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一見して猫である。
前に突き出た鼻を忙しなくひくつかせ、閉じた目の代わりに外界を探る。内の好奇心を表すように、尖った耳をこちらへ傾けている。日に日に寒さを増していく外気も、あの毛皮ならば凌げるのだろう。
夜に紛れた黒い猫。黒猫は不吉だとか見栄えが悪いだとか、そういう与太話には興味もないが。
たとえばその猫が、象のような巨体を携え、狭い路地を塞ぐように鎮座していたとしたら。黒猫というものが、一般にそういうものだったとしたら。
その排斥を、俺は文句なしに肯定していただろう。
――というか今現在、実際にしている。
本当に、太っているというには巨大すぎる黒猫が、目の前に丸まっているのだ。
比喩でも誇張でもなく。行く手を阻んでいるのだ。
恐ろしい。
手の震えが止まらない。
自分の心音と呼吸音が、嫌に大きく聞こえる。
今すぐ踵を返し、脇目も振らず逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
理解を越えて巨大なものは、ただそれだけで、恐怖を煽るものだから。
「――なんというか、まあ」
愛嬌があると言えばある、その顔を見上げるようにして。
ミキの――いや、アオの仕事を肩代わりするということは、こういう怪物をも相手にすることなのだと。もう初めてというわけではないのに、痛いほどに実感する。
擬獣退治。
死んだ思念、現世に残した無念の集合体。千差万別の異能を携え、ときに人の営みをも乱す、迷い者を排除すること。
あくまで、ミキの手伝いをしていた夏とは違う。
ミキが、青鬼と赤鬼の両方を失った、いま。
この街に現れる擬獣、そのすべてを倒すこと。それが、今の俺が、ミキから請け負う最大の仕事だった。
「名前なんかない、よな」
猫には名前がないと相場が決まっている。いや、別に猫に限った話ではないが。
名前があるなら、それは元より俺の仕事だった。
名前のない怪物であるからこそ、それはアオが片付けるより他になかったのだ。
だから迷いはない。
手にするのは刀。暗闇を切り抜いたような、漆黒の刀剣。
その重みにはまだ慣れない。まるで意思を持って、二代目の持ち主を拒絶しているかのようだったから。
恐怖は増すばかり。心臓は痛みを伴うほどに鼓動し続けるが、しかしやることは単純化した。
名前を聞き出し、名前を狩る――なんて。そもそもに面倒臭い、性に合わない工程もここでは要らない。
怒りの傲慢も。二重の憤怒も。名前を狩る憧憬にさえ、用はない。
ただ斬り付け、ひと思いに断ち切ってしまえば、それで事足りるのだから――
「名前くらいあるわい、小童が」
息を呑んだ。
反射的に飛び退いた。
耳鳴りのような目眩がして。飛びかける意識を、必死の思いでひっ捕まえる。
深夜、街頭も疎らな街路。周囲に人がいないことは、意識せずとも確認できていた。
ならば。今しがた聞こえた、少年のような声は。
「失礼な奴だ。お前いま、名乗りも挨拶もなしに斬りかかろうとしただろう。なっとらん、なっとらんなぁ小童。吾輩が現役の頃であれば、敬うべき先達へのその態度、万死に値したぞ」
現役って。猫の現役って、一体何だ。何かの仕事か。何らかのお役目なのか。
いや、そんな話はどうでもいい。
心の底からどうでもいい。
いつかの頭痛を思い出し、意味もなくかぶりを振る。
いま重要なのは、紛れもなく。間違いなく。
目の前の巨大な、バスかトラックかと見紛う黒猫が、話しかけてきたということだ。
「なんだ、お前」
礼節を弁えるつもりなんて毛頭なかった。意味も分からないまま、その問い掛けが口から飛び出す。
話ができるだけなのか、それとも会話ができるのかの確認――いや。これは、そういった類のものなどではなく。
「ひひっ」
猫は口角を釣り上げ、愛玩動物の見た目にあるまじき、品のない笑声を零した。
「こうして間近で捉えるのは久しぶりだが、ほんに変わらんわ。人間の抱く畏怖や恐怖、そういった感情は愉快に過ぎるよ」
六本の透明色の髭が、触手のようにうごめく。
生理的に、本能的に、恐れを抱いてしまう所作。
それはきっと、捕食される側特有の感覚だ。
踏み潰され。
引き千切られ。
鋭利な裁断機に晒される、その予感。
不幸、どころではないだろう。
自分という生き物が、ただの肉塊と化す瞬間を、激痛と共に目の当たりにしてしまう、なんてことは。
――想像に頼るしかない、とは言え。
知っている。覚えている。今でも夢に見るほどに。
とある劇団で。そうして食われた親と、そうして人生を歪まされた子がいたことを。
俺はまだ、忘れることができていない。
「なに、恐れることはない」
黒猫は、口元が緩むのを堪えるようにして続ける。
「吾輩は別段、お前の認識の埒外という訳ではないのだ。まともにぶつかれば、食われるのはむしろ吾輩の方だろうよ。おうとも、今にしてもそうだ。どう命乞いをしたら、お前に見逃してもらえるかを考えているのよ。懸命に、尻を火で炙られ続ける思いでな」
ひひ、と。再び猫は、まるで人間のように、軽薄に笑った。
勘、だが。
恐らくそこに嘘はない。
この猫は、確かに。今の俺が、逃げられないほどの相手ではないようだ。
だからといって残念ながら、警戒を解くほど安直なタチではないが。それでも幾ばくか、余裕を取り戻すことができた。
「少しは落ち着いたかね」
「少しはな。でもそれならそれで、真っ当な猫サイズになって出てこいよ、デカブツ」
怖いだろうが。
大きさといいネコ科動物の外見といい、色々とトラウマを思い出すんだよ。
「ひひっ。それは済まなんだ。半端に長生きなぞしていると、どうも娯楽に飢えて敵わんでな。気も済んだことだ、小さく縮んでやってもいいが」
すんすんと、黒猫は鼻をひくつかせ、
「なんなら詫びに、人の美女にでも化けてやろうか?」
「やめてください間に合ってます」
美女とか。下手をしたら、怪獣サイズのライオンより厄介だ。それだけは本当に、心からやめて欲しい。
「そうか、変わり者だな。過去に話をした男どもは、なんたる僥倖と喜んでおったが。その方が話しやすい、もしかしてお触りも可ですか、寝所で語らうのも風情がありますよ、等々。あぁ、お前よもや不能というやつか?」
「うるせえ一緒にすんな」
過去に話をした。
それは一体、いつの話なのだろう。
長生き、などとほざいていたが――バカを言え。
とうに死んだ命の残滓でしかないヤツが、平然と誰かと話ができた時代があったとすれば。それこそ大昔、人死にが横行した動乱の下でしかあり得ない。
「ていうかお前、ああ、メスなんだな、そのナリで」
「いや、どちらかと言えばオスの自覚の方が色濃いな」
「おまえ」
絶句した。
目眩さえした。
想像以上に悪質だった。
「ぶっちゃけ癖になるのよなアレ」
「毛玉喉に詰まらせて死ね」
ただの変態だった。
言語道断の外道の極みだ。
人の見た目をしてたら、とっくに斬り掛かっていただろう。
「さて。吾輩が何者か、と問うておったな」
「何事もなかったかのように話を戻すんじゃねぇよ」
「にゃーん!」
「それがぐだぐだ長生きして見付けた賢いごまかし方なのか、ええ? 自称先達」
そろそろ面倒臭くなってきた。話が進まなすぎて苛立ちが募る。
そうだ、つい先程まで、そういう中身の薄い長話をミキとしてきたばかりなのだ。キャパなどとっくに超えていた。
そう、面倒臭いから。
さっさと終わらせて、我が家に帰ろう。
そうして、刀を握る手に、力を込めた、そのとき。
「おぅい、そっちの小童。そろそろ顔を出したらどうだ」
黒猫が。俺ではない誰かへと、呼び掛けた。