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「で、こう見えて結構面食らっている私だが。まさかチリ君、いやいや、君がそんなにモテるとは知らなかったよ」
しばらく、笑いを堪えて下を向いていたミキが、ようやく顔を上げてそう言った。
いつもの黒い部屋。いつもとは違う、けれどいつも通りの黒いドレス。最近はほとんど毎日、この光景を見るようになっている。
「よりにもよってさ、ねえ。信じられるかい? ともすれば、アオでさえ予測できなかったんじゃあないのかな? 異性との愛なんて春夏秋冬種を植え続けても芽が出ない、そんなモテない概念の塊のような君が、あの黒川女史とのデートとはね」
「どこのバカだ、コイツに漏らした考えなしの大バカ野郎は」
などと言いながら、しかし、諸悪の根元が明確に存在していることにはすぐに気が付いた。そうだ、口の軽い猿を二匹、うっかり野放しにしてたんだ。失敗である。
「こらチリ君、クラスメイトに対してその陰口は感心しないな。彼らは彼らなりに気を使っているんだよ。女性に対しては、ほら、色々と前科のある君なんだし」
「まるっと筒抜けじゃねぇか」
奴ら――というか、学校の連中と話をするときは、隣にミキがいるつもりで話をした方が良さそうだ。完全に妖怪であるこの女。壁に耳ありどころか、壁そのものが集音装置なのではないか。怖すぎるだろ。
「まあね、華ちゃんの件は窘めておいたよ、あまり茶化さないで欲しいとね。彼女の心変わりについては、私も無関係ではないのだし」
「…………」
分かってる。
あのことで被害者面をしていていいのは、綾辻だけだ。ミキでなければ、俺でもない。
ミキが言うには、綾辻も納得した上での選択だったという。それは多分、本当のことなんだろうけども。
それが正解だったなんて。俺には、とても思えなかったから。
「まだ、納得できていないという顔だね、チリ君」
「そりゃあ」
「あまり、考えすぎるのもどうかと思うね」
ミキは物憂げに、腰掛けた黒いソファを指先で撫でた。
「あれは、あのときの君にも私にも彼女にも、どうしようもないことだった。まして、今の君にできることなんて何もない。最強の鬼使いと称され、人類にとっての災厄と成り果てた鬼姫――三嘉神 朔弥でさえ、過去を変えることはできなかったんだ」
ミキは、長い睫毛を伏せる。俺の知らないその故人の顔を、思い浮かべるように。
「無駄は省いていこうよ。互いに、そこまで余裕があるわけでもないだろう」
「…………」
変わったな、と人から言われて。いちいち戦々恐々としていた俺だけど。
多分、そんな俺以上に。目の前で笑うこの女は、変わってしまったんだろう。
それが、いいことなのか悪いことなのか。俺には全く分からない。分かりたいとも思わない。
「まあ、そうだな。だいたい、そんな話をするために、わざわざ訪ねてきた訳じゃない」
「え、愛しい私と他愛ない話をしたかったんだろう?」
「ちげぇよ」
意識的に避けていても、ミキの長話には付き合わされる羽目になるのだ。なぜ自分から飛び込んでいかなければならないのか。
「昨夜の仕事の件だ。報告と、報酬の受け取りがまだだったろ」
「ああ、その件か」
そう言えば、と。ミキはドレスの襟元を摘まむような仕草を見せた。
そして、いつの間にかミキの手には、茶色の封筒が収まっていた。種も仕掛けもある、おぞましい手品である。
「お疲れ様。今回もまた、少し毛色の違う相手だったようだね」
「違わない毛色の相手ってのが未だに分からねぇんだけど」
投げてよこされた封筒を確認する。いつも通りの額だ。夏からこっち昇給はないが、回数が増えているので実質増額している。
――まあ、使い道なんて、生活費以外にはほとんどないんだが。
ともあれそのおかげで、夏にはギリギリだった金銭面の問題には、今のところ余裕を持てている。
「どこまで知ってる?」
「概ね全部。君が追い詰めた銃使いの彼には色々と教えてもらった。黒猫の伝言というのも含めてね」
ミキは得意げにそう言った。ちょっとウザいほどの笑みで、しかし殴りたい欲求はまったく浮かばないのが狡い。マツイさん相手だったら思わず手が出ていた。
まあ、それはそれとして。
「銃使い――そう呼ぶと、なんか」
格好良いな。
水鉄砲なのに。
水鉄砲のくせに。
「どうなったんだ? あいつ」
「まあ、無事に行方不明になってもらったよ。安易に放逐するわけにはいかない」
そうか、と。ミキも俺も、なんでもないようにその顛末を受け入れる。
――心が鈍化している。
あの男も、別に悪い人間じゃなかっただろうに。ままならない世の中に不平不満は漏らしつつも、どうにか真っ当に生きてきた部類だったろうに。
もしかして、拷問とか受けたのだろうか。
かわいそうに。
最後に見させてもらえば良かったのに、動物番組。
「目的は? っていうか、どこの誰だよ、あれ」
「一内 一。一内は、かつては主要十家ゆかりの精鋭だったが、今ではほとんど廃れている。その中で、彼は暗部に属していた人間だ」
「暗部……」
あんぶ。
なんというか。いや、『機関』なんてものがいる世界でなにを今更という気もするけれど。
八十年代か、そのセンス。
もう世紀跨いでんだぞ。
「伊達や洒落でそういう名前なワケじゃあないんだよ、チリ君。彼らの任務は暗殺だ。機関においても決して罪人ではない、しかし生かしておいては面倒な人間は都度現れる。それらを秘密裏に処理する汚れ役、掃除屋、トラブル処理班。それが彼らの仕事なんだ」
暗殺向きだと、そう言えば黒猫も評していた。音もなく、痕跡を残さず、静かに退場させることができる。無警戒ならば脅威的だっただろう。
「私からすればこれで二度目だ。長兄との抗争に紛れて、突然襲われたんだが」
「ひでえな。お前それ何歳の時の話だよ」
「さて。十は越えていなかったと思うがね。まあ、それについてはどうでもいいよ。おかげで油断してくれて、対処しやすかったというのもあったのだから」
要するに、子どもだと油断して返り討ちに終わったわけだ。アホである。一内とかいうあの男の印象と並べると、機関とやらの間抜けさがイタいほどに伝わってくる。実は脅威でもなんでもないのではないか。
「しかし今回は違うだろう」
俺の心を見抜いたように。ミキは強調して警告する。
「若輩を理由に手を抜いてはくれない。一内 一にしたって考えなしではなかった。まずはチリ君を狙って来たんだからね」
そうかも知れないが。新入りだ後輩だと、それはそれでかなり甘く見てきていたあたり、やはり迂闊だったとしか言えないだろう。ぶっちゃけた話、一撃で終わってしまって、一番驚いたのは俺自身なのだ。
え、終わり?
あれだけ無駄にキャラ立てておいて?
とか。噴飯ものである。
「それに、口も堅かった。仲間のことを聞き出すのは諦めたよ」
「仲間がいることは確定なのか」
「まあ、機関の末端が単身飛び込んでくる訳もないさ」
どうせ八剣の駒だ。
困ったように笑って、ミキは白い髪を弄ぶ。
「君の勘では、何人だと思う?」
「勘、っていうか。機関なら、二人か四人か八人だろ。その三択なら、四人」
二人じゃ少なすぎる。
八人じゃ目立ちすぎる。
単純な予想だ。
こちらが二人で、ぶつけるのが四人。頭数だけ見れば倍の戦力だ、普通なら、戦う前から勝負は決している。
まあ、そのせいで慢心していたようだけど。
やはり人間、数字では何も語れない。
「四象陣、ああ、そんなところだろう。ではあと三人、刺客がやってくるかも知れないわけだ」
「大した話じゃないだろ、あの程度のが三人なら」
「ふん、言うようになったねチリ君。でも知ってるかい? 最初に戦う四天王は最弱と相場が決まっている」
なんだ、四天王って。
ミキが愉快そうなので、深く突っ込まないことにした。
「油断もあったろうし。ともすれば仲間に引き込めるかも知れないと、期待半分で君を見ていたんだとすれば。次からが彼らの本領だろう。ねえチリ君。そういう、いつどこで襲われるかも分からない生活というのは、どんな気分だい?」
どんな気分、とか言われても。
いつどこで狙われるか分からないってことは、どうしようもないってことだろ。
どんな気分でいるのが正解なんだ? いつも通りにしてる以外、何かあるのか?
ミキ的には、仲間が増えて嬉しいのだろうか。
命の危機だってのに、ウキウキしたように身体を揺らす彼女を見ていると。何もかも、どうでもよく思えてしまうのだ。
「残念だよ、チリ君。私はもう、外敵に怯えて、情けなく喘ぐ君を見ることができないんだね」
「そんなこと残念がってんじゃねぇよ、諸悪の根元が。お前が最初、アオけしかけて鬼ごっことかやったもんだから、耐性付いたんだよ」
それはもう、芯の芯まで。
いや、あれは怖かった、本気で怖かった。しばらくアオが直視できないくらいにはトラウマものだった。
「ふん、それは失策だった。春の私はどうにも、まだ加減というものが分からなくてね」
「まるで今は匙加減完璧みたいな言い方してんじゃねぇよ」
「そうだね、だからこそ。君には感謝しているんだよ、チリ君」
なんだそりゃ。
なんでそこから感謝に繋がる?
「不器用な私も受け入れてくれる。認めて、側にいてくれる。そんな君が、私は心底堪らない」
ぎゅっと。細長い両腕で、ミキは自分の身体を抱いた。
気持ち悪いと思いました。
「第一目標がこんな有り様で。なんかもう、その暗部だかが可哀想に思えてきた。いや、八剣か?」
「八剣の刺客であり、暗部でもある。或いは混成チームなのかな。その辺りの面子はまだ分からない」
流石に、宗家直々ということはないだろうがね、と。ミキは眉間を指で摘まみながら言った。
「八剣も一枚岩ではない。今まではそこに可愛げを感じていたが。しかしね、こうも露骨に邪魔をされるのは困りものだ。いま私がやろうとしているのは、正真正銘、一点の曇りなく、機関側の仕事だというのにね」
迷惑な話だ。ミキは控えめに溜め息を吐く。
それでも表情は楽しげで、困っている気配もないのがまた、相手からしたら憎たらしいだろう。
「お前がやろうとしている――この町に来た本当の目的、ってやつか」
「そうとも。多発する擬獣、覚醒した二人の能力者、最悪の災厄『十戒』の出現。この夏臥美町を脅かした原因を、完全に取り除くこと――階層が両儀から四象に至る前に。この町を去るにあたって、私が成すべき最後の仕事だ。春から根回しをしてきて、やっと目途が立ったんだ。余計な手出しは無用だと、一臣にはくれぐれも言っておいたんだがね」
最後の。
そんな風に言われたら、少しだけ気持ちが傾きそうになる。
ミキには色々としでかされた。これで最後で、別れられるのならば清々すると、そう思ったことは確かなのだが。
別に、嫌いな訳じゃないのだ。
朏の悪影響もあるけれど、これは俺自身の感性として。
ミキの声は、昔から好ましくさえあった。
その言葉は、その音色は、だって。綺麗だと思ったのだから。
黒の背景に、白髪が強調される。
どこからともなく注がれる淡い光に、それは上質な絹のようにきらめいて輝く。
その髪が。その声が。涙に濡れた、あの夜を思い出す。
「俺に」
気付いたら、口を開いていた。
急いで。慌てて。せっついて。
すがるような気持ちで、言葉を探した。
「俺にも仕事は、あるんだろ?」
もちろん、と。ミキは微笑んだ。
最後なのだから。最後の大仕事だというのだから。
俺だって、何かをしてやりたい。
俺が俺であることを祈って、泣いてくれた、彼女のために。
そんなことをしてくれたのは、だって。これまで生きてきた中でも、たった二人しかいなかったのだ。
とっくに死んでしまった、最初の一人の分までも。
きちんと、筋を通してやりたいと。
そう、思った。