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六曜社

作者: 裏方

あらすじに記入しました。

 寺町通から、三条通りを鴨川の方へと抜ける。


 連日の猛暑は、各地の記録を続々と塗り替え、あまりにも簡単に記録的という言葉がテレビの向こうから聞こえてくるものだからそのうちに、彼は体にべったりと執拗にこびりつく熱気にも関心を示さなくなってしまっていた。白いTシャツに汗がにじむのがわかる。

 河原町通との交差点を少し下ったところに地上と地下に別れた喫茶店、六曜社の看板を見つけた彼は、耳に流れるフランクシナトラのfly to the moon の音量を下げながらしばらく看板を見つめると、地上の方の自動ドアの前に立った。


 自動ドアが開くとタバコの匂いが彼の鼻に付く。相席でよければと店の中央に案内され、二人がけの古い革ソファに座った。前にはタバコをぷかぷかとしながら新聞を読む老婆が座っている。彼女は眉をひそめて難しい顔をしながら、丁寧にその活字の海を眺めていた。広い海の底に眠る本質を見極め、必要となる事実だけを海の上から掴み取り、それらを繋げながら彼女は活字の海を進んで行く。


 彼はオリジナルブレンドをコールドで頼み、一通り店内を見渡した。


 木を基調にしたモダンな雰囲気が漂う店内に空席はない。彼が座ったソファ席を含め4人掛けの席が4つ、入り口を正面にした左手に並んでいる。右手には、手前に客が座ることのないカウンターがあり、少し広くなった奥の方には5人ほど座れる席が2つほどあった。窓はなく、橙の照明が二つ、店の奥を落ち着いた雰囲気に演出している。天井に埋め込まれたいくつかのLEDライトと、バーカウンターに付けられた四角い照明が、彼の座っている一帯を明るくしていた。


 彼は一冊の本を取り出した。白いブックカバーにはスヌーピーが刻印されている。彼がスヌーピー好きの彼女にもらったものだ。1953年から1997年までのスヌーピーがブックカバーの端っこに描かれている。ウエイターがコーヒーを、前の小さな机に起くと、彼は軽く頭を下げた。


 ミルクを入れてから、ストローでくるくると回し一口飲むと、甘さの中に顔を出す苦味が口の中に広がる。彼は本を開き村上春樹のアフターダーク*1の続きを読み進めた。本の中では、キャラクター達が過去を告白している。それは、彼が経験のしたことのないような暗く重い過去だった。それでもキャラクターたちはそれがこの世界では当たり前であるかのように、淡々と話している。



 本から顔を上げる。



 コーヒーをもう一口。




 目の前でタバコをぷかぷかとしている老婆も。

 右で明日のランチをどうするかでもめているカップルも。

 左で古書を読んでいる髪の長い大学生も。

 カウンターで無言でコーヒーを淹れている乱視のマスターも。

 何か壮絶な経験をしているのだろうか。


と彼は考える。


 もしかしたら目の前の老婆は昔、強盗団の一員で行方不明になった仲間たちを見つけるために、必死で新聞を読んで手がかりを見つけようとしているのかもしれない。

 カップルの彼氏の方が明日、恋人を殺める計画を立てているためにランチの予定を変えられては困るのかもしれない。

 マスターは裏の世界から足を洗ってこの店をやってるのかもしれないし、髪の長い大学生は、どこかの国のスパイかもしれないのだ。

 そう考えると、自分が全くもって、何の特質もない、つまり何の意味も持たないような平凡な人生を送っているのではないかという考えが浮かんだ。しかし、それら、いわば特殊な経験をしている事が至極普通なのであれば、逆に自分が一番平凡ではないのかもしれない。とそんなそよ風で飛んで行きそうなくらい薄い哲学をするのも、そんな妄想がたまらなく好きなのも、全てはこの世界に蔓延する数多くのくだらない書籍のせいだと彼はよく自分の妄想癖を世界中の本のせいにした。


 彼は、勝手に作り上げた彼女らの人生に想いを馳せることに飽きると再び、深夜の大都会での一幕へと目を向けていた。








 いくらか時間が経った。








 僕らにとっては一瞬だった。







 老婆はもう、活字への航海を終えてどこかへ行ってしまった。


 カップルは、写実主義とリアリズムについて話している。


 髪の長い大学生が会計を済ませ、マスターは椅子に座って休憩中だ。



 僕らは彼に世界の視点を合わせる。




 彼の世界は今はその視線の先の本にある。




 彼は今、深夜の大都会の一幕を覗き見している。



 彼は確かに、そこにいるキャラクター達の進んでいく物語や、喜怒哀楽を感じている。


 集中すればするほどそのキャラクター達の存在は濃くなり、息遣いすら聞こえてくる。


 確かに、本の中に、彼らは存在している。


 しかし、本の中のキャラクターが彼に気付くことはない。



 集中するあまり、大学生が今出て行ったことも、カップルの討論が激しさを増していることにも、マスターが今くしゃみをしたのにも彼は気づかなかった。ただ唯一、飲みかけのコーヒーと耳に流れるペニーグットマンのsing sing sing、そしてタバコの匂いだけが彼の世界にかろうじて存在出来ている。



 それになぜだか僕らは、どうしようもなく寂しくなった。




 深夜の大都会にいるキャラクターたちは、彼がのぞくことで世界が構成されている。






 彼やこの喫茶店の人々の世界も、僕らが覗いていることで世界が構成されている。






 だけれど僕らはどうだろう。






 誰にも覗かれることはなく、気づかれることもない。






 この世界に彼らが存在することは僕らが証明している。





 だけれど僕らはどうだろう。





 僕らは誰からも証明されずにとり残される。





 僕らには世界がないのだ。





 彼は満足げに本を閉じ、立ち上がり会計を済ませると、向こうの空にできた大きな雲を

見上げた。


 「雨が降るかな。」



 と一言だけ言うと、市内の居候先の家へと、歩みを進めた。




 京都には台風が近づいていた、夏の1日。



 僕らはまだ、存在すらしていなかった。



*1:作中には村上が表現する、深夜の都会という「一種の異界」が描かれている wikipedia参照 アフターダーク - Wikipedia 

あらすじに記入しました。

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