21
日は徐々に傾きかけていた。
季節は冬で、気温は例年よりもやや下回って推移していた。
雪こそ降らないが、それでも空は雲に覆われ、肌寒い風も強く吹く。
そんな屋外で昼寝などしようものなら、間違いなく風邪をひくだろうな――などと。考えたことは覚えている。
それを最後に、意識は落ちた。
苦境を乗り越えたことで緊張の糸が切れ、全身に回っていた疲労が一気に猛威を振るったのだろう。痛みも不快感も押し退けて、あっさりと眠りについてしまった――らしい。
そういう認識を取り戻すと同時に、頭は目覚めへと向かっていた。
痛痒に身を捩り、風を受けた手足が痛む。
そしてなぜか、暖かく柔らかい感触が、頭の下に敷かれていることに気が付いた。
「――おはようございます、池鯉鮒さん」
良かった、と。
流水のように垂れた長い髪を掬いながら、黒川 知世鈴は安堵の息を吐いた。
「――なんですか、これ」
よく分からなかったので、よく分からない問いを振る。
仰向けになった俺の目の前では、黒川先輩の顔が、こちらをまっすぐ見下ろしていた。
それは、先ほどの――どれほど時間が経ったのかは定かではないが――ノアールとは、また違った角度だった。
そして、その表情は。彼女の顔は。
見慣れない、名状しがたい優しさに、満ちているような気がした。
「眠っているようでしたから、起きてくれるまで待とうかと。どのみち、貴方を背負って市街に戻るのは、私には難しそうだったので」
分かる。それは分かる。
こんな状況で寝落ちしたのは俺の落ち度だし。
細身とは言え、先輩よりは確実に重い俺を背負って、移動なんかできなかっただろうとは思う。
思うけど。
それでどうして、膝枕などされる羽目になるのだろう。
別に、一人で帰ってしまっても良かったのに。
俺の頭は、固く湿った土でも、石畳の瓦礫でもなく、黒川先輩の太ももに乗っかっていた。
「すみません、すぐ起きますんで」
「まあまあ。もう少しくらい、このままでいませんか。お疲れだったんでしょう?」
「いや、そういうわけには」
寝心地は良くとも、居心地は最悪だった。
手を動かそうとして、身体に自分の上着が掛けられていることにも気づく。おかげで身体もさほど冷えずに済んだという、もう至れり尽くせりな状況だ。
気が遠くなる。俺は今度から、どんな顔でこの人と会えばいいのだ。
「そうですね、せめてものお礼、と言いますか。それに、私も貴重な体験ができているので、お気になさらず」
黒川先輩の手のひらが、俺の額を覆う。寒空の下にあって、その手はじんわりとした温もりを帯びていた。
それは確かに、心地の良いものかも知れないが。
あまりに近い距離は、俺に警笛を鳴らさせる。
「膝枕なんて、生まれて初めてしましたよ、私。しかも相手が、年下の男の子だとか、胸が詰まる思いです。まるで恋愛小説みたいですね」
まるで夢見る少女のように、先輩は頬を赤らめる。
いや、俺だって初めてだけど、こんなの。どちらかというと、スポ魂漫画に差し込まれる要らない恋愛描写みたいだと思った。
要するに、蛇足。
「うん、だから、憧れというか。前からちょっと、やってみたかったので。どうぞお構いなく」
「おはようございます」
ほとんど飛び退くように身体を起こして、立ち上がる。
一瞬立ち眩んで、よろめきながらも直立に成功した。
意識を全身に、そして周囲へと向ける。日差しは傾きかけ、その影に紛れる何かの気配もない。辺りにはただ、自然の静寂だけが漂っていた。
振り返ろうとしたとき、両肩に何かが触れた。手繰り寄せてみたそれは、着慣れない俺の上着だった。
「あの――」
「ありがとうございました」
俺の言葉を遮るように、黒川先輩はそう言った。
振り向いた先には、深々とお辞儀をする先輩の姿があった。
「とても、怖かったです。もうだめだと、死んじゃうと思いました。だから、ありがとう。助けてくれて、本当に、ありがとうございました」
何を、思い出したのか。
黒川先輩は、その瞳に涙を溜めながら、何度となく、お礼の言葉を口にした。
「……別に、俺は」
――やってしまった、と思った。
だから、嫌だったんだ。
この人と会うのは、近しくなるのは、だから嫌だったんだ。
どうしても。どれだけ時間が経とうとも。
はにかんで、ぎこちなく笑う、あの同級生の顔が、今に至っても離れてくれない。
「人間、ままならないものです」
午後になって、さらに冷たさの増した風が、さっと通り抜けていく。
黒川先輩の長い髪が、柔らかな布のようにはためく。
「走ることには自信があったのですが……そう、体力だって、引退したといっても、まだ衰えるには早いと、そう思っていたのですが。ダメでしたね。心が乱れて、あっという間にバテちゃいました」
僅かに浮かんだ涙を、指先で拭って。先輩は、秘め事を打ち明けるかのように、唇を開いた。
「頼りがいのある先輩でいます、なんて。どうか忘れてください。恥ずかしくて死んでしまいそう」
「いや、アンタそれは――」
「この歳になって、異性に、年下の男の子に、お姫様だっこですよ。もう、本当に――」
涙が溢れるのを、先輩は、笑ってごまかしているようだったが。そうしているうちに、くすくすという笑い声が、止まらなくなった様子だった。
「もう、なんでしょう、何なんでしょう。どうでもよくなっちゃいました、色々と」
なってしまった、らしい。色々と。
それは多分、俺に相談したかったことだとか。そのあと、訳の分からない連中に追いかけられたことだとか。そういう意味だったのだろうけれど。
そんなことを、俺の前で、言って欲しくはなかった。
事実として、俺は、その台詞で。
したくない連想を、してしまったから。
「さて、それじゃあ帰りませんか? まだ少し怖いですが、町もきっと元に戻っていますよ」
新しい用事もできたことだし――と。
先輩が零した言葉の意味を掴みかねて、質問する。
「あれです、ほら。すっかり倒壊してしまってるじゃないですか、社が。多分ですけど、つい最近のことですよ、これ」
よく分からない残骸と化した神社を指差して、先輩は言った。
倒壊している、というか。
倒壊させた、というか。
「きっとまだ、役所も把握していないでしょう。伝えてあげた方がいいと思うんです」
「律儀な……。元々寂れた神社でしょう。怪我人が出たわけでも、出るかも知れない訳もなし。わざわざ伝えるほどのことですかね」
大事なことですよと、先輩に窘められる。
何が面白いのか、時折またくすくすと、思い出し笑いを差し込みながら。
「今は寂れていますが、この町にとっては大切な場所なんですよ。古くは平安の時代から、この土地の守り神を奉っていたのだと」
「守り神……?」
「土地神信仰をご存じありませんか? 住民を災厄から守護する神、そして死した人々の魂が最初に拠り所とする場所。町おこし……というか、駅周りの開発に予算が回されて、修繕が後回しにされていましたが。随分前から、建て直しの話は出ていたんですよ」
知らない話だ。土地神とかいう不穏な言葉も、修繕なんて案件も。普通に暮らしていく上では知る機会さえないことだろうに、こういう手合いの知識欲には頭が下がる。
「なあんだ。じゃああの話に、貴方は関わってはいなかったんですね」
「ん? 何がです?」
「いえ、別に」
いたずらっぽく笑って、黒川先輩は踊るようにきびすを返した。
その物言いが、もしや俺の真似なのかと思い至ったのは、この少し後のことである。
「帰りましょう、池鯉鮒さん」
「は」
「今夜から、また少し冷え込むらしいですよ。早く帰らないと、風邪をひいてしまいます」
いや。
それはそうだし。その通りなんだけど。
いま、あんた、なんて言った?
「どうしました? 池鯉鮒さん。私、何かおかしなことを?」
「いや、……いや」
おかしくない。
何もおかしくない。
それが、だから――だからこそ。
「いいや、何も。帰りましょう、先輩」
こんなにも、おかしい。




