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流石に、そこから連れ立って歩く気にはなれなかった。そこまでの図太さを、俺は生涯手に入れることはないだろう。
久し振りに遭遇したひのえと、その場では一旦別れた。そして落ち合い場所として指定された場所へ、一人で歩くことになった。
その場所は――少しばかり驚いたのだが――、先日ノアールの暴挙によって破壊された、夏神の神社だった。
「この社、工事で壊された訳ではないですね。何かあったんでしょうか」
「さあ。野良猫でも暴れたんだろ」
既に到着していたひのえは、社の残骸を眺めていた。この場所のことは知っていても、つい先日のことは知らなかったようだ。
「お久しぶりです、チリさん。夏休み以来ですね」
紺色のスカートがはためく。
帽子を脱いで、ミキと同じ白髪と黒目が、外界に露出する。
「ああ。怪我、治って良かったな」
「おかげさまで。貴方も、ええ。思ったよりお変わりないようで、安心しました」
少しだけ、言葉が詰まったように聞こえたが。ひのえは相変わらずの無表情でもって一礼した。
背が、伸びたように見える。
あのミキの妹だ。幼い外見を脱するのも、そう遠い未来ではないだろう。
もっとも、腹違いのミキとひのえは、そこまで似ている印象はない。ミキのような妖艶さは、今のひのえからは窺えない。
正直に言えば、安堵した。
あんなのが二人もいてたまるものか。
「間もなく日も落ちるでしょう。できるだけ、手短に話します」
ひのえは真正面に俺を見据える。
「チリさんは聞いていますか? お姉さまの、卒業後について」
ああ、と。意識せずとも声が漏れていた。
ミキが高校を卒業した後のこと。ミキの進路。ミキの――海外留学のこと。
「お姉さまは、貴方に何か、仰っていましたか」
「……確か、そうだな。未練はあるけど、仕方ない、とか。そんなことだったと思う」
歯切れの悪い俺の言葉に、そうですか、と。ひのえは視線を落として応えた。
その件については、俺もあまり深く考えていなかった。
そのあと色々と騒動があったから、というのもあったが。
なにより、実感が湧かなかったのだ。
あのミキが、俺の前からいなくなるという、そんな未来に。
「会ってきたのか、今日は。泊まっていったりは?」
「会うのはこれから。ですが、遅くならずに実家へ発ちます。今日はお休みしましたが、明日には私も、自分の学校へ行かなくてはなりませんので」
こうして話していると、ひのえの中学生という身分もピンとこない。俺が言えたことではないが、同学年の子どもと、上手く交流できているのだろうか。
一緒に遊んで。
一緒に笑って。
年相応に喧嘩したり、夢を見たり、恋をしたり。そういうことが、できているのだろうか。
「寂しいか」
言ってから、やめておけば良かったと後悔した。
そして案の定、恨めしげなひのえの視線が突きつけられる。
ぞっとする。本当に、年下の子どもとは思えない眼力である。夏にもそうやって、何度睨まれたことだろうか。
でも、やっぱり。
怖いというより、これは。子どもの粗相を窘める大人みたいな心境に、きっと近い。
「……正直に言えば、少しだけ」
ひのえは、拗ねるようにそっぽを向いて、呟くように言った。
そんなひのえを見て、俺は。
「――そうか」
いいんじゃないか、と。
それでもいいと、思うのだ。
子どもじみていたっていいだろう。それを恥に思って、唇を噛み締めたくなったって、別に構いはしないだろう。
子どもが子どもらしくあることは、きっと、掛け替えのないことだから。
「でも」
でも。ひのえは強く口にする。
「でも――ですが、それでも。そうだとしても」
それは、自分を律するためだったのか。
ひのえは幾度となく、否定の言葉を繰り返し。そして再び、俺を見た。
「来るべき時がきたと。そう受け取らなくては、なりません」
「――ひのえ?」
違和感が、あった。
言葉だけを辿れば。姉を敬愛する妹が、独り立ちを決意する台詞のようにも聞こえたが。
何か、違う気がした。
根本にある、決定的に食い違う何かを、垣間見たような気がした。
だって、その顔が。
ひのえの顔が、あまりに、あまりにも。
悲壮に満ちて。
思い詰めたように、映ったから。
「貴方は」
ひのえの声が、思考の隙間に入り込んでくる。
「貴方は、どうするのですか」
思い掛けない質問が、頭の中を空転する。
俺が、どうするって。
それは、どういう意味だ。
どうもこうもあるだろうか。
ミキが卒業しても、俺はもう一年は高校生だし。
その後は、進学するなり、就職するなりして。
少し脇道に逸れたが、今度こそ。平々凡々な人生を、歩き始めるんだと。
それが、当たり前だと思った。
昔からそう思ってたし、今だって変わりないと、変わらないはずだと。
でも。
でも、同時に。
それは、何かが違うと。そんな風に、思ってしまう自分も、確かに存在した。
そもそも。
そもそもにして、俺には。
最初から、将来の夢とか、進みたい道とか、そんなものを、持ち合わせてなんていなかったんだから。
「そんなに、困らせるつもりはなかったのですが」
すみません、と。ひのえは頭を下げた。
見惚れるような、品のあるお辞儀で。淀みのない所作で。本当に、怪我の心配はもうないのだろうと、さらに安心を重ねた。
「仮に貴方が、どのような選択をしたとしても、いいのです。私に、貴方を否定する権利などないのですから」
それは、そうだが。
俺には、ひのえの言わんとしているところが分からない。
選択? 選択とは何だ?
俺はいったい、どんな選択を迫られているというのか?
「ただ、チリさん」
困惑する心中を、ひのえが察した気配はなく。
遠慮も気後れも何もなく。ひのえはその性格のままに、清く、静かに、ひたむきに。俺と目を合わせてくる。
「双町で、私がお願いしたこと、覚えていますか?」
「……ああ」
「忘れないでくださいね。ずっと、ずっと。せめて――」
一瞬だけ。
見間違いではないかと、思えてしまうくらい、少しだけ。
ひのえは、泣きそうな顔で、微笑んだ。
「せめて貴方が、貴方であるうちは」
「――――」
目の前のひのえと、記憶の中のミキが。そのとき初めて、重なって見えた。




