第九十七話:インドラ洋海戦⑩
前部3基の主砲を射角ギリギリまで後方に向けて射撃を行う伊勢であったが、ウォースパイトは巧みに死角に回り込み砲撃を浴びせる。
艦内に大量の海水を抱える伊勢の復原力は限界に達しており微速(5kt)という低速でも左右に舵を切るたびに不安定に傾いていた。
そんな状態で放つ砲弾がウォースパイトに命中する筈も無いが、ウォースパイトの砲弾もまた伊勢を捉え切れていなかった。
とは言えウォースパイトの砲弾は比較的伊勢の近距離に着弾している為、いつまた直撃弾を受けても不思議では無く、もし艦体部に後1発でも受ければ伊勢は耐えられないと思われる……。
「ううむ、このままでは真面に攻撃する事も出来無いな……。 艦長、いっそ転舵し艦首を敵に向けてみては如何だろうか?」
松田は顎に手を当て思案顔でそう言った、その視線は不自然に後方を向いている3基の主砲塔に向けられている。
「なっ!? し、しかし現時点で敵との距離は12,000を切っておるのですぞ? その状況で敵に向かって行くのはーー」
「ーーああ、差し違える覚悟が必要だろうな、だが敵に死角を突かれるのは無理な体勢で距離を取りながら撃とうとするからだ、であれば距離を気にせず敵と正面から相対すれば……先に当てた方が勝つ、だろう?」
「……」
伊勢艦長は松田の提案に驚き異を唱えるが松田は言葉を被せ得意げに口角を上げる。
その松田の言葉に伊勢艦長は押し黙るが、やがて彼も口角を上げニヤリと笑い口を開く。
「確かに、背後から撃たれて沈むくらいならば相打ち覚悟で正面切って撃ち合うのも悪く有りませんな……」
「正しく、軍艦伊勢の最後は斯く在るべきでしょう!」
「ジョンブル共に大和魂の何たるかを教えてやりましょうぞ!!」
艦長の言葉に参謀達も次々と賛同の意を表す、この時既に彼等に生きて帰ると言う気は無く、如何に雄々しく散るかと言う事のみを考えている様であった……。
「取り舵いっぱい! 右舷側面噴進機を最大で回せっ!!」
伊勢艦長の声が艦橋に響き渡ると戦艦伊勢の巨躯が鈍い金属の軋む音を響かせながら左旋回を始める。
その遠心力で左に傾いていた傾斜が水平に近づき、艦首右舷の側面噴進機が悲鳴に近い音を轟かせながら最大噴射で艦首を左に押しやる。
その伊勢の行動にウォースパイトは警戒し速度を20kt程に落とすと僅かに取り舵を取った。
「今度は此方が追う番だな、逃さんよ、舵戻せ!」
「かじもどぉ〜せぇ〜!!」
伊勢艦長が眼光鋭く転舵するウォースパイトを睨み付け指示を出し、副官が声を張り上げその指示を復唱する。
「面舵に当て!!」
「あ〜てかぁ〜じ!」
伊勢艦長が頃合いを図り当て舵の指示を出し伊勢の艦首は正面にウォースパイトを捉えた。
「正面砲撃戦、一斉撃ち方始めぇっ!!」
「いっせぇうちぃかぁたはじめぇっ!!」
伊勢艦長が砲撃命令を下すと伊勢の3基5門の砲身が一斉に火を噴いた。
が、砲弾は全てウォースパイトの遥か後方に着弾する。
ウォースパイトも負けじと3基6門の主砲を射撃し応戦するが、これも伊勢の左に大きく外れて着弾した。
その後も両艦は砲撃の応酬をしあい、互いに至近弾を与えそして夾叉を得る。
ウォースパイトは四番主砲を伊勢に指向させるため左舷横腹を晒す形となっており前部主砲3基を正面に指向可能な伊勢は艦首をウォースパイトに向ける。
そのため両艦は必然的に丁字で撃ち合う形になっていた。
この時、両艦の距離は11,000程度で有り若し直撃弾を受ければ互いに主砲正面防盾すら貫徹されかねない距離での砲戦となってる。
その状況で伊勢とウォースパイトはほぼ同時に主砲を斉射する。
刹那、両艦の砲弾が交差しウォースパイトの砲弾が僅かに早く着弾するが、命中弾は無かった。
その次の瞬間ウォースパイトから爆炎が立ち上がる。
伊勢の放った2発の砲弾がウォースパイトに命中し、1発は左舷艦尾舷側に、もう1発が三番主砲基部に命中した。
左舷艦尾舷側の損傷は航行や戦闘に支障は無いものの被害そのものは決して軽微とは言えなかった。
三番主砲塔は爆圧で内部が蹂躙され装填中で停止していた装弾薬が誘爆したため完全に大破沈黙した。
然しウォースパイトは怯む事なく即座に次弾を放ち、再び両艦の砲弾が空中で交差する。
次の瞬間、またもウォースパイトから爆炎が立ち上がる。
左舷中央から立ち上がった爆炎と共に副砲と甲板か舷側の破片が中を舞い海面に落下する。
ウォースパイトの放った砲弾にはまたも命中弾は無かった。
然しこれはウォースパイトの命中精度が悪い訳では無く、横腹を晒しているウォースパイトと正面を向いている伊勢との被弾面積の差によるものであった。
これならクインエリザベス級にも勝てる、と脳裏に勝利を感じた伊勢艦長が口角を上げた。
だがその数秒後、突如伊勢の艦首付近が爆ぜ爆炎が立ち上がりその爆風が艦橋窓に打ち付ける。
「ぐっ!? 被害状況知らせっ!!」
前方に立ち上がる爆炎を睨み付けながら伊勢艦長が声を張り上げる。
「艦首に直撃弾っ!! 火災発生!!」
「一番主砲塔沈黙、応答有りませんっ!!」
「ーーっ! くそっ! 艦首と一番主砲塔に応急班を向かわせ消火を急がせろっ!! 併せて詳細な被害状況を報告させるんだっ!!」
勝利の希望が見えた矢先の不運に伊勢艦長は憤りと焦燥感の入り混じった表情で指示を出す、その声は怒鳴り声に近く部下達は張り詰めた表情で指示通りに動き始める。
ウォースパイトから放たれた砲弾のうち1発が伊勢の非装甲部で有る艦首左舷舷側に命中し内部隔壁を蹂躙しながら一番主砲塔基部の装甲に打ち当たりそれを浸徹、炸裂した炸薬は給弾室の装弾薬を巻き込み一番主砲塔内部とその周囲を灼熱の炉に変えた……。
その状況下で弾薬庫が被害を免れたのは不幸中の幸いで有った。
もし砲弾の角度がもっと深ければ弾薬庫の誘爆を引き起こし最悪艦が裂けていたかも知れない……。
とは言え、延焼は激しくこのままでは弾薬庫に火が回る可能性は決して低くは無い、そのため応急班の鉄人隊が弾薬庫の注水弁を開くべく決死の覚悟で炎の中へと突き進んで行った。
「応急班より、一番主砲弾薬庫に注水及び艦首区画の消火完了!」
「うむ、しかし……一番主砲までも失ってしまったか……」
通信員からの報告に艦長は意気消沈し呟く様に言葉を零す、そんな艦長の肩に手を掛け松田が不敵な笑みを浮かべながら口を開いた。
「相手の砲塔は3基6門、対して此方は2基3門に加え発揮出来る速力は低く予備浮力も殆ど無しか……が、まだ砲は3門も残っている、そうだろう?」
「っ! 確かに! 最後の一門まで撃ち続け尽忠報国の義に殉ずるのみ、と申したのは本官でしたな! 3門も残っているならば十分! 撃って撃って撃ちまくってやりましょうぞっ!! 砲撃再開、撃ち方始めえっ!!」
松田の言葉に気勢を取り戻した艦長は鼻息荒く砲撃再開を指示する、がその時、伊勢の主砲が火を噴く前にウォースパイトの周囲に数本の水柱が立ち上がる。
お世辞にも至近弾とは言えない距離に立ち上がった水柱だが伊勢の搭乗員達にとっては希望の水柱で有った。
程なくして伊勢の通信機に【我金剛、伊勢健在ナルヤ】の打電が送られて来る。
それに伊勢は【我ハ伊勢、満身創痍ナレド戦意旺盛ナリ】と返した。
この時伊勢と金剛はウォースパイトを挟んで約40km離れた位置に展開していた、伊勢とウォースパイトは10kmの距離で撃ち合っているため、金剛は30kmの距離から砲撃を開始した事になる。
その距離では命中弾は略々期待出来無いため、ウォースパイトの注意を伊勢から逸らす為の威嚇(挑発)射撃である事が分かる。
だがウォースパイトはその挑発に乗っては来ず、伊勢への攻撃を続けた。
ウォースパイトの艦長は2対1の戦いになる事を良しとせず金剛が有効射程に入る前に満身創痍の伊勢を仕留める事を決断したのである。
事実伊勢は速力が14ktにまで低下しており、浸水によって予備浮力を失い艦体重量が増したため回避行動もままならない状況で有った。
だがその状況でも伊勢は打電通りの旺盛な戦意を見せ3門の砲で果敢に応戦し、ウォースパイトの艦橋基部へ命中弾を与える。
しかしウォースパイトも怯む事無く砲撃を返し伊勢の右舷甲板が爆ぜ爆炎が立ち上がる。
不幸中の幸いか喫水線下への影響は無く浸水は起こらなかったが、艦内各所に分散され酷使された応急班は対応が間に合わず伊勢は炎と黒煙を纏いながら砲撃を敢行していた。
その間金剛からもウォースパイトに向けて砲撃が続けられていたが、最大戦速(50kt)で30kmの距離から放つ砲撃がそうそう当たる筈も無く、牽制程度にしかなっていなかった。
「まだだ!! 金剛が有効射程に入るまで持ち堪えろ、敵艦を正面に捉え続け撃ち続けるんだっ!!」
伊勢艦長が眼光鋭く声を張り上げ、それに応え伊勢が軋む艦体を押して砲弾を放つ。
だがその次の瞬間、伊勢の三番主砲が爆ぜた。
二番主砲塔の天板を掠め三番主砲防盾を貫徹した砲弾は砲塔内部で炸裂、装填中の砲弾薬が誘爆しその爆圧と爆風で右砲は前方に回転しながら吹き飛び左砲は燃え盛る業火に包まれ不自然な方向に垂れ下がっている……。
さらに爆発による破片の余波で艦橋下部の羅針艦橋(夜戦艦橋)では多数の死傷者を出し、松田と伊勢艦長が指揮を執る戦闘艦橋(昼戦艦橋)も装甲版の破片が飛び込み艦長以下数名が負傷していた。
「さ、三番主砲が……もう、だめだ……っ!」
「ぐ、ぬぅ……っ!! まだだ、まだ砲は残っているっ!! 撃てぇっ!! 撃つんだぁあああっ!!」
伊勢艦長は左肩から多量の出血をしふら付きながら立ち上がると眼光鋭く声の限り叫ぶ、それに呼応する様に二番主砲塔は伸し掛かる三番主砲の砲身を押し退けながらただ一門残った左砲を旋回させ、そして一発の砲弾を射撃する。
たった一発の砲弾は、だが真っ直ぐに敵艦ウォースパイトに向かって飛翔し、そのままウォースパイトの二番主砲塔を撃ち貫く、それは正に伊勢の執念が生んだ奇跡の一撃であった。
ウォースパイトの二番主砲からは爆炎が立ち上がり完全に大破沈黙していたが、ウォースパイトの戦意は衰える事無く残った2基の主砲を以って伊勢への砲撃を継続する。
だが今度はウォースパイトの右舷から至近弾が降って来る、金剛が漸く有効射程距離に到達したのであった。
金剛はウォースパイトとの距離23,000で並行し一斉射による威嚇射撃から交互撃ち方による堅実な砲撃に切り替えウォースパイトに圧力を掛ける。
本来であれば格下の金剛が格上のウォースパイトに一対一で圧力を掛ける事など有り得ないが、2基の主砲を失い伊勢に照準を向けている状態のウォースパイトからすれば手数と先制の優位が有る金剛は十分な脅威であった。
故にウォースパイトの艦長は伊勢撃沈を諦め金剛を標的とする為に右に大きく転舵を始める。
これは伊勢から離れ先程のような奇跡の一撃を万が一にも食らわない様にした上で、金剛を確実に仕留める為であった。
金剛としても伊勢から離れてくれる事は望む所である為これを受けて立つ。
ウォースパイトと金剛では本来なら戦艦としての格が違うが、金剛には先の戦闘でウォースパイトの下位互換であるロイヤル・サブリンを速力と射撃能力を以って翻弄し撃沈した実績が有る。
ウォースパイト(クインエリザベス級)はロイヤル・サブリン(リヴェンジ級)と比べ装甲と速力が若干上で有るが、そこまで大きく勝るものでは無い。
加えて伊勢が与えた損害を加味すれば金剛にも十二分に勝機は有ると考えるのは当然だろう。
一撃でも直撃すれば一巻の終わりと言うリスクは付いて回るが……。
「敵艦左舷距離23,000、面舵回頭中!!」
「此方も面舵を取り距離を維持しますか?」
「いや、ちょうど良い、敵艦距離16,000までは針路そのままで頼む」
「分かりました!」
伊勢から距離を取るため面舵を切るウォースパイト、当然反対側に展開する金剛との距離は縮まる事となる。
ウォースパイトの対46㎝砲の安全距離は16,000以遠で有るが金剛には安全距離が存在しない為、金剛艦長は距離を取るか西村提督に伺を立てた。
それに対する西村の応えは針路をそのままウォースパイトとの距離を16kmまで詰めると言うものであった。
46㎝砲でクインエリザベス級の重要防御区画を確実に抜くにはその距離まで近づかなければならない為、攻勢を考えるなら当然の判断と言える。
ウォースパイトは回頭と同時に主砲塔を右舷に旋回させ照準を素早く金剛に切り替え距離18,000で斉射を開始する。
それに対して金剛も交互撃ち方で応戦し暫く命中弾の無い応酬が続く。
何度目かの砲撃の応酬の後、先に夾叉を得たのは金剛であった。
その報告を受けた金剛艦長は一斉撃ち方を下令し、金剛の3基6門の主砲が一斉に火を噴いた。
金剛の放った砲弾の内1発がウォースパイトの左舷前部舷側に命中し爆炎が立ち上がる。
然しウォースパイトは怯む事無く砲撃を敢行し、金剛に至近弾を与え夾叉を得る。
それを受けた金剛は取り舵を切り回避行動を行う、サブリン戦で見せた機動戦術である。
だがウォースパイトもその金剛の動きに合わせて面舵を切ると同時に主砲を旋回させていた。
そして回頭中の不安定な体勢のまま2基4門の主砲を斉射する。
次の瞬間、金剛の至近距離に4本の水柱が立ち上がる、命中弾こそ無かったが、旋回中の正確な射撃に金剛艦長と西村提督は息を呑む。
慌てた金剛は急いで主砲を右舷へ向け旋回させるが、それが完了する前にウォースパイトの主砲が再び火を噴いた。
その砲弾の1発が金剛の横腹を撃ち抜く。
この時両艦の距離は17,000であり、金剛の舷側装甲は呆気なく貫徹され砲弾は金剛の艦内部中枢にまで達しそこで炸裂し主機が損傷、速力が一気に10kt程度まで低下してしまった。
更に砲弾が喫水線ギリギリに命中した事も災いし、その爆圧によって大量の海水が流入した金剛は徐々に右に傾いて行く。
その状況でも金剛は何とか主砲の仰角を合わせ砲撃を敢行しウォースパイトに直撃弾を与えたものの致命打にはならず、ウォースパイトからの反撃によって司令塔に直撃弾を受け司令部から多数の死傷者が出てしまった。
応急班が必死に対処するも金剛は爆炎に包まれ傾斜を増して行く、だがそれでも必死に主砲の仰角を取り砲撃を続けていた。
そんな金剛の窮状に伊勢が必死に追い縋り残った1門の主砲で何度もウォースパイトに向け砲弾を放つが、再び奇跡が起きる事は無く、虚しく海面に水柱を立ち上げるだけで有った……。
最早金剛の運命は風前の灯火であった……。
金剛が沈めば次は伊勢の番であろう。
西村提督も松田司令達も覚悟を決めたその時、突如ウォースパイトが転舵し金剛と伊勢から離れて行く。
「この状況で離脱だと!? どう言う事だ?」
傾いた金剛の艦橋で西村提督が離れ行くウォースパイトを怪訝な表情で睨みながら戸惑っている。
然もあろう、金剛と伊勢は殆ど戦闘力を喪失している、その状況で2艦を見逃すなど、どう考えても道理に合わない。
だがそんな金剛と伊勢の困惑を他所にウォースパイトの姿は水平線の先に消えて行った……。