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夏夜の鬼 語り残し  作者: 真鴨子規
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 いったい何が起きたのか。

 八剣 千景は、一拍置いてから理解に至った。

 名無しの黒鎌。チリ君――池鯉鮒ちりふ 瑞樹みずき、本来の界装具。

 三鬼 弥生の報告には、それは擬獣退治専門の能力だとあった。しかし、千景を含めた八剣の上層部は、その嘘を早々に看破していた。

 事実として、彼は生身の人間をも、その力で下してきたのだから。そしてあろうことか、相手の能力をも奪い去るという、極めて異質な事象まで引き起こしていた。

 能力者狩り。

 暗部の中でもごく一部の家系が持ち得る、異能殺しの異能。

 必然として、そういうものだと理解した。

 もちろん、三鬼 弥生の言が正しいという、真逆の可能性も考慮していた。だからこそ、擬獣の全ては八坂 雅が蒐集し、チリ君ではなく三鬼 弥生との決戦に持ち込んだのだ。

 用意周到だったはずの算段は、根底から欠陥を抱えていた。

 既に廃れたはずの『土地神』というイレギュラーの出現。

 三鬼 弥生への強い不信感、擬獣狩りという報告を虚偽と判断した経緯、そして能力者狩りという能力の脅威性。

 すべての要素が、この結果を招き入れた。

 この結果を、あとほんの少し千景が警戒していたなら、こうも簡単に成し遂げさせはしなかった。

 針の穴を通すような策謀。ほんの僅かな思考の隙を、狙い澄ましたように突かれた結果。

「してやられたよ、三鬼 弥生――」

 千景には、うなされるようにぼやくしかなかった。

 視界を埋め尽くすほどの巨体ごと、黒猫は消滅し。

 そのすべてに成り代わらんと、一人の少年が立っていた。

 ――もしも、などという仮定に意味はない。

 すべては手のひらの上。

 三鬼を拒む八剣の、三鬼を信用しない八剣の、その心理すら逆手に取られていた。

 三鬼 弥生の計略は、今ここに成就したのだ。

「一つ、聞いておきたい」

 チリ君は――いや。

 黒の大鎌を携えた池鯉鮒 瑞樹は、突き刺すような声で問い掛けてくる。

「八剣――千景。アンタの夢は?」

 無意味な質問だと、千景は断じた。

 そんなことより何よりも、もっと意識を割くべきことがあったからだ。

 池鯉鮒 瑞樹。

 先ほどまで千景が圧倒していた少年は、今や影も形もない。

「――決まっているよ、そんなもの」

 最早別人となった池鯉鮒を、最大限に警戒しながら。千景は静かに応える。

「絶対正義による平和。三鬼 弥生のような、致命的な悪性の滅んだ世界だ」

 正義は正当に繁栄し。

 悪も悪として許容し。

 この世界の存在そのものを、神として是とする信仰のかたち。

 その敵対者だけは許さぬと、ありとあらゆる手段を用いて撃滅する使徒。

 それこそが己であると、千景は言う。

 その刃こそが、己の真実であると。

「それは」

 千景の答えを得て、池鯉鮒は口を開く。

「その、どこに」

 池鯉鮒は問いを重ねる。

 不満と。

 憤りと。

 明確な隔たりを前に絶望し、途方に暮れた思いで。

「一体どこに、お前がいる?」

 ――千景の思考が、一瞬だけ止まる。

 その問いの意味が、千景にはすぐに分からなかった。

「今になってようやく、少しだけ分かったんだ。心から納得できた。――正義だとか大義だとか、アンタらが抱えてる大層なものは、俺には大きすぎて、よく分からなくて」

 八剣と、それに連なる者たちの祈り。

 何か一つの願いに集い、手を取り合って成就を目指すその在り方を。

 分からないと、かの少年は苦言を呈す。

「誰かが生きるのに、大それた理由なんて要らねぇよ。そんなものなくったって、俺たちは生きていける。生きていていい、そのはずだろ」

 独り言のように。

 自分自身に語り掛けるように。

 少年は、重苦しい表情で千景を見る。

「――それは、個人の身勝手を通す免罪符にはならない」

 千景は言う。

 苛立ちを覚えたわけでもなく。焦りに突き動かされた訳でもなく。

 ただ迷い人を導こうという、千景にとって当たり前の義務感、そのままに。

「それが正しい社会のあり方だ。事実として、人間はそうやって進歩してきたのだから」

 社会――人間が構築した共生の枠組み。それは紛れもない正義であると千景は語る。人間個々の力は弱くとも、無数に束ねた祈りが、いずれ大願さえも成し得ると。そうして人間は、これまで歩いてきたのだと。

「だから?」

 池鯉鮒は踏み込んで、言葉を重ねる。

「だから、そこからあぶれた人間は始末するってのか。望んであぶれた訳でもないのに。どんな思いでそうしているのか、知ろうともしないで」

 千景は首を振って、その悲観に否定を示した。

「許される悪がある。許されざる悪がある。否定されて良い正義がある。否定されてはならない正義がある。――君の言いたいことは分かる。分かるがそれでも、受け入れがたい現実がある」

 今度は、少年が首を振った。

 平行線だと、互いが理解した。

 分かり合うことはできないのだと、二人は分かり合った。

 だから千景は、問答は終わったと思った。

 だが。

「それが――」

 少年は、そうではなかった。

「それのどこに、お前がいるんだ」

 終わりではない、終わらせはしないと、池鯉鮒は食い下がった。

「くどいね――」

 知ったことではなかった。

 千景は強く地面を蹴り、池鯉鮒に斬りかかった。

 池鯉鮒が手にする界装具は、大振りな鎌ひとつ。防御に長けた武装ではない。千景の太刀筋を塞いだとて、その踏み込みが諸共に破断する。

 千景の剣術に牽制はない――否。ただの牽制が、柄ごと胴体を両断する必殺足り得た。それほどまでに、両者の力量差は大きかったのだ。

 故にこそ、千景は再認識する。

 狂い咲く烈風。つんざく鋼の叫声。

 加減も油断もない千景の太刀を、五体満足で凌ぎきった少年の、明らかな変貌がそこにあった。

「お前の言葉は端から端まで、八剣やら機関やら、他の何かの都合でしかない。お前の感情、お前の想い、そういう『自分』ってものが、どこからも感じられない」

 黒い柄の薙払いで、刃が振り切られる。

 単純な膂力は互角に迫っていた。未だ成長のピークを迎えていない少年の体躯で、信じがたいほどの腕力を発揮していた。

 それが異能の影響だとするならば。身体能力の強化という点で、池鯉鮒 瑞樹の界装具は、千景のそれを凌駕している。

 全ては、あの黒猫から譲り受けた力か。

 一時的であれ、不完全であれ――土地神を取り込んだその身は既に、人間という枠を越えようとしていた。

「それが、大人になるということだよ」

 だからとて、千景が退くはずもない。

「君が言っているのは、子どものわがままだ。独り善がりの自己満足、正義の在り方とはほど遠い」

 鈍重なはずの野太刀が、流水のように走る。

 淀みない剣撃が七度繰り返され、その一つ一つが絶命の一手だった。

 それでも討ち取れない。

 刃は吸い込まれるようにして、悉く黒の大鎌に阻まれた。

「君にもいずれ、分かるときが来る。いや――」

 確信を持って、千景は言う。

 いつか自分が辿った道を、少年は誰しもが通るのだと。

 それを拒むことなど、決して許されはしないのだと。

「分からなければならない。それほどまでの力を得た君には、善悪の分別を付ける義務がある。それができないならば、この世界を生きる資格なんてない」

「は――」

 それが、点火の合図だった。

 千景は、幾重にも積み上げてきた実戦経験から、その危険を的確に予知する。

 威圧だけで、全身の骨が軋む。

 吹き荒ぶ風が、社の残骸の隙間を抜け、獣の咆哮のように鳴り響く。

「上から押し付けてんじゃねぇ――何度も、何度も、何度も、何度も!」

 弾き飛ばされた直後。鎌の薙ぎが、暴風を伴って襲い来る。

 紙一重で回避することは可能だったが。それでもなお、甚大な被害を受ける光景が、千景の脳裏を掠めた。

 鋼鉄よりも硬質な塊がぶつかり合う。雷鳴のような轟音が炸裂し、両者の肉体に亀裂が走る。

 鮮血が、花弁のように舞い散った。

「俺は、いる」

 三日月の刃に、全霊の力を乗せて。池鯉鮒 瑞樹は己を謳う。

「俺はいる、ここにいる。ここにいるのが紛れもない自分だと、俺自身が信じられるなら。生きてていいんだよ。生きる資格なんて、それだけあれば充分だ」

 一体全体何様のつもりで、他人が他人の生きる資格を、定めようなどと増長するのか。

 恐らくは、今まで彼を幾度となく苛んできた、他者からの害意。それに対する激情の全てを刃として、千景にぶつけてきていた。

 膨大な怒り。

 理不尽に対する叛逆の意志。

 束縛し抑え続けてきた、形無きものへの憎悪。

 目眩がするほどの負の念を受け、だからこそ屈するわけにはいかないと、千景は真に余力を捨てた。

 このあと、三鬼 弥生を討ち取るために使うべき力を、今ここで燃やし尽くす覚悟を決めた。

「認めない」

「――ッ!」

 三日月の刃が、再び押し負ける。

 土地神をも取り込んだ力、それが何だというのか。

 八剣の正義は、八剣が歩んできた常勝の歴史あってこそ裏付けられるもの。神話より受け継がれし宝剣『八握剣やつかのつるぎ』を旗印に、世界を害するあらゆる悪を撃滅してきた。

 その道程が、輝かしい功績を重ねてきた数多の英霊の生き様が、己の背後にある限り。

 八剣に、敗北などは許されない。

「僕は君を認めない。最早改心の余地もない。三鬼 弥生の傀儡としてではなく、池鯉鮒 瑞樹という悪性をここに、我が太刀『八咫やた』が討ち滅ぼす」

 池鯉鮒 瑞樹の呻きが漏れる。

 仮に少年が、この修羅場を乗り越えたとして。八剣 千景をも越える強敵と相対する機会が、果たして二度と訪れるだろうか。

 否であると、千景は確信する。

 その自負が、この得体の知れない強さを誇る悪をさえ、超越する力を生み出している。

 己に勝てるのは、己が仰ぎ見るべきは――この世で、たった一人だけなのだと。

「知らねぇ」

 それを。千景の決死の意志を。

「知ったことかよ、お前のことなんて」

 血濡れの少年は、知らぬと断じた。

「自己満足と言ったよな――そりゃそうだ、俺のことなんだから。俺が俺に満足できるかどうか、大事なのはそれだけで、お前のことなんかどうでもいいんだよ」

 なお、拮抗する。

 抵抗の意志が衰えない。

 千景の太刀は既に全力、だというのに。

 獣じみた少年は、燃え盛る炎にさえも爪を立てる。

「自分はどういう人間で。どういう風に生きていたくて。いつかどんな人間になりたいのかって。それを考えるのは自分だろうが。自分以外の誰に、その役を担えるっていうんだ。俺以外のいったい誰に、俺を誇ることができる――!」

 鎌の切っ先が、千景の喉元を掠める。

 背筋を伝う汗。

 久しく感じなかった悪寒。

 一歩踏み外せば転がり落ちる、断崖絶壁の競い合い。

「君は――」

 並び始めている。

 遙か下にいたはずの人間が、すぐ手の届く場所へと、上り詰めようとしている。

 目の前にあって信じがたい。これほどの力が、今やあの三鬼 弥生の手中にあるという、その事実に気が遠くなる。

 だが。

「そんなもの――」

 だが、それでも。

 千景の太刀は、一片たりとも曇りはしない。

「八剣の、人の世の正義に比べれば!」

 敵が駆け上がってくるならば、更に上を行かんと千景も猛る。

 これは、能力の優劣を競うだけの戦いではない。

 己を活かし世界と争うか。

 己を殺し世界を活かすか。

 自身の在り方を、自身の信じるものを、守るための戦いだ。

 両者は、予感しているが故に負けられない。

 今このとき、ただ一度の敗北が、これまで培ってきた世界じぶんそのものを、根底から否定してしまう予感があるから。

「何が正義、何が八剣!」

 打ち込むごとに、黒鎌の重さが増していく。

 馴染んできている。

 より強く。

 より速く。

 朏 千里馬の剣術が、大鎌の操縦をも取り込み始めている――いや。

 今は亡き彼の力を、池鯉鮒 瑞樹が昇華させたのか。

 他人の力を、己の力と認めたが故の、強さ。

「それだけの力があって、なんで――!」

 それでも、なお上回る敵から感じた焦燥が、より強いのは池鯉鮒のはずだ。

 正しさとは、強さ。強さとは、強固な自己から生まれるもの。

 池鯉鮒 瑞樹も、或いは朏 千里馬も。一人だけの力で生きる未来を望んだ若者には、千景の強さが理解できない。

 誰かのためになどと、他人を理由に自分を捨てるような偽善を、仕留め切れない自分が歯痒い。そう言わんばかりの表情だった。

 幾ら上り詰めても見下ろしてくる敵を、必死の思いで睨んでくる。

 負けない。

 負けられない。

 断じて負けるわけにはいかない。

 互いに口には出さずとも。胸に抱えたその願いは、池鯉鮒も千景も同じものだった。

 池鯉鮒が信じる正義を、千景は切り捨てようとしているだけ。

 千景たにんの正義も、池鯉鮒からすればどうでもいいもの。

 それぞれの正義を、劣等であるなどとなじる意思はない。

 お前が心から信じるそれを、自分は決して信じない。それはどこの誰であれ、人間二人が隣り合えば、起きて当然の現象だ。

 許容するかしないか、信じるか否かの二者択一。そんなものは当然の権利。他人が制限できるものではない。

 ただ。

 ただ、許せないだけ。

 絶対正義の名において、他者を切り捨てるなどという傲慢を。

 己一人の正義のために、全体の正義を軽視するなどという身勝手を。

 否定されてもいい。信じられなくてもいい。だが押し付けるな、まかり間違っても干渉するな。

 ただそれだけのこと。ただそれだけの一線はしかし、いとも簡単に踏み越えられる。

 なぜならそう、それこそが――同じ世界を生きるということだから。

「借り物の正義、そうかも知れない」

 激しい剣戟の中で、千景は独りごちた。

 複写という自分の能力も。八剣の正義のために死力を尽くそうという献身も。なるほど他人からすれば、自分がない、自分を生きていないなどという非難にも結びつくのかも知れない。

 生まれたときから、千景は他人の影だった。

 八剣 一臣という希代の傑物を生かすため、その命をも投げ打つ覚悟を、自我を持つ以前から植え付けられてきた。

 本当の意味で、自分の夢など持っていない。ひとかけらの疑念すら許されず、いつか来る最期の使命を全うするため、力を磨き続けてきた。

 生まれたときから決まっていたこと。人としての、女としての、一個人としての喜びなど望むべくもない。

 くだらない人生。

 つまらない人生。

 誰かのために尽くすだけの、偽善に満ちた袋小路。

 認めよう。それが八剣 千景の一生だと。

 千景は否定しない。

 その通り。全くもってその通りだ。

 無価値だと断じる人間もいるだろうし、それを間違いだと否定する気持ちもありはしない。

「でも」

 けれど、でも。

 そうだというのなら、それは――

「それを君が言うのか。三鬼 弥生の傀儡に堕ちた、君が――!」

 同じではないか。

 どこに違いがあるというのか。

 千景の心は、初めてその怒りを宿した。

 他人のための人生を歩く。いったいそれの、何がいけないというのか。

 ましてそれを、その生き方を。どんな了見で、同類から蔑まれなければならないのか――

「違うな、全く違う」

 少年が示す、迷いのない否定の意志。

 分からない。

 分かり合いたい訳ではないのに。分からないという対立が、どうしようもなく我慢ならない。

 正反対の在り方を持つ両者が、まったく同じ不快感に突き動かされている。

「誰かのために死にたくない。誰かの手のひらの上だなんてまっぴらだ。確かにそう思ったさ、血反吐ぶちまけて喚いたさ――でも。そう叫んで、あの夏を生きた俺はもういない」

 そんなものは過去であると。

 己とはあくまで、今この時点における自分だけなのだと。

 少年は強固な意志で――いや。

 おぼろげな自己で、震える四肢で、それでも強く、前を見据える。

「だって、そんなのは当たり前なことだったんだ。どう足掻いたって、俺たちは一人じゃ生きられない。親がいて、友達がいて、先輩だとか後輩だとかがいて、想ったり想われたりしてさ――」

 その言葉一つ一つに、込められたら思いがあった。

 誰かのために生きたくないと。そう心に決めた少年はしかし、そのために多くのものを捨ててきたのだ。

 その都度、飽きるほどに、切り傷を作り続けた。

 少年は不幸にも、捨てたものの価値を重んじてしまったのだ。

「そうやって変わっていくんだよ。そうやって俺たちは、強くなったり弱くなったりするんだよ。当たり前、全部当たり前なことだ。誰かのせいで、望んでもいないのに変わっちまうことだって、あって当然なんだよ」

 力も。価値観も。

 ある出会いや、ある出来事や、或いは時間経過による劣化や成熟という形で。何がどのように変わるか、それは誰にも分からない。

 当たり前のこと。

 姿形も。心のありようも。その命さえも。

 不変を約束されたものなどない。

「大事なのは、それを受け入れた上でなお、自分を誇ることだったんだ。これが俺だと、俺はここにいると、誰より自分で信じることだったんだ!」

 幾度目か、大鎌が振り下ろされる。

 神業めいた反応速度でいなすも、千景の表情に余裕はない。

 技量はともかく――その心の強さ、意志の固さに、優劣など最早存在しない。

 積み重ねた経験も。死線をくぐって得た第六感も。

 今この場に限り、想いの強さには勝らない。

「死んだ人間は何もできない。誰も、何もしてやれない。――だからこそ! 変われるってことは、生きてるってことだったんだ! 誰かから譲り受けた力も、誰かの影響を受けた価値観も! 願いも、望みも、何もかもが! 俺が俺として、今ここで生きてる証だったんだ!」

「く――!」

 少年がその一歩を踏み出し、千景は知らず驚愕する。

 そうして少年が踏み越えた境界は、紛れもなく。

 八剣 千景が生まれたからずっと、乗り越えられずにいた一線に他ならなかったのだから。

「与えられた何かじゃない。他人の語る何かじゃない。いつか何者になり果てようとも、そんな自分を誇れる自分でありたい。この胸に抱いた唯一無二の願いに、ただひたすらに真っ直ぐな自分として、この世界で生きていたい!」

 ついに、押し返される。

 使命による死を望んだ千景の剣が、貪欲にも己の生を求める願いに追い抜かれる。

「君は、一体――」

 千景には分からない。到底信じられることではない。

 池鯉鮒 瑞樹。鬼に魅せられた、哀れな少年。

 立場は違えど、近いものを感じていた。

 互いに譲れないもののため、重んじる何かのため、誰かのため。万難を排し敵に立ち向かう戦士であると。

 何かがおかしかった。

 自分の姿が見えなかった。

 誰もが抱える自己矛盾。己の在り方を口にするたび、心のどこかに引っかかりを覚え、人生に微かな影を落とす。

 そういうものだ、仕方ない。

 自分たちは、所詮そういうものだろう――それでも。

 それでも自分は人の世に、八剣の正義に殉じるのだと。

 そうして、千景は自分の死を受け入れた。

 人の世を、その正義を、命懸けで守り抜くと誓った。

 目の前の少年と同じだ。一人の女のために健気にも戦う少年と、自分のあり方は似通っていると。千景は先刻、確かにそう思い、そして憤ったのだ。同類に蔑まれる謂われなどないと。

 なのに。だというのに。

 今はこんなにも隔たりを感じる。

 遙か下にいたはずの少年が。

 ついに同じ舞台にまで上り詰めた少年が。

 今や手の届かない場所まで遠ざかったと、そう思わずにはいられなかった。


 なぜなら。


 千景は。八剣 千景という人間は。


 これまでの人生で一度も、ただの一度も――『生きていたい』などと、口にしたことはなかったのだから。


「――――」

 驚愕。

 戦慄。

 千景が初めて――生まれて初めて作った、一瞬の隙。

 刀が弾かれ、体幹が揺さぶられ、過剰な後退を余儀なくされた、その一秒にも満たない攻防の空白を。

「それが俺だ。俺自身だ。それをお前が、斬り捨てるってんなら――!」

 投擲される黒い鎌。

 回転し迫る鉄の槌。

 勝負の決する瞬間を、互いに間近に感じながら。

「八剣 千景ッ!」

「やらせるものか――!」

 千景が、その性分に背いて吠える。

 それは矜持であり、誇りであり、意地であり。

 己の背負った正義への忠節が、死の断崖において限界を超える。

「振り絞れ『八咫』! たとえこの命尽きようと、正義やつるぎに敗北は許されないッ!」

 振り抜かれた刀は光速に達し、名無しの黒鎌を打ち返す。

 そして返す刀で、池鯉鮒 瑞樹を討たんと脚を踏み出す。

 現出するは全身全霊。

 人剣一体、剣戟の極点。

 流れる力は神雷の如く、人の身にて人域を越える。

 全てを賭して磨き上げ、研ぎ澄ませた剣術は、今このとき、目の前の悪を滅ぼすためにあったのだと。

 受け継がれた技、その奥伝。

 魂の発露たる太刀、その臨界。

 それは正真正銘、八剣 千景が見せる、至大至高の一撃だった。

「――『キクミミトザセ』」

 刹那。

 千景は確かに、その声を聞いた。

 そして見た。

 先ほどの千景と同じように、そして明らかに致命的な、空白の発生を。

 池鯉鮒 瑞樹の意識は、間違いなく一瞬――途切れていた。

 八剣 千景の『八咫』が、池鯉鮒 瑞樹に斬り掛かる。

 池鯉鮒の防御は間に合わない。苦し紛れに具象された『怒りの吸血衝動ストリガ』さえ、握る間もなく弾け飛んだ。

 最後の刃が振り下ろされる。

 憂いなく。躊躇いなく。

 その命を絶ち。

 己が正義へと捧げるべく。

「終わりだ、池鯉鮒 瑞樹ッ!」

 野太刀の刃が肩口に食い込み、そのまま心臓にすら届かんとした、――そのとき。


「起きろ、『耳無しの赤鬼(キカズ)』」


 少年の右腕が。

 千景の心臓を、貫いた。

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