19
「久々だな。オレを覚えてるか?」
そう問いかけてきたのは、金髪の少女だった。
邦人離れした顔貌は作り物めいて整い、青く輝く瞳は斬りつける刃のように鋭く光る。
黒いゴスロリ調の洋服で全身を覆い、下に覗く脚はしなやかで、黒いタイツに包まれている。
身長は小学生ほどしかない。しかしその表情には、子どもとは思えない凄惨さがあった。挑発的というよりは挑戦的だ。自分以外のあらゆる存在を踏み越えて行く、そんな意志の強さ、我の強さが見て取れる。
先ほど倒れた男の背後から現れたということは、それまで男を持ち上げ隠れていたということだろうか。軽量とは言え、身長差にして四十センチはありそうな大の大人を、あの細腕一本で。
人間にしか見えない姿でありながら、およそ人間とは思えないその少女を、俺は知っている。その特徴的な外見を、よく記憶している。
夏休み、双町滞在中に顔を合わせた少女。
機関――二木の遣い、人ならざる自律人形。その片割れの、黒猫を模した姿のヒトカタ。
かつてのアオやアカと同様、二木 聯の界装具。
ミキと共に、天災たる最悪の擬獣の一角を、たった二人で討伐した規格外――
「――ノアール」
「正解だ」
ふん、と可愛げなく鼻を鳴らし、ノアールは両腕を組んだ。
「まあ、俺は忘れてたけどな、アンタの顔なんか。名前だって……あーいや、確か……そうそう、どっかの二代目錬金術師みたいな名前してるから、辛うじて覚えてたよ。エリーだろ?」
「違ぇよ」
相変わらず伝言ゲームはバグっている。いや、ここまできたらむしろ、ワザとやっているのではないかと思えてくるほどだ。
「しかし、ここへ逃げ込んでくるってのは驚いた。面倒臭いけど、こっちから会いに行ってやろうと思ってたからな。まあまあいい勘してるよ、アンタ」
名前の話はもう終わったらしい。
マジかよ、話の通じる気が全然しない。
「だったらハズレだろ。どのみちお前と顔を合わせるなら、わざわざあんな山道を駆け上がる必要はなかった。骨折れ損だ」
「ところがだ」
ノアールは、足下に転がっている男の脚をぞんざいに蹴りつけた。敵とはいえ、半殺しとはいえ、死体蹴りはいい趣味とは思えない。
「アンタが向かってた先、あの学校周りな。アンタを追いかけてた連中の三倍くらいが待ち構えてたんだよ。そっち行ってたら挟み撃ち確定、今頃大変だったろうな」
「おい、その男こっちに蹴り飛ばせ。サッカーしようぜ」
ノアールは、何言ってんだコイツ、と言わんばかりの顔でこちらを見てきた。段差があるから、若干見下ろされる形だ。なんとなく腹立たしい。
「及第点ってのは、じゃあそういう、危機回避したことに対する評価か」
「いいや? そこに関して言えば、どっちかって言えば興醒めだ。女一人抱えたまま大童になるアンタを、高みの見物してやるつもりだったからな。本当に、こっち来るなよ、空気読めないヤツ」
冗談ではなく嫌悪感を丸出しにして、ノアールはこれ見よがしに溜息をついた。
なんだこいつ。
ミキとはさぞ気が合うんだろうな。
「逃げ出さなかったことへの評価だよ。守ろうと踏ん張ったことへの賞賛だよ。少しだけ、ほんの少しくらいなら見直してやっていい、そう思っただけだ」
上から目線の物言いは、正直気持ちのいいものではなかったが。というか普通に、俺には一発くれてやる権利くらいありそうな気がしたが。
しかし、この状況を考える。
未だにゾンビたちが追いつく気配はない。男が満身創痍でダウンしているのも芝居ではない。というか、よくよく聞いてみれば虫の息で、放っておいたらたぶん死ぬと思う。
それは、つまり。
「助けてくれたのか?」
「は?」
心底意味が分からないという声で、ノアールは眉をひそめた。
「なんか知らないけど暗部の人間がいたから、興味本位で話し掛けたら喧嘩売られたんで、気前よく買っただけだ」
これっぽっちも面白くなかったけどな――と、ノアールはぼやいて、また一発蹴りを入れた。
「弥生が言ってたのはコイツのことか、と思い出したときにはこの有様だ。まったくさ、人材不足も極まったもんだよ。こんな雑魚で、三鬼 弥生をどうにかできるわけないだろ、バカバカしい」
「それは同感だけど……。お前、立場とか大丈夫か。八剣とか、二木とか」
「知るか。弱いコイツが全部悪い」
言い分がシンプルすぎて、男に対する同情心が蘇ってくる。喧嘩を売られたと言うが、喧嘩を売らせたの間違いだろうなとほぼ確信できた。
ミキによれば、機関における二木は、基本的に中立であり続けているらしいが。このノアールの性格からすれば、どちらに対しても楯突く、という意味で中立なのかも知れない。
いや、ひでぇ。なんてタチが悪いんだ。
「ミキに用があったのか」
「まあな、今朝会ってきた。そのとき言われたんで、ついでにアンタにも会っておこうと思えばこれだ。ああ、結果的に助けたことにはなったのか? よく分からないな」
よっ、とノアールは、横たわる男を飛び越えて、荒れた石畳の上に着地した。
思った以上の大ジャンプだった。俺の背丈の遙か上を行く跳躍だった。そのせいで、裾の広いスカートが、ぶわりとまくれあがった。しかし、当の本人は一切気にした風ではない。音もなく着地したあと、慣れた手つきで長髪を梳いた。
「あんなゾンビ連中、逃げるまでもなかったろ。さっさとなぎ払えば良かった。なんでそうしなかった? アンタ程度とは言え、能力者なら簡単なことだろ」
言いながら、ノアールは無遠慮に近付いてくる。
カツカツと、ハイヒールの小気味よい音が響く。
同時に、おぞましい威圧感が増していく。
或いは、双町で会ったとき以上かも知れない。
重苦しい空気が、肺の中に充満していく。
「アホか、誰彼構わずぶん殴るお前と一緒にするなよ。単に操られてるだけかも知れない奴に手が出せるか」
「は。アホはアンタだ、このアホが」
口喧嘩のレベルが著しく下がっていく気がしたが、相手の見た目が小学生なので是非もない。そもそも、そんなことを気にするほどの余裕もない。こっちは必死で、なんとか言葉を吐き出しているに過ぎないんだ。
とうに完治した頬が、不自然に痛み始める。いつまた殴られるのではないかと、怖くて気が気ではないのだ。
「どうせアンタ、生まれ育った町やそこの住人に、愛着なんか持ってないんだろ。顔も名前も知らない人間なんか、視界から、認識から消えた時点で死んだも同然。アンタって奴は、そういう性分の人間だろ。違うか」
見ず知らずの、本当に何の関わりもない人間を、害することに躊躇するような性格。例えば、今後ろで寝ている、極めつけのお人好しのような。
ああ、確かに。俺はそういう善玉な人間では決してない――けど。
「違うな。全く違う」
確たる意志のもと、ノアールの言葉を否定する。
「お前みたいな人間以外には分からねぇんだろうけどな。人を殺せば殺人罪で、傷つけるだけでも傷害罪やら暴行罪やら、色んなものが付きまとうんだよ、こっちは。その狭苦しい視野でしかものを考えないのは勝手だけどな。それを他人に、俺に、押し付けてんじゃねぇよ」
そうやって、しがらみに縛られたまま、生きなくちゃならないのが人間だ。自ら作り上げた社会に、しがみつかなくちゃ生きられない生き物が俺たちだ。
軟弱者と言いたきゃ言え。
息苦しいけど。面倒臭いけど。それによって得られる恩恵を、無意識といえども享受している時点で、無視して通ることは誰にもできない。
真っ当に、生きてる人間なら――
「人間以外はアンタもだろ」
「――――」
呆れ半分に放たれた、ノアールの言葉は。
まるで抜き身の刀のように。
腹の奥へと突き刺さり、貫き通る。
「なんだ、アンタ。まだ人間でいるつもりなのかよ」
「――なんだ、それ」
どういう意味だ。
一体全体、コイツは何が言いたいのか。
「前に会ったときも、アンタからは妙な気配を感じたよ。本当に一人なのか、中に誰か飼ってるのか、とかな。今その感覚はないけど、でも妙な感覚そのものは残ってる。アンタが人間? 普通の人間? 一体いつまで、その都合のいい夢を見てれば気が済むんだ」
ノアールは、ごちゃごちゃと何かを言っているが。
意味のある言葉など、頭の中には何も入っては来なかった。
ただ。
ただ、俺は。
その先を、次に続く言葉を、思い描くことが――
「いや、分かるよ。オレには分かる。一度手合わせしたからな。一度共闘もしたからな。ああ、分かってる。思い上がるなよエリー、久々だって言ったのはアンタに向けてじゃない」
ノアールはもう、俺の手の届く場所にいた。
手を伸ばせば。そのか細い首を、握り締めることさえ、できるような位置に。
「久々だな、赤鬼。なんだお前、随分と見た目が変わったもんだな。面白い趣味だ。そんな人間みたいな皮被って、窮屈だったりはしないのか?」
急に、親しげに。柔和な笑みなど浮かべながら、ノアールは話しかけてきた。
目の前にいる俺に、ではなく。
俺の中にいる何かに、でもなく。
俺を、俺以外の誰かと、決め付けて。
「違う」
「何が」
「取り消せ」
「何が」
ノアールは一転、侮蔑を含んだ上目遣いで、俺を睨み付ける。
いや。本当は、どこを見ているのか、まったく分からない。
だから、それが。
その事実が、あまりにも――
「俺は、俺だ。異常者かも知れないけど、あぶれ者かも知れないけど、でも真っ当に生きてる、普通の人間なんだ。アカでもなければ、アオでもない。違う、だから違うんだ。変わったかも知れないけど、前とは違うかも知れなくても、それでも俺は――」
俺は、人間だ。
俺は、断じて、断じてなってはいない。
「俺は、俺は――」
俺は、鬼になんか、なっていないんだ――!
「っ――!」
一瞬だった。
何の予兆も、予備動作もなく。ノアールの拳が、俺の胸元に向けて突き放たれた。
それが俺には、確かに見えたから。
ギリギリの所で腰を落とし、両手でもって拳を受け止める。
風船が、炸裂したような音がして。
辺りから、自然な音というものが消え去って。
遅れて両手に、全身に、強い痛みと痺れがやってきた。
「ただの人間が、オレを止められるワケないだろ」
憤怒の表情で、ノアールの双眼が見開かれる。
受け止めたはずの小さな右手が、異常な力と熱を帯びていく。
先ほどの突きが、どれほど手の抜かれたものだったのか、今はっきりと分かった。
尋常なものじゃない。あっさりと力負けして、無様にも膝を石畳に落とす。
この小さな身体に、この細い腕に、どうしてこんな怪力が出せるのか。目の前にあって、俺の中の常識は、まったく理解できなかった。
「言ってんだよ、オレは。アンタ、それだけの力があって、どうして振るわない。なんで振るおうとしないんだ。そこで転がってる男なんて、オレにとっては小者も小者だったけどな。それはアンタにとっても同じことだろ。目の前で相対して、敵対を決めたアンタの気構え、あれは一体何事だ? 腑抜け腰抜けにも程があったぞ」
その長い金髪が、逆立つほどの怒気だった。
ノアールは、今にも暴走しそうな四肢を全力で抑え込むかのように震え、歯を食いしばっていた。
「アンタには、アンタの中にはな――相手を、言語道断の敵対者を、その膨大な力でねじ伏せてやろうって覚悟が、決定的に欠けている。それだけの――あのアカに匹敵するほどの力がありながら、それを悠々と遊ばせている。こうしてオレが、敵意を見せても変わらない。おい、舐めるのもいい加減にしろよ。これ以上の侮辱が他にあるかよ。人間じゃない、それ以外であることも認めない、どっちつかずな半端者の分際で――!」
ノアールが、後方へ弾け飛んだ。
もっと正確に言うなら、蹴り飛ばされたのだ。顔面に蹴りを入れられて、その勢いで、冗談みたいに吹っ飛んでいったのだ。
俺の背後から現れ、ノアールを蹴った『もう一人の俺』は、次の瞬間には姿を消していたが。
大木のへし折れる音がする。
本殿に突っ込んだノアールは、どうやらどこかの柱へぶつかったらしい。風化しきった大黒柱を、粉砕するには充分すぎる勢いで。
それこそ本当に、ジェンガが崩れるように。辛うじて形を保っていた社が、けたたましい音を立てて崩壊していった。
爆風に乗って粉塵が舞い、辺りが白く染まった。
「好き勝手言ってんじゃねぇぞ。何も知らねぇ輩が、明後日の方向からペラペラギャアギャア、うんざりだ」
その音も、無残な光景も、俺の胸には刺さらなかった。
ただ、不快感があった。
苛立ちのようで、けれど確かにそれとは異質の。
泣きたくなるような理不尽は慣れっこだ。
諦めも付いた。前向きになろうとも思えるようになった。
でも。
だからって。
そこへ土足で踏み込まれて、平気なわけがないだろうが。
「――なんだよエリー。やればできるじゃないか、お前」
土煙の中から、少女の声が響き渡った。
それは、場違いにも嬉しそうに。歓喜するように。弾む高音のように聞こえた。
「でもダメだな、見るに耐えない。力が蹴りに乗りきってないんだ。お前どうせ、膂力ばっか上げて、技術を疎かにしたクチだろう。ああ、よく見かけるよ、格下ばっかりいびって粋がってる間抜け野郎を。そんな有り様じゃ、一生かかってもオレには届かない」
風が吹きすさび、煙の濃度が落ち、ノアールの姿が浮かび上がる。
怪我一つない――どころか、その黒い衣装には埃一つ付いていない。怒りに任せて全力を叩き込んだはずの眉間にも、何の損害も変化もなく。
「前言撤回。落第だ、エリー。お前じゃアカの代わりは務まらない。お前じゃ弥生は守れない。アイツは傑物だけど、人を見る目はなかったわけだ。ん、おいおい、どっかにいたよなそういうヤツ。大昔にいた軍師だったか?」
風を纏うように――いや。
風が避けて通るように、ノアールを中心にして渦巻いていた。
一歩一歩、その挙動一つ一つが、何らかの攻撃に繋がるように思える、圧力。
気が付けば倒れ伏した自分、そんなものばかりが脳裏を駆け巡る。
普通じゃない。
並大抵ではまったくない。
掛け値なし、文句の付け所もないほど、正真正銘の怪物の覇気。
その在り方を前にしては、一介の擬獣、下手な能力者なんか比較にもならない。
今の俺が、敵う未来なんかどこにも見えない。
「弥生が、泣いてお前を斬る羽目になるんなら。なあ、エリー。そのとき死んでも、今死んでも、何も変わらないんじゃないのか?」
だとしても。
勝てないとしても。
何も変えられないのだとしても。
「は――」
立てた誓いは揺るがない。
負けを認めることだけはしない。
「何も分かってないな、お前」
それは、それだけは絶対に、死んでも踏み越えてはならないデッドライン。
俺は、俺だ。
俺の生き方を決めるのも。
俺の死に方を決めるのも。
全部俺で、俺の責任で、他の誰にも譲らない。
「アイツの涙を次に見るのが、俺の死に際だっていうなら――上出来だろ」
それが俺で。
俺の目的で。
誰でもない、俺自身の意志だから。
他の何が犠牲になっても、それが叶うならそれでいい。
俺が戦う理由なんて、それだけあれば充分だ。
「ふう……」
ノアールは数秒、空を仰ぎ。
ぐるんと一周、右肩を回して。
「やっぱり殺すか」
「上等だ、クソが」
そうして、不毛な喧嘩は始まった。




