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夏夜の鬼 語り残し  作者: 真鴨子規
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 宣言通り、ひのえは要件だけ話して、さっさと帰っていった。

 要件――とは言っても、実際に意味のある会話だったとは言い難かったが。本当に、顔を見に来ただけのようにも思えた。

 まあ、いいんじゃないだろうか。

 話だけなら、ネットさえ繋がっていれば、俺たちはいつでもできるのだ。

 お互いがどこにいても。何をしていても。

 俺たちは、そういう便利な道具を持っているのだから。

 使い方を、間違えなければそれでいい。

 そうすれば、いつかきっと、また。いつか憧れた家族のように、食卓を囲む機会が、あるかも知れないのだ。

 そういう可能性が、見えているだけで。今の俺には、充分なのだ。

「――さて」

 神社の階段を降りるひのえを見送って。どうしたものかと振り返り、社を見る。

 それはまるで、墓地のようで。

 倒壊した建物は、何かの死骸でもあるようで。

 人の気配なんか、どこにもあるはずがない、場所だったから。

「あの。何やってるんです? ……黒川先輩」

 きゃあ、と。名前を呼ばれた本人が、崩れ落ちた屋根の陰から、飛び上がるように顔を出した。



 ※※※


「い、いつから気付いてたんです?」

「いや、いつも何も、最初から。校門出たあたりで、目も合いましたよね?」

 黒川先輩はうろたえきって、端麗な顔を強ばらせていた。

 長い髪に、忙しなく手櫛を通す。そんな先輩の様子は、イタズラのバレた子どもそのもので、哀れですらあった。

「ごめんなさい、盗み聞きする気はなかったんです」

「はあ」

「本当は、タイミングを見て、挨拶くらいと思ったんですが。全然、そんな雰囲気じゃなくて」

「はあ」

 きちんと謝るあたり、人の良さがにじみ出ている。

 別段、失礼だとか、謝って欲しいとか、そういう意志があるわけではないのだが。

「何してたんですか、っていうか。ミキの生徒会入り、まだ諦めてなかったんですね」

「はい、その。仲のいい妹さんからの進言なら、もしかしてミキさんも意見を変えるかな、なんて」

 ひのえに用事ができたから、ひのえと落ち合う俺を尾行したと。要はそういうことである。

 何度折れてもへこたれない、と言えば美点だろうが。個人的にはそろそろへこたれて欲しい。徒労に終わるのは確定事項で、目に見えているのだから。

「本当に、ごめんなさい。怒って、いますよね?」

「別に」

 きっぱりと否定する。

 別に、としか言いようがない。

 いることは分かっていたし、それはひのえも同じだった。具体的な単語を出さなかったのがいい証拠だ。あの会話を部外者が聞いたところで、肝心なことは何も伝わらないだろう。

「怒って、いないんですか?」

「ええ、全然」

「許してやる代わりに、私に恥ずかしいことをしろだとか、そういうことも?」

「ねぇよ」

 思わず口が悪くなった。

 漫画であればひっくり返っているところだ。

「あ、あの、すみません。何を言ってるんでしょうか、わたし」

 まったくである。冗談にしてもタチが悪い。

 血迷って、ミキのようなことを言わないで欲しい。

「追いかけなくていいんですか? 先輩」

「え?」

「いや、だから」

 なんとなく、名前を呼ぶのが躊躇われて。視線で、ひのえの向かった先を示す。

「ああ――いえ。それは、もう」

 いいんです、と。先輩は苦笑して、社の方へ向き直った。

「私は学校へ戻らないと。探し物のお手伝いをしているところ、抜け出してきてしまったので」

「あー……」

 この人もか。アズマのやつ、相当手広く声を掛けたな。

「まだ見つかっていないなら、もう見つからないんじゃないですかね。宝くじっていったら、要するに紙っぺらでしょう。風に乗って、今頃どこへ行ったことか」

「それはそうですが……あら?」

 先輩はこちらを見て、目をぱちくりさせていた。

 何事かと首を傾げ、そして自分の失言に気付く。

「貴方も、東さんの探し物を手伝っていたのですね」

「……いや、その」

「それでは、一緒に戻りましょうか。折角ですから、少しお話でもしながら」

 何やら嬉しそうに、黒川先輩はニコニコと俺の腕を取って。

 背負った鞄の重量が、一気に倍化したような錯覚に襲われた。



※※※


「都心に家が」

「建つらしいですよ。知りませんけど」

 さしもの黒川先輩も、その額には目を丸くしていた。

 非常に品のいい先輩だが、あくまで一般の中流家庭で育った女子高生、大金に縁のない未成年である。驚くのも無理はないのだろう。

「凄いですね……。池鯉鮒さん、小さい頃やりませんでした? こう、百万円あったら何がしたい? というような」

「ああ、まあ」

 聞いたことはある。したことはない。

 そんな話題で盛り上がる相手などいなかったから。

「私にも記憶があります。お友達は、色んな事を言うんですよ。ペットを飼いたいだとか、習い事をしたいだとか、広いお家に住みたいだとか」

「百万円で家は無理では?」

「子どもですもの。実際に何が買えるとか、そんな現実的な話はしませんよ」

 要するに、額の問題ではないのか。小さな子どもにとって百万円というのは、単に『たくさんのおかね』という認識しかないわけか。

「池鯉鮒さんだったら、なんて答えます?」

「はい?」

「ですから、ええと。もしも今いきなり、大金をぽんっと手渡されたら。何か欲しい物はありますか?」

 欲しいもの。

 あったら嬉しいもの。

 やりたいこと。

 いま、必要な何か。

 聞かれた言葉をこねくり回して、あれこれ角度を変えて、答えを探す。

「……それって」

 空を見上げる。

 端の方に浮かんだ僅かな朱色も、山際へ隠れつつある。頭上はもうほとんどが、藍色に染まっていた。

「答えられなかったら、変なんですかね」

「変ということは、ないと思いますが」

 呆れられただろうか、と思ったが。横目に見た先輩の顔は、そんな風ではなかった。

 それはどこか、寂しそうな顔で。先輩は瞼を伏せていた。

「だって、私も」

 先輩は、言う。

「私も、答えられないから」

 ついまじまじと、先輩を見てしまう。

 注意して聞いていなくても分かるくらい明確に、声の調子が落ちたのだ。

「不思議なんです」

 先輩は顔を伏せたまま、独り言のように続ける。

「あのとき、小さい頃の私は、確かに何かを答えたはずなのに。欲しいもの、なりたい何か。確かに、確かにあったはずなのに」

「……忘れた?」

 ええ、と。

 先輩は、悲しそうに眉尻を下げ、精一杯という風にえくぼを作った。

「人が何かを成し遂げるには、目的が必要です。大きな目標を立て、そこへ至るまでに小さな目標を幾つも立てる。そうして進み続ける過程こそが人生です」

 生徒会長を勤め上げ、文武両道を地で行く、実直そのものの黒川 知世鈴が。本当に、彼女らしい標語を口にする。

「目的がなくても、死ぬことはないでしょう。でも、そんな人生はきっと辛いです。あれになりたい、これが欲しい、長い時間を掛けてでも叶えたい何かが、私たちには必要なのに」

 なのに。

 今の自分には、それがないと、彼女は言う。

 ちぐはぐだ、と思った。

 それはあまりに、黒川 知世鈴らしくない。

 自堕落に、刹那的に、ただその日その日を楽に生きられればそれでいいという、そういう人間ではなく。

 目的を持って、主体的に生きたいと願う彼女が、目的を持っていないという、その矛盾は。

 その食い違いは、まるで――

「ねえ、池鯉鮒さん。貴方はご存知ですか? 貴方は知りませんか?」

「いや、それは」

「私は、何が欲しくて。私は、何になりたくて」

「先輩、それは」

 隣を行く先輩に、腕を掴まれる。

 決して、痛いほどの力はなかったが。

 それでも、目一杯に。すがりつくように、力の限りを尽くして、二度と離すことのないようにと。

「私の夢は、何だったんでしょうか」

 夢。

 将来の、夢。

 欲しい物があって。なりたい何かがあって。叶えたい夢があって。そういう未来への願いがあればこそ、大金だとかチャンスだとか、そういった転機に心躍らせることができるのだ。

 きっとアズマには、そういう物があるのだろう。だからこそいま、あらゆる手を尽くして、掴み取ろうとしているのだ。

 でも。

 だから。

 欲しい物も、なりたい何かも、将来に描く自分の姿も。何も持たない人間にとっては、どんな好機でさえ色褪せて見える。

 色褪せて。目立たなくて。だからいつも、掴み損ねる。

 その結果として残るのは、変わらない毎日だ。退屈で、矮小で、薄っぺらい人生で。何も成し得ない、見窄らしい自分自身だ。

 激しい悲しみはなく。

 激しい喜びもない。

 それを無価値だとは、無意味だとは、一概に言えるものではないが。

 無価値だと。無意味だと。そう考える人間だって、当然のように存在するから。

 そんな人生は耐えられないと。身を投げてしまう人も、いるから。

「忘れているだけですよ、今は」

 努めて、意識的に。俺は、そんな気休めを口にした。

 普段だったら、そんなことは言わない。

 他人に――まして、大して親しくもない相手に。そんな踏み込んだこと、距離感を無視した一言を、俺は言わない。

 だからこそ、言ったのだ。

 恐らくは、世界でただ一人。

 マツイさんではなく、ひのえでもなく、そしてミキでもなく。

 この人だから。

 黒川 知世鈴だからこそ。

 そんな軽口を、俺は素知らぬ顔で吐き出すのだ。

「将来の夢だとか、生きる目的だとか。そりゃあ、あるに越したことはないでしょうけど。でも、そういうのを持つのに、遅いってこともないでしょう。何度見失って、何度持ち替えたって、いいでしょう」

 言いながら、自分の言葉を、自分自身にも照らし合わせる。

 ひのえが言いたかったことは、分かっている。

 選択しなきゃいけないことなんて、いつだって、どこにだって、あるものだから。

「――ごめんなさい。私また、変なことを」

「いえ」

「なんだか急に、怖くなって。弱気になって。ごめんなさい、情けない先輩で」

「いえ、別に」

 先輩の手から、ゆっくりと力が抜けていった。

 するりと、腕から手が離れ。

 服の裾が、摘ままれる。

 枯れ枝のような指が、震えているのが分かった。

「本当、でしょうか」

「ええ」

「また、見つけられるでしょうか」

「ええ――ただ、生きてさえいれば」

 言いながら。腹の底が、熱くなるのを感じていた。

 そして、思い出す。何度でも、思い出す。

 泣きはらしたミキの顔と。

 それを見つめるしかしない青鬼の、醜く潰れた両の目を。

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