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清涼な風が、二人の少女の間を吹き抜けた。
三鬼 弥生。
八坂 雅。
怨霊の声も、山と積まれた獣も、忽然と消え去り。周囲は、闇夜とも地獄とも違う、新たな色に染まっていた。
揺れる草木は黒く。
暗雲の夜空は黒く。
川は黒く。
道は黒く。
世界は、どこまでも黒い。
この町の果てまで続く、クロ。
「先月の話だ」
言葉を失った八坂 雅が、その胸中に渦巻く疑問を口にする前に。
ミキは、その記憶を――この物語の始まりを語り出す。
「機関から情報提供があった。かねてよりの懸念事項だった、今は亡き我が兄――三鬼 建辰についてだ」
あの夏。
あらゆる事件の裏で糸を引き、ミキを狙った、三鬼の長兄。
最終的にミキに敗北した彼は、しかし遺恨を残した。
「恥ずかしながら、これは私の不手際なんだが。あの夏、私は彼を仕留め損ねている。暴走した界装具の使い手である彼を、ただ単純に殺してしまった」
正確に言えば、建辰を殺したのはチリ君だった。
建辰の命を奪うのが、刀であるか鎌であるか。ミキにとってそれは、ほとんど博打のような二択だったが。
刀によって両断された建辰の魂は、何の制御下にも置かれず、霧散してしまった。そうなれば誰にも手出しはできない。いずれ再び蘇り、界装具と強い怨念を併せ持つ擬獣として、現世に害を生み出すまで。
「それを見透かされた訳だよ。いや、最初からそこまで計算のうちだったんだろう。まったく嘆かわしい限りだが、機関はこんなことを通達してきた」
勿体ぶるように両手を広げ、雅の反応を楽しむように微笑んで、ミキはその先を語る。
「『いずれ夏臥美町に、擬獣を御する能力者が現れる。その者の力を利用すれば、或いはかの思念を捉えることも叶うだろう』と」
雅は思わず、小さな胸を鷲掴みにした。
「なるほど渡りに船だ。三鬼の問題、三鬼が片付けるべき事件だと言えば、業腹ながらそうなんだが。界装具の担い手である我が兄が、擬獣と化して被害を広げることは、機関としても本意ではないのだろうと理解した。これはそれだけの話なのだと――けれど」
だが、違ったのだ。
ミキは、自らの語り口に酔うように。その言葉に、雅が聞き入る様に満足感を得たように。疲れを知らず、終わりを知らず、その歌劇を披露し続ける。
「どうしたことだろう。来訪者はその一人のみならず、四人。あまつさえ、私の命を狙う暗部の四象陣だという。してやられたよ。私が苦労して広げたクロの領域も使えなくなった。ああ、君の存在に今日まで気付かなかった? いやいや、気付いていたに決まっているじゃないか。ただ、情報にあった擬獣使いが誰なのか分からなかったから、迂闊に手を出せなかっただけだよ」
雅の理解は、どこまで追い付いていただろうか。
そんなものはミキの虚言に違いないと、どの程度信じていただろうか。
だが、仮定として。ミキの言葉が、すべて事実なのだとすれば――
「酷い話だと思わないかい? 君たちは私の討伐を命じられた。となれば当然私も迎え撃たなくてはならない。それがつまり、何を意味するのか。――ねえ雅。この状況で、機関に抗議を行った私に対し、彼らは何と返したと思う?」
疑問を投げかけておきながら、ミキはその回答を待つことなく、核心を告げる。
「機関の返答はこうだった。そう、異能者を統括する組織の中枢は、その役割に至極忠実に、こう答えてきた。『機関暗部の人間が数名、勝手に暴走したから、討伐を許可する』――だって」
「うそだ!」
あり得ないと。雅は喉を潰しかねない声で叫喚した。
「何を――何を言っているの、お前は!」
「何を、と言われてもね」
ミキは困ったように肩をすくめ、苦笑いを浮かべた。
「事は明白だろう。君だって理解できているはずだよ。簡単に言えば、機関は私と君たち両方に、相手を殺せと命じたわけだよ」
殺し合えと命じた。同じ命令を相手方にもしていた。そのことは、双方には伏せたままに。
雅は強く頭を振った。とても信じられないと。そんなものは嘘でしかないと。藁に縋る思いで、頼りの刀を握り締める。
「心当たりがない? 本当にそうだろうか? 組織において、表立って処断できない人間を処分するのが君たち暗部の役目だろう? 始末屋、汚れ役、組織の影――それが暗部。であれば分かるはずだ。気性が荒く反抗心を持った狙撃手。守るべき一般人を巻き込む性質の降霊術士。そして討つべき悪である擬獣を、あろうことか使役する能力者。機関からすれば、充分に標的足り得る存在だ。家柄は確かだし、実績もあり、忠誠心も欠けていない。表向き殺す理由はない厄介者、目の上の瘤。今回、私の討伐隊として選ばれた君たちはまさに、そういう邪魔者の寄せ集めだっただろうに」
雅は青い顔をして、唇を噛んだ。
心当たりなど、掃いて捨てるほどあったから。
事実、そうした人間を危険分子として、数多く屠ってきたのが雅なのだ。命じられさえすれば、心の底から納得して、始末しに向かうと断言できた。
ただ、まさか。
まさか自分が、狩る側に立っているはずの自分が。狩られる側に立たされるなど、思いもしなかったのだろう。
数々の功績を上げてきた自分が。
八剣家当主の許婚である、自分が。
「な、何かの、間違いですわ」
今にも嘔吐しかねない、切羽詰まった表情で。雅は、震える手でもって刀を構える。
「手違いですわ。誤解があるのですわ。でなければ、そう、誰かの陰謀に違いありません。一臣様に掛け合い、正さなくては。そのためにも――」
三鬼 弥生を、殺すのだと。
裏で何が起きて、どんな真実があろうとも。その目的が変わることはないのだと。
道理である。
その程度の揺さぶりは、八坂 雅には通じない。
そんな、若くともぶれない芯の強さが、ミキには眩しかった。
迷いもあろう。自分の足場が覚束なくては。
恐れもあろう。自分の力が、理解する間もなく打ち消されては。
それでもまだ、希望を失わない。己の力と己の信念で、目の前の壁を乗り越えようとする。望む未来を、その手で掴み取ろうとしている。
断じて、絶望と諦観に背を押されはしまいと。
強さの裏に隠れた、その懸命さが。その健気さが。
ミキには、愛おしくてたまらなかった。
「交渉の余地はあると思うがね、八坂 雅」
「否」
「私の目的は達した。このまま退いてくれるなら、私に君と戦う理由はない」
「否」
「敵意はいい。私も三鬼も、憎んだままで構わない。だから――」
「否ッ!」
問答無用と。雅は鷹の目をミキにぶつける。戦意、闘志、そして相手が何者であれ、必ず勝利してみせるという覚悟をもって。
その姿が勇ましくて、その姿が輝かしくて。
だからこそ、ミキは悲観せざるを得なかった。
雅は、手違いだと言った。誤解だと言った。
それは信頼あってこその言葉だ。八剣であれば、 一臣であれば、必ず雅の訴えを信じ、機関の過ちか三鬼の嘘かを正し、この窮地をも救ってくれると。そう考えているからこその言葉だ。
だからこそ、なればこそ、ミキは極限まで悲観するのだ。
八剣からすれば、この状況は歓迎するより他にない。ミキが死のうが、雅が死のうが、どちらに転んでも得にしかならない。どちらも邪魔で、どちらにも死んで欲しいのだから。もしも相討ちしてくれるのなら、これ以上の成果はない。
機関にとって、八剣にとっての、敵たるもの、悪たるもの。例えそこに味方が含まれようと、それらを騙し潰し合わせるなどという、この悪魔じみた策謀を。考案し、実行に移せる人間など。
「ああ――」
ミキには、一人しか思い浮かべられないのだから。
「一臣様――!」
空の彼方に届けよと、雅は叫び、そして駆ける。
能力が不発したから何だという。
敵の能力が分からないからなんだという。
もとより八剣は、その剣ひと振りで、名だたる強敵を打ち倒してきた家系である。
刀は健在。折れも曲がりもしていない。
ならば負ける道理もない。
まして。
「鬼を操るしか脳のない三鬼が、そのくせ鬼を失ったお前ごときが――!」
雅は知っている。
いや、だからこそ機関は動いたのだと、ミキも重々承知している。
あの夏。八剣最大の脅威となり得る三鬼 弥生は。その強大なる力の源、界装具たる赤鬼と青鬼を、一挙に喪失しているのだ。
最強の八剣 一臣にさえ並ぶと言われた力は、今や見る影もないはずだった。
ならば負けない。
負けるはずがない。
負けるわけにはいかないのだ。
勝者こそが正義。
正義こそが存在意義。
八剣に連なる者として。敗走も敵前逃亡も、唾棄すべき邪悪たればこそ――
「私の前に立ち塞がるなんて、おこがましいにも程があるのよ――!」
刀が袈裟に斬り下ろされる。
己が命さえ断ち切らんと迫る刃を前に、ミキは。
「ああ――」
この世界の理不尽から。この世界の不条理から。泣き出したくなる恐怖を、力に変えて。
「さようなら、雅」
独り言のような別れの言葉が、灰色の静寂に溶けた。
「あ――」
抜き身の刀が、黒い地面に転がり落ちる。
馬頭――地獄の担い手たる雅の刀は。振り下ろされる前に敗れ去った。
「あ、あ、あ……」
振りかぶった態勢のまま、雅は自分の胸元を見る。
その瞳に映るのは、突き立てられた鬼斬りの刃と。
涙を浮かべて笑う、悍ましい白髪の女。
「そしてありがとう。この絶望を忘れない。この恐怖を永遠のものとする。君の最期を記憶に刻み、それをもって弔いとしよう。私は君の、君たちのためにも、必ずや目的を果たすと誓うよ」
もう止まれない。
止まるわけにはいかないのだと。
自ら奪った命に宣誓する、三鬼 弥生は。
「くたばれ、鬼の子――」
最後にまた、あの地獄の怨嗟を聞いた。




