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「黒川 知世鈴」
視線は校倉から外さないままに。チリ君は、背後に立った相手の名を口にして。
「それ以上動くな」
有無を言わさない強い言葉を、懇願するように揺らぐ声で、言い放った。
「ち、池鯉鮒、君」
萎縮して、黒川は小さく肩を震わせた。
「ご、ごめんなさいっ。私いま、目を覚ましたばかりで、状況が……。でも、貴方がいたから、だから」
ただ、駆け寄ったのだと。何か悪気があって、背後に立ったのではないと。黒川は懸命に訴えた。
「もういい」
白い息を、大きく吐き出して。チリ君は緩く首を振る。
「その手の趣向はうんざりだ」
叫びたくなるのを我慢するように、胸元を掴み。チリ君は早口に、その心情を吐露した。
「悪趣味だ、本当に。ぶん殴りたくなるくらいだ、クソが」
ゆっくりと。
チリ君はその場を離れ、校倉と黒川の両方を視界に収める。
手負いとなり、傷口を抑えた校倉はいい。だが問題なのは、黒川の方だった。
黒川は。
黒川 知世鈴は。
その両手で、似つかわしくないナイフを、握っていた。
隠せないでいた。
動けないでいた。
「池鯉鮒君、これは」
青ざめた顔で、黒川は交互に見る。自身の手元と、チリ君の冷ややかな視線を。
「違う、の。私、脅されて。あの子に、雅っていう子に。だから、仕方なく」
黒川の手足は、極寒の下にあるように、がくがくと震えていた。冬服も、防寒具も、何の意味も成さずに。
「脅されて。それでミキや、俺に近付いたって、そういう話か。ああ、うんざりだ、本当にうんざりだ。アンタの嘘は、もうたくさんだ」
「違うのっ!」
耐えきれなくなって、黒川は叫んだ。
黒の長髪は悲しげに乱れる。その呼吸は、病的なほどに荒れて。
「嘘じゃ、ないんです」
違う。
嘘じゃない。
何度も、何度も。黒川は、人形のように繰り返した。
「近付いたのは、そう。協力しろって言われたから。そうしないと殺すって、脅されたから。でも、嘘じゃない」
赤らんだ頬を、涙が伝った。
「生徒会のこと、とか。夢のこと、とか。貴方に、伝えたかったことだって。嘘じゃないんです。私は、嘘なんて言っていません。私は、私は!」
後ろめたかった。苦しかった。
こうなることが怖かった。
それでも今まで耐えてこられたのは、全部が全部、嘘じゃなかったからだと。
「楽しかった。夢みたいだった。貴方とお話できた時間が、きらきらしてて、すごく綺麗で――。久しぶりだったの。あんな風に、誰かと話ができたの、本当に、本当に」
本当に、幸せだった。
それは、紛れもない本心で。何者にも強制されていない、それは黒川 知世鈴の願いそのもので。
「――――」
だから。
だからこそ、チリ君は。
「もういい――!」
奥歯を噛み締めて。黒川だけを、睨み付けた。
「分かってたんだよ、最初から」
刀が軋み、悲鳴を上げる。それはまるで、持ち主の代弁者であるかのように。
「初めて話したそのときから、とっくに理解してたよ、黒川 知世鈴。――あんたが俺の、敵だってことぐらい」
黒川は思わず、言葉を失った。
「ずっと警戒してたよ。いつ後ろから刺されるかってビクビクしてた。でもバレるわけにはいかなくて、平気な顔してなきゃならなくて。二人きりでいるときずっと、震えが止まらなかった」
有名な先輩だからだとか。美人の異性だからだとか。そんな理由で、緊張していた訳ではないのだ。
敵だと知っていたから。
よからぬ思惑で近付いてきたのだと、最初から分かっていたから。
心を開くわけにはいかなかった。例え何を言われようとも――黒川同様に自分自身も、その語らいに光を見いだしかけていたとしても。
「それが、分かっていても」
黒川は呆然として、けれどどこか期待をするような目で、チリ君を見る。
「分かっていても、つき合ってくれてたんですね」
頬は涙で湿らせたまま、それでも嬉しそうに、黒川は微笑んだ。
だったらきっと、分かり合えたよね、と。
始まりは嘘でも。仕組まれた出会いであっても。
二人の関係まで、嘘だった訳じゃ、ないはずだと――。
「そんなわけないだろ」
否定する。
チリ君は強く、強く否定した。
そんな生温い希望なんて要らないと、断じるように吐き捨てた。
「目的が分からなかったから、泳がせてただけだ。確証もなく、殺意もなかったから、放置してただけだ。それに何より――」
何よりも。
チリ君は、次の句を躊躇った。
なぜならそれこそが、あまりに致命的で、あまりに救いのない推測だったから。
確かめることで、真実であるという答えを、掴みたくなかったから。
それだけは、絶対に許せない、許さないと決めたことだったから。
「何より、違和感の正体が分からなかったから。どうしてあんなに怖かったのか。どうしてあんなに近寄りがたかったのか。知りたくなかった。知らないままスルーしたかった。傷つきたくなくて、また、手を伸ばすことを諦めかけた」
黒川には、チリ君の言葉が分からなかった。違和感だと、傷付くと、そう言われても心当たりがなかった。嘘も、隠し事も、この場でもう全部、露呈したと思っていたから。
だから、必然。
チリ君が言わんとしていることは、真実。黒川 知世鈴でさえ知り得ない、致命的な事実に他ならなくて。
「あんたは」
吐きそうになるのを堪えて、それでもチリ君は口を開く。
「黒川 知世鈴は」
例え記憶を弄られても、強く残った印象までは拭えない。
あの事件を調査していた松井 朝子も。あの事件で姉を亡くした目崎 陸も。だからこそ感じていた、その違和感、その齟齬、その食い違い、その矛盾。その真実には、
「あの春、夏臥美町で起きた連続自殺事件で、とっくに死んでいたんだから」
何の救いも、何の希望も、残されてはいなかった。
そう、これは歴然とした事実である。
黒川 知世鈴は死者であり。
八坂 雅の能力によって形成した、擬獣である。
「え――」
黒川は、何も答えなかった。
理解できないようだった。
いま、自分はここにいて。
当然のように存在しているのに。
けれど、死んでいるだなんて。そんなもの、冗談以外の何ものでもないと、そう思えたのに。
なぜか、蘇る。どういうわけか、存在する記憶がある。
思い出せなかった。
思い起こすことを拒んでいた。
喉が詰まる苦しさにも構わずに、大量の錠剤を嚥下した、その記憶が――
「『黒川 知世鈴』」
刀は消失し、別の武器を掴み取る。
長い柄に、三日月の刃が伝う。
それは名無しの。何者も斬り裂けない漆黒の鈍器。
しかし、今このとき。
刈り取る名前を指し示し、獲物を前にしたその大鎌は。
人も獣も両断する、最悪の凶器に成り変わる。
「お別れだ、先輩」
凍えるような風が吹き上がり。刃が宙を翻る。
――敵の中に、擬獣を御する能力者がいる。
それをミキから聞いた時点で、チリ君にはこの光景が見えていた。
「うんざりだ――」
避けられないことは分かっていた。
逃れ得ない終わりだと分かっていた。
それでも、少し。ほんの少しだけ、期待してしまった。
例えそれが、アオの残滓が見せる未来だったとしても。もしかしたら、違うかも知れないと。もしかしたら、違う終わりがあるかも知れないと。
期待した。希望に縋った。――その結果に絶望して、泣き喚いた女の顔を、彼は誰よりも強く、心に刻んでいたというのに。
「本当に、本当に、本当に――」
それでも。捨て置くわけにはいかないから。
死んだ人間は何もできない。
何もできちゃいけない。
その概念を、誰より尊ぶ彼だから。
死者の無念の塊だなどと嘯き、生きた人間へ干渉しようとする擬獣など、許すわけにはいかなかったから――
「――――!」
自重に任せて、刃を落とす。
名無しの黒鎌を振り下ろす。
理不尽を断つ。
不条理を断つ。
死人は死人として、あるべき姿へ返すのだと。そう覚悟を決めたチリ君は、最後に。
「――だ」
飛び方を間違えた、小鳥の断末魔のような、掠れた声を。
「いやだ、よぉ……」
少女の願いを、共に抱いた希望を、諸共に破り捨てた。
「…………」
跡形もなく、少女は消え去った。
いや。そもそも黒川 知世鈴という少女など、とっくの昔に死んでいたのだから。
「うんざりだ」
最初から、いなかったのだ。
そんな人間は、どこにもいなかったのだ。
「うんざりだ」
出会って。隣を歩いて。夢を語って。笑い合って。歩み寄って。そんな記憶こそが、間違いに他ならなかったから。
「うんざりだ……!」
また、ダメだった。
また、自分の手で終わらせてしまった。
神谷 満も。
綾辻 華も。
池鯉鮒 茂も。
黒川 知世鈴も。
どうしてみんな、いなくなってしまうのか。
手を伸ばして、もしもダメでも、それは無駄ではないと。
分かってる。
分かっている、分かっているのだ。
分かっていても、それでも、考えずにはいられない。
一体あと何回、こんなことを繰り返せばいいのか、と――
その胸中に、渦巻く思いは何なのか。
分からない。
ただ巻き込まれただけの少年には分からない。それを教えてくれたかも知れない誰かは、近付く先から自ら喰らった。
だから。
だから。
だから――
「八剣の名の下に死ね、鬼の同胞――!」
隙ありと、背後から迫る男の名を、ここに。
「『あ』『ゼ』『く』『ら』『ジュ』『う』『ぞ』『ウ』」
繋がりは深部へと至る。
歪み。
嘲笑。
雨と涙。
心臓に突き立てられた刃。
数多の記憶は点と線、穿ち繋ぎ裁断し継ぎ合わせ、すべての細胞を巡り手繰り、再び名を狩る夜を迎える。
死神のごとき凶器を駆る、尋常ならざる異能者は、しかし。
その表情を、この上ない悲観に染め上げて。
「ざっけんな――馬鹿野郎ッ!」
慟哭とともに。
墓守の男を、両断した。




