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緩く見上げた先にあった、人の影。
それは、黒いジャージ姿の男だった。
路地を見下ろすアパートの屋上、高さにしておよそ十メートル弱といった位置で。男は、手にした何かを頬張っていた。
「――誰だ?」
「知らんよ。吾輩にも覚えはない。だがよそ者だろうよ。この土地の匂いが感じられんでな」
土地の匂い。確かに、未だ目を開かない黒猫だから。そういう判別の仕方ができても、おかしくはないのだろうが。
だけど。
もしもあの男が、俺と黒猫の両者を見ているのだとしたら。
人と、人の目には映らない擬獣を、視界に収めているのだとしたら。
「なんだよ。せっかく静かに食ってたのに」
微かな声と口の動きで、男の発言を認識する。
男はふらりと一歩踏み出して、自由落下を開始する。
飛び降りた、というより、本当にただ『移動した』だけのようだったから。
すとんと、呆気なく地面に降り立ったその男を。俺は、なんでもなく受け入れていた。
「俺よぉ。動物とか、ガキの頃から大好きでよぉ」
ジャージの男は、気怠げに近付いてくる。徐々に輪郭が露わになって、その容姿を確認できるようになる。
「今でもよく行くんだよな、動物園とか。牧場とかもオススメなんだぜ、ふれあいができるところなんてよっぽど夢の国だ。んで、動物の出てくる番組とかも好きでさ。クソ不味いジャンクフード食いながら録画したヤツ見んのが、週末の楽しみなんだよ」
言いながら、男は実際にハンバーガーにかぶり付く。
嗜好から分かるように、二十代前半といった若さだった。長めの黒髪を軽く後ろに流して固めた、ロックなバンドでもやっていそうな出で立ちである。
「けどよぉ、許せねぇもんがあって」
男は、ハンバーガーの最後のひと口を飲み込んだあと、苛立たしげに包み紙を握り潰す。
「アテレコってぇのか? あのゴミみたく寒い演出。人間が、勝手に動物の代弁してんじゃねぇよってハナシ。なあ、分かるか? あれ、マジで胸糞悪くなるんだよ」
そのまま手をポケットに突っ込んで、男は俺の二メートルほど手前で立ち止まった。
「動物が、喋ってんじゃねぇよ、人間風情の言葉をよぉ」
その視線は、紛れもなく。路地に鎮座した黒猫をも、捉えていた。
「なんぞや、小童。そりゃあ、吾輩に文句言っとんのか」
「他に何があるんだよ、モドキヤロー。あぁ、そんだから、てめぇらで相打ちにでもなったら得だと思って、先にメシ食っちまおうって見てたのによぉ。べらべらべらべら意味ねぇ会話始めやがって、夜が明けちまうだろうが、クソ野郎ども!」
ほとんど恫喝みたいな語調で、男は凄みを利かせた。一切の淀みもない、慣れた動作のように見えた。
いや、まあ。
その苛立ちには大いに同情するが、それで俺まで怒られるのは納得がいかない。明日にも普通に学校があるというのに、わざわざ仕事で出張ってきたのだ。むしろ被害者は俺の方だろう。
「おらガキ。大人舐め腐ったツラのガキ。てめぇだろ、三鬼 弥生の下って奴はよ」
――知らない人間からその名前を聞くたび、警鐘が心の中で鳴り響く。数少ない経験が語る。予感と言うにはあからさま過ぎるほどの、それは凶兆であったからだ。
「その猫野郎の処分、てめぇの仕事だろうが」
さっさと片づけろよ、などと男は宣う。俺より若干上背なのをいいことに、頑張って見下すポーズを見せている。
メンツが大事な人種なのだろう。時折、ミキのお使いでやってくる中にそういう奴もいるから、なんとなく判別はつく。アレは確か、東堂組、とかなんとかいったろうか。特に関わりはないのだが、すれ違うときには気を遣う。
「まあ待てよ小童ども。ここ最近野良猫の迷惑行為が顕著であるから処分せよとか行政が騒いでいるが、もとを正せばペットを捨てた人間が悪いんであってな」
だからどうした。と言わんばかりの視線が、双方向から黒猫を突き刺す。
おおう、と黒猫は身じろぎする。髭はしょんぼりと下を向いてしまった。
「――で、結局」
黒猫が意気消沈しようとも、ざまあねぇなとしか思わない俺だから。
「アンタは、じゃあ、何しに来たんだよ」
構わず、現れた男の真意を問う。
現れたこと自体はどうでもいい。
それはそいつの自由だし、どんな目的でどんな行動を取ろうと自由だ。俺が口を挟む余地はないし、否定する道理もありはしない。
でも。いや、だからこそ。
その『自由』が、俺に影響を与えるものならば。
俺がどう反応するかも、『自由』なはずだろう。
「――しょうもねぇ」
男が、白けたようにそう言って。
真横につき伸ばした右手で、中空から何かを掴み取った。
「『機関』の先輩からの教導だぜ、新入りのガキ。仕事はよぉ、なるだけ手早く片付けな」
肉眼でそれを見るのは、思えば初めてだった。
フィクションの産物とさえ言ってしまえたかも知れない。それが、平和ボケの結果だといえば、なるほどそのとおりなのだろうが。
バレル、グリップ、そしてトリガー。種類なんか知ったことじゃないが。
それは紛れもなく、拳銃だった。
「別にいいんだぜ、俺がやっても。それじゃあテメェの立つ瀬がないだろうよって、気を遣ってやってんのが分からねぇか」
男は、手にした拳銃を構え、銃口を黒猫へと向けた。
かろうじて分かる輪郭は硬質。持ち上げ支える全身の動きから、鉄の重厚さが見て取れた。玩具ではない、本物――いや。
俺は知っている。それが、本物以上に厄介な代物であることを。
界装具。俺が持ってる刀と同じ、尋常ならざる異能の矛。心の欠片、心の影。歪んだ願いの、成れの果て。
「共倒れがどうこうとか言ってなかったか、さっき」
「言葉のアヤだよ、いちいちうっせえな。そもそも、テメェの仕事が遅えのが悪いんだろうがよ。イライラさせんなよガキが」
せっつかれて、黒猫の顔を見上げる。
男の態度は正直面白くないが、言ってること自体は間違いでもない。擬獣退治は俺の仕事であり。機関の人間だと言うなら、この男は俺の仲間でもあるはずだ。少なくとも、そういう立場、ということになっているはずだ。
「見え透いた嘘だよなぁ、小童」
黒猫が、俺に向けてそう語りかけた。
表情は分からない。
今しがた、殺す殺されるの標的として語られていた黒猫自身が、どう感じていたかは分からないが。
「狙いが定まっておらん。吾輩の急所の遥か外よ。ましてこの距離とは言え、射線が丸見えな銃弾を喰らうほど、吾輩も鈍重極まってはおらんよ」
だから、つまり。
分かるよな、と。黒猫は卑しく笑った。
「殺すべきは、吾輩か、それとも――」
「喋んなっつってんのによぉ。命乞いにしてはハラワタにくるぜクソッタレが。なあガキ。俺が史上最高にキレた演出ってやつを教えてやろうか」
男は、忌々しげに舌を打って、やめればいいのに話し始める。
「殺傷処分される大量のペット、あぁ可愛そうにな。せっかく産まれた命だ、生き長らえられるもんなら生きていたい。死にたくない、お願い殺さないで。連中もそう思うかも知れねぇよな。でもよぉ」
見開いた瞳を震わせて、眼球を血走らせて。男は、黒い空に吠え上げる。
「それに人語くっつけて、さも連中が実際に訴えかけてるようなポスター! コマーシャル! ご高説! あぁぁァァァゴミが! クソカスどもが! デカくてブ厚い顔してよぉ! てめぇらが気にしてんのは、てめぇらが気持ちよく弱者の味方気取ってられるかだけだろうが――!」
引き金が引かれ。怒声に打ち出されるように、銃弾が放たれた。
「――っ!」
鼓膜に衝撃を感じながら、辛うじてその弾道を見る。
放たれた弾丸――いや、弾丸の形をした透明な何かは、黒猫に当たることなく通り過ぎた。
黒猫は、空に。いや。
四足で立ち、三階建の家の屋根へと、飛び乗っていた。
双眼が見開かれ、夜空の星のごとく、赤銅色に輝いている。
「ぼっとしてんじゃねぇぞ、ガキ!」
「決断するがいい、小童」
サラウンドで話し掛けられ、頭の芯に熱が入る。
「死にたくねぇんだったらよぉ――」
「殺すべきは、彼方か、此方か」
なんだ、こいつら。
どいつもこいつも、人のやり方にケチをつけやがる。
たかが他人の分際で、俺に指図をしてきやがる。
何だお前ら。
なんなんだ。
一体全体、何様だ。
「は」
――俺は俺だ。
俺の行動、そこに伴う結果と責任。ひと欠片の例外なく、それは俺自身が選び取り、俺自身が背負うものだ。
他の誰にも、渡しはしない。
「さっさと、黒猫を殺しやがれ!」
「やられる前にやらんと、流石に死ぬぞ」
どちらを?
黒猫か、ジャージ男か、どちらを殺すか選べと、こいつらはそう言っているのか?
そんな面倒臭いことを、こいつらはほざいているのか。
馬鹿げてる。
馬鹿げてる。
本当にバカげてる。
なんで、こいつら、どっちにしても。
どっちかは助かるだなんて、身勝手な思い違いをしてやがるのか?
「テメェ――!」
刀を向けた先は、男の方。
男が、鬼の形相で睨んでくる。下げていた銃口を、一瞬でこちらの眉間に向けてくる。
けれど、その実。
「――小童よ」
黒猫の方へ向けても、『もう一人の』俺が駆けていた。
右手には鈍器。
名を知らない擬獣にとっては、何モノも斬り裂けない鉄塊だが、まあ。
頭蓋をぶち砕くくらいは、たぶんきっと、できるから。
あと一息。
半歩の半分、あるいはそれ以下。
最後の隙間に、最期になるかも知れない言葉を、それぞれが口にして――
「『機関』を、敵に回すつもりかよ!」
「『三鬼 弥生』に、伝言があるのだが」
銃声と衝撃が弾ける、その狭間で。
黒い刃は、男の喉元を貫く。
「……いや、待てよ」
至近距離で交わして、理解した。
男の銃が放ったのは、水弾だった。人間の骨くらいは軽く貫通しそうな水圧で打ち出される――口に出すと笑ってしまいそうだが。
つまり、水鉄砲。
「子どもに売れないだろ、それじゃあ」
肩を掴み、黒い刀身を引き抜くと。
空気の抜けたような呻き音が、空いた穴から漏れて出た。