4
「ひゅー! いいぞーこわっぱ! かっこいいぞー!」
「着地に失敗して全身の骨バラバラになれ」
最初の定位置にまで降りてきた黒猫が、ウザいほど陽気に話しかけてきた。残念ながら、無傷のようである。結構な距離を昇降しているのに、音もなければ、風圧さえ感じなかった。
当然だ。
ソレは、モドキ。
ソレは、擬獣。
真っ当な生き物などでは、ないのだから。
「はあ――」
やたらとでかい溜め息が漏れた。
男の方は、赤い水を垂れ流しながら寝てしまったので、休ませてやることにした。きっと、死ぬほど疲れていたのだろう。
「というか小童、割かしサックリやっちまったな。名前も要件も聞いとらんのに」
「お前が言うのかよ……」
思いっきり焚き付けたくせに。やっぱりヒゲを全部剃り落とすくらいはやるべきだろうか。
「まあ、正当防衛だろ。無許可で領域侵犯したのもコイツだし、自己責任だ。後始末はミキに任す」
それでいいと思う。勘だけど、たぶん、それが一番いいと思った。
それだけ。
それ以上のことは、考える必要性を感じなかった。
「――ふん。変われば変わるものか」
身の安全を確信したのか、黒猫がまた饒舌になっていた。
「虫も殺せないような人の子が、たった半年でよくもそこまで。アレも罪深い女よな」
「別に。俺はなんとも思っちゃいない。それより」
同情されるのが腹立たしい、というのも、今はいい。思いっきりぶん殴ってやりたいのも山々なのだが、今このときは、どうでもいい。
それよりも。さっき俺が、振りかぶった手を止めた、その理由は。
「これ以上は待たない。その伝言ってのを聞かせろよ」
「忙しない奴よな」
何をそんなに、生き急いでいるのか。
などと、問われたところで。俺には答える言葉もない。
答える義理も、何もない。
とっくに死んでいる奴に、くれてやれるものなんか、何もないんだから。
「聞かせてやるとも。そのために来たのだから。ただ――」
区切る文句に、まだ何があるのかとうんざりしたが、
「食い残しは感心しないな、小童」
辛うじて、水の跳ねる音を拾う。
すぐさまに、ジャージの男が伏していた一角へと視線を投げた。
「――どこへ?」
男が、いない。
血溜まりはそのままに、浸っていた身体の全てが消失していた。
「経験の浅さが出たな、小童。致命傷を与えたからといって、まだ視線を切るべきではなかった」
「クソ猫――」
コイツ、気付いてて見逃しやがったな。なんてタチの悪い。
「見てたんだろ、何が起きた。いくらなんでも、立ち上がって逃げ出すのを見落とすほど鳥目じゃないぞ」
可能性は、いろいろと考えられる。
最初から分身だったとか。仲間が回収に来ただとか。
最悪なのは前者だが、後者は後者で面倒くさい。
他に考えられるのは――
「そこそこに面白い見世物だったぞ。人体がドロドロと水に化けて、軟体動物のように這って逃げ出すのは」
ヒッヒ、と。黒猫は悪趣味に嘲笑う。
じゃあつまり、当人の能力か。
水鉄砲を打つだけの愉快な芸人じゃ、流石になかったわけだ。
付近には排水溝がある。もしもそこから下水に逃げたとすれば――
「水になって逃げる? 首に風穴開けて生きてられるのかよ。なんだそりゃあ無敵か」
擬獣よりよっぽど化物だろうが。ホラー映画じゃねぇんだぞ。
「制約はあるだろうよ、当然。まずもって手段だな。ヤツはまず、自分に向けて銃を撃ち、それから水に変化した」
「自分を撃った?」
銃声なんて聞こえなかった――けど。考えてみれば、水鉄砲に銃声なんかあるわけない。ということは、さっき撃ったときに聞こえた音はダミーか。見掛けによらず回りくどいことをする。
「逃していいのかね、小童。消音銃、弾丸は水、最初に陣取ってた場所からして射程もそこそこ。暗殺向きだぞ、アレは」
「…………」
暗殺向き。
誰かを、殺しに来た?
誰を――いや。
そんなの、考えるまでもない。
「別に」
握っていた刀を消す。背負うわけでも、腰に差す訳でもなく、なんの不便もない。手荷物にならないあたりは、この『界装具』の数少ない利点であると言えた。
「捨て置くと?」
「なに不服そうに言ってんだ。排水溝から逃げたのを見てたんだろ。じゃあ俺には追う術がない。声さえ届かない範囲に出られた時点で詰みだ。ここで悶々としてても仕方ないだろ」
できないものはできない。それを悩む意味はない。
終わってしまったものには、何もできないのが道理なんだから。
「まあ――術がないって言っても」
携帯電話を取り出して、アドレス帳から宛先を選び、十数文字程度の文章を作る。
「俺には、って話だから」
この町で、誰かの裏をかこうだなんて。思い上がりも甚だしい。
誰かを呪えば、必ず自分に返ってくる。
どんなに上手く振る舞って、しっぺ返しを免れようとしても。
そういう筋違いを、絶対に許さない奴が、この町にはいるのだから。
「……痛ましいよな」
少し黙りこくったと思えば、黒猫はそんな風にぼやいてきた。
「伝言を聞かせろ。さっきの奴じゃないけど、それ以外はもう喋んな、猫」
本当に、どうでも良くなる。
伝言を聞いてこいだなんて、そんな仕事は受けていないのだし。
ここで握り潰したところで、ミキを妨げるようなことにはならないだろう。
――そう。
そうなんだ。
多少足踏みさせたくらいじゃあ。
アイツはもう、止まらないんだから。
「――三鬼 弥生がこの街に来た『本来の目的』については、聞いているか?」
重苦しい口調で、黒猫は言った。
「は?」
本来の目的。
なんだ、それは。
それは一体、どこ向けの話だ。
「であればまあ、こうとだけ伝えておけ。『アレが動き始めた。そろそろ頃合いだから、急げ』と」
黒猫が言い終わるやいなや、空気が変わっていくのが分かった。
頬を撫でる、冷たい風。
吐く息は薄らと白く、流れるように消えていく。
慣れ親しんだ――けれど、平年よりは少しだけ寒い、十二月の夜。
夏の夜が終わりを告げて。
いつも通り、あるのかないのか分からない暑い秋を越えて。
この夏臥美町にも。
冬が、来ていた。
「擬獣とは祖霊。人と混じり非道を成すばかりの、救いのない悪夢ばかりではないということだ。まあ――お前にとっては、どうでもいいことかも知れないが」
お前にとっては。
強調されたその言葉が意味する言葉は、間違いなく。
「なんなんだ、お前は」
もう一度、繰り返す。
繰り返した自覚すら、あとから追いかけてくる有様だった。
無様なもんだ。
きっとアオなら。そんな問いは、浮かんだ時点で解を得られるのだろうに。
でも。
だけど。
それでいい。
それがいい。
俺は、俺だから。
俺は断じて、アオではないのだから。
「――難儀だな、童よ。そう言えばお前、あの赤鬼も取り込んでおったろう。アレも鬼のくせに、なかなか危うい境遇ではあったが――ああ、お前は輪をかけて酷い。三鬼 弥生の封印は不完全だ。意図的なのだろうが、その反動は明確に表れている」
黒い体躯が、夜の藍に溶けていく。
最初からいなかったかのように、その痕跡さえ残さず、消えていく。
「不憫だな――誰もかも」
最後に覗いた瞳は、赤く。
遠くの空を、見つめていた。