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「八坂 雅」
暗闇を駆け抜けた三鬼 弥生が立ち止まり、振り返り、再度その名を口に出す。
夏臥美町北部、東西を横断する河川の脇の細道、旧名を『クオ道』と呼ぶ。
夜闇においては汚泥のようにすら見える川の流れを南に見下ろし、反対側を見上げれば視界を塞ぐ常緑樹群が殺到する。道幅は自動車がギリギリ通れるかどうかという狭さで、地元の人間も好んで通ることの少ない旧道である。
それはかつて、あの夏神の社へと続く儀式的な参道の一部であり。
その名が冠する通り、機関の主要十家が一つ、荼枳尼の僕『九尾家』が直接管理していた道である。
元々主要十家は、国内各地に散らばる霊的な特異点を管理すべく配置されていた。
この夏臥美町もまた、死したる思念の拠り所――或いは吹き溜まりという性質を持つ土地であった。
三方を小高い山に塞がれた行き止まり。
悪しきものを封じ込める蓋として設けられたのが、すぐ北に位置するの『双町』。その存在を利用したミキからしても、それは冗談のような、洒落にもならない地形であったと語る。
しかし、それでも重要な拠点だった。
守るに足る理由があった。
擬獣だろうと、能力者であろうと、十戒だろうと、機関の暗殺者であろうと。退けられるだけの備えを、ミキはしてきた。
あえてその気配を隠さなかったのは、理性ある者たちに対する牽制のためだ。
万が一にも攻め入れば、必ず返り討ちにしてくれる。
この地を拠り所として現れた十戒を打倒したことで、その実証も充分に果たせた。
生半可な戦力など送り込もうものなら、その無事は保障しないと。
三鬼 弥生はそうやって、自分を、この町を、守ろうとしてきたというのに。
「お前は、危険にすぎるのですわ」
互いの間合いの、僅かに外で。
ミキを追ってきた雅が、刀の柄を握り締めながら、言う。
「機関が、八剣が、お前たち三鬼を迫害し続けてきたことは事実です。しかし私は、それを理不尽だとは思いませんわ。それほどまでに、そうしなければいられないほどに、お前たち三鬼は危険な存在なのです」
ミキは、僅かに目を細める。
その先に映る者へ、ミキは憐れみを覚えていた。
年齢不相応に鋭い雅の瞳――その奥に、耐え難いほどの怯えが見えたから。
未知なるモノへの恐怖。
強大な外敵に対する恐怖。
ミキは、ただひたすらに、その少女を抱きしめたくて、たまらなくなった。
「まして、十戒を――人類すべての敵を、たった一人で討伐するほどの戦力。最早見過ごしてなどいられませんわ。疾く排除すべきであるという進言が成されるのは当然で、ついには一臣様さえも頷いた」
――比肩するのは、三鬼 弥生をおいて他にあるまい。
最強にして無敵たる八剣 一臣に、唯一匹敵する使い手、三人目の鬼子。それが生まれた二十年前から、機関はある種の恐怖に取り憑かれ続けてきた。
これまでの差別が。唾棄し、踏みつけ、踏み殺してきた一族に、復讐されるのが怖かった。
自身らの正義を絶対と信じる八剣において。三鬼 弥生という存在は、決して見過ごしてはいられない癌だった。
認めてはならない悪だった。
悪でなければならない鬼だった。
「どうして、だろうね」
笑みはそのまま、しかし瞼を伏せて。ミキは静かに訴える。
「我々三鬼は、ずっと共和を望んできた。ありとあらゆる誠意を、幾度となく示してきたはずだ。これまでのことは忘れない、しかし許そう。共に未来の礎となろう。そうやって交わした言葉を結局、君たちは信じてくれなかったのか」
「言うに及ばず。お前たち三鬼の――いいえ、かつての三嘉神の企みは、取りも直さず世界への叛逆。古より守られ続けてきた八剣の信仰における、唯一にして最悪の仇敵、それが三嘉神。原初の鬼姫の斬首をもって和睦を結んだ、その選択こそが過ちだったのです。甘かった、根絶やしにすべきだった。その危うい思想諸共に、この世界から消し去るべきだった!」
狂おしいほどの、強い敵意。
それは渦となり、風を生み。刃のように鋭い切れ味で、ミキの白い肌を刺した。
世界への叛逆。
偶像ではない。人の生み出した神なる創造物でもない。八剣という一族が信仰し続けた『絶対正義』を、根本から揺るがす三嘉神の祈り。
打ち倒すべき悪でさえ、或いは超越しているのかも知れない。八剣の正義の対極ではなく、善悪の概念すらも揺るがす絶対悪。
であるならば、確かに。雅の言葉は、雅だけのものではない。
「つまりそれが、今の八剣の総意だと?」
「愚問ですわ。ゆえにこそ、私にお声が掛かったのだから。間もなく、八剣と三鬼は全面戦争を迎えます。血肉の一片も残さない殲滅戦、互いにただでは済まないでしょうが、しかし。お前を欠いた三鬼ならば、それはただの雑草狩り。間違いなく、手抜かりなく、お前さえここで仕留めたならば、勝負は始まる前から終わります。無駄な犠牲を出さず、正義は勝利を掴めるのですわ」
だからこそ、この私が。
高らかに、そう繰り返した八坂 雅は、晒した白刃に手を添え、爪を立てる。
その視線から、チリ君は雅を鷹のようだと評したが。
研ぎ澄まされた爪を上げるその様子は、猛禽類そのものだった。
「貪れ、我が爪、我が牙――『馬頭のひと振り』」
「――――」
その声に呼応するモノが、地の果てからうねりを上げる。
獣の息が。
死したる者たちの無念が。
光の届かない人界を、真に地獄へと塗り替える。
「ここで無惨に朽ちなさい、三鬼 弥生ッ!」




