46
無意識のうちに、俺は玄関扉を抜け、摘まみを回して鍵を閉めていた。
夜なのだろう、真っ暗でほとんど何も見えない。
そんな視界であっても、その動作に淀みはない。何十回、何百回と繰り返してきたのだ。意識しなくとも、勝手に身体が動いている。
おかえりも、ただいまもない。いつも通り誰も待っていない自分の家へ、静かに足を踏み入れる。
玄関で電灯のスイッチを探す最中。ふと、身体が強張った。
暗がりの廊下、その先に。ギラリと、二つの鈍い赤色が輝いたからだった。
「――黒猫?」
独り言だったのか、話しかけたのか、それは自分でも分からなかったが。
暗闇に慣れてきた目で、その輪郭を捉える。
小さいが、それは確かに、あの尊大な態度の黒猫の姿で。
しかし一言も喋らないまま、ソレは俺に背を向け、リビングの方へと、音もなく歩いていった。
その先には誰もいない。
誰かがいるはずがない。
そう思いながら、やはり電気の一つもついていない部屋に入り。
そして。
食卓の一角に、制服姿の女生徒が座り込んでいるのを見た。
「えっと、こんばんは。お邪魔してます、池鯉鮒さん」
記憶を探るまでもなく、それは黒川 知世鈴だった。
行儀良く席につき、穏やかに微笑みかけてくる。
「――――」
それは。
ついさっき――なのか、分からないが――俺が斬り殺した、とっくの昔に死んだ、少女だった。
「なに、してるんです? アンタ」
「そんなに、幾つも理由はないはずですよ。ここに来られるのは、貴方くらいでしょうし――あ、それから、キミもいたね」
にゃあ、などと。猫のように鳴きながら、黒猫は黒川の膝の上に、我が物顔で丸まった。
自分だけ立っているのも妙な心地で、俺は黒川の対面に座り込んだ。
飾り気のない、優等生風の女学生。
ほっそりとした、けれど芯の強そうな、文武両道の元生徒会長。
ミキとは違う、黒い髪の少女。
今年の春に、意味もなく自殺した、故人。
そんな人間と、こんな風に対面する機会が、そう何度もあるなんて。考えたくなかったが、でも嫌悪感はない。恐怖心も、今はもうない。
「親御さんもいない男の子の家に来るなんて、なんだかドキドキしますね。どうなっちゃうんでしょうか、私」
「どうにもなりませんよ」
死んだ人間なんだから。
何もできないし、何もされない。
それが当たり前のことで、それがあるべき姿なんだから。
「――酷いな、池鯉鮒さん。さっきまではもう少し、付き合ってくれてたのに」
それが、可愛かったのに。
困ったように笑って、黒川は視線を落とした。
黒川の膝の上では、黒猫が大人しく背中を撫でられている。
「どうして、ここへ?」
俺は、同じ質問を繰り返す。
記憶は、段々とはっきりしてきていた。
八剣 千景。
立ちふさがった黒猫。
そして、その名を刈り取った、黒鎌。
これは白昼夢だ。
がらんどうの筒の中。
ほんの一瞬の間だけ存在する、これは俺の心の中の語らい。
だから、何の意味もないし。
だから、何の影響もない。
「――未練、かな」
小首を傾げて、黒川は俺を見つめてきた。
「最後の台詞がね、あんまりに、あんまりだったので、上書きできたらなって。そう思ってたら、ここにいたんです」
「…………」
いやだ、と。
消えたくない、と。
とっくに死んだ身で、それでもまだここにいたいと、生きていたいと。
「私も、こんなでも、普通の女の子でしたから。重い女だったなんて、貴方に覚えられちゃったら、消えるに消えられなかったから」
「……いや」
そんなことを、言われても。
俺にはよく分からない。女心が分からないと、幾度となくマツイさんに叱られる俺なのだ。そんな心情、分かるはずもなかったし、分かる必要があるとも思わなかった。
いずれ、忘れる思い出だ。
「ごめんなさい、わがままで。でも、折角貰えた時間だから。大事に使いますね」
それはきっと、黒猫に対して言っていたんだと思う。
身を挺して、俺を庇ったように。黒猫は、黒川に対してもきっと、同じことをしたのだ。
手を差し伸べたのだ。我が子同然の、哀れな小童に。
「お恥ずかしながら、初恋でした」
おぞましくも、美しく。
一筋の光もない部屋で、黒川はそんな告白をした。
「私、あの雅という子に感謝してるんです。だって、あのまま死んじゃっていたら、あんまりじゃないですか。私の人生、あんまりじゃないですか」
高校三年。
夢を掴むのも、夢を諦めるのも。恋に生きるのも、恋を捨てるのも。まだまだ、これからというときに。本当に好きなものも、本当に嫌いなものも、まだ知らない。いい人生、悪い人生、その判断すらつかないまま、終わってしまった物語が。
「それが、最後の最後、ちょっとしたズルだったかも知れないけど。少しだけ綺麗に整理できた、気がしたんです。貴方と、同じ時を過ごすことができたから」
夢を語らい。
共に笑い合い。
そんなときが、永遠に続いたらいいと。
「だから少し、悔しくて」
陰る表情も、どこか清々しげで。
不慮の死を遂げた人間の在り方とは思えない、それは安らいだ吐息で。
それが。異能によって叶えられた夢の結末だなどと、黒川 知世鈴は言わんばかりで。
だから。
だから、俺は。
「もっと早く出会えていたなら、私たちきっと――」
「変わりませんよ、何も」
我慢ならず、口を挟んだ。
黒川は、ピクリと肩を揺らし。怯えたような瞳を、俺の方にゆっくり向けた。
「死んだ人間は、何もできない。何もできちゃならない。死人が蘇って、何を言おうが何をしようが、何も変わるわけがない。変わっちゃならない。アンタの人生は、無為に、最悪の最期を迎えた。それで終わりで、それで決まったことなんだ」
そうやって、無意味に死んでいく人間なんて、ごまんといるのに。
一人だけ特別扱いなんて、あっていいはずがない。
「…………」
黒川は押し黙って、黒猫を撫で続けた。
顔は、よく見えない。
長い黒髪が垂れて、目元を覆い隠している。
笑っていたかも知れないし、泣いていたかも知らない。
顔は、見たくなかった。
「酷いなぁ」
その声は、明るかったけれど。
鼻をすするような音が、妙に耳に残った。
「でも、それでいいんです、池鯉鮒さん。貴方には、貴方という人間を、これまでの人生で培ってきた価値観を、どんなときも貫いて欲しい。だって私は、そんな頑なな貴方だからこそ、気に入っちゃったんですから。たとえ私自身が拒まれても、そんな貴方を見続けていたかったから」
満面の笑みを作って、黒川 知世鈴はそう言った。
もう、心残りなんてないと。そんな台詞に替えるように、花のように笑って見せた。
「……やめてくれよ」
それが、あまりに傷ましくて。俺は見ていられなかった。
「死んだアンタが、何か変わったことがあったとするなら。それはつまり、誰かの入れ知恵、誰かの小細工だってことだ。アンタは――黒川 知世鈴、アンタは利用されたんだ。ミキや、俺に、興味を持つように仕向けられた。そういう風に蘇らされた、だからそんなことが言えるんだ」
そんなものの何が初恋だ。
そんなものの何が幸せだ。
そんなもののどこに、自身の気持ちがあるというのか。
「そんなものは――」
荒れる心に呼応してか、ぐらりと地面が振動する。
カタカタと何かがぶつかる音がする。壁に吊されたカレンダーが、振り子のように揺れている。
「――全部、偽物だ」
吐瀉するように、最悪の心地で言い捨てた。
借り物の感情を。作り物の言葉を。そうと分からず口にする、目の前の女が哀れで、そしておぞましかった。
なにせ、それは。その様は、まるで――
「そんなこと、言わないでください」
抱き締めるように優しく、彼女は微笑みかけた。
「嘘かも知れなくても。誰かが勝手に作ったものだとしても」
彼女は言う。
俺のことを真っ直ぐ見据えて。
胸を張って、語りかける。
「これが、迷うことない、今の私の心ですから」
「――――」
それは。
その思想は。
胸の奥に突き刺さる、それは紛れもなく。
「貴方も、同じはずですよね――池鯉鮒さん」
誰より自分を誇る自分。
俺は、俺。
彼女は、彼女。
それを思い通りにできるのは、この世で己ただ一人であると。
何が自分で。何がそうでないのか。それを、他人ごときに決めさせはしないと。
「曲がらないで、池鯉鮒さん。あと少し、ほんの少し、せめて私の目の前でだけは。どうか、格好いい貴方でいてください」
そう、彼女が言い切るころ。部屋の揺れは収まっていた。
黒川はただ、嬉しそうに笑った。
「ごめんなさい。単なるおまけな私の話で、時間をとってしまって」
それはまた、黒猫に向けた言葉だった。
にゃあ、と。間延びした鳴き声で、黒猫は返した。
「土地神信仰。この子はその信仰対象でした。だからつまり、――夏神さま」
真剣な眼差しの黒川に、俺は気圧されまいと見つめ返した。目を背けることが、不義理だと思えた。
生まれつきの目つきの悪さを、諦めるより他になかった俺にとって。そんな風に見ることのできる相手は、ミキ以外ではもう、黒川くらいなものだった。
「あの社のに奉られた、神」
俺は内心、置いて行かれまいと必死だった。
だって。話は素っ気なく切り替えられてしまったけれど。
黒川の、さっきの言葉が、あまりに。あまりにも。
「正確には、夏神さまはあのお面の男の子で、この猫さんは、分身みたいなものらしいですが。流石は神様ですね。私も、貴方も。こうして、助けてくださったんだから」
なぁぁご、などと。猫は誇らしげに伸びをしている。
ソレを俺は、不信に感じざるを得なかった。
「なんで、俺は助けられたんだ」
「なんでって。この子自身が言ってたじゃないですか」
黒川は苦笑して、猫の首筋に指先を添える。
ゴロゴロと、喉を鳴らす黒猫はもう、何も言葉を発しない。
「神様ですから。自分を信じてくれない人間を、助けるわけにはいかないんです。面子? いえ、そういう話ではなく。矜持というか――そう、ただ『そういうもの』なんだと思います」
「…………」
そういうもの。
そういう存在。
そういう概念。
人が作った、神様の定義。
「神様が助けるのは、神様を助ける者だけ。だからミキさんは、町中の人に神様を助けさせた」
「は?」
「色んな人に掛け合って。募金や、署名を集めるために、働きかけてきた」
初耳だった。なんだそれはと、今すぐミキを問い質したかった。
春からこっち。ミキが、本人が言う以上に町中を駆け回っていたことは知っていたが。
募金、署名。そんなものは聞いたことがない。ともすれば、そんな単語が会話に出てきたことさえ、なかったのではないか。
「まさか、ミキヤヨイファンクラブの会費の用途も?」
「もちろん。月刊会報誌の三ページ目に必ず載っています」
「知るかそんなもん」
黒川は悪戯っぽく笑った。笑い転げそうな勢いでさえあった。
「あいつ、そんなこと一言も」
言わなかったと、それは確かだったが。
しかしすぐに思い直す。
言ったところで、夏の俺は信じなかっただろうし。
その後の俺が金を払ったところで、恐らくそれでは足りなかったのだろう。
誠意とか。善意とか。ミキに言われるがまま差し出すものに、神様とやらが求めるところの意志、心が込められるかは怪しい。
「――結局俺は、一銭も払うことはなかった」
「でも、神様を助けました。貴方の手で届けられたら宝くじは、神様を生かす最後の一押しになりました。転入してからずっと、ミキさんが訴えかけ続けたきた、夏神様のお社の再建計画。つまり、神様のお家を建て直すんですから。その貢献、誰にも文句はありませんよ」
目眩がする思いだった。
他人事なら、爽快だとさえ思ったかも知れない。
散らばっていた、何の関わりもないと思っていた事象のすべてが、一本の線で結ばれたようで。
「大事なのは心。その人の、心からの行動。そのためにミキさんは骨を折って。多分、あのとき妹さんもそのために……。いえ、その辺りはもう、言わない方がいいですね」
無粋ですから。
そう言って、黒川は立ち上がった。
か細い両腕で、黒猫を抱えたまま。
「そろそろ時間です。いつまでも、お邪魔している訳にはいきませんから」
視界が明滅する。
誰もいない心から、いるはずのない誰かが消えようとしている。
「あのとき死んだ私は、本当に独りぼっちでしたが。今回はこの子も一緒ですから、寂しくなんてありません」
言いながら、黒川は寂しそうに笑って、黒猫を胸元に寄せる。
黒猫の瞳は、何かを言いたげにこちらを見ていたが。
そもそも、猫が言葉を話すわけがないのだ。
人間にとって意味のある行動を、猫がするわけもないのだ。
だから、これで終わり。
思想と食い違った現実が、終わってくれることに安堵して。
少しだけ首をもたげた、正反対の感情を、精一杯に抑え込んだ。
「それじゃあ、行こっか、マーちゃん」
黒猫の、やたらと長く大仰な名前は、随分と短く可愛らしい、愛称に取って代わられたようだ。
あの黒猫なら、心外だと怒りそうな気もしたが。当の黒猫は文句一つなく、細目をこちらに向けるだけだった。
「――先輩」
一人と一匹の姿が、徐々に消えていく。
いつか消える記憶のように。
この冬に見た、短い夢の出来事のように。
そう感じたら、少し。ほんの少しだけ。
この別れを、寂しいと思う気持ち。抑え込んでいたその気持ちを、少しくらい、表に出してみようか、と。
「気をつけてください、黒川先輩。ソイツ結構助平ですから」
シャー! と、黒猫は威嚇して、黒川の腕の中でじたばたと暴れ始める。
彼女は慌てて黒猫を抱え直しながら、涙が出るほどに笑顔になった。
「初めて、恋をしました」
こんなにも暗い場所なのに。
その赤らんだ顔も。
震える唇も。
そのすべてが、網膜に焼き付けられるようだった。
「その甘酸っぱさだとか、切なさだとか。息苦しいこと、ままならないこと。気持ちのいいことばかりではなくても。全部、偽物でしかなくても」
そして少女は、前を見る。
どこかにいる、誰かを見るように。
「でも、知ることができて良かった。感じることができて良かった。ねえ、池鯉鮒さん。ねえ、池鯉鮒、瑞樹さん――」
夢が消えて。
姿が消えて。
「わたし、ね、私は――」
最後の言葉も、届くことなく消え去った。




