるという公共性と社会的使命がある。同行が融資したお金は、実は最後に、小池による野村証券・大和証券・日興証券・山一証券の株購入資金となった。そして、このお金は、総会屋小池が四大証券全てについて株主提案権を行使できる株式数を取得するのに十分な金額まで達していた。買い占められた四大証券側も小池を恐れて商法で禁止されている利益供与を行った。第一勧銀だけでは終わらない、四大証券を巻き込んだ大スキャンダルだ。
銀行株買い占めで先例を作った日本土地は、仕手グループとして関西で有名なった。「日本土地のバックには柳川会がいる。」ことでますます恐れられた。柳川会のフロント企業の日本土地は集めたお金を会に上納し、会の更なる不法行為を支えた。反社と企業舎弟の関係だ。小池の場合と同様に、本木一也は買い占めた銀行からどれだけでも意のままに融資を受けることができた。銀行側もバックにいる柳川会を恐れて、本木一也の言うがまま、融資に応じて行った。まともな銀行が彼の仕手戦の資金を支えたといえる。折しも昭和の終わり、バブル経済が加速し、土地も株もどんどん右上がり。株や土地を買わない方が損する。誰もが上がると思っていた。どの金融機関もブラック社会の株取引に使われると知りながら、争って融資して行った。