37
その白雪のような髪は、夜闇すら吸い込むかのようだった。
漂白されたようなその色は、夏においては空虚で、不可思議で、不気味で。
やがて到来した冬においては、無垢で、孤独で、寂しげで。
彼女は変わらない。この一年はもちろん、彼女が彼女として生まれたそのときから、一瞬たりとも変わらない。
弱い自分を生かすため、走り続けてきただけ。
人として。生き物として。当たり前のように。
世の理不尽に、誰かの悪意に、軋む自分自身を見失わないため。生まれ持ったその白髪を、隠すことはしなかった。
特異なそれを。異質なそれを。例え奇異の目に晒され、悪意の迫害に苛まれようと。そこにこそ己はあるのだと、みっともなくも誠実にすがり続けた。
そればかりか、彼女が黒い衣装を好むのは、髪の色を誇張するためのようにさえ思えた。
彼女――三鬼 弥生もまた、自分というものを必死で守り続けている。
俺が俺を大事に思うのと、同じように。
「――何度見ても、おぞましい髪の色ですこと。老婆の方がまだ愛嬌もありますわ」
唾棄するように、雅は吐き捨てた。
刀は抜き身のまま、しかし俺に対する害意は逸れているようだった。
当然の判断である。
そもそもの標的はミキで。そもそもの脅威はミキの方で。
そして、ミキの腰にもまた、見慣れない刀が備えられていたから。
「重蔵――前言撤回ですね、よもや気取られるとは」
「は。面目次第もございません」
空気が張りつめる。雅も校倉も、特段焦燥の色は見せなかったが、その心中は何となく分かる。
ミキの登場は、奴らにとって完全に誤算。
今この時点で相対するならば、最初から、数にものを言わせて叩き伏せるのと変わらない。
「あまり、従者を責めるものではないよ」
芝居がかった口調で、歌い上げるようにミキは言う。
「そこの彼の仕事は完璧だった。私も、私の頼る情報筋も、君たちの動向を掴みきることはできなかった。ああ、だからこそ賞賛を。命が危険に晒された中で、冷静に打てる手を打ったこと、心から感謝し、そして尊敬するよ――チリ君」
何のことはない。ミキを呼び寄せたのは俺自身だ。
もう侮らない、敵と見做したなどと吠えておきながら、見下している時点で不十分だ。
俺のドッペルゲンガーの能力を、奴らがどれほど解明していたかは分からないが。
俺が置き去りにした鞄から、もう一人の俺が携帯電話を取り出し、ミキに連絡を入れる。その可能性に気が付かない程度の警戒心では、あってないようなものだ。
「二対一なんてゴメンだってだけだ。いや、でもミキ、お前が構わないなら、あの二人ともお前に任せて、俺は家に帰りたいんだけど」
「構う構う。君ね、このシチュエーションで定時退社は大物過ぎるだろう。報酬はきちんと払うから。だからチリ君、私を一人にしないでおくれよ」
俺たちは、変わらない。
いや、俺に関して言えば、いつ首が飛ぶか分かったものじゃないこの状況で、今にも脚が震えだしそうなんだが。
でも、ミキがそこにいる。
ミキがそこで、笑っている。
それならまったく問題ない。
俺より強い程度の人間が、何人束になろうとも。ミキが負けるはずがないのだから。
「礼節を重んじて名乗りましょう」
ミヤビと呼ばれた少女が、仕切り直すように声を上げる。
「八坂 宗次が次女、八剣 一臣の許嫁、八坂 雅。機関暗部の一員にして、此度編成された討伐四象の筆頭」
敵と言い放ってはいながらも、俺に対するよりは数倍は丁重に。しかし、慇懃無礼な印象はあえて拭わないままに。八坂 雅は自らをそう名乗った。
「ご丁寧にありがとう、八坂 雅。三鬼家長女、三人目の子、三鬼 弥生――まあ、名乗るまでもないのかも知れないが」
言いながら、ミキは口角を僅かに口角を上げる。
嬉しそうだった。またぞろ、いつか見た映画のような名乗り合いで、興が乗ったのだろう。
「ああ、そうか。暗部所属では、情報も少ないわけだ。名前だけは何度か聞いたこともあったんだが。しかし、いや本当に、私を殺しに来たのが一臣の直属、それもまさか許嫁とは驚いた。彼とは友好的な関係を築けていると、私は信じていたんだがね」
肩をすくめて舌に乗る、それらの言葉とは裏腹に。ミキは、この状況を楽しむように微笑んだ。
「くだらない」
ただ、相手はそうではないらしかった。
「自身は被害者だとでも? 裏切られた犠牲者だとでも? 冗談はおよしなさい。貴方のような悪そのものと、対話を重ねてきたあの方の心労を思えば、微塵も配慮に値しませんわ」
悪そのもの。
鬼とは、鬼。
かつて争い、そして敗北した三鬼という一族への、吐き気を催すほどの差別思想。
幾たびの戦争の果て、平和を向かえたはずのこの世界で。数百年も昔の悪しき概念が、未だ色濃く受け継がれている証左が、目の前に存在している。
「その刀、鬼斬丸ですね。今年の春、八剣家管轄の倉より、何者かによって収奪された宝刀そのもの。やはり貴方が首謀者でしたか」
「さて? 身に覚えのない話だ。元より鬼斬丸は、三鬼に返還されるべきもの、そういう誓約だったはず。真打ちは消失したと騙って、影打ちだけ寄越したのはどこの誰だったのかな」
「盗っ人猛々しいとはこのこと。有力筋の情報から、実行犯が貴方の実兄であったことは周知の事実です。それを殺して奪ったのでしょう。あの兄にしてこの妹あり。我欲のためなら、肉親でさえ平然と手に掛ける。とても同じ人間とは思えない、鬼畜外道極まる行い。よもや三鬼がそこまで醜悪だったとは、さしもの私も想像しておりませんでした」
侮蔑などという言葉で、その態度は言い表せない。
親の仇でも見るような――いや、恐らく。
そういう最悪な事態すら招きかねない災厄を、ねめつけているに相違なかった。
結局のところ、八剣にとっての三鬼は、そういう存在なのだ。
十戒という共通の敵を倒すため、必要悪として関係を保つ必要性も、最早ない。
三鬼 弥生は、死を望まれている。
「ふん。よく語ってくれるじゃないか、ミヤビ嬢。実に好ましいよ。このまま朝まで言葉を紡ぎ合えたなら、とても有意義な時間を過ごすことができそうなんだが」
それでも、ミキ本人に悲壮感はない。
ミヤビの発する殺意も、その瞳に宿る蔑視も、火を見るよりも明らかだろうに。
ミキは、この場の誰より明るく、上機嫌で。本心として、この会合を歓迎している様子だった。
「紡ぎ合う? 語り合おうと? 悪い冗談ですわ。そんな無意味なことを、なぜこの私が」
「無意味? 私と君が言葉を交わすこと、そこに意味がないとなぜ言い切れる?」
「知れたこと。尽くす言葉など何一つ、ハチドリの涙ほどもありませんわ――これから死にゆくお前ごときに」
突き刺すような言葉に、俺の心臓はいちいち反応する。高鳴り、怯えて、思わず一歩後ずさる。
「あのお方の敵を殺す、か」
含むように笑って、ミキが言う。
その様子から、なんとなく。俺にも状況が飲み込めてくる。
ミキの顔に、ほんの少し。悲しさが見えてしまったから。
「そうして君は、いったい何人を殺してきたのだろうか。いったい幾つの死地を、単身駆け抜けてきたのだろうか」
ミキが問う。
一人や二人では決して足るまい。
八剣の側から見た悪を殺し、その死骸を山のように積み上げてきた。
子どものお使い程度で済むはずもない。八坂 雅という年端も行かない少女の、溢れ出る自信の裏打ちとなるもの。そして、それを手にするまでに斬り伏せてきた屍の数。想像を絶する地獄に違いない。
その心情は、俺やミキには分からないだろう。言い聞かされても、満足に理解もできないのだろう。
でも。
そうだとしても。
「問答無用」
ミヤビは瓦礫を踏み締めて、残骸の山を下りてくる。
「私は狩る者、駆逐する者、あらゆる悪の断罪者。幾つ? 何人? そんなものの興味など、とうの昔に消え去りました。貴方であろうと同じですわ、三鬼 弥生。今宵、物言わぬ数字にして差し上げましょう」
話はそこまで。
対話のできない相手と、それでも対話しようなどというミキの悪癖をもってしても、ここが限界だ。
確かに、別に構うことじゃない。
そもそも今回は、そうやって時間を稼ぐ必要だってないのだ。
でも、ああ、ほらやっぱり。
ミキの笑みに、影が落ちている。
「そっち、任せていいか、ミキ」
もちろん、とミキは頷く。
その声から、彼女の心境を推し量ることは、早々に諦めた。
ともあれ、避けられないなら戦わないと。
敵の手の内は不明だが。状況からの推察はできる。
八剣の側近が、弱いはずはないし。
敵にも味方にも高飛車な態度のミヤビが、自分より優秀な部下を抱えるとも考えづらい。
理解する。
渋々ながら、納得する。
――校倉 重蔵。
それが、今このとき、俺が倒すべき相手の名前だと。
「済まないね、チリ君」
ふいの言葉に、ミキの方へ視線が吸い寄せられる。
「ここ最近、私は君に頼りっきりだ、チリ君。本当に、君は強くなった。私なんかよりずっと、ずっと」
「は」
皮肉だと、すぐに分かった。
ミキの顔は、誇らしげでもなく、恩着せがましくもなく。嬉しそうな気配もまるでなくて。
そうだ。
自虐だと、すぐに分かった。
「君ともまたじっくり、話がしたいな。仕事の話じゃなくて、特別なことじゃなくて、そういう小難しい話じゃなくて。ねえ、チリ君。いろんな話をしよう。普通で、ありきたりで、つまらない、ただの人間がするような話をしよう」
「――――」
単なるあがきかも知れない。
結局、無為に終わるかも知れない。
遅かれ早かれ、誰だろうといつかは死ぬ。
抗うなんて無謀なことだ。俺たちの力じゃ無理なことだ。
積み上げたものが、やり続けてきたことが、報われないことなんて、ありふれている。
でも。
でも、だからって。諦めることはもうしない。
それが無意味でないのだと、今の俺にはもう、ちゃんと分かっているから。
無理でも、無茶でも、無謀でも。無駄ではないと信じてる。
「終わったら、あの場所で待ってる」
我ながら、クサい台詞が出たものだと思ったが。
「それは、難しい話だね、チリ君」
ミキが、また嬉しそうだったから。
まあ、いいか。
「私が君の帰りを待っている。今までずっと、そうしてきたように」




