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夏夜の鬼 語り残し  作者: 真鴨子規
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 ぼやけた頭で、空を見上げる。吐き出した白い靄が、断続的に立ち上って消えていく。

 雨の気配はないが、ぶ厚い雲で太陽は遠い。しばらくはこんな天気が続いて、来週には雪が降るかも知れない、という予報を今朝聞いた。そんなことを、脈絡もなく思い出した。

 手足が重い。

 首が動かない。

 空を見上げているというか、真っ直ぐ前を向いた先に空があるのだ。

 仰向けに倒れている。石やら社の瓦礫やらが背中に刺さって痛むが、気にならない。気にする元気も湧いてこない。

 生きている。

 まだ生きている。

 呼吸は荒く、全身鈍い痛で溢れていたが、それでも意識は残ってる。

 ただ、当然の流れとして。

 俺は、ノアールという少女にボコボコにされ、飽きるほど殴られて、こうしてノックダウンしたのだった。

「――色々あったわけだ」

 俺の頭のすぐ隣で、ノアールは呟いた。

 ノアールは膝を抱え、物憂げにこちらを眺めていた。当然だと言わんばかりに無傷で、疲労の色さえ感じさせない。

「力に振り回されすぎ。力に遠慮しすぎ。刀の扱いもまだ甘い。けど夏のお前と比べたら、目を疑うほどに変化した。兎から猫くらいには」

「種別変わってんじゃねえか」

 思わずツッコんで、そして無様にも咳き込んだ。舌も顎も痺れ、口の中はあちこちが切れ、血の味がして、肺には嫌な圧迫感が沈殿している。

 だから、できれば喋りたくもなかったのだが、ノアールはお構いなしだった。

 言葉を咀嚼してみれば、まるで別物だと言いたかったのだろうが。それならそれでもう少し、上手い比喩ができたのではないか。

「褒めてるんだよ。潜在能力は相当だ、延びしろは大きい。鍛錬すれば強くなるよ。オレが保証する」

「今どき鍛錬って。青春漫画じゃあるまいし」

 ノアールは大袈裟に溜息をついて、俺が途中で脱ぎ捨てた上着を顔に被せてきた。

 やめろ。いま口を塞がれたら普通に死ぬ。手でどかすのも億劫だってのに。

「まあ。どこまで行ってもお前は、剣士や戦士なんてものにはならないんだろうな」

「当たり前だ。俺はそういう、時代錯誤した連中みたいには一生ならない」

 俺たちは。俺たちみたいな異能者は、紛れもない異端者だが。

 だからといって心まで、異端に染まることはない。

 普通に生きて、普通にあって。誰に咎める権利があるというのか。

「矛盾してるよ。そんなので、ミキの力になりたいだなんて」

「してない。俺はずっとこのままで、当たり前の人間みたいなことを言いながら、邪魔する奴らを退かすだけ。明確な殺意があるなら、それは正当防衛だからな」

 矛盾。そうかも知れないけど。

 結局のところ、俺は俺の基準、俺の都合で考えるしかない。

 何が正しくて。何が間違いなのか。

 明確なルールが、法がある事柄なら、それに従えばいいが。

 そうでない、個人の判断に委ねられる問題なら。俺は俺を貫くだけ。

 何を願い。何を正しいと思い。そして、どうしたいのか。

 未来を見る目を持たず、過去の記憶すらどんどん磨耗していくのが、俺たち人間なんだから。

「アカの代わりなんかじゃない。ミキの鬼としてでもない。俺は、ただの人間として。俺が俺である限り、ミキの隣にあり続ける」

 拒まれても。否定されても。筋が通らないと、吐き捨てられても。

 今このときの感情を、自分の意志を、俺が優先しなくて何になる。

「それが、お前か」

「そうだ」

「お前っていう人間か」

「そうだよ」

 また何か、罵倒や嘲笑が飛んでくるのかと思って、身構えたが。

 ノアールは「そうか」と。感慨なく言いながら、立ち上がった。

「帰る」

「なんだ。今回は首突っ込まないのか」

「誰が猪だ」

 言ってねぇよ、そんなこと。

「用事は済んだし、気も済んだ。大体、俺だって暇じゃない。これから大仕事なんだ。しかも待ち望んだ、俺たちの本懐の」

 本懐。そういうのノアールの顔は、どこか満ち足りて見えた。

 それは見間違いかも知れないが。なんせ、視界の端で少し見えるだけなんだから。

 怪我は癒えつつある。動けるようになるには、もう少し掛かりそうだが。なんとかかんとか、無事に帰路に就けそうだ。

「一つ忠告がある。聞いておけ」

 一歩、ノアールは俺に近づいて、無遠慮に見下ろしてきた。

 忠告とか、偉そうな物言いはもういいんだけど。さっきといい今といい、スカートの中を見せつけて言うことなんだろうか。格好が付かないというか、恥じらいとかないんだろうか。

「刺客の件だ。オレが倒したアイツは、まあついでに、オレがミキに突き出して行ってやるけど」

「踏んだり蹴ったりだな、あの理科系男」

「弱いから悪い」

 言うと思った。

 弱者に人権はない、なんて言う気はさらさらないけど。

 力がないと、こういう手合いには好き勝手されるんだから。ある程度の鍛錬は、確かに必要なのかも知れなかった。

 酷い理不尽だ、それは。

「分かってるよな? 残り二人だ」

「ああ。この調子じゃ、それも大した連中じゃないだろうけど――」

「その二人は格が違う」

 真剣みを帯びた言葉に、思わずはっとする。

 油断と慢心を自覚した。どうせ何事もなく終わるだろうと、根拠もなく信じ込みかけていた。

 それをノアールに、あっさりと見透かされていた。

「……知ってるのか? その二人のこと」

「それぞれ顔見知りだ。仕事柄、興味の有る無しにかかわらず知り合いは増える。会って話したのは随分前だけど、この町にいることは気付いてた。というか、とっくに根を張ってる」

 ノアールはちらりと、境内を下る階段の方へと目を向けた。

 根を張る――準備を始めているのか。またぞろ厄介な話だ。

 ノアールに瞬殺されたらしい男も、散々弱い弱いと言われているが。実際俺はついさっき、確かに追い詰められたんだ。恐らく、マツイさんの言っていた夢の話が、そのための準備で、その兆候だったんだろう。

 時間をかけ、周到に準備を重ね、予想を越えた奇策と成す。それは時として、実力以上の成果を生み出す。その脅威はよく分かる――なぜならミキもまた、そういう手を得意としている人間だからだ。

 時は金なり。積み重ねられた時間は、命の重さを覆す。

「言っとくけど。お前たちに手を貸さないのは、相手も顔見知りだからって訳じゃないからな。理由さえあれば、俺は誰の敵にだってなる」

 心外そうにノアールは言った。

 中立とは思えない言動である。絶対扱いに困ってるだろ、機関。

 二木の役割の重さのためか。或いは、二木 聯の手腕ゆえか、今は放牧されているようだが。どっちにしろ、これ以上関わるべきじゃないことだけは間違いない。ゲームのキャラクターではない俺に、命のストックは一つしかないんだから。

「で、その二人は強いから、気を抜くなって忠告か」

「違う。そんな認識じゃ全然足りない」

 ノアールは、その大きな瞳で、じっとこちらを見つめる。

 その様子が、まるで年相応の少女のようだったから。

 ようやくその姿が、はっきりと見えたような気がした。

「残ったうちの一人は、オレよりも強い」

「なに?」

 ちゃんと聞こえていたにもかかわらず、思わず聞き返していた。

 ノアールより、強い?

 ミキと肩を並べて戦えるこの化け物より、もっと?

 ノアールの言うそれは明らかに、実体験に基づくものだろうと確信できた。

 目に浮かぶようだ。見るからに強そうな相手を前に、嬉々として喧嘩を売るノアールの姿が。

 そして、つまり、だから過去のノアールは。そうやって戦いを挑んで――結果、敗北したのだ。

「だからお前は戦うな。そいつに睨まれたなら全力で逃げろ。そうじゃなかったらお前、確実に――」


 死ぬぞ。


 じゃあな、と。仏頂面で去るノアールに、俺は。

 俺は何も、返すことができなかった。

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