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夏夜の鬼 語り残し  作者: 真鴨子規
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「寒っ」

 ミキの住処から一歩外へ出ると、顔を突き刺すような風に思わず眉をひそめた。

 風の勢いは、日が傾くのに合わせて増していったらしい。二階に吹き付ける冷めた空気は、室内との温度差など欠片も考慮してはくれない。折角蓄えた体温が、秒刻みで奪われていく。

「冬なんだからさ、チリ君。もう少し厚着してきなさいと、前にも言わなかったかな」

「別に、このくらい平気だろ。夏臥美の冬は大して寒くはならない」

 油断は禁物なんだが、と。普段から露出の少ないドレスを私服とするミキは、さほど堪えてはいないようだった。生まれ故郷はもっと寒いらしいから、それなりに慣れているのだろう。

 踏み出すたびに、木の床が軋んだ。いつ踏み抜いてもおかしくない音だが、存外しぶとい。当時なりに、技巧の凝らされた建築物なのだろう。先月、ついに唯一の住人となったミキに、あるいは引っ張られているのかも知れない。

 町の喧騒から遠く離れ、外周を囲う山林に寄り添うように佇む、亡霊のような集合住宅。戦前から生き延びてきたこのオンボロアパートも、来年の春にはついに取り壊されるらしい。

 ミキがいなくなるからか。

 それとも、だからミキはいなくなるのか。

 恐らく前者だろう、と。何の根拠もなく、その判定は頭の中で、不快な信憑性を帯びていた。

「変な話だけど」

 学校制服の上から、ウィンドブレーカーを羽織りながら。特に意味もなく、そんな話題が流れ出ていた。

「こうやって一つ一つ、お前の痕跡がなくなっていくと。いつかお前も本当に、都市伝説の仲間入りするんだろうな」

 人が生み、育む、実体のない不思議。

 それは、恐ろしい怪人かも知れないし。

 それは、魔法のように幸せを運ぶジンクスかも知れない。

 得体の知れない噂話を、ある種の趣味としても楽しんでいたミキが。そのもの都市伝説として確立される未来があるとしたら。

 それは、なんて――

「皮肉な話だ」

「そうでもないさ」

 どこか嬉しそうに、ミキはそう言って見せた。

 階段を降りきる。分厚い雲に覆われた夜空と、もう誰もいなくなった二階建てのアパートを背景に、ミキが微笑んでいる。

「真実とはいつだって、誰に対しても優しいものだとは限らない」

 でも、と、ミキは否定してから。次の句を告げるまでの沈黙を楽しむように、ひとつ深い呼吸をする。

「噂とは娯楽だ。都市伝説も、言ってしまえば人々の娯楽なんだ。真実は真実、動かしようのない過去として成立してしまった、それはそれとして置き去って。こうあって欲しい、あんな風だったら良かったのに、という希望と欲望によって形を変え、色を変え、真実は歪に変容して浸透する。パズルのピースのように――いや。それはきっと、パズルのピースを作り出す作業だ。どうしようもない隙間を埋めて安堵する、そのための便利な部品こそを、人々は欲しているんだ。私の存在、私の足跡、私の証が、そうやって誰かの心を満たすことができるなら。ねぇ、チリ君」

 それはとても、素晴らしいことじゃないか。

 生きとし生きる、すべての人を愛すると謳う、ミキが。

 きっと本心から、そんな台詞を口ずさんだ。

「物理的な痕跡など無粋だよ。人々の心の中に、人々の都合のよい姿で残る。私には、それ以上望むものはない」

 本望だと。

 そう語るミキが、俺は少し寂しかった。

 結局のところ。三鬼 弥生という女の、本当の姿を。誰も彼もが、知らずに彼女を忘れるのだ。

 ミキは断じて、善人ではないし。

 出会ったこと自体が不幸だと、そう言われても否定はできないけれど。

 でも、それじゃあ。

 それじゃ、あんまりだと。

 俺の中で、誰かが叫んでいるようで。

「私たちは知っているはずだよ、チリ君」

 去り際に、ミキは言った。

「人は弱い生き物だ。名刺のような紙切れで傷付く肉体、嘘みたいな冗談で壊れる精神。強くあろうとする志は素晴らしいが、万人がそうやって走り抜けるには、人生というものは過酷に過ぎる。そうとも。私たちは、何も成せず何も残せず、ただ無為に流れる何でもない日常と、その総算たる人生こそを、何より尊ぶべきなんだ」

 ただ生きているだけで、生き物には価値がある。

 そこにいるんだから、生きていていいと。

 努力しなくちゃ――無理を通し、自分を苦しめ、追いつめ、辛く厳しい正道を行かなくては、意味がないと。そんな風に強くいられることは、人間一人には身に余る幸福だ。

「だから、時にはそうやって、娯楽に興じるのもいいだろう。そんなとき、一助となれる私でありたい。私の願いは、終始一貫してそういうものだ。だって今の私には、そのくらいのことでしか、彼らの力にはなれないのだから」

 自分もまた、弱い人間の一人であるが故に。

 そんなことを、心からの笑顔と共に口にするミキが、あまりに痛ましかったから。

 夜露に濡れる頬が、泣いているように見えたから。

「――ありがとな、見送ってくれて」

「構わないさ。気を付けて帰るんだよ、チリ君。朝ちゃんによろしく」

 頼りにしているよ。

 そんな言葉から逃げるように、その場を後にするしかなかった。

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