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夏夜の鬼 語り残し  作者: 真鴨子規
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 件のオンボロアパートに到着し、ミキの居室へと続く扉に手をかける、直前。その扉が、勝手にゆっくりと開き始めた。

 反射的に後ずさるが、このアパートの廊下にそこまでの余剰空間はない。半歩も下がれば鉄柵にぶつかってしまう。

 そのまま仰け反れば、二階から一階まで直通落下コースである。現代の建築基準では普通にアウトなのではなかろうか。

 仕方なしに横に逃げる。それで扉と鉄柵に挟まれることなく、なんとか事なきを得た。

 というか、扉を開けた人間は、外に俺がいたことに気付いていたのだろう。でなければ、最初の段階で鼻っ柱が扉と衝突していてもおかしくなかったのだから。

 ぬっ、と。扉の裏から、その男は姿を現した。俺よりもやや上背の、若いが威圧的な男だった。

 艶のない長髪を後ろで束ねた、まるで時代劇の浪人みたいな出で立ち。一見して痩躯だが、真っ黒なトレンチコートの胸元を押し上げる、分厚い胸板が見て取れた。よく見れば腕周りもがっちりと太く、格闘家のような迫力があった。

 服装だけなら、そこら辺を歩いているサラリーマンの様相だったが。くたびれたところのない品の良さが、逆に違和感を与えてくる。中身は全く別物だと、否応なく思い知らされる。

 というか。二、三人くらい殺してそうな人相だ。

「……お前か」

 その男は俺を見て、重苦しい声を発した。

 どうも、と返す。残念ながら顔見知りである。名前は知らないし、まともに話したこともないが、向こうも顔は覚えていたらしい。

「腹は減っているか?」

「……は?」

「いや。気にするな」

 渋い声で、よく分からないことを言ってから。男は、挨拶のつもりなのか片手を上げながら、階段へと向かった。

 こつこつと、革靴が木の床を叩く。その音が遠のいていくにつれ汗が滲んだ。肩が妙に強ばっていたことに、徐々に気付き始めた。

 こうしてすれ違うのは、確か三度目くらいだったか。

 まだまだ慣れる気配はない。耐性は付きつつあるが、どうも向こうの気配が、回を増すごとに険しくなっているような、そんな気がする。

 あまり関わりたくはない。ミキの言葉を信じるならば、まともな職業の人間ではないのだ、あれは。

 まして、単なるミキの客ではない。ただの客人を、ミキがこの家にまで招き入れることはありえない。

 何かが特殊なのだ、あの男は。それを裏打ちするようあの態度が、あまりにはまりすぎているから。俺の中の警戒心が解かれるのに、両の手で数え足りる程度の邂逅では不足だと、そういうことなのだろう。

「おい」

 階段を下りきり、この場を立ち去ろうとしていた男が。突如として振り返って、俺の方を見上げた。

 呆然と背中を見送っていたせいで、思わず目が合ってしまう。

 こちらが見下ろす形であるのに、立場は全くの逆であるように思えた。

「名前を聞いていなかった」

 教えるつもりもなかったからな。

 などと悪態をつく気分にもならない。その視線が、張られた声が、拒否権などないと語っていた。

「池鯉鮒」

「チリフ?」

「池に、魚のコイとフナで池鯉鮒」

「――東海道の地名姓か」

 答えない。というか、地名姓なのか、これ。俺も知らなかった。

「知ってるか? 春には馬市が立ったらしい。陰暦で言えば夏で、当時は『池鯉鮒ちりゅう主夏馬市しゅかうまいち』と呼ばれていたそうだ」

「……夏の馬?」

「歴史深い名前ということだ。大事にするといい」

「はあ。どうも」

 愛想笑いの一つも浮かべず、男は再び背を向け、帰っていった。

 いや、名前を聞かれたから、次は向こうが名乗る番かと思ったんだが。俺の名前だけ聞いて、あっちは満足したらしい。

 名乗るほどの者ではない、ではなく。お前なんかに名乗る価値はない、と言われたような気がした。

 もちろん、俺の方から引き止めて、名前を聞き出すというのも、やるだけはやれた話だが。

 そんな高度な社交性を、この俺が持ち合わせているはずもない。あの程度で会話が終わって、むしろほっとしているくらいだ。妥当な結末だと言えるだろう。

 ただ、予感はある。

 それは、ひょっとすれば、という勘で。

 あの男とは、付き合いが長引きそうだと。

 そんな風に、思っていた。

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