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夏夜の鬼 語り残し  作者: 真鴨子規
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 その場所に、俺は初めて足を踏み入れた。

 砂や土塊や、枯れ落ちた木の葉が散乱している。朽ち果てた石畳の隙間から、無造作に雑草が茂っている。落雷でもあったのか、隣接して立っていたのだろう巨木が倒れ伏し、菌糸類の苗床になっている。

 よくある公園程度の広さはある場所が、そういった惨状は全体に及んでいた。澄んだ空気とは裏腹に、荒廃しきった土地。明らかに人の手の及んだ場所でありながら、人の気配が、その痕跡さえ見当たらない。

 山道から抜け出た位置から、左前方に視線を寄せる。今の足下と同じように荒れた石段があり、どうやらそちらが正規ルートのようだった。

 辺りを警戒しながら、石段を見下ろせる位置まで歩く。

 黒川先輩は抱えたままだ。どうやら気を失ってしまったようで、地べたに寝かせるのは躊躇われたのだ。本当は、すぐにでもどこかに寝かせたかった。気が気ではない。少し落ち着いてしまったがために、余計なことに気が行き始める――艶やかに垂れる黒い髪や、規則的に上下するなだらかな胸部、抱えた肩と脚の、細さと温かさ――とか、なんとか、そんなようなことに。

 石段は思った以上に急な階段となっていて、霞むほど降りた先に鳥居が見えた。元々は赤かったのだろうそれは黄土色のような色となり、かなりの時間手入れがされていないことを物語っていた。

 そして、この場所――境内の奥を、正面から見据えるように立つ。

 それはきっと、古い神社の本殿なのだろう。

 長い時間、風雨に晒され続けたのは自明だった。茅葺かやぶきの屋根は役目を果たしておらず、木製の柱は半数近くが崩れている。内部は暗くて見えないが、無事ということはまずないだろう。

 連想するのは、あと一手で崩れるジェンガだ。今現在、未だ建物としての体裁を保っていることの方が不思議だ。どこかあと一ヶ所でも損壊すれば、完膚なきまでに崩れ去るだろう。そしてそれは、遠くない未来に間違いなく起きるだろうと確信できた。

 その本殿の前、少し段差を上がった拝殿に。一人の男が立っていた。

 裾の長い白衣と、黒く長い髪。背はそれなりにあるのだろうが、猫背気味のせいか矮躯にも見える。先ほど嫌というほどみたゾンビと見紛うような前傾姿勢なため、髪で顔が隠れ、表情が読みとれない。隙間から覗く反射光から、どうやら眼鏡を書けているだろうことが予想できた。

 内向的に俯くその容貌から、自ずと思い起こす言葉はマッドサイエンティスト。いや、俺の世代で言えば『りかけいのおとこ』と呼ぶのが一番しっくりくる。それは、そういうタイプの人間だった。

「――水鉄砲の仲間か」

 名前を忘れたので、そう呼び掛けた。勘でしかなかったが、ほとんど疑ってもいなかった。

 つまり、あの男は敵で。

 あの夜に出会った水鉄砲の男を含めた、四人の刺客の一人で。

 ミキや俺を殺しにきた、機関の暗部で。

 さっきの、住民をゾンビのように変えた、張本人。

「…………」

 白衣の男は沈黙していた。指の筋一本動かさず、こちらに視線を投げさえしない。

 先ほどの人間たちをゾンビというなら、この男は死体そのもののようだ。微かに耳に届く、上擦るような呼吸音がなければ、立ったまま死んでいるのではと勘ぐったところだろう。

 それ故に感じる恐ろしさがあった。男本人がというより、いつまたあのゾンビの群が殺到するのかと、気が気ではなかった。

 心の中で謝りながら、黒川先輩を地面に寝かせる。

 そんなことで怒るような人ではないと分かっていたし、後ろめたさを感じることでもないはずだが。その穏やかな寝顔は、そういった打算をすべて忘れさせるものだったから。

 ここからは、戦いになる。望む望まざるにかかわらず。

 敵の能力が人間のゾンビ化というなら、物量で囲まれた時点で詰みだ。そうなる前に、一気に勝負を決める必要がある。

 だが当然、そんなことは相手も想定済みだろう。こんな廃れた場所で陣取っていた理由は明白だ。巨大な蜘蛛の巣のように、迷い込んできた標的を捕らえる罠は、無数に張り巡らされていると見るべきだ。

 ともすれば――できれば考えたくはないことだが。俺自身が、敵の能力でゾンビにされるなんてことも、あり得ないとは言い切れない。

 自分の手札を考える。罠の存在は勘に頼るとしても、どう対応するかはこの両手に掛かっている。黒鎌は役に立たない。黒刀もリーチに欠ける。あらゆる手段が決め手に欠ける。一足で隣接し、一撃で仕留められるかどうかは賭けだ。背後から不意を打つにしても、忍び寄るには本殿が邪魔だ。

 攻めあぐねる――が、時間がない。考えている余裕が、あとどれほど残されているかも分からない。

 覚悟を決める。

 呼吸を正す。

 右手に意識を通す。

 次いで両脚に力を溜める。

 ただ、一撃を。

 できうる限り最大の一撃を。

 相手が何物であろうとも、一息で叩き潰せるだけの力が要る。

 風が吹く。

 枯れ葉がさらわれ、さざめく音が空虚に響き、遠くで鳥が羽ばたいて。

 あらゆる音が、完全に鳴り止んだ瞬間。

 地面を蹴り飛ばし、前へ――

「まあ、及第点かな」

 白衣の男は、俺が指一本触れることなく、ぐしゃりと倒れ込んだ。

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