戦争に行った山彦おじさんの日章旗
毎年八月十三日は、墓参りをする。
祖父祖母の入ったお墓と、戦没者墓地にある墓の二箇所だ。
戦没者のひとりは海軍。
もうひとりは陸軍。
小さい時から、それが私の普通だった。
靖國神社に、その二人の名前があるらしい。
昔、戦没者遺族同士で靖國神社に参拝する旅行があり、祖母は毎年のように行っていた。参拝が目的というより、旅行の方が目的だったと私は思っている。なぜなら、祖母は戦没者との思い出は特にないからだ。
戦争で死んだ二人は、祖母の叔父たちだ。
仮に、ということで、海軍の人を海彦おじさん、陸軍の人を山彦おじさんと呼ぶことにする。
海軍にいた海彦おじさんは、二十歳になって召集令状、いわゆる赤紙が来て出征したのではなく、自ら海軍に入っていた。家を継げない次男として、身の振り方を決めた結果だと私は思っている。
祖母を経由して聞いた話では、とても優秀な人だったらしい。その基準も潜水艦の乗組員だったからというそれだけだ。
実家にはその海軍にいた人の遺品が少しだけある。休みで帰って来た時に、街の写真館で撮った白黒の写真が収まった紙のアルバムと手紙が一通。そして、初年兵教育の時に作ったのか、細かい字で書かれた小さな帳面。
それだけだが、アルバムに細かく書かれた文字を見ても、几帳面な印象を受ける。
一方、陸軍に配属された山彦おじさんの遺品は、無い。なぜ無いのかはわからない。
そして、祖母からも特に何も聞いたことのない人だった。
その山彦おじさんが持っていた日章旗が、三年前に実家に届いた。
ボロボロで、薄汚い鼠色の日章旗。その周りには墨で書かれた山彦おじさんの名前と、知らない人たちの名前と、「祈武運長久」の文字。
戦没者遺族会から、その人の遺品として届くと連絡が来た時に家族が感じたのは戸惑いだった。正直に言うと、今ごろなんだろうなぁというぼんやりとした驚き。
祖母は生きていたが、そもそも祖母の記憶に無い人だ。山彦おじさんが出征した時で、祖母は十歳ちょっと。その前から家を出ていたのなら、物心ついた時には家にいないのだから覚えているわけがない。同じ戸籍にいたというだけだ。
それでも、とにかく受け取ることにした。
位牌も墓もあるのだ。断る理由はなかった。
届いた日章旗は、祖母の近所でのお話のネタになった。帰ってきた孫にも見せていた。だが、私には積極的に見せようとはしなかった。たぶん、祖母よりも私の方が知識があったからだと思う。話のマウントを取りたいのに、それができないのでは見せる意味すらないのだ。
その祖母も、日章旗が届いた翌年に亡くなった。
日章旗は、祖母の部屋の隅に、封筒ごと無造作に放置されていた。
今年の八月十三日は、朝から雨が降ったり止んだりしている。蝉だけが元気だ。
墓参りは、雨の止む時間帯を狙って行くことになった。
その間に、仏壇から日章旗と戸籍謄本を出す。
海彦おじさんも、山彦おじさんも、縦書きの戸籍に四行だけの人生だった。
生まれて、死んだ。
結婚もしていない。
二十代前半で終わった人生だった。
山彦おじさんは、大正十二年九月生まれ。昭和十八年九月に入隊した。一応、簡単な戦没者名簿のようなもので、所属していた連隊名もわかる。
山彦おじさんは、学校を出た後、家を出て勤め人になっていた。戦争も何もなければ、定年退職まで働いていたかもしれない。山彦おじさんの勤めていた会社は、八十年経った今も続いている。
蝉の声を聞きながら、山彦おじさんの人生を考える。
分かっているのは、二十一歳で南方で死んだこと。二十二歳になるには、半年足りなかった。
それが私が今までに知っていたことだ。
今日は、それより掘り下げてから、墓参りに行くことにした。
とりあえずは、所属していた歩兵連隊をネットで調べる。なんとなく、中国よりかなぁと思っていたが、出てきたのはビルマ。
しかもどうやらインパール作戦に従軍していたようだ。
当時の日本陸軍について詳しくない私でも知っている死亡者の多い作戦で、戦地だ。
食糧をはじめとする補給線のない戦地。
食べ物は現地で調達しろという恐ろしい指示を出すのが当時の日本軍だというくらいは知っていた。現地調達ということは、現地住民から掠奪するのだ。
それくらいに食べ物がなかった。服も支給されない。当然薬もない。
南方の戦地では、マラリアが蔓延していたらしい。下痢がひどければ、死ぬ。
人は、食べて、眠って、着替えて、風呂に入って、人としての生活をする。
田舎の農家の三男坊で育った山彦おじさん。
どう考えても、地獄だ。
畑や田んぼの仕事を手伝って、学校を出てからはちょっとだけ栄えた市内の方で働いて。
投げ込まれたのは、ガダルカナル島から生き残った老年兵のいる歩兵連隊。
想像しただけでも、辛い。
兵隊一年目である初年兵に対するいじめは、過酷なものらしい。
戦地が極限になった時、初年兵はどうなったんだろうか。
ビルマの住民からご飯を奪う時、胸は痛まなかっただろうか?同じように田畑を耕す人たちを見て、何も思わずにすんだのだろうか?
たったの二十歳で。
ツクツクオーシと部屋に流れ込んでくる風と蝉の声。
山彦おじさんは、ビルマで何を見たのだろうか。戦争を本と映像でしか知らない私は考える。
「祝出征」の隣に山彦おじさんの名前が書かれた日章旗は、元米兵の遺族の方が返還活動を続けているから、今、ここにある。
ボロボロの日章旗に添えられていた書類には、元米兵のお父さんが戦後捕虜収容所で手に入れたと書いてあった。
そして、山彦おじさんの友達だったかもしれない日本兵から渡されたと。
当時、アメリカ軍の管轄下にあったのはフィリピン。
終戦間際のフィリピンにいた日本軍の状況としては、食糧が乏しいジャングル地帯で、病人と栄養失調者がほとんどだったと聞く。
ビルマにしろ、フィリピンにしろ、南方での戦場は地獄だと私は思っている。
大岡昇平の作品をいくつか読んでいた。
それだけでも腹の奥底までじんわりと不快感に満たされるのに、兵士たちの証言をまとめた本を読むとさらに恐ろしい状況だったと知る。
死んだ方がいいと、手榴弾のピンを抜いて、体を丸める兵隊。
爆発するまでの数秒間、まわりの兵は見ているしかできない。近づけば、自分も死ぬから。
だいたいは、少し隊列から離れて、遠くで濁った爆発音を立てて、死亡を告げていた。
蛆虫の話もあるが、それらはきちんとまとめられた本を読んだ方がいい。
あくまでも、私の中で消化した感覚を書いているに過ぎない。
山彦おじさんは、戸籍によると北部印度支那で死亡している。
終戦後、ビルマを管轄下にしたのは、イギリス軍だ。
なぜ、アメリカ軍の兵士に渡っていたのか?
当時の日本軍の侵攻、または転進経路を調べればもっとはっきり分かるのだろうが、今の段階でそこまでの気力はない。
ただ、食べ物も物資も欠いた戦地で、出征を祝う日章旗を後生大事に抱えて従軍していたのは間違いないのだろうな、と思う。
山彦おじさんからの手紙がないのも、当然だった。
食糧が入ってくる補給線がないのに、手紙を書いても出せるわけがない。故郷からも届くわけがないのだ。
誰からも便りのない中、この日章旗は郷愁を思い出させてくれるものだったのだろうか。
人としての感情を最期まで持っていたのだと、親戚の子としての私は思いたい。
実際には、どれくらいの非道な行為を行ったのかは、まったくわからないけれど。
柔らかい心の部分を失って生きていたのと、残しながら最期を迎えるのでは、大きな違いがあると思うから。
雨がまた降り始めた。
蝉は相変わらず、鳴いている。
生きている時間は、あと少しだと知っているのか。
どういった経路で手に入れたのかわからないが、アメリカ軍の捕虜になった日本兵も、この日章旗が特別なものであることは、理解していたと思う。
そうでなければ、北部印度支那で死亡した下っ端の兵隊の日章旗を終戦後まで、持っていない。
なぜ、この兵士は米兵に渡したのだろうか。
当時のアメリカ軍の捕虜収容所では、武器は取り上げたけれど、身の回りのものすべてを奪うまではしなかったようだ。
考えられるのは三つ。
一つ目は、帰国するために荷物を減らす必要に迫られた。
二つ目は、渡されたというのは嘘で、奪い取った。
三つ目は、日章旗を持っていた兵士が死んだから。
おそらく、三つ目の推測で合っているのではないかなと、私は考える。
戦犯として処刑されたのか、病気などで死んだのか。
そして、渡されたのではなく、死んだ後に残された品物の中で、大事そうに見えたから米兵は捨てずに家に持ち帰り、保管していたのではないだろうか。
病気で死ぬ前に託すなら、日本兵に託すだろう。
戦犯として、短時間で十三階段の処刑まで進んでしまうと、遺品の処分について、誰かに頼む暇もない。
素人の推測でしかないが。
網戸にした窓から、湿気が忍び寄っている。開いている書類が、湿気を帯びてぐんにゃりと柔らかい。
日章旗は、ただのボロ布に見える。
およそ七十九年前に、たくさんの人が筆をとって、名前を書いた。
めでたいことだった。
そう、みんな言うしかなかった。
兵隊に行けることは、良いことだ。
そう思っていたから。
身長が百五十センチに足りなかった母方の祖父は、兵隊になれない苦しみを抱えていた。
孫たちが、自分よりも大きいことをただ一人、とても喜んでいた。
晩年、病気の進行で朦朧とした意識の中、かつての罵詈雑言と戦っていた。
当時の日本は、戦争で出来ていた。
兵役検査に受からず、生き残った祖父と、戦争に行って日章旗を後生大事に背嚢にしまって、戦地を歩き続けて死んだ歩兵の山彦おじさん。
令和の今ならば、生きていることがいいのだろう。
でも、死ぬと分かってても、行かなきゃいけなかった。
あぁ。
そうか。
日章旗は、山彦おじさんにとって、ほんとうに、とても大切なものだったのだ。
戦地で、生きるために。
急に腑に落ちた私は、泣き顔を隠すために洗面所に向かった。
蝉の声も、その時は私には聞こえてこなかった。
墓参りは、毎年八月十三日の夕方に行く。
今年は、雨が止む時間帯を狙って、昼前に行った。
戦没者の墓は、寺の本堂から近い。
ここだけは、中身のない墓が並ぶ。
雨のせいか、苔の緑が目につく。
花を添えて、線香に火をつける。
雨ですぐに消えてしまうけれど、煙を墓石にくゆらせて、手を合わせる。
白黒の写真が数枚あるだけ。
もう覚えている人は、この世にはいない。
ただ、姪っ子の孫が変な妄想をして、涙を流している。
戦死でも、病死でも、七十年以上経てば誰もが覚えていない。墓石と靖國神社に名前があるだけだ。
命とは何だろうか。
太平洋戦争末期、鉄砲の弾と同じようにバタバタと落ちていった兵隊の命。
今の私たちと同等であるはずなのに、どうしても軽い。
生き残っていたら、どうなったろうか。
イギリス兵たちに捕虜として酷使されて、帰国がのびのびになっていただろう。
それでも、生き残って家に帰っていたら、敗戦後の人手不足を補って働いて、家族を持っていたのだろうか。
そうなると、私には親戚のおじいさんの記憶が増えて、市内にあるお菓子を盆と正月に食べていたのかもしれない。
全部、ただの空想だけれど。
線香を並んでいる戦没者の墓、すべてに置いてまわる。
全員、戦争で死んだ人。
煙の中を歩きながら、思う。
あの日章旗は、山彦おじさんが生きようとしていた証だった。
人として。
日本の田舎にふるさとを持つ、ただの青年としての感覚を無くさないために。
山彦おじさんの記憶を抱えて、戦場で生き抜いて、一日いちにちを乗り越えるために、必要だった。
人が人として生きるための、重石が、あの日章旗だった。
親しい人も、それほどでもない人も、山彦おじさんを形づくる重石だった。
そして、生きて帰るための羅針盤だった。
個人の感情も意志も必要とされない軍隊生活で、どんどん遠くなって忘れていく山彦おじさんが普通の二十歳前の青年だった日常。その日常を思い出せてくれるのが、日章旗に並んだ名前だったのでは。
砲弾も敵襲もない仕事場で、一日働き、日が暮れたら飯を食べて、風呂にはいり、屋根も壁も畳もある家で、布団に入って眠った日常を共に過ごした人々。
その日常に戻るために。
祖国の日常を守るために。
死ぬつもりはなかった。
きっと、日章旗を持っている間は、生きるつもりだった。
またいつか、その日常に戻れると信じて。
ただ、日本に帰って、当たり前の日常に戻れると信じて。
ただ、それだけのために。
戦場で生き続けた。
日章旗を背嚢に入れて。
物資のない中、包帯にも何にも利用されず、日章旗は日章旗のまま、みんなが背嚢に入れて、背負って戦場で共に生きていた。
死んでも、誰もが捨てずに持ち続けた。
日章旗は、遺骨だ。
その人がその人として生きるために共に在りつづけ、その人が亡くなった時は遺骨になる。
それが、この寄せ書きの日章旗なのだと思う。
手榴弾で自殺したのか、栄養失調で死んだのか、敵兵によって死んだのかはわからない。
死亡したのは、昭和二十年四月。
戸籍に記載されたのは、昭和二十二年一月。
このタイムラグは、抑留されて、復員した人たちによって死亡が確定したからだろう。
戦時中には、死亡が伝わることはなかった。
死亡が伝わった時、山彦おじさんの母である、ひいひいおばあちゃんは、どう思ったのだろうか。
晩年、戦没者遺族年金を貰っていたことは聞いていたが、敗戦直後の苦しい生活の時に、息子たちの手があればと思ったはずだろう。
それくらいに生活は苦しかったから。
食べ物にも困らない今の私には、想像で捉えるしかない。
けれど、日章旗の意味は、きっとこれで合っているのだろう。
不思議なことに、書き終えた今、雨の降っていたはずの空が、晴れているのだ。
山彦おじさん、とりあえず、私が生きている間は、この日章旗は残っているから。
山彦おじさんが日章旗と共に生きた意味は、あったよ。
参考文献:『南方からの帰還−日本軍兵士の抑留と復員』,増田弘,2019,慶応義塾大学出版会