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夏夜の鬼 語り残し  作者: 真鴨子規
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 無意識のうちに、俺は玄関扉を抜け、摘まみを回して鍵を閉めていた。

 夜なのだろう、真っ暗でほとんど何も見えない。

 そんな視界であっても、その動作に淀みはない。何十回、何百回と繰り返してきたのだ。意識しなくとも、勝手に身体が動いている。

 おかえりも、ただいまもない。いつも通り誰も待っていない自分の家へ、静かに足を踏み入れる。

 玄関で電灯のスイッチを探す最中。ふと、身体が強張った。

 暗がりの廊下、その先に。ギラリと、二つの鈍い赤色が輝いたからだった。

「――黒猫?」

 独り言だったのか、話しかけたのか、それは自分でも分からなかったが。

 暗闇に慣れてきた目で、その輪郭を捉える。

 小さいが、それは確かに、あの尊大な態度の黒猫の姿で。

 しかし一言も喋らないまま、ソレは俺に背を向け、リビングの方へと、音もなく歩いていった。

 その先には誰もいない。

 誰かがいるはずがない。

 そう思いながら、やはり電気の一つもついていない部屋に入り。

 そして。

 食卓の一角に、制服姿の女生徒が座り込んでいるのを見た。

「えっと、こんばんは。お邪魔してます、池鯉鮒さん」

 記憶を探るまでもなく、それは黒川 知世鈴だった。

 行儀良く席につき、穏やかに微笑みかけてくる。

「――――」

 それは。

 ついさっき――なのか、分からないが――俺が斬り殺した、とっくの昔に死んだ、少女だった。

「なに、してるんです? アンタ」

「そんなに、幾つも理由はないはずですよ。ここに来られるのは、貴方くらいでしょうし――あ、それから、キミもいたね」

 にゃあ、などと。猫のように鳴きながら、黒猫は黒川の膝の上に、我が物顔で丸まった。

 自分だけ立っているのも妙な心地で、俺は黒川の対面に座り込んだ。

 飾り気のない、優等生風の女学生。

 ほっそりとした、けれど芯の強そうな、文武両道の元生徒会長。

 ミキとは違う、黒い髪の少女。

 今年の春に、意味もなく自殺した、故人。

 そんな人間と、こんな風に対面する機会が、そう何度もあるなんて。考えたくなかったが、でも嫌悪感はない。恐怖心も、今はもうない。

「親御さんもいない男の子の家に来るなんて、なんだかドキドキしますね。どうなっちゃうんでしょうか、私」

「どうにもなりませんよ」

 死んだ人間なんだから。

 何もできないし、何もされない。

 それが当たり前のことで、それがあるべき姿なんだから。

「――酷いな、池鯉鮒さん。さっきまではもう少し、付き合ってくれてたのに」

 それが、可愛かったのに。

 困ったように笑って、黒川は視線を落とした。

 黒川の膝の上では、黒猫が大人しく背中を撫でられている。

「どうして、ここへ?」

 俺は、同じ質問を繰り返す。

 記憶は、段々とはっきりしてきていた。

 八剣 千景。

 立ちふさがった黒猫。

 そして、その名を刈り取った、黒鎌。

 これは白昼夢だ。

 がらんどうの筒の中。

 ほんの一瞬の間だけ存在する、これは俺の心の中の語らい。

 だから、何の意味もないし。

 だから、何の影響もない。

「――未練、かな」

 小首を傾げて、黒川は俺を見つめてきた。

「最後の台詞がね、あんまりに、あんまりだったので、上書きできたらなって。そう思ってたら、ここにいたんです」

「…………」

 いやだ、と。

 消えたくない、と。

 とっくに死んだ身で、それでもまだここにいたいと、生きていたいと。

「私も、こんなでも、普通の女の子でしたから。重い女だったなんて、貴方に覚えられちゃったら、消えるに消えられなかったから」

「……いや」

 そんなことを、言われても。

 俺にはよく分からない。女心が分からないと、幾度となくマツイさんに叱られる俺なのだ。そんな心情、分かるはずもなかったし、分かる必要があるとも思わなかった。

 いずれ、忘れる思い出だ。

「ごめんなさい、わがままで。でも、折角貰えた時間だから。大事に使いますね」

 それはきっと、黒猫に対して言っていたんだと思う。

 身を挺して、俺を庇ったように。黒猫は、黒川に対してもきっと、同じことをしたのだ。

 手を差し伸べたのだ。我が子同然の、哀れな小童に。

「お恥ずかしながら、初恋でした」

 おぞましくも、美しく。

 一筋の光もない部屋で、黒川はそんな告白をした。

「私、あの雅という子に感謝してるんです。だって、あのまま死んじゃっていたら、あんまりじゃないですか。私の人生、あんまりじゃないですか」

 高校三年。

 夢を掴むのも、夢を諦めるのも。恋に生きるのも、恋を捨てるのも。まだまだ、これからというときに。本当に好きなものも、本当に嫌いなものも、まだ知らない。いい人生、悪い人生、その判断すらつかないまま、終わってしまった物語が。

「それが、最後の最後、ちょっとしたズルだったかも知れないけど。少しだけ綺麗に整理できた、気がしたんです。貴方と、同じ時を過ごすことができたから」

 夢を語らい。

 共に笑い合い。

 そんなときが、永遠に続いたらいいと。

「だから少し、悔しくて」

 陰る表情も、どこか清々しげで。

 不慮の死を遂げた人間の在り方とは思えない、それは安らいだ吐息で。

 それが。異能によって叶えられた夢の結末だなどと、黒川 知世鈴は言わんばかりで。

 だから。

 だから、俺は。

「もっと早く出会えていたなら、私たちきっと――」

「変わりませんよ、何も」

 我慢ならず、口を挟んだ。

 黒川は、ピクリと肩を揺らし。怯えたような瞳を、俺の方にゆっくり向けた。

「死んだ人間は、何もできない。何もできちゃならない。死人が蘇って、何を言おうが何をしようが、何も変わるわけがない。変わっちゃならない。アンタの人生は、無為に、最悪の最期を迎えた。それで終わりで、それで決まったことなんだ」

 そうやって、無意味に死んでいく人間なんて、ごまんといるのに。

 一人だけ特別扱いなんて、あっていいはずがない。

「…………」

 黒川は押し黙って、黒猫を撫で続けた。

 顔は、よく見えない。

 長い黒髪が垂れて、目元を覆い隠している。

 笑っていたかも知れないし、泣いていたかも知らない。

 顔は、見たくなかった。

「酷いなぁ」

 その声は、明るかったけれど。

 鼻をすするような音が、妙に耳に残った。

「でも、それでいいんです、池鯉鮒さん。貴方には、貴方という人間を、これまでの人生で培ってきた価値観を、どんなときも貫いて欲しい。だって私は、そんな頑なな貴方だからこそ、気に入っちゃったんですから。たとえ私自身が拒まれても、そんな貴方を見続けていたかったから」

 満面の笑みを作って、黒川 知世鈴はそう言った。

 もう、心残りなんてないと。そんな台詞に替えるように、花のように笑って見せた。

「……やめてくれよ」

 それが、あまりに傷ましくて。俺は見ていられなかった。

「死んだアンタが、何か変わったことがあったとするなら。それはつまり、誰かの入れ知恵、誰かの小細工だってことだ。アンタは――黒川 知世鈴、アンタは利用されたんだ。ミキや、俺に、興味を持つように仕向けられた。そういう風に蘇らされた、だからそんなことが言えるんだ」

 そんなものの何が初恋だ。

 そんなものの何が幸せだ。

 そんなもののどこに、自身の気持ちがあるというのか。

「そんなものは――」

 荒れる心に呼応してか、ぐらりと地面が振動する。

 カタカタと何かがぶつかる音がする。壁に吊されたカレンダーが、振り子のように揺れている。

「――全部、偽物だ」

 吐瀉するように、最悪の心地で言い捨てた。

 借り物の感情を。作り物の言葉を。そうと分からず口にする、目の前の女が哀れで、そしておぞましかった。

 なにせ、それは。その様は、まるで――

「そんなこと、言わないでください」

 抱き締めるように優しく、彼女は微笑みかけた。

「嘘かも知れなくても。誰かが勝手に作ったものだとしても」

 彼女は言う。

 俺のことを真っ直ぐ見据えて。

 胸を張って、語りかける。

「これが、迷うことない、今の私の心ですから」

「――――」

 それは。

 その思想は。

 胸の奥に突き刺さる、それは紛れもなく。

「貴方も、同じはずですよね――池鯉鮒さん」

 誰より自分を誇る自分。

 俺は、俺。

 彼女は、彼女。

 それを思い通りにできるのは、この世で己ただ一人であると。

 何が自分で。何がそうでないのか。それを、他人ごときに決めさせはしないと。

「曲がらないで、池鯉鮒さん。あと少し、ほんの少し、せめて私の目の前でだけは。どうか、格好いい貴方でいてください」

 そう、彼女が言い切るころ。部屋の揺れは収まっていた。

 黒川はただ、嬉しそうに笑った。

「ごめんなさい。単なるおまけな私の話で、時間をとってしまって」

 それはまた、黒猫に向けた言葉だった。

 にゃあ、と。間延びした鳴き声で、黒猫は返した。

「土地神信仰。この子はその信仰対象でした。だからつまり、――夏神さま」

 真剣な眼差しの黒川に、俺は気圧されまいと見つめ返した。目を背けることが、不義理だと思えた。

 生まれつきの目つきの悪さを、諦めるより他になかった俺にとって。そんな風に見ることのできる相手は、ミキ以外ではもう、黒川くらいなものだった。

「あの社のに奉られた、神」

 俺は内心、置いて行かれまいと必死だった。

 だって。話は素っ気なく切り替えられてしまったけれど。

 黒川の、さっきの言葉が、あまりに。あまりにも。

「正確には、夏神さまはあのお面の男の子で、この猫さんは、分身みたいなものらしいですが。流石は神様ですね。私も、貴方も。こうして、助けてくださったんだから」

 なぁぁご、などと。猫は誇らしげに伸びをしている。

 ソレを俺は、不信に感じざるを得なかった。

「なんで、俺は助けられたんだ」

「なんでって。この子自身が言ってたじゃないですか」

 黒川は苦笑して、猫の首筋に指先を添える。

 ゴロゴロと、喉を鳴らす黒猫はもう、何も言葉を発しない。

「神様ですから。自分を信じてくれない人間を、助けるわけにはいかないんです。面子? いえ、そういう話ではなく。矜持というか――そう、ただ『そういうもの』なんだと思います」

「…………」

 そういうもの。

 そういう存在。

 そういう概念。

 人が作った、神様の定義。

「神様が助けるのは、神様を助ける者だけ。だからミキさんは、町中の人に神様を助けさせた」

「は?」

「色んな人に掛け合って。募金や、署名を集めるために、働きかけてきた」

 初耳だった。なんだそれはと、今すぐミキを問い質したかった。

 春からこっち。ミキが、本人が言う以上に町中を駆け回っていたことは知っていたが。

 募金、署名。そんなものは聞いたことがない。ともすれば、そんな単語が会話に出てきたことさえ、なかったのではないか。

「まさか、ミキヤヨイファンクラブの会費の用途も?」

「もちろん。月刊会報誌の三ページ目に必ず載っています」

「知るかそんなもん」

 黒川は悪戯っぽく笑った。笑い転げそうな勢いでさえあった。

「あいつ、そんなこと一言も」

 言わなかったと、それは確かだったが。

 しかしすぐに思い直す。

 言ったところで、夏の俺は信じなかっただろうし。

 その後の俺が金を払ったところで、恐らくそれでは足りなかったのだろう。

 誠意とか。善意とか。ミキに言われるがまま差し出すものに、神様とやらが求めるところの意志、心が込められるかは怪しい。

「――結局俺は、一銭も払うことはなかった」

「でも、神様を助けました。貴方の手で届けられたら宝くじは、神様を生かす最後の一押しになりました。転入してからずっと、ミキさんが訴えかけ続けたきた、夏神様のお社の再建計画。つまり、神様のお家を建て直すんですから。その貢献、誰にも文句はありませんよ」

 目眩がする思いだった。

 他人事なら、爽快だとさえ思ったかも知れない。

 散らばっていた、何の関わりもないと思っていた事象のすべてが、一本の線で結ばれたようで。

「大事なのは心。その人の、心からの行動。そのためにミキさんは骨を折って。多分、あのとき妹さんもそのために……。いえ、その辺りはもう、言わない方がいいですね」

 無粋ですから。

 そう言って、黒川は立ち上がった。

 か細い両腕で、黒猫を抱えたまま。

「そろそろ時間です。いつまでも、お邪魔している訳にはいきませんから」

 視界が明滅する。

 誰もいない心から、いるはずのない誰かが消えようとしている。

「あのとき死んだ私は、本当に独りぼっちでしたが。今回はこの子も一緒ですから、寂しくなんてありません」

 言いながら、黒川は寂しそうに笑って、黒猫を胸元に寄せる。

 黒猫の瞳は、何かを言いたげにこちらを見ていたが。

 そもそも、猫が言葉を話すわけがないのだ。

 人間にとって意味のある行動を、猫がするわけもないのだ。

 だから、これで終わり。

 思想と食い違った現実が、終わってくれることに安堵して。

 少しだけ首をもたげた、正反対の感情を、精一杯に抑え込んだ。

「それじゃあ、行こっか、マーちゃん」

 黒猫の、やたらと長く大仰な名前は、随分と短く可愛らしい、愛称に取って代わられたようだ。

 あの黒猫なら、心外だと怒りそうな気もしたが。当の黒猫は文句一つなく、細目をこちらに向けるだけだった。

「――先輩」

 一人と一匹の姿が、徐々に消えていく。

 いつか消える記憶のように。

 この冬に見た、短い夢の出来事のように。

 そう感じたら、少し。ほんの少しだけ。

 この別れを、寂しいと思う気持ち。抑え込んでいたその気持ちを、少しくらい、表に出してみようか、と。

「気をつけてください、黒川先輩。ソイツ結構助平ですから」

 シャー! と、黒猫は威嚇して、黒川の腕の中でじたばたと暴れ始める。

 彼女は慌てて黒猫を抱え直しながら、涙が出るほどに笑顔になった。


「初めて、恋をしました」


 こんなにも暗い場所なのに。

 その赤らんだ顔も。

 震える唇も。

 そのすべてが、網膜に焼き付けられるようだった。


「その甘酸っぱさだとか、切なさだとか。息苦しいこと、ままならないこと。気持ちのいいことばかりではなくても。全部、偽物でしかなくても」


 そして少女は、前を見る。

 どこかにいる、誰かを見るように。


「でも、知ることができて良かった。感じることができて良かった。ねえ、池鯉鮒さん。ねえ、池鯉鮒、瑞樹さん――」


 夢が消えて。


 姿が消えて。


「わたし、ね、私は――」


 最後の言葉も、届くことなく消え去った。

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