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「海外留学?」
ミキの口から唐突に飛び出した単語に、俺は思わず食いついてしまった。
ミキのにやついた顔が、意識の中に飛び込んでくる。切れ長の目を細め、子どもを見つめるような表情。背景の壁も床も黒く、服装まで真っ黒なミキだから。その端正な顔と純白の長髪が、まるで輝いているように映る。
年上――それも一つや二つではなく、なのだが。
笑みを見るたび、その心の中を垣間見るたび、幼さが増していくようで。
「そのさぁ」
半ば照れ隠しで悪態をつく。なんとなく居心地が悪くて、あぐらをかいて床に座り込んだ体勢から、立て膝に切り替える。
「ことあるごとに俺を驚かせようとするの、いい加減やめないか」
何を言うね、とミキはすかさず切り返してくる。
それは、鈴の音のように透き通った声で。妙な緊張感を煽ってはくるものの、前ほど嫌いなものではなくなっていた。
「だってチリ君。夏からこっち、驚くという情動にめっきり耐性がついてしまった君じゃないか。毎日つまらなそうだから、私としても趣向を凝らしているんだよ」
恩着せがましく、けれど本心で。ミキは一切視線を逸らさずにそう言った。
意地の悪いことだ。そうしていれば、こちらが勝手に折れることを、ミキは熟知しているのだ。
――夏からこっち。
今年の夏。高校に入って初めて過ごした、灼熱の日々。あれからすでに四ヶ月以上の月日が流れたが、今でも昨日のことのように思い出せる。
いつか忘れてしまうとすれば、それは恐ろしいことだし。
永遠に残り続ける記憶として、フラッシュバックに怯えるのも気が滅入る。
あの夏を、俺の中でどう評価するのか。まだ答えあぐねているというのが正直なところだが。
一つ、確かなことは。
駆け抜けた時間は、二度とは戻らないということだけだ。
「俺の話はいい。それよりなんだ、いきなりすぎるだろ、海外留学って」
「そうでもないさ。私だって来年は三年生、花の高校時代も最後の年だ。卒業後の進路を考えるなら、むしろ遅いくらいだと思うがね」
ミキの学年は一応、俺の一つ上ということになっている。俺が二年に上がれば、ミキも三年に上がるのは必然だった。
当たり前と言えば当たり前の話、なのだが。
進路とか、将来とか。そんな当たり前の学生みたいな話を、ミキと二人でしていることが。未だ俺には、信じがたいことだったのだ。
少なくとも、夏までの俺だったら。ただそれだけのことで、冗談じゃなく失神してしまっただろう。
「――ああ、そういうことか。ひのえがなんか不機嫌そうだったのは。そうか、実家には帰らないんだな、お前」
「妹に関しては心配無用だろう。彼女はとうに、私がいなくてもやっていける人間だ」
聞きようによっては冷たい言葉を、ミキは、底なしの優しさと共に口にした。
「そういう理屈の話はしてねぇよ。好きとか嫌いとか、感情の話だ」
「理屈が通れば感情を抑えられる。それは彼女の美点だよ。まだ中学生の身分であれだけの自制が効くのは、優秀と評して間違いあるまい」
思わず手に力が入る。
それは違うと思ったから。
そんなものは美点ではない。手の掛からない、大人びた子どもが称賛されるのは、そいつが子どもでいるうちだけだ。
子どもは子どもらしく、わがままにわめいていればいいのだ。それを、周囲に受け入れられたり、逆に咎められたりしながら、本当に『自分を守るため』の自制というものを会得する。
そういう当たり前の成長期を経験できなかった人間は、遅かれ早かれ壁にぶつかるのだ。そんな壁など知らぬ存ぜぬ、軽やかに前進していく同世代の背中を、恨めしげに見つめながら。
理に叶わないからと、自分の感情を抑えていては。いずれ、どこかの誰かのように孤立してしまう。それを自覚したときには、とっくに手遅れなのだ。差し伸べられる手さえ自ら拒むほど、それは致命的な欠損なのだから。
「いや、睨むなよチリ君。なにかトラウマでも思い出したかな?」
「別に。だけど――そう、多分な。あいつにはまだ、お前が必要なんだと思うんだよ」
多くは語らない。家族や姉妹の間に、割って入る気だってない。俺にそんな価値はないし、首を突っ込む覚悟もないのだ。
それでも、とにかく。なんでもいいから、見放さないで欲しい。腹違いだろうが何だろうが、ミキはひのえの実の姉であり、それはこの世でミキただ一人なのだから。
大切な誰かが、いつでも会える場所に、いつまでもいるとは限らないのだから。
「ふん。あれの姉としては、そこまで気に掛けてくれていることに感謝をも覚えるがね、チリ君」
言いたいことが言い切れない。ミキはもどかしげに、ため息混じりの笑いを漏らす。
「そもそも、予定通りではあったんだよ。兄の一件で、機関と――というか、八剣と三鬼の関係が若干こじれているのは知っているだろう。私が居座っていては、和解するにも具合が悪いのさ。――ただ」
ただ。
ミキはそこで言葉を区切って、ゆっくりと天井を見上げた。
それに習って上を見る。何もない黒の部屋に、場違いなほど絢爛豪華なシャンデリアが吊り下がっている。
それは、きらめく貴金属の連なりと、精巧な硝子細工の装いに、宝石の彩りが添えられた一級品――を、いつもと変わらない調子で模していた。
「まあ、なんだね。何事も思い通りとはいかないのさ、チリ君。軌道に乗った人生なんてものは、そもそも存在し得ないのだろう。順風満帆というものが、どれほどの、あるいは幾人による努力の結晶であることか」
思い通りにいかない。最近のミキは、そんなふうにぼやくことが増えた気がする。困ったように、またそれを楽しむように、そして悲しそうに。
いや。本当に、『気がするだけ』なんだろう。
少なくとも、あの夏に至る全てのことは。
アオの思い通りではあっても。
ミキの思い通りでは、断じてなかったのだから。
「ほとぼりを冷ましに高跳びか。いいんじゃねぇの、お前の好きなB級映画みたいで」
「キミね、私が犯罪でも犯したみたいな言い方をしないで欲しいな。いや、何も被害者面をするつもりはないがね。私としても業腹なんだよ。ひのえのことのみならず、この国にだって、まだ思うところはあるのだから」
それは、まあ。そうなんだろうけど。
「前向きに捉えろよ。海外留学と言えば、上昇志向の定番みたいなもんだろ。お前みたいな優等生にはお似合いの、険しくも輝かしい道のりじゃないか」
「その手の海外偏重主義には懐疑的だな、私は。海外でなければできないことがあるように、国内でしかできないこともある。どちらにも素晴らしい面があり、どちらにも欠けた部分がある。どちらがよりその人のためになるかなんて、結果論でしか語ることはできないはずだ」
俯瞰的な物言いだった。ミキらしいと言えばミキらしいが。今はもう、その思考は不自由なものでしかないと分かっていた。
それは、まるで。選択肢を奪うため、ミキに植え付けられた呪いのようで。
「それを度外視して、海外へ行くべきだ、いいや国内に留まるべきだ、なんていう口論は不毛でしかない。各々が口にするその言葉に、どれほどの責任を持てるというのだろう」
「責任ねぇ。そんなこと、いちいち考えて喋る奴の方が珍しいだろ」
行き詰まりを感じて、わざとぞんざいに言い放つ。
好む好まざるの話ではない。結局のところ、ミキの事情を鑑みれば、選択の余地など最初からないのだ。
勘、でしかないが。
このまま国内に留まっている選択が、ミキにとって不都合なのは、恐らく間違いではないのだろうから。
「それより、実家の方は大丈夫なのかよ」
話を変えると、ミキは寂しそうに笑って、応える。
「次兄もいる。あれは凡庸な男だが、だからこそ上手くやれることもある。ひのえが補佐に入ると考えれば盤石だ。私が出る幕はないだろうさ」
一転して。清々しい顔で、あるいは誇らしげに、ミキは喉を鳴らして笑ったが。
今の俺には、なんとなく分かるのだ。
その笑みの下にある、苦しさというか、疎外感というか。そんな感情が、消えずに残っていることが。
これも、勘のようなもの。あの夏から、俺が新たに得た――得てしまった力によって、なんとなく分かること、なのだが。
その力を便利なものだとは、到底思えなかった。
どうにも裏技じみていて。まるで、悪いことを、ずるいことをしている気分になるのだ。
なってしまうのだ、どうしても。
俺はただ、今までどおり。相手との距離を、測っているだけのつもりなのに。
ミキの、他人の気持ちが、知れてしまう。
「期間は? 海外の大学は、確か三年制がメジャーなんだったか」
記憶を探って尋ねてみる。
何気なく。特になんの思いもなく。
でも、ミキは。その表情を、かげらせる。
「――三年、か」
その期間に、感じるところがあったらしい。
いや。そんなミキの様子を見て、俺もそのことを察する。危機感とか、焦燥感とか、そういった類のものではなく。
「三年。たったの三年。――ねぇ、チリ君。三年後の君は、いったい何者になっているのかな」
ミキは、そんなことを。
今にも泣きそうな笑顔で、口にした。
「――さあな」
思わず苦笑いが出てしまう。
頭の中を、色々な思いが錯綜しているのを感じながら、ミキの目を見る。
「三年後――いや、お前が本当に言いたいのは二年後か――だとしてもさ。そんな先の話じゃあ、人間どうなってるか分からないのなんて普通だろ」
それが、ミキにとって普通ではなかったということは知っている。
酷い話だ。望まない未来を延々と、拒んでさえも見せつけられて。それからようやく解放されたというのに、今は先が見えないことを不安がっている。
障害を乗り越えた先から、次の障害が現れる。願いを一つ叶えた先から、新たな願いを抱いてしまう。ゆえに人は真に満たされることなく、永劫の渇きを強いられながら生きなければならない。
――それをもって、ミキはこの世界を『流刑地』と言い表した。
俺自身、それは理解できるところではある。だから別段、否定してやろうとは思わないが。
「少しは気楽に考えろよ。すげぇ考えて、すげぇ頑張れば、そりゃあいい結果が得られるかも知れないけどさ。何にも考えず、何にも頑張らなくたって。案外、思ったほど最悪の事態になんか、ならなかったりするんだぜ」
なんとも歯がゆい。気休めじみたことしか言えなくて。
だけど多分、その方がいいんだろう。
俺とミキの関係は、今までどおりがきっといい。
何かが変わってしまうとしたら。それはきっと俺自身が、俺以外の何かに変わってしまったという証になるのだろうから。
それだけは、我慢のならないことだったから。
たとえその感情が、子どもじみた感傷でしかないのだとしても。
「で。そろそろ決めてくれよ。とっくに日は落ちた頃だぞ」
俺は左手に持つ二枚のトランプを、ミキの前に突きつける。
ミキの手札はあと一枚で。次の一手で勝負が決まるかも知れない、という状況である。
まあ、なんというか。
たった二人で、何をとち狂ったことをしているのかと自分でも思うが。
つまるところ、ババ抜きである。
「右利きのチリ君からすれば遠い左側にジョーカーを持つと見せかけつつ、実は右なのではないかという私の思考の裏を読んでやはり左に」
「夜が明けるわ」
既に四時間はこうして対面しているので、流石に疲れてきたのだ。合間合間に、喋り好きなミキの長話が挟まるのは予想通りだったが。終盤はもう進行が遅すぎて、まさか牛歩戦術かと疑うレベルである。
「チリ君は意地悪だなぁ。こういうとき、アオはいつも私に勝ちを譲ってくれたというのに」
「お前らこんなことやってたのか……」
暇だったわけじゃないだろうに。
ミキの仕事ぶりをより近くで見るようになり、その過剰労働ぶりを見せ付けられて唖然とした。ひっきりなしに誰かと電話してるし、紙の資料も束になって送りつけられる。その上で学校の勉強と、さらには人生相談じみた学生交流までやっているのだから頭がおかしい。マツイさんとは未だに週一で会っているらしいし。ちゃんと寝る時間はあるのだろうか。
「私だって息抜きくらいはするさ。囲碁や将棋、リバーシなんかも試みたが、アオの手には駒が小さくてね」
想像するに難くない。思い出すアオの外見は数メートルの巨人のようで、相応に手足も指も野太いものだった。だからこそ、そんな巨体がちんまりと、室内遊戯に興じている姿がシュールすぎるのだが。
その光景を、俺が目にする機会は、もう二度とないのだろう。
アオはもう、この世界にはいないのだから。
いや、正確に言うのなら――
「二者択一。右を選ぶか左を選ぶか、進むか戻るか、昇るか降りるか。ねえチリ君。その選択が己の世界に、即ち人生に、どれほどの影響を与えると思う?」
またぞろ、ミキのご高説が始まる。
いい加減無視してやろうかとも思ったが。ラストチャンスのつもりで、乗ってやることにした。
「人生とは選択の連続だ、みたいな話か。そういう二択の積み重ねが将来を決めると考えれば、その一つ一つの影響力も馬鹿にならない。だろ」
――これは、アオの影響なのかも知れない。
これまでの道のり、選んできた分岐を辿ることで過去を知る。その傾向と連続性をすべて網羅することで、未来さえも予測する――ラプラスの悪魔。それがあの『鬼』の力だった。
その一端を、僅かにとはいえ宿してしまった俺もまた。そんな怪物の成れの果て、みたいなものなのだろう。
「いいや」
ミキは、わざとらしく勿体ぶった顔で首を振る。
「存外、そうでもないんだよ、チリ君。なんて言うのかな。今ここでこうして振り返ってみれば。現在の自分を形作るものは、確かにこれまでの選択の山ではある」
ゆっくりと、ミキの手が伸びてくる。
「それは裏を返せば、可能性の示唆であるはずだ。これまでがそうであったように。これから拾い束ねていく選択によって、未来は千差万別に変化する。だから考え続け、行動し続け、少しでもいい未来を掴もうとする人生に、確かな意味を見出だせる――だというのに」
幽霊みたいな、青白い手が。
俺の持つカードの一枚に、指をかける。
「どんな選択をしても。どんな道を往こうとも。ああ、私は知った、知ったんだよチリ君。変えられない未来が、避けられない無間の地獄が、確かに存在するということを」
その手は、ジョーカーを引き当てて。
ミキの胸元へ、吸い込まれていった。