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終わった。
すべて、終わったのだ。
倒れ伏した墓守――校倉の死体を見下ろし、そしてチリ君は深く息を吐いた。
白い靄が、彼の目の前を漂う。身体の芯に宿った熱が、冬の夜に溶けていくようだった。
「――うんざりだ」
結末は、予想通り最悪の最悪だったが。それでもなんとかチリ君は、命だけは拾い上げた。
四人の刺客のうち三人は倒れ、最後の一人もミキが倒すだろう。この校倉も、最初の二人のように、クロに喰わせてしまえば。それですべてが終わるのだ。先のことは分からないが、それでも今このとき、自分とミキが死ぬことはないのだと。
複雑な思いを抱えながら、チリ君は安堵した。
消え失せた誰かの記憶を、こみ上げてくる何かを、無理やり抑えながら、チリ君は――
「……?」
気が、付いた。
それは勘であり、目の端に映った違和感であり、そして明確に『嫌な予感』というものだった。
おかしい。
何かがおかしい。
何でもない日常を残した写真に、決して写り得ない何かが入り込んでしまったような、怖気の走る異物感。
背筋を冷ややかな感触が伝い、心音が触れずとも分かるほど高鳴った。
界装具によって強化された感覚器官を総動員し、可能な限り広域の気配を探り。そして足下の、物言わぬ骸が目に留まる。
「――なんで?」
なぜ、それは未だそこにいるのか。
刀で貫いたのではない。
拳で撲殺したのでもない。
大鎌で。界装具『名無しの黒鎌』で、名前を奪ったのだ。
死体など、残るはずがないのに――
「まだ、終わりではないよ」
校倉の身体が、びくりと動き出した。
同時にチリ君は飛び退き、武装を刀に持ち帰る。意味が分からないまま、それでも言葉通り、戦いが何も終わっていないことだけは確信していた。
「校倉に『なった』甲斐があった。あの人じゃここ止まりだったろうから。そして思った通り、君は三鬼 弥生に劣らない、八剣にとっての脅威と化した」
校倉の身体が、ゆっくりと立ち上がる。それと同時に、姿が徐々に歪み始めた。蜃気楼のようにぼやけ、四肢も目鼻もでたらめに伸長し、まったく別の誰かに変成していく。
「池鯉鮒 瑞樹くん――いや。三鬼 弥生に習って、ここはチリ君と呼んでおこうか」
ようやく、その変化は止まり。
その正体を露わにした『女』が、穏やかに宣告する。
「初めましてチリ君。僕は千景――八剣 千景という。絶対正義の名の下に、君たちを殺しに来たよ」
***
元の校倉とは似ても似つかない、それは麗人と言って差し支えない人物だった。
チリ君を超える長身、長くしなやかな手足は、体操選手などによく見る体格だろうか。
中性的な顔立ちと声、短く切り揃えられた黒髪は美丈夫然としている。胸元のなだらかな膨らみがなければ、一目で性別を看破するのは難しかっただろう。
身を包んだ黒のタキシードは汚れ一つなく、或いは八坂 雅と並び立つに相応しい高貴な装いだった。
そして、白いグローブに握られた太刀は。紛れもなく異能の産物、界装具だった。
「八剣――」
チリ君は初めて、その姓の人物を目にした。
名前は嫌と言うほど聞いていたが、それが逆に現実味を損なわせていた。想像上の存在のようにも感じていたし、そうあって欲しいという願う心も、微かに浮かんでいた。
なぜなら、繋がってしまうからだ。
ミキの言葉。
ノアールの言葉。
目の前で起きた現象、そこから導き出される裏の事情。
それは、つまり――
「ミキと、あのミヤビって奴を、殺し合わせたあと。万一にも仕損じたミキを始末する後詰めが、お前ってことか」
「うん、まあ……そうだよ。なんだね、話が早くてすごく助かる」
隠す素振りもない。千景は表情を動かさず、事も無げにそう言った。
「素直に思うよ、君はすごいね。単なる一般人の子どもが、たった半年でそこまで至ったんだから。だって最初の予定では、君は校倉に化けたままでも倒せるはずだったんだよ。単なる子犬だと思ってたのに、とんだ猟犬に育ったものだ。本当に、古い歴史を誇る八剣にとって、君のような存在は眩しすぎるね」
その賞賛は、本心からの言葉だったように、チリ君には思えた。
しかし、感情が表に出ない性格なのか。千景の気配は希薄で、おぼろげで、一個の人間を相手にしている気にもなれなかった。
まるで、壁とでも話しているような。そんな手応えのなさを、チリ君は感じていた。
「だからこそ」
だからこそ――自分が強くなったからこそ。この状況が生まれたことを、チリ君は痛感せざるを得ない。
「君は脅威なんだ、チリ君。君も、君を見出した三鬼 弥生も。八剣を、八剣が守るこの世界を、根本から揺るがしかねない存在が君たちだ。雅を犠牲にするような策を、一臣くんが打たざるを得なくなるのも無理はない」
「――!」
何気なく放たれたその言葉が、チリ君の心に火を灯した。
「ミキは、アイツを殺すぞ」
「そうかも知れないし、そうじゃないかも知れない」
「アイツ、許嫁だって。一臣とかって奴をどれだけ慕ってるか、初見の俺でさえ分かったぞ」
「初見の君が思う以上に、彼女は彼を愛しているよ。心酔と言って過言じゃない。端から見てるだけの僕が、思わず妬けてしまうくらいに」
「だったら!」
だったらどうして、そんなに平気な顔をしていられるのか。
今すぐ後を追って加勢すれば、窮地を救うことだってできるかも知れないのに。
目の前にある繋がりを、どうして平然と蔑ろにできるのか。
困惑と疑惑が渦を巻く。身体が重いのか軽いのか、訳の分からない感情に心が捻れる。
「正義って、なんだよ。お前等の言う正義が、俺にはちっとも分からねぇ。味方を騙して、身内を見殺しにするようなやり方の何が策だ、何が正義だ。笑わせるなよクソッタレども! 鬼だ悪だと、ミキをボロクソに蔑むお前らだって、やってることは底辺極まるド外道じゃねぇか!」
三鬼 弥生は悪かも知れない。
それに従う自分だって、もう善良などとは言い難いのだろう。
でも、そうだとしても。
目の前にいる人間が正義だなどと、彼には到底理解できなかった。
そんなものが、正義であっていいはずがないと。
「人間らしい、実にまともな価値観だ。君もあれだろう、子ども向け番組で培ったヒーロー像を、後生大事に抱えるタイプの現代人だろう。微笑ましいことだけど」
千景は真っ直ぐ視線を注ぐ。しかし、果たして、目の前のチリ君を見ていただろうか。
「正義と善は似て非なるものだ。正義とは時に、道徳的な正しさを踏みにじらなきゃ成されないものだ。君には分からないよ、チリ君。個人と、視界に映る限りの善悪でしか価値を計れない君では、決して大局は見定められない」
それを可能とするのが、八剣だと。
その責務を負うのが、自分たちであると。
千景は迷わず、惑わず、己の正義の在り方を紡ぐ。
「八剣の使命はただ一つ。それは今も、千年の過去も、そして人類史の終点に至っても変わらない。すべては界を、この世界を守るため。あらゆる犠牲を払ってでも、守るべきものが僕たちにはある」
それは、上辺だけの言葉ではなかった。
強大な力を持ち、その力をもって必ずや成し遂げんとする、果てしない覚悟。
受け継がれてきたその意志こそ、彼らが誇る本当の強さなのだと。
「この世界は全ての前提なんだ。あらゆる善も、あらゆる悪も、この世界があるからこそ存在を許される。世界征服を目論む邪悪な魔王がいたとして、けれどこの世界そのものが滅んでしまえば、どんな強靭な大悪魔だろうと、共倒れるしか道はない。八剣にとって、その程度の悪であるならば、真に打倒すべき『敵』足り得ない。擬獣――十戒でさえ精々、人間の世を終わらせる『程度』の存在でしかない」
千景の手に力が篭もる。
それは強い使命感で、強い抵抗の証で、そして八剣の意志の表れに他ならなかった。
「君は知っているのか。三鬼 弥生に従う君は、ちゃんと理解しているのか。かつての三嘉神が何を願っていたか。三鬼がなぜ我々から、そこまで『敵視』されるのか。家族と呼ぶべき存在をも謀り、陥れてでも倒さなくてはならない悪であると目される、その理由が何なのか。君は、本当に考えたことがあるのか」
千景の言葉に感情が滲む。
暗雲の隙間から空を焼く夕日のような、それは強烈な意志の表れだった。
それほどまでの悪。それほどまでの敵。それが三鬼 弥生であると。
「それは」
チリ君は、ほんの僅かに言葉を留める。
確かに、千景の言うとおりなのかも知れない。
三嘉神のことも、三鬼のことも、そしてミキのことも。チリ君は、本当に理解していないのかも知れない。
目の前にいる八剣の方が、本物の正義で。
それに抗おうとする自分こそ、度し難い悪なのかも知れない。
三鬼 弥生に味方するなんて、どんな犯罪よりも罪深い、人間として大きな間違いであるかも知れない。
「……でも」
でも、それがどうしたというのか。
人間の正義。世界の正義。絶対的に正しい行いがあって。それに反することが、とんでもない愚行だとして。
「それが、どうした――!」
助けたいと思った。
力になりたいと思った。
あの女に、あの泣き顔を目にしたとき。
誰でもない、自分自身がそう願ったのだ。
「悪だ敵だ大魔王以下だとか、くだらねぇ与太を次から次へ押し付けやがって。うんざりなんだよ、お前ら全部。ああ、ミキに肩入れすることが悪だとしても。お前ら八剣の側に立つことを、正義だなんて認めない」
怒れる吸血衝動が鼓動する。
力あるものへの叛逆。
憧憬があり、嫉妬があり、そして憤怒する刃が舞う。
池鯉鮒 瑞樹という人間が、その根本に宿る魂が。目の前の、正義を騙る何かを拒絶する。
「俺は俺だ。何を信じて、何が正しいと思うのか。それを決めるのは俺自身で、その責任を背負うのも、俺だけの特権だ。お前らみたいな他人様の言うとおりなんざ、殺されたって御免なんだよ!」
強く強く、大地を蹴って前へ出る。
疲労の色の濃いチリ君は、それでも湧き上がる感情を糧に疾駆する。
気迫は衝撃。速さは力。正々堂々など眼中にない。敵が戦闘の最高速に達する前、最も油断する今このときにこそ、最大の全力でもって斬り捨てる最後の好機であると。
チリ君は、黒い刃を振り下ろす。
自分を殺すと宣言した敵を、正当防衛のルールの下に。
自分という誇りを、貫くべき信念を、その両手でもって守るために――
「大人になりなさい、チリ君」
その光景に、絶望する。
チリ君は信じられないものを見て、そして冷たい風に煽られるのを強く感じた。
素手で。
抜き身の刀が、鉄骨さえ両断する異能の刃が、紛れもない生身の片手で制止させられた。
「まだ未成年の君ではあるけど、それは子どもが持っていい力じゃない。強い力は、相応の責任を纏うもの。そんな力を持った君は、大人にならなくちゃならない。――ならなくちゃ、ならなかった」
握り締められたら刀は、全力で引き抜こうとしても、びくともしない。
そんなことをすれば、手のひらは深く切り裂かれるのが普通なのに。千景の手からは、一滴の血も流れてはこなかった。
「お前、いったい何の――」
「能力じゃない。もっと単純で分かりやすい、これは純然たる実力差の結果だ」
チリ君の世界が激動し、身体ごと後方に弾き飛ばされた。
それが、千景の持つ刀の鞘で顎を強打された結果であると、本人が気付くのは数瞬のあと。
荒れ果てた地面を転がり、無数の切り傷をこさえ、それでも倒れ伏すまいとするチリ君の前に、その敵は立ちふさがる。
ぶれる視覚、ノイズだらけの聴覚を総動員して、チリ君はもがきながらも体勢を立て直す。
「僕の能力は、君も見たとおりだ。他人の姿や能力を、完全にコピーする。ただそれだけの力だ。相手に近付けば近付くほど、その相手を殺してしまいたくなるのは難点だけど、それはご愛嬌、ものは使いようだ。姿を真似るくらいなら自制は効くし、だから一臣の影武者という役目を全うできる」
それだけの力。
決して、敵の攻撃を無効化するような力ではないと。
当然のように、動かしがたい事実を、千景は冷酷に告げる。
「君の力は調べた。仲間の犠牲と、黒川 知世鈴――雅の能力によって観察した。その種別も、その強さの丈も知って、だからこそ脅威だと思った。白兵戦に長けた刀、写し身、催眠、そして真名を奪う大鎌。一人の人間が背負うには大きすぎるほど、それは強大な力だ」
長い腕に、刀が抜かれる。幅広の刀身は透き通り、背景が写り込むほどだった。
「それでも、僕に勝つにはほど遠い」
その刀は、野太刀。
時に斬馬刀とも同一視されるその長大な刀は、本来馬上の敵を斬り倒すための攻撃範囲を特徴とする。扱いづらさと比例して跳ね上がる重量を、そのまま破壊力とする打刀の極点。
その太刀を持った千景の姿は、まるで片腕が伸長しただけのようにも見えた。それほどまでに、刀を持つ姿が自然で、当たり前のようで。
自分を含め、これまで敵対してきた能力者との、隔絶した格の差を。チリ君は目の当たりにした。
「離れるべきじゃなかった。君と三鬼 弥生の二人では、僕も流石に難儀したろうに。そういう意味では拍子抜けだよ――強がりだけど。三鬼 弥生も、二十歳前の少女に過ぎないということか」
ゆっくりと、千景はチリ君を追い詰めていく。
膝を突き、敵を見上げるチリ君の目は、それでも戦意を失ってはいない。
「よく、喋る。そんなに怖いのか、ミキが」
退けない。
負けられない。
ここで自分が敗れたら、この敵は間違いなくミキを殺しに行くだろう。
雅との挟撃になれば。或いは能力を使い、チリ君の姿で虚を突けば。それも決して夢物語ではない。
「ああ、怖いね。とても恐ろしいと思うよ。僕も、雅も。八剣の皆が、彼女には死んで欲しいと願っている」
それが、正義の意思なのだと。
そんなことを言われたら。
チリ君は、僅かに残っていた逃げるという選択肢を、完全に捨て去った。
「殺す」
許さない。
「殺してやる」
何も知らない分際で。ミキの想いも、危うさも、その泣き顔さえ知らない、知ろうともしない連中が、絶対に――
「哀れだよ、チリ君。健気で、だからこそ傷ましい」
冷たい目で。
この冬夜さえ暖かく思えるほど、それは氷のような冷気を宿して。
その視線が何より、チリ君の胸を深く穿った。
「三鬼 弥生に出会わなければ、君の人生は君だけのものだったのに」
「違う」
「君は彼女に魅了され、君は彼女に洗脳され、君は彼女の界装具に仕立て上げられた」
「違う――」
立ち上がり、駆け出し。
互いの刀がぶつかり合う。
「自分の命を危険に晒してでも、主を守らなければならないという強迫観念に突き動かされる。君が君自身の意志だと思い込んでいるそれは、三鬼 弥生が都合良く植え付けた偽物でしかない」
「違う!」
「既に君は君ではない。君という存在はとうに、三鬼 弥生の鬼と成り果てた」
「違うッ!」
退けない。
負けられない。
認めることは絶対にできない。
自分は自分だと。
そう思い、そう信じ、それに縋らなければ己を保てない。
自分が自分でなくなることは、チリ君にとって、死ぬより恐ろしいことだったから。
「俺は、俺だ」
何度も口にした言葉を、チリ君は呪文のように繰り返す。
「決めつけてんじゃねぇ、押しつけてんじゃねぇ、知ったような口を聞いてんじゃねぇ! お前にとって? 他の誰かにとって? そんな話は知らねぇんだよ。一般的に言ってそれは嘘だとか、正しい価値観から見てそれは間違いだとか、知ったことじゃねぇんだよそんなもの――!」
怒れる刃が咆哮する。
激しく攻め立てるチリ君はしかし、まったく攻勢に立ってはいなかった。
朧気な自分を守るため。
見失った自分を守るため。
誰より自分を尊ぼうとする彼の姿勢は、揺るぎない自分の姿が見えていないからこその過剰防衛だった。
生育の過程で、正常な自己愛を育んだ人間は、己に対しそこまでのこだわりを持たない。自分は自分であると、そんなものは『言うまでもないこと』だからだ。悩むこともなく、探すまでもなく、自分がそこにいるのは、当たり前のことだからだ。
それが、今のチリ君には分かっているから。
だからこそ、千景の言葉が突き刺さる。
千景の憐憫が、何より力を奪い去る。
「界より、慈悲を。絶対正義の名の下に、この迷い子の幕を引く」
難なくこじ開けた防衛の隙間を、その太刀は狙い打つ。
万策は尽きた。
二重存在による加勢も焼け石に水で。
催眠は発動条件を揃えられず。
最大戦力である刀は切っ先さえ届かず。
であるならば、大鎌の刃も同じであるから。
心臓を、胴体ごと斬り捨てようとするほどの斬撃が。色を失ったチリ君の視界の中を、ゆっくりと近付いてきて――
斬られた、と彼は思った。
刃が届くより先に、その衝撃と激痛を脳内で弾けさせていた。
負けた、と彼は思った。
負けて当然だと。
負けるべきだとさえ、思ったから。
「ああ――」
だから、分からなかった。
目の前で起きたことに、理解が追いついていなかった。
千景の前に立ちふさがるような、黒い塊。
獣の臭気。蛇のように揺れ動く尾。
張り詰めた空気を知らぬと断ずる、それは紛れもなく。
「まったく同感だ。これも奇縁ゆえ、この手を貸してやろうぞ――小童」
見上げるほどの巨体を有した、それは黒猫の姿だった。




