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「やあチリ君。待ち焦がれていたよ」
と。ミキはニヤリと笑って迎えてきた。
いつにも増して、悪巧みでもしていそうな顔だった。嫌な予感しかしない。
そして、なぜか。黒い部屋にいたミキは、いつものソファの上ではなく。その奥の扉から顔だけ出して、おいでおいでと手招きしていた。
「え、嫌なんだけど」
「女性の自室に入るくらい慣れたものだろう? プレイボーイ」
「いや俺マツイさんを女性と認識してないから」
にやり、とミキが笑ったのを見て、失言に気がつく。目聡いというか、耳聡い奴だ、どうにも。
「まあ、別に何をするでもないよ。若干早いがね、こっちで一緒に夕食でもどうかと誘っているんだよ、チリ君」
「ええ……」
かなり、というかものすごく、気乗りしない。夏からこっち、ミキと食事したのは二度三度あったが、マツイさんとするような気楽なものではなかったのだから。座った瞬間に帰りたくなること請け合いだ。
とは言え、まあ。
夏よりも難易度が下がっているのは、事実ではあったのだが。
「給料から天引きとかじゃないだろうな」
「いやチリ君。私がそういうケチなことをする性格でないことくらい、とっくに掴んでいるだろう」
「ケチだからじゃなくて、俺を困らせる目的でならやるだろ、お前なら」
「ふん、理解が深くて助かるがね。今回は普通にご馳走するさ、だからほら」
いらっしゃい、と言うミキに、しぶしぶながらも従うことにした。
「ああ、夕食ってそれか」
ミキの部屋に入る。相変わらず、まるで年相応の女子のような、可愛らしい部屋だったのだが。食卓の上に、見覚えのある紙袋が乗っていて、大体の事情は察した。
「そうとも、コメヤのスパイシーツナロールさ!」
俳優のように高らかに、ミキは自分の好物の到来を宣言した。
ああ、だからいつもよりテンション一割増しだったんだな、と納得した。
「……さっきの男の手土産か」
「そういうことさ。彼もなかなか義理堅いよね。このご時世、礼くらいならメール一本で済ませてしまうようなところ、こんな遠方まで、しかも土産物まで用意して、訪ねてきたわけだから。ああ、名前はアンリという。東堂 アンリ」
それが、先ほど玄関先で出会した男の名前、らしい。
「義理って、なんか恩でも売ったのかよ。大丈夫か? お前が言ってたことだろ、頭にヤの付く自由業の男だって」
「そんな言い方をした覚えはないが、まあ事実だよ。君や普通の人には、あまり関わらないことをお勧めするがね。私としてはそうもいかない」
食卓の手前側に座りながら、ミキはうきうきと話し始める。
服装はいつも通り黒いドレスで、たっぷりとしたスカートは邪魔に見えたが。そこは慣れているのだろう、器用に折り畳んで正座しているようだった。
「蛇の道は蛇という。一面的な情報から汲み取れるのは、一面的な事実だけだ。どんな事柄にも裏はあり、表からは垣間見ることさえ叶わないものだ。兎角、彼の視野はなかなかに広い。その意見は時に、下手な情報屋よりも頼りになることがある」
君と同じようにね、と、ミキは雑に持ち上げてくる。
そういうのはやめろと、もう言い飽きるほど言った。気持ち悪いだけ、むず痒いだけなんだから。
「先の質問に答えよう。君にも無関係ではない」
ミキの対面に座り、ミキの視線を真正面に受ける。
眼差しは真剣で。機関関連か、と予想を立てる。
「君にはどこまで話したかな。件の十戒退治のおり、彼の所属する東堂組が、この街に入ってきた訳だが」
「その話は、少し聞いた気がする」
「それを主導したのが私の兄だ」
なに、と思わず聞き返す。
「――三鬼 建辰か?」
その名前を口にすると、嫌な味が口の中に広がった。
覚えている。
その名前を、俺はよく覚えている。
その感触を、未だに忘れられないでいるから。
「そう。我が兄建辰は東堂組の若頭として、組の中で相当な発言力を獲得していた。目的は、眩暈がするほど明白なのだが、私の妨害だ。この夏臥美町に自ら乗り込むという計画の最後の仕上げ、あるいは牽制、あるいは実験として、私の隙をついて手駒を送り込んでいた」
瞼を伏せ、ミキは語る。
そこにあるのは、後悔の念。兄に対する憎しみよりも、犠牲を出してしまった事実に対する悲しみの方が強い。
――その根幹に、過去の自分の不始末があるからこそ。
「……別に、その辺の話はしなくていい」
気遣いではないが。
十戒――三嘉神 朔弥の討伐のさなか、五人の不審死を許してしまったことは、既に聞かされていたから。改めて、その懺悔を聞くこともないだろうと思って、そう口にした。
「つまり身内の後片付けをやった、って話か」
「そう、そうだね、そういうことになる。……兄は、そういう目的で動いていたから。それ以外のあらゆる犠牲を厭わなかった。誰が死に、誰が狂い、誰が堕ちようが、手段を選ぼうとしなかった。その結末として――ああ、喜んでくれチリ君。東堂組はもう終わりだ。先日、大黒柱たる組長が、闘病の末に息を引き取ったらしい。一般市民としてはひと安心、といったところだ」
ミキは、わざと芝居がかった風にそう言って、苦々しくも笑って見せた。
「でも、あの男――アンリ? は、お前に感謝してきたんだろ」
「だから言ったろう、義理堅いと。そんな筋合いではないと私は思ったが、彼にとっては違ったらしい」
どうだろう――少し話をしただけのあの男の、強く鋭い視線を思い出す。
義理人情の世界、ではあるが。多分あの男は、そういう画一的なルールには縛られてはいないと、そんな気がした。
学校の連中のような奇行とも、少し違う。
よくは分からないが。東堂 アンリというあの男は、何か別の、自分だけの信念に従って、動いているような気がした。
「それはまあ、そうかも知れないが」
俺の印象を聞いて、ミキは嬉しそうに首を傾げた。
「そもそも彼が東堂に組みしていたのは、渡世の義理だと言っていたからね。むしろ彼ほど、義理や貸し借りを重視する人間は稀なのかも知れない」
それを、己のルールと課しているんじゃないか、と。
そんな風に評するミキを。俺は、何とも言えない微妙な心地で、眺めていた。




