17
交差点を三つ通り過ぎた辺りで、ようやく。俺たちは、その異変に気が付いた。
いや、本当に。気付いた後からすれば、どうしてこんなになるまで気付かなかったのかと、自分の目を潰してしまいたくなるほどだった。
断続的に流れていた自動車は、エンジン音一つ聞こえないほどに、影も形もなくなって。
ただ、人が。
男も女も、老人も子どもも、区別なく。
柳のように枝垂れ、幽鬼のように歩く、人影が。
歩道も、車道も、何もなく。
獲物との距離を詰める野生動物のように、静かに、執拗に。
俺たちの周囲を、取り囲んでいた。
「……なんでしょう、これは」
黒川先輩の声が、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
人の数が、幾ら何でも多すぎる。駅前広場を含めた近辺にいた人間、全てが集結しているのかも知れなかった。
そして、それらの表情は。だらしなく口を開き、眠たげに瞼を落とし、焦点の定まらない視線で。
なんて陳腐な、なんて月並みなと、そう思われても仕方がなかったのだが。
まるで、マツイさんと見た映画に出てきた、ゾンビのような姿だった。
「あ、あの。大丈夫ですか? なにか、体調でも――」
もっとも近く、俺たちの前方を横切ろうとした腰の曲がった老人男性に、黒川先輩が駆け寄ろうとするのを。
俺は迷いなく制止する。その手を掴み、力加減の余地もなく、引っ張った。
「痛っ」
「すみません、ちょっと」
間が悪いにもほどがある。
勘に頼るまでもない。
一体何が起きている? それは、考えても分かりそうになかったが。
一体誰がこんなことを? その問いかけの答えには、困る必要はなさそうだった。
老人が、壊れかけの玩具のようにゆっくりと、こちらへ顔を向けた。
「こんにちは、良い天気ですね」
しわがれた、しかし存外はっきりとした声で、老人はごく普通に挨拶をしてきた。
俺も、黒川先輩も、返す言葉を失っていた。
「やあ、これから孫に会いに行くんですが」
「ばあ様の脚が悪いもんで、バスに乗って買い物に行こうかと」
「それにしても今日は暑いですな、そろそろ炬燵も仕舞わないと息子に叱られちまうで」
「うるさいと思ったら選挙が近いんですかな? まあ昨今すっかり耳も遠くなっちまったが、かといってあれはもう少し静かにならねぇもんかと」
「昔は夏神様ゆうて、夏の祭りもささやかながらやっとったもんだが、ワシらが働き盛りで仕事にかかりきってるうちにすっかり廃れちまって、悪いことをしたもんだと」
「六十年来の友人の命日が近くでですなぁ、ワシもばあ様ももうすぐつうか、どっちのお迎えが先に来るかと思うと、まあやっぱり寂しい気持ちにもなってきて」
「今朝ニュースで見たんだが、最近はオレオレ詐欺とかいう、高齢者狙った犯罪が出たとかで、嘆かわしいもんですなぁ。ワシ等が若い頃はもっと……」
「いや、しかし本当に暑いですなぁ。この暑さも、あと何回で最後になるかと思うと……」
「ああ、これから孫に会いに行くんですが、命日がもうすぐでしてなぁ。あのニュースを見る度に嘆かわしい気持ちにもなって、悪いことをしたもんだと、脚の悪いばあ様を病院に運ぼうと、ああ、悲しい、悲しい、ワシの運転している車に、バスが、ああ、バスが、バスを運転していた若い男の顔が――」
空は、朝から、分厚い雲に覆われている。
「やあこんにちは、今日はいい天気ですなぁ」
固まっていた両脚に檄を飛ばし、黒川先輩の手を引いて走り始める。
異常だ。異常だった。
正気の沙汰ではない。
高齢者の痴呆、妄言だと、片付けてしまいたくなったが――とても、とてもじゃないが、そういうわけにはいかなかった。
人が、人の波が、徐々に近づいてくる。
走り出した俺たちを、揺らめきながら追いかけて掛かる。
十人が。百人が。千人が――数え切れないほどの人間が。
何か、脈絡もなく意味も通じない言葉を、口々に騒ぎ立てながら。
俺たちを、呆然と、しかし確実に、追いかけてくる――!
「な、何が、なんなんですか、これ……!」
黒川先輩は混迷極まった声を上げたが――いや、俺だって訳が分からなかったが――構わず、とにかく走り抜けた。
止まったら、囲まれる。
囲まれたら、どうなるのか? 分からないが、でも逃げ出さずにはいられない。
これだけの人数が雪崩れ込めば無防備な人間の一人や二人、踏み殺されてもおかしくない。
地響きが、大きな地震でも起きているかのように鳴る。いや、実際地面は揺れているのかも知れない。
想定を遙かに超えた異常事態が、追いすがってくる。
どれだけ走ったかも分からないが、あっと言う間に息が切れる。
体力に自信なんかないが、この息苦しさはそれだけが原因じゃない。
怖い、怖いのだ。
意味の分からない人の波、意味の分からない言動、意味の分からない死の予感、何もかも、何もかもが。分からなくて、分からなすぎて、とにかく、とにかく逃げ続けた。
黒川先輩の息も荒い。何度も転びそうになっていたが、手を離すつもりは毛頭ない。
先輩は正気なのだ。ゾンビと見紛う――いや、最早ゾンビ以外の何者でもない大群に襲われているこの状況で、唯一この人だけは、自分と同じ立場にあるのだ。
ただそれだけで脚は動いた。
ただそれを失うだけで、俺は俺を保てなくなりそうで。怖くて、怖くて仕方がなくて、その細腕をへし折りそうなほど握り続けた。
「一体、どこまで――」
気が付けば、駅周りを大分離れ、夏臥美高校へ続く山沿いの道へと出ていた。
普段はほとんど人通りのないこの道だが。実際に、前方は閑散とした細道が続いていたが。
振り返れば、生気のない顔が、おびただしいほどに追いかけてきている。
「すみません……!」
もう息も絶え絶えの先輩が、枯れた声で言った。
「すみません、私、もう……」
「走れ!」
「私は、置いて……」
「うるさい!」
なりふり構ってはいられなかった。喋りたくもなかった。
視線の先に、学校が見えてくる。そこまでの道に、後ろから迫るゾンビ連中はいない。
学校まで行って、どうにか身を隠せれば、少しは休めるかも知れない。そして、なんとかミキに連絡を取るんだ。
こんな状況、俺にはどうしようもない。どうせミキなら、原因から打開策まで、まるっとお見通しなんだから。アイツに何とかしてもらわなくちゃ、だって、そうでなくちゃ、もしもそうでないのなら。
こんなの、どうにもならないじゃないか――
「は、あ……!」
と、そのとき。
場違いなほど、気の抜ける声がした――にゃあ、と。
学校へ続く歩道を逸れた山道、道なき道の山林に隠れるように、一匹の黒猫が顔を出して、そして消えていった。
いや、実際に消えてはいない。猫は、山道を登っている。どんどん斜面は急になり、普通人間は踏み込みもしないその獣道を、するすると駆け抜けていった。
ついて来いと、言っているのだと。俺は、心の底から思い込んだ。
「きゃっ、や!」
有無を言わさず、先輩を担ぎ上げ、横抱きにした状態で、林の中に突っ込んだ。思った以上に軽い荷物だ、なんの障害にもならず、一気に加速する。
もう口は堅く閉じた。今また変に言葉を漏らせば、何が起こるか分からない。体力は上限を突破し、脚力は倍増している――だってそれは、真っ当な人間には成し得ない力が行使されているから。
後続の連中の気配が、遠ざかっていく。やり過ごせたのか、山道を着いてこられないのか。何もかも分からないが、とにかく、とにかく、山を乗り越えるくらいの意気で、脇目も振らずに走り抜けた。




