8
「寒っ」
ミキの住処から一歩外へ出ると、顔を突き刺すような風に思わず眉をひそめた。
風の勢いは、日が傾くのに合わせて増していったらしい。二階に吹き付ける冷めた空気は、室内との温度差など欠片も考慮してはくれない。折角蓄えた体温が、秒刻みで奪われていく。
「冬なんだからさ、チリ君。もう少し厚着してきなさいと、前にも言わなかったかな」
「別に、このくらい平気だろ。夏臥美の冬は大して寒くはならない」
油断は禁物なんだが、と。普段から露出の少ないドレスを私服とするミキは、さほど堪えてはいないようだった。生まれ故郷はもっと寒いらしいから、それなりに慣れているのだろう。
踏み出すたびに、木の床が軋んだ。いつ踏み抜いてもおかしくない音だが、存外しぶとい。当時なりに、技巧の凝らされた建築物なのだろう。先月、ついに唯一の住人となったミキに、あるいは引っ張られているのかも知れない。
町の喧騒から遠く離れ、外周を囲う山林に寄り添うように佇む、亡霊のような集合住宅。戦前から生き延びてきたこのオンボロアパートも、来年の春にはついに取り壊されるらしい。
ミキがいなくなるからか。
それとも、だからミキはいなくなるのか。
恐らく前者だろう、と。何の根拠もなく、その判定は頭の中で、不快な信憑性を帯びていた。
「変な話だけど」
学校制服の上から、ウィンドブレーカーを羽織りながら。特に意味もなく、そんな話題が流れ出ていた。
「こうやって一つ一つ、お前の痕跡がなくなっていくと。いつかお前も本当に、都市伝説の仲間入りするんだろうな」
人が生み、育む、実体のない不思議。
それは、恐ろしい怪人かも知れないし。
それは、魔法のように幸せを運ぶジンクスかも知れない。
得体の知れない噂話を、ある種の趣味としても楽しんでいたミキが。そのもの都市伝説として確立される未来があるとしたら。
それは、なんて――
「皮肉な話だ」
「そうでもないさ」
どこか嬉しそうに、ミキはそう言って見せた。
階段を降りきる。分厚い雲に覆われた夜空と、もう誰もいなくなった二階建てのアパートを背景に、ミキが微笑んでいる。
「真実とはいつだって、誰に対しても優しいものだとは限らない」
でも、と、ミキは否定してから。次の句を告げるまでの沈黙を楽しむように、ひとつ深い呼吸をする。
「噂とは娯楽だ。都市伝説も、言ってしまえば人々の娯楽なんだ。真実は真実、動かしようのない過去として成立してしまった、それはそれとして置き去って。こうあって欲しい、あんな風だったら良かったのに、という希望と欲望によって形を変え、色を変え、真実は歪に変容して浸透する。パズルのピースのように――いや。それはきっと、パズルのピースを作り出す作業だ。どうしようもない隙間を埋めて安堵する、そのための便利な部品こそを、人々は欲しているんだ。私の存在、私の足跡、私の証が、そうやって誰かの心を満たすことができるなら。ねぇ、チリ君」
それはとても、素晴らしいことじゃないか。
生きとし生きる、すべての人を愛すると謳う、ミキが。
きっと本心から、そんな台詞を口ずさんだ。
「物理的な痕跡など無粋だよ。人々の心の中に、人々の都合のよい姿で残る。私には、それ以上望むものはない」
本望だと。
そう語るミキが、俺は少し寂しかった。
結局のところ。三鬼 弥生という女の、本当の姿を。誰も彼もが、知らずに彼女を忘れるのだ。
ミキは断じて、善人ではないし。
出会ったこと自体が不幸だと、そう言われても否定はできないけれど。
でも、それじゃあ。
それじゃ、あんまりだと。
俺の中で、誰かが叫んでいるようで。
「私たちは知っているはずだよ、チリ君」
去り際に、ミキは言った。
「人は弱い生き物だ。名刺のような紙切れで傷付く肉体、嘘みたいな冗談で壊れる精神。強くあろうとする志は素晴らしいが、万人がそうやって走り抜けるには、人生というものは過酷に過ぎる。そうとも。私たちは、何も成せず何も残せず、ただ無為に流れる何でもない日常と、その総算たる人生こそを、何より尊ぶべきなんだ」
ただ生きているだけで、生き物には価値がある。
そこにいるんだから、生きていていいと。
努力しなくちゃ――無理を通し、自分を苦しめ、追いつめ、辛く厳しい正道を行かなくては、意味がないと。そんな風に強くいられることは、人間一人には身に余る幸福だ。
「だから、時にはそうやって、娯楽に興じるのもいいだろう。そんなとき、一助となれる私でありたい。私の願いは、終始一貫してそういうものだ。だって今の私には、そのくらいのことでしか、彼らの力にはなれないのだから」
自分もまた、弱い人間の一人であるが故に。
そんなことを、心からの笑顔と共に口にするミキが、あまりに痛ましかったから。
夜露に濡れる頬が、泣いているように見えたから。
「――ありがとな、見送ってくれて」
「構わないさ。気を付けて帰るんだよ、チリ君。朝ちゃんによろしく」
頼りにしているよ。
そんな言葉から逃げるように、その場を後にするしかなかった。