33
宣言通り、ひのえは要件だけ話して、さっさと帰っていった。
要件――とは言っても、実際に意味のある会話だったとは言い難かったが。本当に、顔を見に来ただけのようにも思えた。
まあ、いいんじゃないだろうか。
話だけなら、ネットさえ繋がっていれば、俺たちはいつでもできるのだ。
お互いがどこにいても。何をしていても。
俺たちは、そういう便利な道具を持っているのだから。
使い方を、間違えなければそれでいい。
そうすれば、いつかきっと、また。いつか憧れた家族のように、食卓を囲む機会が、あるかも知れないのだ。
そういう可能性が、見えているだけで。今の俺には、充分なのだ。
「――さて」
神社の階段を降りるひのえを見送って。どうしたものかと振り返り、社を見る。
それはまるで、墓地のようで。
倒壊した建物は、何かの死骸でもあるようで。
人の気配なんか、どこにもあるはずがない、場所だったから。
「あの。何やってるんです? ……黒川先輩」
きゃあ、と。名前を呼ばれた本人が、崩れ落ちた屋根の陰から、飛び上がるように顔を出した。
※※※
「い、いつから気付いてたんです?」
「いや、いつも何も、最初から。校門出たあたりで、目も合いましたよね?」
黒川先輩はうろたえきって、端麗な顔を強ばらせていた。
長い髪に、忙しなく手櫛を通す。そんな先輩の様子は、イタズラのバレた子どもそのもので、哀れですらあった。
「ごめんなさい、盗み聞きする気はなかったんです」
「はあ」
「本当は、タイミングを見て、挨拶くらいと思ったんですが。全然、そんな雰囲気じゃなくて」
「はあ」
きちんと謝るあたり、人の良さがにじみ出ている。
別段、失礼だとか、謝って欲しいとか、そういう意志があるわけではないのだが。
「何してたんですか、っていうか。ミキの生徒会入り、まだ諦めてなかったんですね」
「はい、その。仲のいい妹さんからの進言なら、もしかしてミキさんも意見を変えるかな、なんて」
ひのえに用事ができたから、ひのえと落ち合う俺を尾行したと。要はそういうことである。
何度折れてもへこたれない、と言えば美点だろうが。個人的にはそろそろへこたれて欲しい。徒労に終わるのは確定事項で、目に見えているのだから。
「本当に、ごめんなさい。怒って、いますよね?」
「別に」
きっぱりと否定する。
別に、としか言いようがない。
いることは分かっていたし、それはひのえも同じだった。具体的な単語を出さなかったのがいい証拠だ。あの会話を部外者が聞いたところで、肝心なことは何も伝わらないだろう。
「怒って、いないんですか?」
「ええ、全然」
「許してやる代わりに、私に恥ずかしいことをしろだとか、そういうことも?」
「ねぇよ」
思わず口が悪くなった。
漫画であればひっくり返っているところだ。
「あ、あの、すみません。何を言ってるんでしょうか、わたし」
まったくである。冗談にしてもタチが悪い。
血迷って、ミキのようなことを言わないで欲しい。
「追いかけなくていいんですか? 先輩」
「え?」
「いや、だから」
なんとなく、名前を呼ぶのが躊躇われて。視線で、ひのえの向かった先を示す。
「ああ――いえ。それは、もう」
いいんです、と。先輩は苦笑して、社の方へ向き直った。
「私は学校へ戻らないと。探し物のお手伝いをしているところ、抜け出してきてしまったので」
「あー……」
この人もか。アズマのやつ、相当手広く声を掛けたな。
「まだ見つかっていないなら、もう見つからないんじゃないですかね。宝くじっていったら、要するに紙っぺらでしょう。風に乗って、今頃どこへ行ったことか」
「それはそうですが……あら?」
先輩はこちらを見て、目をぱちくりさせていた。
何事かと首を傾げ、そして自分の失言に気付く。
「貴方も、東さんの探し物を手伝っていたのですね」
「……いや、その」
「それでは、一緒に戻りましょうか。折角ですから、少しお話でもしながら」
何やら嬉しそうに、黒川先輩はニコニコと俺の腕を取って。
背負った鞄の重量が、一気に倍化したような錯覚に襲われた。
※※※
「都心に家が」
「建つらしいですよ。知りませんけど」
さしもの黒川先輩も、その額には目を丸くしていた。
非常に品のいい先輩だが、あくまで一般の中流家庭で育った女子高生、大金に縁のない未成年である。驚くのも無理はないのだろう。
「凄いですね……。池鯉鮒さん、小さい頃やりませんでした? こう、百万円あったら何がしたい? というような」
「ああ、まあ」
聞いたことはある。したことはない。
そんな話題で盛り上がる相手などいなかったから。
「私にも記憶があります。お友達は、色んな事を言うんですよ。ペットを飼いたいだとか、習い事をしたいだとか、広いお家に住みたいだとか」
「百万円で家は無理では?」
「子どもですもの。実際に何が買えるとか、そんな現実的な話はしませんよ」
要するに、額の問題ではないのか。小さな子どもにとって百万円というのは、単に『たくさんのおかね』という認識しかないわけか。
「池鯉鮒さんだったら、なんて答えます?」
「はい?」
「ですから、ええと。もしも今いきなり、大金をぽんっと手渡されたら。何か欲しい物はありますか?」
欲しいもの。
あったら嬉しいもの。
やりたいこと。
いま、必要な何か。
聞かれた言葉をこねくり回して、あれこれ角度を変えて、答えを探す。
「……それって」
空を見上げる。
端の方に浮かんだ僅かな朱色も、山際へ隠れつつある。頭上はもうほとんどが、藍色に染まっていた。
「答えられなかったら、変なんですかね」
「変ということは、ないと思いますが」
呆れられただろうか、と思ったが。横目に見た先輩の顔は、そんな風ではなかった。
それはどこか、寂しそうな顔で。先輩は瞼を伏せていた。
「だって、私も」
先輩は、言う。
「私も、答えられないから」
ついまじまじと、先輩を見てしまう。
注意して聞いていなくても分かるくらい明確に、声の調子が落ちたのだ。
「不思議なんです」
先輩は顔を伏せたまま、独り言のように続ける。
「あのとき、小さい頃の私は、確かに何かを答えたはずなのに。欲しいもの、なりたい何か。確かに、確かにあったはずなのに」
「……忘れた?」
ええ、と。
先輩は、悲しそうに眉尻を下げ、精一杯という風にえくぼを作った。
「人が何かを成し遂げるには、目的が必要です。大きな目標を立て、そこへ至るまでに小さな目標を幾つも立てる。そうして進み続ける過程こそが人生です」
生徒会長を勤め上げ、文武両道を地で行く、実直そのものの黒川 知世鈴が。本当に、彼女らしい標語を口にする。
「目的がなくても、死ぬことはないでしょう。でも、そんな人生はきっと辛いです。あれになりたい、これが欲しい、長い時間を掛けてでも叶えたい何かが、私たちには必要なのに」
なのに。
今の自分には、それがないと、彼女は言う。
ちぐはぐだ、と思った。
それはあまりに、黒川 知世鈴らしくない。
自堕落に、刹那的に、ただその日その日を楽に生きられればそれでいいという、そういう人間ではなく。
目的を持って、主体的に生きたいと願う彼女が、目的を持っていないという、その矛盾は。
その食い違いは、まるで――
「ねえ、池鯉鮒さん。貴方はご存知ですか? 貴方は知りませんか?」
「いや、それは」
「私は、何が欲しくて。私は、何になりたくて」
「先輩、それは」
隣を行く先輩に、腕を掴まれる。
決して、痛いほどの力はなかったが。
それでも、目一杯に。すがりつくように、力の限りを尽くして、二度と離すことのないようにと。
「私の夢は、何だったんでしょうか」
夢。
将来の、夢。
欲しい物があって。なりたい何かがあって。叶えたい夢があって。そういう未来への願いがあればこそ、大金だとかチャンスだとか、そういった転機に心躍らせることができるのだ。
きっとアズマには、そういう物があるのだろう。だからこそいま、あらゆる手を尽くして、掴み取ろうとしているのだ。
でも。
だから。
欲しい物も、なりたい何かも、将来に描く自分の姿も。何も持たない人間にとっては、どんな好機でさえ色褪せて見える。
色褪せて。目立たなくて。だからいつも、掴み損ねる。
その結果として残るのは、変わらない毎日だ。退屈で、矮小で、薄っぺらい人生で。何も成し得ない、見窄らしい自分自身だ。
激しい悲しみはなく。
激しい喜びもない。
それを無価値だとは、無意味だとは、一概に言えるものではないが。
無価値だと。無意味だと。そう考える人間だって、当然のように存在するから。
そんな人生は耐えられないと。身を投げてしまう人も、いるから。
「忘れているだけですよ、今は」
努めて、意識的に。俺は、そんな気休めを口にした。
普段だったら、そんなことは言わない。
他人に――まして、大して親しくもない相手に。そんな踏み込んだこと、距離感を無視した一言を、俺は言わない。
だからこそ、言ったのだ。
恐らくは、世界でただ一人。
マツイさんではなく、ひのえでもなく、そしてミキでもなく。
この人だから。
黒川 知世鈴だからこそ。
そんな軽口を、俺は素知らぬ顔で吐き出すのだ。
「将来の夢だとか、生きる目的だとか。そりゃあ、あるに越したことはないでしょうけど。でも、そういうのを持つのに、遅いってこともないでしょう。何度見失って、何度持ち替えたって、いいでしょう」
言いながら、自分の言葉を、自分自身にも照らし合わせる。
ひのえが言いたかったことは、分かっている。
選択しなきゃいけないことなんて、いつだって、どこにだって、あるものだから。
「――ごめんなさい。私また、変なことを」
「いえ」
「なんだか急に、怖くなって。弱気になって。ごめんなさい、情けない先輩で」
「いえ、別に」
先輩の手から、ゆっくりと力が抜けていった。
するりと、腕から手が離れ。
服の裾が、摘ままれる。
枯れ枝のような指が、震えているのが分かった。
「本当、でしょうか」
「ええ」
「また、見つけられるでしょうか」
「ええ――ただ、生きてさえいれば」
言いながら。腹の底が、熱くなるのを感じていた。
そして、思い出す。何度でも、思い出す。
泣きはらしたミキの顔と。
それを見つめるしかしない青鬼の、醜く潰れた両の目を。




