第一話
日本が好きな人へ
第一話
咲が死んだ。
平成生まれの奈良県奈良市出身。家庭は決して裕福とは言えなかったが、それでも良好な関係を築いていた。母親は育児に集中するため、それまで務めていたスーパーの仕事を辞めた。父親は公務員で典型的なサラリーマン気質とでも言うべきだろう。だが家族や友人には親しい理想の父親像だ。
身長は百七十九センチ、成人男子の平均身長より少し高い程度。体重は七十キロ。
髪型はストレート。ファッションには疎く、何も手を加えていない自然な髪型である。その所為か、所々にあほ毛が立っている。
三白眼とつり目で第一印象は避けられがちだが、話していく内にそのギャップに安心するという友人も居たそうだ。
服装も特に拘りが無い。安価で破れにくい物であれば何でも良い考えである。ファッションデザイナーから見れば明らかにセンスの無い着飾りだと突っ込まれる事は間違いないだろう。
彼は幼稚園から大学生までは順風満帆な生活を送っていた。元々運動神経は鍛えていたので、かけっこは一位になる事が多く、ドッジボールも先導して攻撃する。かといって勉強をさぼっていた訳でもなく、高得点を取っていた。
いじめの標的にはされることは無かったが、彼は困っている人を見捨てられない性格だった。
小学生の時のある日、細長い眼鏡の男の子が苦手なザリガニを見せ付けられて泣いていた時、周りの悪い男の子達を追い払った事がある。しかし、それが原因で今度はサクがいじめの標的となった。が、サクはそれを返り討ちにした。
部活や倶楽部は何処にも所属しなかったが、元々運動神経は良かったので勧誘されることはあった。ここで彼は上に行きたいという思考が芽生え始め、国立大学を目指そうと勉学に励んだ。
ここで、彼は日本の歴史にも踏み込む事となる。それ迄は唯、教師が黒板で書いた内容を暗記するだけの作業だった事に疑問を持った。
サクは独自の勉強方法を考え、教師が一方的に話すだけでなく、自分が感じた疑問を教師に伝えて議論する。別の方法では、試験に出ない内容も学んで、学校で習った単語の前後の関係を紐解いていった。
柔軟な思考でセンター試験に臨み、余裕で合格した。
大学生の時は、更に高みを目指そうとした。その最たる就職先として、大手銀行会社であった。アメリカの企業の破産によって一時期氷河期になっていたものの、先輩方の尽力によって、サク達の就職活動はそこまで厳しい難易度では無かった。
それでも面接の壁は遥かに高く、一回生から対策しなければならない程、彼にとって時間は残されていなかった。その間に単位取得のための勉強もしなければならず、常に頭を使う日程に頭を抱えながらも、両方をこなしていった。
迎えた四回生のインターンシップでとにかく多くの企業の先輩方と交流、議論を行い、同じ就職仲間とも交流をした。とにかく自分にとって不利益になる勧誘や、就職を目指そうとせず怠けている同級生の甘言に騙されないよう心掛けた。
彼はひたすら面接を行った。見た目や言動が良くても最初の人事部との会話で落とされることもある。それだけ上の企業を目指すとなると、敵も多くなっていくのだろう。
最終的に目標となる銀行に就職出来なかったものの、滑り止め候補として受けておいた別の銀行会社に内定を貰っていたので最悪の結果にはならずに済んだ。一緒に就職活動を目指した仲間達はみんな、理想通りの場所へ行けたようだ。就職活動で協力してくれた先生方や同級生達にその事を伝えると、「でも、その活動は無駄じゃない」と慰めの言葉を貰った。中には、四回生に入っても就職対策をしない人も居るのだから、落ち込むなという励ましの言葉を貰った。
しかし、ここから彼の転落が始まった。
銀行員として接客やデータ入力の問題、書類確認に悪戦苦闘する日々だったが、一年目は無事に大きな問題を起こすことなく過ごせた。だが、それ以降、彼に異変が起きる。
人間関係に上手く馴染めなかった。彼は挫折を味わったことが無く、人間関係でも学生時代に喧嘩はあったが、裏切りや縁切りは無かった。
しかし、同期が失敗を犯してしまい、その責任を被せられた事で彼は酷く動揺してしまった。経緯としては、同期がとある書類の保管場所を忘れてしまい、それに時間を費やしたせいで、本来するべき作業を怠ってしまった事で、他の人の作業量を圧迫してしまう事となった。問い詰められた時に、普段、余裕があれば同期の作業分もこなしていたサクが協力してくれなかったからと、責任転嫁する形で押し付けた。結局サクは不問となったが、信頼しきっていた相手から突然嵌められてしまうのは考えていなかった。
サクは朝に放送されるスーパーヒーローを見ていた。正義は必ず悪に勝つ。正義は決して心を汚さない善人という事を信じ切っていた。『勧善懲悪』は当時、彼の座右の銘にもなる程だった。真面目に頑張れば何時か救われる。当たり前の事をただやるだけ。そうすれば会社のトップになれると。しかし、サクはそこに至るまでの強い精神力を持ち合わせていなかった。
サクの抱えていた問題はこれだけでは無かった。ある日、自分が書類管理で不備があった際に、上司に酷く怒られた事があった。その時の彼は酷く落ち込んでいたと同期は語っている。サクは真面目であるが、真面目である人に限って、繊細な人が多い。純粋無垢であればある程、人に叱られる事に拒否反応を起こしやすくなる。褒められるのが好きなサクだが、たった一つの失敗で深く傷付き、心を引き摺ってしまう傾向がある。怒られる事には耐性が無かった。
一度深みに嵌った傷は簡単に治す事は出来ない。サクの作業は次第に悪化していった。例えば、顧客と会話をする時に、度々言い方を間違えて、それを相手に指摘される事があったりする。相手は優しく諭してくれたが、サクは相手に大変失礼な物言いをしたとして落ち込んだ。別の日には、作業報告で余りにも酷い文章だった事もある。次第に、同期や上司に叱られる事が多くなった。
サクの不調は人間関係にも亀裂を走らせた。昼休み、それまで一緒に話していた同期の男性から小馬鹿にされる。作業中に自分が焦っている姿を見て隣の女性が嘲笑する。離れた席では、「何処かの誰かさんが最近おかしいから仕事もままならないしなぁ」と笑い合っている。それを聞いて首を縦に振る上司の姿が映った。
他の人が怒られている様子を聞くのもサクにとっては苦痛だった。自分の事を言われていないのに、他人のような気がしない。自分も含めて言われているのではないかという錯覚に陥った時もある。その所為で進捗が大幅に遅れてしまった事もある。
上司はある日、サクを机の前に呼び出して
「お前、今までは順調だったじゃないか。何があったんだ!」
そう言った。サクは何も言えなかった。
「仕事もまともに出来ない。態度も悪い。挙句の果てには無視と来た」
「そんなつもりじゃない」と大きな声で叫びたかったが、今のサクは怯えていた。ここで本当の事を言ってしまうと、相手を刺激させるだけだと。「お前等が俺に悪口を言ってくるからだろ」と言えば胸の内は晴れるだろうと。
「昼休みもうちが出したエクセルの課題に手を付けないで、仲間と駄弁ってばかり。携帯ばっかり触って現実逃避。そのままでは他の人からも『こいつは本気でやってない』って思われちゃうから」
「みんなでやってるって事を自覚しなさいな。君がワンマンでやっているんじゃないんだよ!」
「新しく来た後輩達はみんな君よりも成績が優秀なんだよねぇ」
長い説教を立ったまま聞かされていた。時には三時間以上も立たされた事がある。プライベートの事も色々と言われた。家でこうしろ。歩いている時はこう考えろ。電車に乗っている時も出来る事はある。上司はサクに干渉し続けた。
それからサクは銀行を退職して別の会社に移った。彼は労働基準監督署に同期や上司からパワハラを受けた旨を伝えたが、結局の所、大きな進展には至らなかった。
しかし別の会社では、ハードスケジュールによる多忙な日程と、同期や上司の冷たい態度、成長しても誉められない日々による人間関係の悪化に耐えきれず、上司の胸ぐらを掴んだことによって問題社員と認定された為、彼は再び退職。
そして非正規雇用として工場へ、初めての力仕事だったが、幼い頃から鍛えられていたのですぐに力尽きる事は無かった。だが工場独特の臭いと空気、ハードスケジュールによる先輩達からの圧力に耐えきれなくなり、すぐに辞めた。
そして彼は無職になった。アルバイトを転々としては辞める日々、何をしても楽しく出来ない憂鬱とした時間だけが過ぎていく。今までのサクだったらどんな仕事でも積極的に受けていただろうが、仕事先でまた嫌な事を言われるのではないか、どうせ相手はこう言ってくるに違いない、と想像するだけで働く気力が失せていった。
サクは生きる意味に絶望を感じながら、読書に耽る毎日を送っていた。ある時は日本史、ある時は西洋の偉人の論文を纏めた書籍、またある時は古典を読んでいた。次第に彼は過去の社会経験を理由に、政治に不満を持ち始める。
それまで自分が生きて来た人生は社会の所為だと感じると、政治活動に参加し始める。思想が形成されていないままだったので、彼に信念というものは無く。右翼団体に所属して旭日旗を掲げながら「外国の手先から日本を取り戻せ!」と叫ぶこともあれば、反差別団体に移籍した、後、黒く描かれた拳の模様と黄色いプラカードに右翼が差別団体であることを知らせる文字を掲げて「レイシストは帰れ!」と叫んでいた。
テレビの偏向報道に嫌気が刺してネットの保守系番組と唄いながら、港区のとあるビルで生放送される番組を見たりしていた。しかし何を見てもサクが満たされる事は何一つ無かった。彼らが何を喋っても世の中が直ぐに変わることはないと。もしかすると、直ぐにでも実行出来る政策があるのにあえて政府がそうしていないのではないかと疑うようになる。
家に籠もっていた彼の財産は段々減っていた。最初は数百万の貯金が通帳に記入されていたが、最終的には一万超えるか超えないかの瀬戸際まで立たされていた。家族に借金の心配をされながらも心配無いと取り繕いながら、次の仕事先を探さなければと思っていた。しかし手段は選んでいられなかった。
彼が次に選んだ仕事先は派遣社員としてコールセンターの仕事だった。対応としては、とある無線通信サービスの会社が経営する店に、専用の回線を利用したいと契約しに来た客に対し、その内容に誤りが無いかを客と一緒に確認する作業であった。
最初に研修を一ヶ月受け、その後は仕事終わりまで電話の応対を延々と行う。仕事内容自体は単純であったが、その作業でも、やはり客と対話する事にストレスを感じる人が出て辞めてしまう事もあるようだ。
大きなビルの十階にて、サク達はそこに配属される事となった。先輩達に挨拶を交わした後、ここが新しい戦場となる事にサク達は息を呑んだ。
しかし、これまでの仕事を引き摺っていた彼は精神的に摩耗していた。それでも後に引けない状況であるから、逃げるという選択肢は考えていなかった。
案の定、サクは初日から客を怒らせてしまった。というよりも、運が悪かった。応対した相手は声を聞く限り、かなり時間が無く焦っているように感じた。少しでも間が開けば「さっさとしろ!」と怒られた。急いで彼を帰さなくてはとサクはマイク付きヘッドセットでやり取りしながら、パソコン上で契約内容を書き写していた。しかし、誤字や脱字が多く、それを消して書くの繰り返しで時間が更に増えていった。
「もういい。時間が無いから。契約無かった事にして。じゃあ」
相手から唐突に電話を切られた。当然だが、コールセンターでは通話記録も全て保存されるので、サクはこの後どういう風に怒られるのか、何時間怒られるのかに怯えていた。サクは顔を俯けて、暫く何も出来ずに居た。
突然、サクは何者かに背中を勢いよく叩かれた。一瞬だけ顔が机とぶつかりそうになったがすぐに顔を挙げた。振り返ると、サクとほぼ同じ身長をした女性が立っていた。髪はパーマが掛かっている。何時も怒っているような吊り目。細長い身体を強調するような、引き締まったスーツが、熟練者の雰囲気を醸し出していた。
「ちょっと、サボるな。このクズ」
開口一番に誹謗中傷を受けた。
しかし、サクが今まで務めてた仕事ではここまで直接的に言う人は居なかった。ある意味では新鮮にも見える。
「あんた。親から言われてやったんじゃないんでしょ。自分で選んでここに来たんでしょ。じゃあやるべき事やりなさい。ほら」
コールセンターには、電話応対している人でも分からない事や、困っている場合に、その相談係として対処する役職が存在した。『スーパーバイザー(SV)』とも呼ばれている。一般的には上司と呼ばれる立場の人がここに就いてる事もある。彼女もその一人だった。
「やりますけど……」
サクは突然の暴言に驚きと悲しみを隠し切れず、切ない声で返事をした。しかしそれが彼女の気に障ったのか、
「何その態度、辞めるならさっさと辞めなさいよ。グズ」
続けて暴言を吐かれた。しかし、周囲は彼女の言動を注意するどころか、何も聞こえてないように淡々と電話応対をしている。サクはこの雰囲気に既視感を覚えた。小学生の時、他の子が虐められてた時に、周りが誰も助けてくれなかった。今の仕事場はそれに似ている。
サクは泣きそうになりながら、しかし何も間違った事を言っていない彼女の言葉に返事した後、電話の応対を再開した。
午後七時、新人達の作業が終了した時間、サクは入り口前のハンガーからコートを取り出し、首にマフラーを掛けてビルから出た。雪は降っていなかったが、すっかり冬の季節へ移行してたので、気温は低下してる。手袋はしていなかった為、両手はすぐに冷えた。本来なら両手をポケットに入れるのはマナーが悪いという話もあったが、彼は気にもせずポケットに入れた。何処かで躓いて転んだ時に受け身を取れない事だけが気掛かりだった。
サクが一人で帰ろうとした時、後ろから聞き覚えのある声がした。
「待ちなさい!」
サクに対して暴言を浴びせたあの女性だ。彼は立ち止まって振り返った。彼女も同じ上着を着ているが、マフラーはしていなかった。歩くスピードを上げながらサクに近付いてくる。相変わらず表情は怒ったままだ。
「相変わらず今日も駄目だったようね」
「すみませんでした」
サクは小さな声で謝罪した。
「声も小さいし、顔は下向いてばっかりだし、何であんたみたいなのが生まれてきた訳?」
彼女は暴言でも吐かなきゃ生きていけないのだろうか。サクはそんな事を考えていた。顔は前を向いていて、愚痴にも聞こえるその発言に怯えた。名誉毀損として裁判所で戦えば間違いなくサクは勝訴するだろう。しかし、そんな余裕は無かった。ただでさえ、金銭的にも追い詰められている状況で裁判を起こす気力も無かったからだ。
彼女は『香』という名前だったそうだ。『香』とは文字通り、かおりや臭いの事を指す。「こう」とも言う。例文としては「良い香りがする」とか、「柚子の香」と使われたりする。また、将棋では直線にしか進めない『香車」という駒も存在する。しかし、そんな名前から、悪口を言ってばかりの捻くれた女性が誕生するとはサクも想像だにしなかっただろう。
香の誹謗中傷はサクの心を追い詰めた。サクの思い出したくない記憶が呼び起こされた。また同じ事の繰り返しか。結局この人も、他の人と同じように、自分の責任を棚に上げて、部下を傷付けて快楽を感じている無責任な人だ。と、サクは心の中で彼女を軽蔑した。涙が零れそうになるが、目を腕で拭いたりして耐えた。
「あんた。家はどこなの?」
「家? あぁ……難波駅で近鉄電車に乗り換えて、そのまま奈良まで……」
「ぶっ」
急に香が吹き出した。サクはよく分からずに首を傾げた。
「あっははははは! 何それぇ! 馬鹿でしょ! 生粋の馬鹿じゃん!」
彼女は笑いながらこう言った。
「何? わざわざ隣の県まで移動して仕事して? それであの体たらくなの? おっかしー!」
「笑う所ですかそれ……」
香の暴言を聞かされながらサクは彼女と一緒に並んで歩いていた。早く一人になりたい。一人になって静かな時間を過ごしたかった。
「実はうち、この後レストランにでも行こうと思うんだけど、貧乏人のあんたには勿体無い話かもね!」
そんな事知らんがな、とサクは心の中で突っ込んだ。サクにとっては冷凍食品であろうが、カップ麺であろうが、食事さえ取れるならそれで良かったからだ。
「そうねぇ、お願いします香様と言えば奢ってあげなくもないけど?」
「いや、自分で払えますんで」
「あっそ。餓死しても知らないから」
「死にはしませんから……」
結局、二人は他愛も無い話をして、駅前に差し掛かった所で、別の乗り場に向かうからと、香と別れた。
翌日、サクは再び香の悪口に付き合わされる事となった。サクは、自分が心のサンドバッグとして相手にされているだけなのだろうと、溜め息を吐いた。これまでの仕事も辛かったが。彼女は別の意味で嫌な相手だった。サクが少しでも失敗しようものなら、一気に罵詈雑言を浴びせる。傍から見れば小学生の喧嘩にも映るこの誹謗中傷に、サクは何時まで耐えられるのか、自分に言い聞かせながら仕事をした。
一つだけ収穫があった。どうやら香は他の人にも同じ事をしている訳では無いらしい。実際、サクの隣に座っていた女性から相談された時は、到って真面目に応えていた。喋り方も丁寧で、新人であるにも関わらず『ですます』を使っていた。また、仕事仲間と思しき人と会話する時も、年相応の女性として振る舞っている。
あれだけサクの悪口を言っているのに香が訴えられたりしないのは、一定の信頼感を得ているからだろう。実際に彼女はSVとして頼りにされているのは事実だった。他の人との会話では、特に暴言等は使わず、何処にでも居る女性に見える。しかし、サクが相手となると、辛辣で、高圧的で、見下した態度を取る。何故、自分だけにこうした態度を取るのかサクは不思議でならなかった。本当に嫌いなら、わざわざ声を掛ける必要も無い。相談にも乗らず、放置させて追い詰める事だって出来るはずなのに、彼女はそれをしなかった。サクにそこまでするという事は、理由があるに違いないのだろう。
サクと香の奇妙な関係は日が進む毎に、徐々に話題となった。『何故あの子は女に散々言われているのに仕事を続けていられるのか』とか『よくメンタル壊れずに済むね』とか、そういった話を昼食の時に会話しているのをサクは聞いていた。
帰る時も何故か香が付いていく。仕事が終わって香より早く支度して帰ろうとしても、彼女は走って駆け付けてくる。一瞬だけ鬼ごっこの感覚に戻ったような気分だが、追い駆ける相手が相手なので、サクにとっては恐怖でしか無かった。しかも、後に聞いた話では、彼女は学生時代に陸上部を経験していたので、速さには自信があったという。結局、サクはあっさりと彼女の両腕に捕まってしまった。後ろから死なない程度に首を締め付けられて説教を聞かされる奇妙な光景に、通り過ぎる人々はそれを眺めていた。
帰りにまた香と一緒に帰る事となった。というよりは、香が勝手に付いてきたと言った方が適切である。こいつは自分が嫌いな人に粘着する癖でもあるのだろうか、と、サクはそう考えていた。
「また来た……」
サクの独り言が聞こえていたらしく、香は険しい表情をした。
「あ! おい! 今変な事言っただろ!」
「言ってませんから……」
「いや絶対言ったでしょ。もう一度言いなさい! 許さない!」
聞こえていなかったのに何を許さないのか、彼女の支離滅裂な発言に思わず笑いそうになるが、サクはこらえた。そして何時ものように、
「まぁ、どうせあたしはこの後親子丼でも食べるんですけどね」
「何すかそれ、煽っているんですか」
「あんたみたいな貧乏人、どうせ家でカップ麺でも食べてるんでしょ」
実際にカップ麺で食べているので、サクは反論出来なかった。
「ほら図星!」
「どうでも良いでしょそんなん……」
落ち込むサクに追い撃ちを畳み掛けてくる香。しかし、香の様子が何処かおかしい。
「ま、まぁ、どうしてもっていうなら、一緒に食べてやらない事も無いけど」
今時聞き飽きたツンデレの態度にサクは無反応だった。しかし、香はサクの反応を伺っているのか、それとも楽しんでいるのか、続けてこう言った。
「ちょっと、人が色々言ってあげてるのに、あんたは何も言わない訳? この愚図! ゴミ! 童貞!」
彼女の悪口の引き出しは豊富だなと、サクは内心羨ましく感じていた。しかし、今日の香は何処か様子がおかしい、今日に限っては、ただサクを煽っていると言うよりかは、自分から誘いたがっているような言動にも見える。
「あーあ、今日はあんたの大好きなカツ丼がご飯特盛り特別サービスでやっているらしんだけどなぁ~」
結局、サクは自分の欲望に負けた事を悔やみつつ、丼専門の店へ入った。橙色の光に照らされて、香と一緒に何処の席にするかを相談した。その後、サクはカツ丼を、香は親子丼を店員に注文した。その間まで二人は携帯電話を操作して互いに会話をする事も無かった。時々、相手の様子を見るように、一瞬だけ目を向けたりする事はあったが、話を切り出せずに居た。
サクは、香の表情に変化がある事に気付いた。今までは夜で表情がよく見えなかった所為もあるが、改めて見ると、香の頬が赤く染まっている気がした。単純に寒さで火照っているだけにも見えるかもしれないが、仕事中はここまで赤くなる事は無かった。
「あの……」
サクは話しかけた。
「何?」
苛立ちを募らせながら彼女は返事した。自分から食堂に誘うと仄めかせておきながら、誘った相手に対して一体何が不満なのか、サクは心の中で呆れながらもこう続けた。
「先輩はどうして、僕の悪口を言うんですか」
サクは言葉を取り繕わず、直接そう言った。サクは、香が「そうしたいから」とか「好きだから」とか、ただ相手の気持ちを考えず、小馬鹿にするようにそう言うだろうと予想した。しかし、香の返事が来ない。これにはサクも意外に思った。香は目を逸らして何か考え事をしているようだった。人の悪口を言うのにそこまで考える事なのだろうか。いっそここで自分の不満を噴出させようかとも考えたが、店の中で大声を出してしまうと、他の客にも迷惑が掛かるので控えた。
「あまりにも見てられないから」
数秒間の沈黙から香はそう答えた。言葉自体は相変わらず辛辣だが、サクは香の言い方に違和感を感じた。普段人を小馬鹿にするような言い方では無く、それよりも低い声で言った。
「威勢が良いのは最初だけで、一度ミスったら後はボロボロ。虚勢も貼れなくなって『はい。すみませんでした』としか言えなくなった人でしょ」
彼女はサクを憐れむような目でそう言った。眉は垂れ下がっていた。サクを見下しているというよりは、心配しているような表情にも見えた。サクは、今までハッキリと言われた事の無い評価に驚きを隠せなかった。
しかし、彼女の表情はどこか晴れる事は無く、何か後ろめたい事を隠しているような素振りだった。同時に、サクは彼女に対し、不思議と好奇心を抱いていた。何故彼女が自分だけ冷たくするのか、その秘密を知りたくなってきたからだ。こんなに駄目な自分にわざわざ付いてきてくれてるのだから。それなりの理由があるに違いないと。
しかし、サクの心は晴れる事は無かった。むしろ、前日より仕事が上手くいかず、怒られる回数も段々と増えてきた。
この頃から、彼にはある衝動が芽生えてきた。朝、最寄り駅へ向かい、電車に乗る時、黄色い線を超えて、段差から足を半分だけ出して、落ちるか落ちないかの瀬戸際でスリルを楽しんでいた。ここに落ちたら、自分はどうやってホームに戻れるのか、周囲の反応はどうなるのか、それまでに電車が来たらどうするか、様々な妄想が彼の脳内で繰り広げられていた。
そして、アナウンスと同時に、電車が近付いていき、車輪の揺れる音が段々と大きくなっていった所で――、
「おい!」
突然、後ろから大きな声がした。サクは吃驚して、我に返った後、電車が警笛を鳴らして近くまで来てた事に焦り、後退りした。
そして声のした方へ顔を向けると、二人の女子高生が立っていた。二人共紺色の制服でサクを見つめていた。一人はサクより少し小さい身長だが、ポケットに両手を入れてこちらを睨み付けている。髪は長く、腰辺りまで伸びていた。第一印象としては物静かな文学少女にも見えるが、サクに向かって叫んだのはこの少女だ。
もう一人は長髪の少女の後ろに立っていた。長髪の少女の肩に手を置いて、怯えながらこちらを見つめている。ショートボブの髪型で垂れ目をしている。
「おいおっさん!!」
髭を生やして居ない。大学生になってから顔立ちはまだ変わっていない上に二十代であるにも関わらず、サクはおっさんと呼ばれた。しかしサクの方はというと、全く気にもとめていない。自分が飛び降りようとしていた時の事を、ただ考えていた。何故自分がそうした行為に走るのか、自分自身が何故それを求めていたのかを。
「おっさん死にてぇなら一人で死ねよ! うちら巻き込むなよボケ!」
「ちょっ、ちょっと! くれこちゃん……!」
「あぁん?」
「ひぃっ!」
『くれこ』と呼ばれた長髪の少女を落ち着かせようと、短髪の少女が声を掛けたが、逆に睨み返されてしまい、萎縮してしまった。
「お願いですから、飛び降りはお止め下さい」
車掌がサクに対し、マイクを通して淡々と注意した。その後、通常通り、駅の名前と駆け込み乗車を止めるよう注意喚起する放送を行った。
くれこは乗車する際、サクに対して舌打ちをした。続けて短髪の少女が心配そうな目でサクを眺めていた。サクは口を半開きにしたまま、暫く呆然と立っていた。
次の電車が来るまで、五分掛かった。
仕事場では、何時も通り、香に怒られる日々だった。彼女の悪口は尽きる事は無い。むしろ、サクが失敗するのを待ち望んでいるようにも見えた。サクは、自分のせいで彼女がスーパーバイザーとしての仕事を放棄してしまわないか心配に思った。
ただ、意外な事に彼女はある質問を投げ掛けた。
「何で生きてるの?」
それまでの嘲笑する態度とは違って、彼女の真剣な顔付きに、サクは驚いた。しかし質問に答えず無言のままだったので、彼女は続けてこう言った。
「あの、聞いてます?」
「いや……、急にそう言われても……」
突然の質問に焦るサク。確かに、学生時代はそこまで悪くない生活を送っていた。むしろ理想的な人生だったかもしれない。しかし社会人になってからは失敗の連続。その原因としては、自分の心の弱さがある。学生時代の人間関係と、社会人としての人間関係、その違いにサクはある種の挫折を味わうようになった。
社会人になれば、馴れ合いだけで生きていく事は出来ない。仕事は仕事人としての面構えが必要だからだ。当然、身内であろうとも、容赦無く切り捨てられる恐れだってある。サクには分かっていた事だが、仕事としての重圧は彼にとってかなり堪えるものだった。
失敗を重ねていくと、当然だが態度も変わっていく。最悪、問題社員として扱われ、解雇される。しかしそうしない為に、何処かで修正する必要がある。一人でも出来ない事は無いが、仲間が居ればより心強い存在になるだろう。しかし、サクは今まで付き合ってきた知り合いと全く連絡を取ってなかった。だが今頃になって連絡しようにも気が引ける。更に、相手は自分の存在を忘れてるのかもしれない。宗教の勧誘と思われるのかもしれない。今までの関係は全部偽りで、赤の他人のような会話になってしまうのかもしれないという妄想が彼を蝕んでいた。
思えばどうして生きているのだろうか。サクは今まで考えた事が無かった。そこで改めて自分に問い掛けた。
幸せな生活を送りたい。高齢者になるまで生きていたい。そういう考えは当然だが、そこに至るまでにわざわざ苦しい仕事をする必要があるのだろうか。自分が借金として払っている年金は本当に還ってくるのだろうか。健康保険を払うのは当たり前なのだろうか。奨学金を背負ってまで大学に行く価値はあったのだろうか。政府は自分達が払った税金で国を良くしてくれるのだろうか。
「要するに、何も考えず生きてきた訳ね」
香の一声でサクは現実に戻った。
「ほら、次の客が来るから、早く対応しなさい」
そう言われて、本来やるべき作業を思い出したサクは急いでヘッドセットを身に付けて電話応対を再開した。
仕事が終わり、ビルの一階で香を待っていた。腕に付けていた時計を見ると、何故か、長針は十一時の方向を、短針は十二時の方向を指していた。どうやら、腕時計は壊れているようだ。しかし、一体どうして壊れたのか分からないままだった。サクはこれも一種の不幸かもしれないと思い、深いため息を吐いた。
家に帰った後、サクは鞄、マフラー、コートを脱いで布団の上に飛び込んだ。彼にとって家は自由な場所で、窮屈な仕事から開放される空間だったからだ。普段から布団に飛び込んで、時間が経った後、風呂や晩飯を食べるといった流れになっている。
しかし今回の状況は少し違った。布団から起き上がる時間が遅い。仕事場の重圧が未だに彼に伸し掛かっている。目を閉じて、女性と性交渉したり、仲間とスポーツをして楽しんでいる様子を思い描き、気を紛らわそうとしたが、以前務めていた職場で上司の説教を思い出してしまった。妄想の空間でも彼の幸福を満たす事は出来なかった。
それでもサクは独り言を呟いた。
どうせこの悪夢も、辛い毎日も、自分が想像してるより大した事無い。だから何時か終わる。苦あれば楽ありとも言う。それに、他の人だって苦しい生活を生きているのだから、自分だけ甘えるのはおかしいのだとサクは考えた。
彼は繰り返し呟いた。
何時か救われる。何時か――、
翌日の朝、サクは妙に胸騒ぎがした。何か、心に引っ掛かっていた物が取れてすっきりした気分だ。お腹も痛くない。嫌な記憶も思い出さない。言い知れぬ幸せが彼を自信に溢れさせた。
「うぃいいいいいやっほおおおう!」
薄気味悪い高揚感に震えながら駅のプラットホームまで駆け抜けていくサクの姿は、俯いて携帯電話を触りながら歩いていく大衆の目から見れば異端だった。
サクは小刻みに両足を跳ねながら大阪難波行き快速急行の電車を待っていた。サクが今までに見せたことのない挙動である。
ふとサクは思い出した。せっかくだから、香に何か連絡でも入れてやろうかと考えた。特別な意味は無い。暇な時間を潰すために他愛も無い話をして気を紛らわそうという考えだ。
『おはようございます』
『珍しい。自分からメッセージ送るとか』
『仕事行く時間が暇なんで。せっかくだし、どうせ先輩とは向こうでも会いますし』
『何か用?』
『特に無いです。本当に暇だったんで。なんとなく』
『相変わらず馬鹿でしょ』
『それは良いんですけど。先輩って暇ですか?』
『なんか、その言い方ナンパしてるみたい』
『いや違います。 ただ本当に、暇で疲れたんで。もしかしたら先輩も暇なのかなって』
『どういう意味よ』
『まぁ、夜ご飯一緒に食べる時、何にしようかなとか、そういう事を……』
『ナンパでしょ』
『いや、先輩から言ってきたじゃないですか。「そっちが良いなら一緒に食べてやるけど」って』
『はぁ? そんな事言ってないし』
サクと香は文字でのやり取りも相変わらずの調子だった。最初に話題を切り出したのはサクの方からだった。
『どっちでも良いですよ。今度は僕が誘う番なんで』
『あんたが?(笑)』
『不満なんですか?』
『別に。あんだけ仕事でビビってたのにうちの事になったら強気になるんだなって』
『でも嫌じゃないんですよね?』
『死ね』
『やめて下さい傷付くんで』
先輩は、何時もこんな調子でサクをからかう。最初は不快で、嫌だったけど、こうやって、何時も本音で話してくれて、でも自分を見捨てない先輩に、サクは特別な感情を抱いていた。
いじめというのは、言い換えれば犯罪を柔らかく表現したとも言える。大抵、陰湿なやり方で、人を追い詰め、最悪自殺にまで至らせる。相手に直接言わずとも、精神的に追い詰めればそれで奴等は満足なのだから。
アナウンスが入った。
「二番乗り場に、神戸三宮行、快速急行が、十両編成で参ります。危険ですから、黄色い線まで御下がり下さい」
遠くから近鉄8000系電車が音を鳴らして近付いて来る。サクは、この電車に乗って、何時ものように、何時も通り、仕事場へと向かう。満面の笑みを見せている彼は、今日こそは上手く行くような、謎に満ち溢れた自信にも見えた。
しかし、彼は電車に乗れなかった。
口の笑みは崩さなかったが、一瞬だけ大きく開いた目は虚ろいでいた。次の瞬間、彼は黄色い線を通り越して、そのまま線路まで飛び降りた。左の肩に鞄を抱え、右手にはスマートフォンを持ちながら、一切の躊躇をせずに電車の前で飛び降りたのである。車掌は彼の姿を見てブレーキを掛けた。そして警笛を鳴らした。しかし彼が止まる事は無かった。
彼が飛び降りた場所へ、電車の車輪がブレーキ音を掻き鳴らしながら通り過ぎて行った。
サクが飛び降りる瞬間を見た近くの男性は思わず顔を逸らした。別の男性は迷わず救助に向かった。他の人は救急車や警察を電話で呼んだ。
「あ……」
普段と違う様子に何かを察したくれこは現場へと駆け付けた。短髪の少女もそれに続く。
少女が見た先には、先頭車両の硝子に罅が入っていた事と、所々に丸い形をした血痕が付着していた。
恐る恐る下へと目を向けると、線路と車両の間から一本の血塗れの腕が飛び出していた。その手は携帯電話を握っていた。
最後にサクの手で握られたままの携帯電話から通知の音が鳴った。同時に、真っ黒な画面から、モバイルメッセンジャーのアプリであろう一つのメッセージが表示された。
『あのさ、もし平日休むならうちの家来ても良いけど。』
そのメッセージが返信されることは二度と無かった。
■登場人物
・サク(咲)
年齢:24
血液型:A型
生年月日:平成10年(西暦:1998)12月25日
好きなもの:布団
嫌いなもの:人生
・香
年齢:26
生年月日:平成8年(西暦1996)5月18日
血液型:B型
好きなもの:強い人
嫌いなもの:諦める事
・くれこ(紅子)
年齢:18
血液型:A
生年月日:平成16年(西暦2004)3月28日
好きなもの:家に帰った後の晩御飯
嫌いなもの:年寄り
・まゆこ(短髪の少女)
年齢:18
血液型:A
生年月日:平成16年(西暦2004)10月23日
好きなもの:守ってくれる人
嫌いなもの:殺人事件
■地名
・奈良市
奈良県の北部に位置する市。奈良県の県庁所在地及び最大の都市であり、中核市に指定されている。奈良時代に都が置かれたことから古都と呼ばれる。また京都に対して南都とも呼ばれた。
・近鉄線
正式名称「近畿日本鉄道」大阪府・奈良県・京都府・三重県・愛知県の2府3県で鉄道事業を行っている会社である。日本の大手私鉄の一つであり、JRグループを除く日本の鉄道事業者(民営鉄道)の中では最長の路線網を持つ。
・御堂筋線
大阪府吹田市の江坂駅から大阪市内を経て大阪府堺市北区の中百舌鳥駅までを結ぶ大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) の路線。正式名称は高速電気軌道第1号線、『鉄道要覧』では1号線(御堂筋線)と記載されている。
・難波
大阪府大阪市中央区・浪速区に広がる大阪を代表する繁華街。または、中央区の町名。現行行政地名は難波一丁目から難波五丁目まで。
物語では近鉄線の「大阪難波」という駅名や、御堂筋線の「なんば」という駅名で使われてる。
・三宮
兵庫県神戸市中央区にある神戸新交通・神戸市交通局(神戸市営地下鉄)の駅である。作中では「神戸三宮」という駅名で使われてる。
・近鉄8000系
近畿日本鉄道(近鉄)が保有する一般車両(通勤形電車)である。近鉄線を利用する人にとっては、赤と白の電車と言えば分かるだろうか。