ネジ欠けの彼女
初めて手を出したジャンルの短編です。ですので、よろしければ読後に関そうや評価をいただけると非常にうれしいです! 今後の作品制作に生かしていきたいと思っています。
【プロローグ】
人間は精密機械のようなものだ、とはよく言ったもんでね。人間ってのはどこかに異常――故障が出てしまうと遅かれ早かれ全体に影響を及ぼしてしまうんだ。おっと、なにも肉体に限った話ではなくてね、人間にとっては、『心』もそれはそれは大切な部品の一つなんだ。
職業柄、ワタシはいろんな人と会ってきた。それでね、その中にはいるんだよ、一定数。キミ達のような、本当の意味で心を病んでしまった人がね。ワタシはそんな人達を、ネジ欠け、と呼んでいるんだ。
【第一章】
休憩時間、それも昼休憩の時間にもなれば、風船が破裂した時のように周囲が一気に騒がしくなる。何故なら皆、一斉に各々の友人の下へ向かうか、食堂へ殺到するからだ。毎日ご苦労なことだ。
まあ、『弁当を持ってくる』という名采配を下した俺は、人間の波に呑まれることなく優雅に食事を摂れるのだが。
そう、不用意な奴らを内心で嗤うと、俺は弁当を広げた。
「おい、アイツまた一人でニヤニヤしてるぜ……」
「いつものことだろ。あんまり関わらねえ方が身のためだ」
教室のどこからか、仲良く囁き合う声が聞こえてくる。どうやら期せずして感情が顔に出ていたらしい。だが、奴らは笑われているのが実は自分達のことだとは思っていないだろう。
今日の弁当の内容は、箱半分の白飯に玉子焼き、冷食のハンバーグ、ソーセージと付け合わせのレタス。ああ、実に一般的な組み合わせだ。
そう、『一般的』。
『一般的』というのは、個人的に好みではない。これは持論だが、『一般的』は誰もが為せることであり、至って普通のこと。つまり、その『普通』の範疇に収まるのは、上を目指す事を諦めた奴のすることだと俺は考えている。
だから、俺は常に『普通』から抜け出す事を目標として生活している。
とはいえ、やはりまだ手の回らない部分があるのは自覚している。そこを如何に埋めるかがこれからの課題となっている訳だ。
「あ、おいあれって例の三山さんじゃないか?」
「可愛いよなぁ。彼氏とかいんのかな?」
「あんなに綺麗で勉強もできるなんて、すごいわよね〜」
そうしていると、廊下がまた騒がしくなる。しかし、先程とは異なり、まるで街中で芸能人を見つけた時のようなざわめき方だ。
その要因には、おおよその見当はついている。何故なら、この現象はこの高校に入学してから一カ月と間もない俺でも既に数度目の当たりにしているからだ。
その原因とも言える彼女は、ここに通う人間ならば知らない人間はいないであろう程の有名人。俺と同じ学年で、成績優秀、容姿端麗、ただ一つの欠点としてはコミュニケーションがあまり得意ではないという点か。入学早々、とんでもない美人として電撃的な速度で有名になった彼女の名は、三山楓。同時に、俺が密かに想いを寄せている人物でもある。
俺は、入学後間もなくして広まった彼女の噂に釣られて実際に顔を見に行って以来、彼女に惹かれている。いわゆる、一目惚れというやつだ。初めこそ「そんな俗な感情で惚れ込むなんて」などと思っていたのだが、そんな雑念は、彼女のどこか浮世離れした雰囲気に一蹴された。しかし、その他者を寄せ付けないような雰囲気のせいもあってか、一度も彼女と話すことができていない。
いつも、話題は浮かんでくるんだがな……。
そうして俺は、モヤモヤとした気持ちを抱いたまま、ほとんど何のアクションも起こせずに三カ月を過ごした、という訳なのだ。
「まったく、どうにかできないもんか……」
神の奇跡か何かが起こって、急に仲良くなれるチャンスなんかが舞い込んでくれば良いのに。
そんな神頼みをしながら、俺は食べ損ねてしまった付け合わせのレタスを嫌々口に運んだ。
嗚呼。しなびたレタスほど微妙な味の物はこの世には無いだろう。
* * *
「んあ……?」
図書室のスピーカーから流れてくる下校時刻を報せる音楽で、俺は目を覚ました。どうやら、いつの間にか読書中に眠ってしまっていたらしい。下校の音楽が鳴ったということは、今は夕方の一八時頃か。
眠気眼をこすり、顔を上げて周りを見ると、受付で暇そうに本を読んでいる図書委員の姿が目に入った。随分と立派に職務怠慢をしているが、あれで良いのだろうか?
「ふぁぁ……ぁ」
欠伸を一つした後、読んでいた本を返し、鞄を持って退室した。
寝起きだからだろうか、まだ頭がハッキリしない。それに、瞼も重い。欠伸があとからあとから出てくる。
「ああ……眠たい……」
そんなに睡眠時間が足りていなかったのだろうか。思い返してみるが、別段そういったことがある訳ではなかった。ただ、眠っていただけらしい。
「まあ、そんなこともあるか」
そうして、さあ帰ろうかと廊下を歩いている時だった。
視線の先に、電気が点いていないにも関わらず不自然に入口が開いている教室があった。
通常、俺の通う高校では放課後には犯罪防止も兼ねて、教師が各教室の鍵を施錠することになっている。だから、この時間に教室が開いていることは、普通ならあり得ないことなのだ。
俺は考える。違う人間は、ここで実際に行動できるのではないか、と。ならば、やるべきことはただ一つだ。
「これで、俺はまた一つ成長するという訳だ」
意気揚々と、鼻を鳴らしそうな勢いで空き教室へと歩み寄る。そして、いざドアを閉めようドアに手を掛けた俺の視界に、何かが入り込んできた。
「誰か、いる……?」
窓際一番後ろの席という最優のポジションに、誰かが座っている。
彼女は、電気も点けず、何もせずにただじっ、と虚空を見つめていた。何故、瞬時に性別を看破できたかと言うと、その人物はスカートを着用しており、おまけに髪も肩にかかるぐらいの長さだからだ。
外で部活動が行われていたこともあって、グランドは野外照明に明るく照らされている。そのあまりある程に強力な光は教室の窓からも僅かに入り込んできており、彼女の横顔が確認できた。彼女の顔は、一言で表現するなら、人形のようだった。付け加えるなら、人間味を感じない無機質な顔だった。それほどまでに、彼女からは、およそ生気と呼べる物が感じられなかった。
そして、俺はこの顔を知っている。それは紛れもなく、三山楓の顔だった。
だが、何故彼女がこんな時間に、こんな場所にいる? この時間に学校に残っている生徒なんて部活動をやってる奴らぐらいのものだ。少なくとも俺は、三山楓が何かの部活動に入っているなんて話は聞いたことが無い。それこそ、彼女が何かの部活に入ったりなんてしたら、一大ニュースとなって学校中に知れ渡っているだろうからだ。
俺は、ここで今一度状況を整理した。その結果、今はあの三山に話しかけるチャンスなのではないか、という提案が脳内議会で提出された。
「み、三山、か……?」
気付いた時には、そんな自信の無さそうな声が口をついて出ていた。
すると、当然、俺に呼ばれた三山がこちらを振り向いた。咄嗟のことだったため、彼女とばったりと目が合ってしまった。
「…………」
そこで感じた、違和感。ハッキリと言おう、俺が彼女と目を合わせたのは、これが初めてだ。それでも――否、だからこそだろう。彼女と目を合わせた瞬間、背を、氷が撫でた。
人間は、自分とは全く異なる性質の人間を前にした時、理由もなく嫌悪感を抱いて本能的に避けてしまう傾向があると、どこかで聞いたことがある。俺が今感じているのは、それに同じなのか。
だが、それこそが三山の独特な魅力なのかもしれない。俺は、そう思った。
「どうか、されましたか?」
とても澄んでいる、しかし感情がこもっていない平坦な声。彼女は、名を呼ぶだけ呼んで放置している俺に、当然とも言える疑問を投げかけてきた。
「あ、ああ……その……」
それに対し、俺はすぐに返事を思い付かず言葉を濁してしまう。
そんな時だった。
「……ッ!」
俺の脳裏に稲光のように鋭く飛来したそれは、一言の言葉だった。これが、迷える仔羊に神が頂戴なさった御言葉なのかもしれない。もしもそうなら、俺は明日からでも貴方の信者になろう。
勇気を持って口にする。この世すべての人間と友好関係を築くのに使える、万能の言葉を。
「お、俺と、友達になってくれないか……?」
「はい。いいですよ」
俺の誘いに、三山はほとんど考えることなく首を縦に振った。
その返事を聞いた俺は、体の底から湧き上がってきた喜びの感情を存分に噴出させた。
ふと、三山がどんな顔をしているのか気になった。さっきまでと同じような人形のようかもしれないし、もしかしたら笑っているかもしれない。俺は、ひとしきり気持ちを放出させた後で三山の方を向いたが、ちょうどその時にグランドの照明が落とされて彼女の顔を見ることができなかった。
【第二章】
さて、『例の事件』があった日から時が進み、世の中は待ちに待った夏休みに突入していた。
とは言っても、悲しいことに世の中には夏休みが存在しない方々がいる。そんな方々に敬意を払いつつ、俺は青春只中の夏を満喫していた。
所は、町の交通の要衝である、電車の駅。その前にある緑化広場だ。俺は今日ここに、あの三山楓と一緒に来ていた。
チラと横を向くと、黒の長髪が風に躍った。そこには白い半袖ワンピースに、つばの広い麦わら帽子という恰好の三山が座っている。その出で立ちは、『清楚』という単語の概念を体現していると言っても過言ではないだろう。
この広場は目の前に海があるので、潮風が非常に心地良い。特にこの時期は、カップルだけでなく家族連れにも人気が高い。そういう理由もあって、今日もやはり人が多く、とても賑やかだ。
ところが。
「…………」
「…………」
そんな周囲の空気と比べて、俺と三山の空気は最悪だった。
ただ、どちらかが下手なことを口にして険悪な空気になってしまったとかではない。決してそのようなことは無く、どちらかと言うと、その逆。絶望的に話せないのだ。努力をしていない訳ではない。俺はきちんと話題を振っているつもりだ。だが、三山がその全ての返答を一言で済ませてしまい、話が続かないのだ。
例を挙げてみよう。
まず一つ目。
「今日はとても気持ちのいい天気だな」
「そうですね」
次。
「その服、とても似合ってるな。明るい印象になってて、見違えたよ」
「ありがとうございます」
最後。
「こ、子供達、すごく元気だな」
「はい」
この始末である。他にも挑戦してみたが、全てこれらと同じように片づけられた。
そして、もう一つ。三山との友達付き合いが始まって気付いたことがある。彼女は、全くと言って良いほど自分の意思表示をしないのだ。
意思表示とは、意見を伝えるだけでなく、自意識に従って行動する、といったようなことも指している。
つまり、彼女は自分からはほとんど何かを言うことは無いし、自分から行動することも無い。だから、二人でいても絶望的に盛り上がらないのだ。
とは言っても、最初よりかは遥かにマシになったと思う。なったと、思う。
「これから、どうしますか?」
そう思っていると、三山が尋ねてきた。
「ああ、そうだな……」
言われ、考える。失敗だった。せっかくデートに来たと言うのに、この後のことを何も考えていなかった。
どうしよう。どこに行けば良いのだろうか。そんな時。ぐぅぅ、と、しばらく餌を与えられていなかった虫が不満げな鳴き声を上げた。そうか。ちょうど今は昼時か。
「ちょうど昼飯時だし、どっかに昼飯を食べに行こう。この近くに、俺のおすすめのハンバーガーショップがあるんだ」
「はい。では、そちらに」
「よし、決まりだな」
俺が立ち上がると、それに伴って三山も立った。
目的の場所は、ここから歩いて五分程度のところにある。少々値が張るものの、味は格別だ。そこらのファストフード店では味わえないものがある。
三山がぴったりと俺の半歩後を歩くため、半ば俺がエスコートしている形になりつつ目的の店に到着した。
「いらっしゃいませー! お好きな席にどうぞ」
店内に入ると、すぐ店員にそう言われた。好きなところに座っていいようなので、お気に入りの席に座ることにした。ここでも例によって、俺が促した席に三山は座る。本当に、遠慮がちな性格なんだなと思う。
さて、注文だが、俺は既に決まっている。なので、三山の様子をうかがってみることにした。
チラと前を見てみると、三山は意外にもメニュー表を真剣な眼差しで見つめていた。何か気になる料理があったのだろうか。なんにせよ、普段の彼女から考えると珍しい一面だ。どうやら食には一定以上の関心があるらしい。新たな発見である。
「旨そうだろ?」
メニュー表に夢中な三山を見ていた俺は、つい、そう声をかけていた。
「……ぁえ?」
「ん?」
その時、三山の口から信じられないほど気の抜けた声が聞こえてきた。何かと思って俺が聞き返すと、三山は取り繕うかのように話し出した。
「あ、いえ、その、確かに美味しそうなお料理がたくさんあると思いまして……。あ、あの、がっついているように見えましたか……?」
普段の倍増しの文量で尋ねてきた三山は、少し恥ずかしそうにしているように見えた。だが、俺にはそれだけではないようにも感じられた。
何かが。そう、何か(・)が違う。それは、親の得意料理の味付けがいつもと違う、くらいの違和感だったが。
おっとと、いけない。三山が訊いてきたことに答えないと。
俺は、慌てて思考を現実に引き戻し、三山の不安に答える。
「いや、そんなことはないぞ。むしろ、三山にもそんな風に興味のある物があるんだと分かって安心したくらいだ」
「そう、ですか。なら、良かったです」
そう言ったきり、三山は黙ってしまった。
キリが良いし、とりあえず注文しよう。
「注文、いいですか?」
「はい、どうぞ!」
「俺は、照り焼きベーコンバーガーとアイスコーヒーのAセットで。三山は?」
「…………」
俺が促すと、三山は無言でメニューを指差していく。なるほど、B・L・TサンドとアイスカフェオレのAセットか。
「じゃあ、これで」
「かしこまりました!」
そうして注文が終わると、店員がメニューを復唱して奥に下がった。
料理が出てくるまで、少し時間がある。
なんだか、今日は三山がよく喋る。いつもはただ単に喋らないだけなんだろうか。
俺は考える。これは、三山とたくさん話せるチャンスなんじゃないだろうか。この勢いに乗って話を振れば、イケるかもしれない。
そこで、俺はこんなことを聞いてみた。
「三山は、他に興味のある物はあるのか?」
「それですと、料理でしょうか。同じく、食に関する物ですが」
表情は変わらないが、きちんと答えてくれた。ちょっと嬉しいぞ。
「料理か。てことは、普段も何か作ったりするのか?」
「時間のある時は、たまに。学校に持って行く昼食は、自分で作った物です」
「へぇ。そうなのか」
なるほど、これまた以外だ。今の時代、料理が趣味という女子もなかなかいないだろうに。だが、俺の気はそんなことよりも三山がしっかりと受け答えしてくれたことに向いていた。
他愛無い、同時に個人的には有意義な会話をしていると、頼んでいたバーガーが届けられた。鼻腔をくすぐる香ばしい肉と照り焼きソースの甘酸っぱい香りが最高に食欲をそそる。もう、堪らない一品だ。
三山の方を見やると、これまた旨そうな一品だった。まっしろでやわらかそうなパンに挟まれた、色鮮やかな具材。中でも野菜は一目で新鮮だと分かるほどに瑞々しく、その色合いが視覚すらも味覚の一種と変えてしまいそうだ。
肝心の三山の様子はと言うと、目を大きめに見開いていた。あまり表情の変わらない彼女がこれだけの反応をするということは、目の前の料理に相当興奮しているに違いないだろう。
さて、見たい物も見れたところで早速いただくとしよう。
「いただきまーす」
「いただきます」
言って、かぶりついた。その瞬間、やわらかい鶏肉の食感とともに口内にジューシーな肉汁と絡められたソースの濃厚な風味が広がった。一口目を飲み込むと、口がバーガーに吸い寄せられた。二口目も、やはり旨い。なんと食が進む味わいだろうか。
そうして、それから一〇分程度でそれぞれの料理を完食した俺達は、会計を済ませて店を出た。
今日も旨かった。また今度、来るとしよう。
「美味しかったです。ありがとうございました」
財布をズボンのポケットにしまうと、三山がいつも通りの無表情で言ってきた。だが、それは彼女なりの精一杯の感謝であるのだろうと、俺はなんとなくわかった気がした。
「どうも。人に紹介するのは初めてなんだけどな、気に入ってくれると嬉しいよ」
「はい。良い経験になりました」
またもや意外。てっきり「はい」だけで済まされるものだと思っていたが、その続きがあるとは。
これは良い傾向だな。そう、俺は思った。初めの頃は、本当に会話が成立しなかった。こちらが何を聞いても、言っても、一言の短い返事だけで終わっていた。水に石を投げ込めば、ポチャンと音が鳴るのと同じぐらいの事だった。しかし、今日は違った。三山が俺に慣れたから、ということなのだろうか。
こうして喋る量が増えて行けば、三山はさらに学内で人気者になれるだろう。友達が増えるのは良いことだ。ああ。そうだ。
「これから、どうする?」
ふと、三山に聞いてみた。
「……あそこのお寺に、登りたいです」
少々考えてから、三山は言った。
『あそこのお寺』というのは、恐らく、長い坂の上にあることで有名な寺の事だろう。若い層の間では、猫がたくさん見られることでよく知られている。彼女は、そこに行きたいと言っているのだろう。
「よし、わかった。じゃあ、食べたばかりだし、少し休んでから行こうか」
「はい」
返事と一緒に、三山の麦わら帽子が揺れた。
その後、また初めの広場に戻って小休憩を入れた俺達は、三山が言っていた寺に向かうため坂を上った。これがまた長いかった。寺、と言っても三山の目的はその途中にある、猫が集まる公園だったらしい。
そこに着くと、三山は疲れを感じさせない様子で猫と戯れた。そこでは、まるで別人のように楽しそうに猫とふれあっていた三山が印象的だった。途中から、俺も混ざった。どうやら俺は猫にあまり好かれない体質らしかった。
それからは、気付くと日が暮れそうになっていたぐらい、夢中で楽しい時間だった。
「はぁぁ。やっぱ動物とふれあうと何でかすごく癒されるなぁ」
「動物セラピー、という言葉がある程ですからね。彼らの癒しの効果は確かな物なのでしょう」
ごろごろと喉を鳴らす猫を撫でながら、三山は言った。心なしか、その顔が微笑んでいるように見えた。
「あれ。三山、もしかして笑ってるのか?」
歓喜のあまり、心の声が口に出てしまっていた。
「ぁ、その……」
それを聞いた三山は、小さくそう呟くと、俯いて喋らなくなってしまった。
しまった。三山が黙りこんでしまった。
「あー、その、笑ったのが悪いとか、そんなことを言ったんじゃないぞ? 三山でも笑ったりするんだなって、そう思っただけで」
「…………」
なんとかフォローを入れようと頑張ってみたが、当の彼女は下を向いたままで何も返してこない。
三山の雰囲気的に、これ以上会話するのは難しそうだな。まあ、もう時間も遅いしここらで解散にするとしよう。
そう考えて、三山に提案する。
「それじゃあ、もう時間も遅いし、暗くなる前に解散しようか」
「……はい」
その提案に、三山は短く返事をした。
思い返せば、今日は多くの収穫があった。とても有意義な一日だった。
そして、公園の猫達に別れを告げて、俺達は坂を下りた。帰りはあっという間だった。
下まで降りたところで、俺は三山に言った。彼女の帰り道は、俺とはまったく違う方向だ。
「じゃあ、またな」
「はい。では、また」
言って、三山は丁寧にお辞儀をした。俺はそれに対し軽く手を振って、踵を返した。
と、その時。
「今日は、楽しかったですよ」
背後から、そう言う三山の声が聞こえてきた。その声は、満面の笑顔がセットで付いてきそうな明るいものだった。驚いて振り返ったが、既に三山は歩き出していた。
ああ言った三山の顔は見れなかったものの、その声を聞くことができただけで十分に思えた。
「ああ。楽しんでもらえたようで、何よりだ」
俺は、三山の背中にそう声をかけた。そうしてまた、歩き出した。
「また、会おうね」
風に乗って、そんな言葉が聞こえた気がした。
恐らく、どこからかの会話が一部、聞こえてきたのだろう。
【第三章】
さて、夏休みが開けてから一カ月程度が経過した。世の中は、秋の様相を呈し始めていた。夏の間に元気に青々とした枝葉を茂らせていた草木は痩せ始める。秋とは、そんな移り変わりの季節だ。
『変化』と言えば、あの夏のデート以来、三山の俺に対する反応が今までよりマシになった。と言っても、感情表現が豊かになったという訳ではなく、以前と比べて会話ができるようになったぐらいのレベルの話だが。
続いて、二つ目の変化。普段の学校生活で、三山と一緒にいる時間が多くなった。休憩時間や、放課後の少しの時間など、初めの頃より明らかに共にする増えた。
そして、三つ目。三山が、以前より物思いに耽る時間が多くなった。無論、ただ呆けている時もあるのだが、それとは明らかに違う雰囲気を漂わせている時があるのだ。
そのことについて尋ねてみても、「何でもありません」と答えるばかり。何も教えてくれないのだ。そうなってしまえば、もうどうやっても答えてくれないのはよく知っているので、深く追求しないようにしていた。
そんなことを考えつつ、ふと、正面の三山を見る。彼女は、いつも通りの何を考えているのか分からない表情で、ちびちびとサンドイッチを食べている。
「なあ」
「なんでしょう?」
「それも、今朝作ったのか?」
「はい。即席ですが」
とのことらしい。毎朝キッチンに立って昼食を作っている三山を想像すると、存外に似合っていた。
さて、思考を現実に戻そう。今日は、物思いに耽る時間が増えたことについて少し粘って聞いてみよう。何かの悩みがその原因であるのなら、話した方が楽になるというものだ。こうして良好な友人関係を築けている以上、それも俺の仕事に違いないだろう。
そして、俺はそれらしく手を組んで三山に話を振った。
「なあ、今まで何回も聞いたことなんだがよ。最近よく、ボーっとしてると言うよりは物思いに耽っているような時があるよな。あれは、何を考えてるんだ?」
「…………」
尋ねてみるが、ダメだ。もはや無反応。顔すらも向けてくれない。だが、今日は簡単に引き下がらないことにしている。
続けて俺は言う。
「どうしても気になるんだ。答えてくれないか?」
「…………」
「どうして答えてくれないんだ?」
「…………」
「頼む! 気になって夜も眠れないんだ!」
「…………」
これでもダメか。ここまで頼んでも、三山は一向に口を開こうとしない。その上、珍しく俯いて目線を外されてしまった。普段物思いしている内容は、そんなに話したくない事なんだろうか?
と、考えていると――
「わかりました」
「へ?」
「わかりました。本日の放課後、私に付いて来てください。あなたの知りたがっている事を、教えて差し上げます」
そう言った三山の口調は、どこかうんざりしているような、イライラしているような印象を受けた。
「あ、ああ。わかったよ。じゃあ、今日の放課後だな」
その反応に、俺は少し驚いた。
「…………」
俺が答えるが、三山は押し黙って何も言ってこない。
今まで、夏のデートを除けば、三山が話す言葉のほとんどに感情というものを感じられなかった。だが、先程の言葉からはその片鱗を感じられた。それも、恐らくは俺が初めて三山から向けられた感情であろう。いや、ただの考え過ぎ、という可能性もないことはないが。
とにかく、今日の放課後に様々な事が明らかになるのではなかろうか。俺は、何やら妙な予感を感じつつ、今朝大急ぎで作った握り飯を口に詰め込んだ。
* * *
「それじゃあ、土日は事故なんかに気を付けて、また来週な。はい、日直、号令」
担任が指示をすると、今日の日直が帰りのホームルームの終了を意味する挨拶の号令をする。俺も周りの奴らと同じように席を立った。挨拶を済ませて荷物を持ち、廊下に急いで飛び出た。確か、三山のクラスは隣だったな。
そう考え、俺は隣の二組を覗く。どうやら、こちらも一組と同じく帰りのホームルームを終えたばかりのようで、教室内が土日の予定なんかを話す生徒の話声で満たされている。俺は、そんな中で目的の人物を見つけるために目を凝らす。しかし、見渡せども見渡せども三山の姿を確認できない。
どこだ。居れば確実にわかるんだが……。もしかして、もう校舎から出たとか。いや、アイツに限ってそんなことはないだろう。
そう思った俺は、踵を返して階段を目指し――
「何をなさっているのですか」
「どぅおわぁっはっ!!?」
振り返るとすぐ後ろに三山がいて、危うくぶつかってしまいそうになったのも相まって変な声が出てしまった。
「は、はあ、み、三山か。お、驚いたぞ……」
「私はずっとあなたの後ろにいましたが」
「って、ずっと後ろにいたのかよ!?」
「はい」
「だったら、黙ってるんじゃなくて何か一声掛けてくれ……。それか、もう少し存在感を主張してくれ……」
「努力はしてみます」
と、俺の言葉の意図が分からないと言いたげに間を置いた後、返事をした。
過程はどうあれ、目的の人物は見つけた。さて、それでは本来の目的を果たしに行くとしよう。
「それで、俺はどこに連れて行かれるんだ?」
「私の自宅です」
俺が問うと、三山は間髪入れずにそう答えた。
「えっと、なんだって?」
返事が聞き取れなかった気がしたので、もう一度聞いてみる。すると、三山は無感情な瞳で俺の顔を見上げたまま、こう言った。
「私の自宅です。そこで、あなたが知りたがっている事についてお話しします」
「そ、そう……。三山の家、だったか……」
それからというもの、俺の頭はモヤがかかったようにぼんやりとしていた。
そのモヤとは、「家ってことは、両親がいるんじゃないのか?」「女の部屋なんて入るのは初めてだぞ!?」「コイツの部屋ってどうなってるんだろうか?」などの煩悩だった。聖徳太子でも捌ききれないであろう、おびただしい量の疑問や感動が一気に浮かび上がったせいで、俺の脳はパンクしかけていた。そうして、何も考えられぬまま三山にただただ連れられて歩いていた俺は、とうとうその場所に到着したのだった。
「ここです」
三山の自宅。そこは、閑静な住宅街の一角で確かな存在感を放つ豪邸――などではなく、普通の二階建て一軒家だった。表札に『三山』とあることから、彼女の言葉に嘘は無いだろう。
「こちらです」
「あ、ああ」
三山が先導して、家の前によくある防犯の足しにもならない小さな門を開ける。門は、キィ、かなりの時間の経過を想像させる音を立てて俺を迎えた。そのすぐ前には、三山家の玄関に続くドアが見える。ここで俺は、改めて三山家にお邪魔することを覚悟した。
がちゃり。
ドアの鍵が開く音と共に、頭の中が真っ白になった。
「どうぞ」
三山は玄関前で立ち尽くす俺に、まるで出迎えに来たメイドのように、手でドアを支えて丁寧な姿勢と口調で言った。
「お、お邪魔します……」
導かれるまま、俺は恐る恐る三山家の敷居をまたいだ。礼儀がなっていないと思われないよう、きっちりと靴を揃えて家に上がる。
だが、それにしても人の気配がしないな。三山を迎える声が一向にしないということは、親御さんは外出中なのだろうか。
どうやら、俺の緊張は親御さんが居る居ないとは関係が無いようだ。どくどくと高鳴る心臓の鼓動音を聞きながら立っていると、俺の横を三山がするりと通り抜けた。そして、廊下を曲がった先にあるドアを開いて俺の顔を見てきた。入れ、ということらしい。
「わかった」
指示された通り入る。その部屋は、リビングダイニングのようだった。
いや、本当にそうなのだろうか。
「……?」
俺は、その部屋に幾ばくかの疑念を抱いた。物が無い。あるのはダイニングテーブルと、セットのイス、それに冷蔵庫、敢えて言うなら備え付けのキッチン。たったの、これだけ。絶望的なまでに、この部屋には物が無かった。良く言えば『綺麗』、悪く言えば『人が住んでいるとは思えない』といった感じだろうか。
「…………」
その異様な光景に俺が?然としていると、いつの間にか三山がテーブルの上に二人分の茶を用意してくれていた。三山は、自分の対面に湯呑を置くと、俺に視線を向けて言った。
「どうぞ。お座りください」
「あ、ありがとう」
日常感と非日常感の交錯にやや戸惑いながらも、俺は三山に促されたイスに座った。なんだか、冤罪で尋問に掛けられる人間の気持ちがわかった気がする。
「…………」
やはりと言ってはなんだが、三山から喋り出す気配が感じられない。だから、俺は、仕方なく湯呑に手を伸ばした。ずずっ、と、茶をすする音が室内に淋しく響く。テレビといったような、他に音を発する物が無いせいで、その音は殊更大きく聞こえた。茶については熱くもなく温くもなく、ちょうどいい温度だ。それに、味もなかなかのものだ。
水分を口にして、口内と喉が潤った。
それでは。
「それじゃあ、本題に入ろうか」
「はい」
意を決して切り出した俺に対し、三山は淡泊な応答を返してきた。だが、もうこの温度差には慣れた。ここまで来たのだ。戸惑いはしないさ。
「まずは確認だ。三山。夏のあの日以来、お前は何か物思いに耽っているような時間が多くなった。違うか?」
「いいえ」
「じゃあ、その時お前は、一体何を考えてるんだ? お前の友人として、心配なんだよ。それを抜きにしても、お前の様子は最近変だ。頼む! 教えてくれ!」
「――わかりました」
一拍置いて、三山は答えた。すると、彼女は自分の茶を一口すすり、重たそうに口を開いた。
「物心付いた頃から、私は両親――特に母から厳しい教育を為されてきました。友人を作ることも、欲しかったおもちゃで遊ぶことも、自由にお菓子を食べることも、寝る時間さえも制限されました。しても良いのは勉強と習い事だけ。しかし、唯一希望を見出せそうだった習い事さえも、母から指示された物のみでした。一日を、一カ月を、一年を、母の指示通りに過ごしてきました。母から指示されたことをそのまま、完璧にこなす。そうすれば、母が喜んでくれました。だから私は、母に喜んでもらうために結果を出し続けました。
そして、私が小学六年生の時です。両親が離婚し、私は、母に引き取られました。それから、母の教育は一層厳しくなりました。それによって、私の自由な時間は完全に失われました。しかし、それは女手一つとなった母も同じでした。私を養うために昼夜を問わず働き、日々疲労を溜め続けていく母の姿を見ながら、私は、母に言われた通りに学年でトップの成績を取り続け、習い事や家事もこなすようになりました。私は、中学校に入学してから、死に物狂いで頑張る母の期待に応えようと、同じように死に物狂いで動き続けました。しかし、中学二年の時です。私の生き甲斐であった母が、亡くなりました。死因は過労でした」
淡々と、一切の感情の揺らぎも無く、まるで国語の教科書を朗読するように、三山は話した。だが、これだけの量を話してもまだ終わらないらしい。茶を飲み、再び口を開く。
「亡くなる直前、母は、私にこう言い残しました。『機械のように生きなさい。私の言った通りに生きていれば、何も間違いは無いのだから』、と。この瞬間に、私は自分の中で何か大きなモノが変わったような気がしました。それからの私は、あなたがご存知の通りです」
「…………」
終始、三山は感情の動きを見せなかった。声の起伏すら無く、淡々と。
不思議で堪らないよ、俺は。三山、お前がどうしてそこまで無感情でいられるのか。こういう話をする時は、途中で思い出し泣きなんかをするのが相場じゃないのか。どうしてそこまで、徹底して感情を抑え込めるんだ。
いや、待て。
「三山。お母さんは、もう亡くなってるんだよな?」
「はい」
「だったら、今はどうやって生活してるんだ?」
そうだ。母親が死亡しているのなら、誰が世話をしているのか。当然の疑問だ。話から察すると、離婚した父親が世話を焼いているのだろうか。そう、考えていた。
しかし、三山の返答は俺の考えには無いものだった。
「いいえ。私は、一人で生活しています。生活費は、父が銀行口座に毎月入れてくださるお金で賄っています」
「いつからだ……?」
「共に生活していた母が亡くなってからです」
言葉が出なかった。つまり、母親が亡くなってから三山を支えてやる人間は誰一人としていなかったということだ。実の父親ですら、三山に寄り添うことをしなかった。
俺は、その壮絶な事情を無言で飲み込むことしかできなかった。
そうこうしていると、三山が自身の通学鞄を開けて、中から何かを取り出した。それは、どこにでも売られているような一冊のノートだった。
「これを」
言って、三山は俺の手元にそのノートを差しだした。読め、ということらしい。
三山の指示に従い、それを手に取る。タイトル欄を見ると、そこには『日記』と、彼女らしい丁寧な字で書かれていた。
日記、か。三山だって何の考え無しにこれを俺に差しだしてきた訳じゃないだろうし、とりあえず読んでみるか。
パラリ、と表紙をめくる。日記の時期は、中学三年からだった。内容は何と言うか、書かれていることはとても日常的なのに、機械のような無機質な文章のせいで頭が混乱しそうだ。日々を楽しんでるのかそうででないのか、まったく分からない。
その後も、さらさらと目を通していく。よく日にちが飛んでいたりするのは、日記をつけ忘れたりしたからだろう。まあ、日記なんてそんな物だろうから、あまり気には留めない。続きを読んでいると、三山が高校に入学してからの出来事が書かれている部分に入った。今まで読んできた部分に、大して重要そうな内容が含まれていなかったことを鑑みると、ここからが三山が俺に伝えたい内容なのかもしれない。
そう思い、先程よりも気持ちしっかりと目を通していく。
「お」
読み進めていると、例の事件について書かれているページに辿り着いた。例の事件というのは、四月のとある放課後に俺が三山と初めて会話をした時のことだ。それと同時に、当時の俺がどういう気持ちで、どのような言葉を三山に言ったのか、という記憶が一気に去来した。
嗚呼。今思い返すと、俺は三山にとんでもないことをしていたんだな、と思う。憧れの人物を前にして緊張でもじもじして、しかもようやく振り絞った言葉が「友達になってくれ」だもんな。そりゃあ、『おかしな人と会った』なんて書かれても文句言えないし、格別に怪しい。よくもまあそんな奴と友達になったもんだと思う。
そこから読み進めて行くが、しばらくはこれまでと同じように何気ない日常を書いたページがほとんどだった。
そうして、俺は、恐らく三山が俺に見せたがっていたものだろうと思われるページに辿り着いた。
「なんだ、これは……」
傍から見れば、人の日記を見て困惑した表情を浮かべながら苦言を呈しているという、失礼極まりない状況に違いないだろう。だが、勘違いをしないで欲しい。これは、三山の日記に俺にとって気に入らない事が書かれていたとか、そういう意味でそのような言葉を発したのではないのだ。
俺はなぜか焦燥感に駆られて、以降のページに急いで目を通した。しかし、以降のページには、件の場所に見られるような『異変』が見られなかった。
はっきり言ってしまうと、夏のあの日、三山とデートに行ったあの日の日記が変だった。
異質。
どのようにオカシイのかと言うと、その一日だけ三山以外の誰かが書いたのではないかと思えてしまう程に、文体に違いがあったのだ。陰と陽。光と影。明と暗。そう例えても遜色無いだろう。
ああ。普段も機械的で無機質な言葉しか喋らず、文章にすらそれが現れる三山が『!!』だとか『♪』なんかの記号を使う筈がない。これはもう、たまたま三山の気が向いただとか、そんな次元を超えている。
確信した。ここだ。
俺はそこを開いたまま三山の前に置き、尋ねる。
「このページ、本当にお前が書いたのか?」
「はい」
寸分の迷いも無く、三山はそう答えた。
「マジ、なのか……それ?」
「はい。その日記は、私が記した物で間違いありません」
三山本人曰く、これは彼女が記した物で間違い無いようだ。
三山は、これとさっきの身の上話とを照らし合せてその関連性を見出して欲しいのだろう。そうなのだろうが、双方とも俺にとって衝撃が強過ぎるせいでまともに照らし合わせることができない。脳の処理がまったく追い付いていない。
それから考えてはみたが、まったくもって関連など思い当たらなかった。
「…………」
所在なく、茶をすする。茶はもうぬるくなっており、味も薄くなっているように感じた。
「すまないんだが、三山。俺には、これらの関連性についてはさっぱり分からない。だから、まずはお前がこれについてどう考えているのか教えてくれないか?」
俺が伝えると、三山は少し考えるように顔を下に向ける。
俺が得た情報だけでは類推できない以上、当事者本人の意見を聞いて、そこから新たな手掛かりを得るのも一つの手だろう。
十秒程経過してから、三山は顔を上げた。そして、俺の眼を見つめて話し始めた。
「確かに、その日記は全て私が記した物です。その証拠に、筆跡は寸分違わず私の物です。それについては私自身が確かな自信を以て保証します。ただ、例の日付の出来事だけは、何故か覚えて(・・・)いない(・・・)の(・)です(・・)」
「は……?」
一瞬、俺は三山が何を言っているのか分からなかった。
「すまない。もう一度頼む。よく聞き取れなかった」
「確かに、その日記は全て私が記した物です。その証拠に、筆跡は寸分違わず私の筆跡です。これらについては私自身が確かな自信を以て保証します。ただ、例の日付の場所だけは、何故か覚えていないです」
「お、覚えて、いない……?」
そう、三山は言ったのだ。
「待て。待て待て、三山。今、『覚えていない』と言ったのか?」
「はい。あの日の出来事を、私は全く記憶していないのです」
「記憶、して、いない……。それ、本気で言ってるのか?」
「私は至って真面目に言っています。私には、あの日の記憶が無いのです。勘違いしないで頂きたいのですが、何も楽しくなかったから印象が薄いと言っているのではありません。楽しかった、という感情が芽生えた事は感じられるのですが、根本的な記憶自体に覚えが無いのです」
「ふぉ、フォローどうも……。だが、楽しかった事は覚えているのに身に覚えが無い、か……」
当初の見立てとは異なり、三山の見解を聞いてみた結果、逆に難しくなってしまった。当時抱いた感情は覚えているのに、体験に関してまったく身に覚えが無い、と。ますます分からなくなってしまったな。
「何か、わかりませんか?」
考える俺に、三山が再度尋ねてくる。相変わらず起伏の無い声音と表情だが、やはり不安なのだろうか。
だが、依然として俺の頭には具体的な考えが思い浮かんでいない。
「いや、わからん」
俺は、正直に答えた。
「そうですか」
三山の返事は、いつも通り早かった。
そう答えたきり、三山はいくら経っても何も口に出す気配を見せない。まるで、私からできる話はもう終わったと言わんばかりに。だから俺は、もう一度俺を家に招いた理由を聞いてみた。
「今日俺を呼んだのは、これについて相談するためだけだったのか?」
「そうです」
「てことは、その目的を果たせなかった俺は、もしかするともう用済みってことか?」
「そうですね」
「……確かにそうなんだが、あっさりそう言われると少し傷つくな」
ノータイムで言われ、俺のテンションは一気に下降した。
さて、用済みになってしまったことが判明したので、そろそろ帰るとしよう。あまり用も無いのに長居するのも悪いからな。
そう思って、俺は残った茶を飲み干して席を立った。
「すまないが、俺じゃあ力になれそうにない。長居するのも悪いし、今日はひとまず帰るとするよ」
「わかりました」
三山は、またもあっさりとそう言った。ここまで薄い反応だと、初めから期待されていなかったんじゃないかと思ってしまう。まあ、心理学にも脳科学にも精通していない俺に期待されても、それはそれで困るんだけどな。
そして、足元に置いていたカバンを持ってリビングから出た。玄関まで行き、靴を履こうとすると気配を感じて後ろを振り返った。そこには、普段通り無表情の三山が立っていた。
「見送ってくれるのか?」
「はい」
「ありがとう」
なんとも味気ないやり取り。いつもと変わらない会話だ。いや、あえて言うなら出会って初めの頃のように感じられた。
俺はドアノブを下ろしてドアを開けた。
「じゃあ、帰るぜ。お茶、ありがとな」
「大丈夫です」
「じゃあ、また明日な」
三山からの返事はなかった。玄関を通って、ドアノブから手を離した。支えが離れ、ゆっくりとドアが閉じていく。踵を返し、三山の家に背を向けた。そうして、俺は帰路への一歩を踏み出した。
「私は、もう――」
そのとき、後ろから三山が何かを言いかけた声がしたような気がしたが、ドアが閉まる音でよく聞こえなかった。
「気のせいか?」
俺はまた前を向いて歩き始めた。そして、歩きながら三山に話されたことを反芻する。
楽しかったことは覚えているのに、何をしたか覚えていない。覚えていないと言うよりは、記憶が無いという感じだと言っていたな。一種の記憶障害とかなのだろうか。そういった医療知識の無い俺には、そんな推測しか思い浮かばない。その道の専門家だとか、そういった人に聞くのが早いんだろうが、生憎俺にそのような知り合いはいない。明日、学校の図書室で調べてみるか。
そうして、俺は大きな謎を抱えたまま、家に帰ったのだった。
* * *
次の日、三山は学校に来なかった。
俺の方はというと、特にこれといった成果をあげることはできなかった。やはり、学校の図書室程度ではたかが知れていたらしい。その日、俺は一日ぐらいなら風邪か何かだろうと三山の家には寄らなかった。
* * *
それからちょうど一週間経った今日も、三山は学校に来なかった。
ただの風邪で一週間は流石に長すぎる。何か大事に巻き込まれたんじゃないかと思い、彼女のクラス担任に確認を取ってみたところ、「病気療養中」とのことらしい。その言い回しには、なんだか、妙に引っかかるものがあった。
あの日、三山から相談されたことが関係しているのではないか。漠然と、そんなことを考えた。考えれば考えるほど、そのような気がしてきて、そうだとしか思えないようになった。そうしたら、居ても立っても居られなくなった。
『私は、もう――』
あの時、三山は俺に何を言おうとしていたのか。もしかすると、こうなってしまうことを伝えようとしたのではないか。
一刻も早く、あの問題を片付けなければ。そう思った。
俺は、弾かれるように学校を飛び出した。
向かう先は、自分の身体が理解していた。だから、俺がわざわざ指示を出さずとも足がそのように動いた。
もし、あのとき俺がもっとマシな返事ができていたのなら。もし相談を受けたのが俺じゃなかったとしたら、彼女にちゃんとした答えをできたんじゃないのか。まるで猛吹雪のただなかにいるような心持ちだった。
そうこうしているうちに、目的の場所に着いた。だいたい、学校から一五分ほどだっただろうか。肺が、呼吸のたびにビキビキと悲鳴を上げて痛む。
「はぁ、はぁ、は、あぁ……」
俺がたどり着いた先は、町の中心部にある市立図書館だった。三階建てで、凝った形状のガラス窓が近代的な印象を主張するここは、年代的にもジャンルにおいても幅広い本が数多く収蔵されている。確かに、ここなら三山の相談に関する本も置いてあるかもしれない。
館内に入るなり、俺は蔵書検索の機械に歩み寄った。
あの日、三山が何と言っていたか、今でもはっきりと思い出せる。そう、記憶。記憶に関することだった。記憶や、脳科学に関連する書籍を調べれば自ずとわかるはずだ。
関連検索から、それについての本を検索する。
「あった……」
ただし、一冊だけ。俺が探し求めている条件を満たすと思われる本は、たったの一冊だけだった。だが、それだけでも大きな一歩だ。その本が置かれている場所を確認して、すぐさまそこに向かった。図書館内を走ってはいけないので、できるだけ早く行けるように、速足で行くことにした。
一分と少しぐらいで、目的の本棚の前に着いた。検索機で見て覚えたタイトルの本をその中から探し、手に取った。
「これだ」
俺は、最後の手がかりを見つけた探偵のように呟くと、その場ですぐにページを開いた。他の人も来なかったため、しばらく俺は立ったままその本を読んでいた。
しかし、しばらく立っていると流石に足が疲れてくる。ついさっきまで走っていたことも災いしてか、それは意外にも早くやってきた。たしか、すぐ近くにソファがあったはずだ。そこに座って続きを読もう。
「よっ、と」
そのソファは、随分とふかふかな感触で座った途端に身体が沈み込んだ。それでいて、こうも優しく包み込んでくる感覚も持ち合わせているとは。さては、ウチにあるソファよりも相当良い物なんじゃないだろうか。
そんな感想を内心に抱きながら、俺は本の続きを読んでいく。いつしか、あれだけはちきれそうになっていた呼吸も穏やかになっていた。
「…………」
パラリ、パラリと、メトロノームのように紙の擦れる音がリズムを刻む。時間すらも忘れて、本の内容理解に没頭する。書いてある内容は、やや専門的な物も含まれているものの丁寧な図と解説によって簡単に理解することができる。とても親切な本だ。
ほとんどナナメ読みのように今のページに目を通し、ページをめくる。
ページをめくる。
ページをめくる。
ページをめくる。
そうしていつしか、俺は最初のページを読んでいた。
「は……?」
自分でも訳がわからなかった。
また、読んでいく。
俺はまた、最初のページを読んでいた。
「うそ、だろ?」
信じられなかった。信じることなんてできなかった。
俺は、ソファから立ち上がり、この本があった棚の前に戻った。初めに取った本を元の場所に戻し、手近にあった本を取った。それにものの数分で目を通し、次の本を手に取った。それもナナメ読みで目を通し、また次の本へ移る。どんどんその棚の本に目を通していく。それでもまだ半分にも到達していなかった。
俺は、ただひたすらに本をとっかえひっかえ読んでいった。
* * *
一体、どれだけ時間が経ったのだろう。
『まもなく、閉館の時間です。貸出など、まだ済まされていない方は速やかに受付までお申し出ください。本日もご利用――』
館内アナウンスが、閉館の案内を始めていた。つまり、今は午後七時前。
「はは」
笑いが出た。乾いた笑いだ。
数時間かけて本を読み漁って、結局たったの一つも手がかりを掴むことができなかったのだ。自分に呆れた。自分の無能さを痛感して、嫌になった。三山が、遠のいていく感じがした。
「どこにも、行かないでくれ……」
ゆらゆらとした足取りで自動ドアを通り、図書館を出た。
「俺をまた一人に、しないでくれ……」
幽鬼のように、ふらふら、ゆらゆらと街中を漂う。雑踏に押し流され、車列にせき止められながら、漂った。自身に対する呆れも、怒りも、悲しみも。もはや、すべてが乾ききっていた。いや、この流れにさらわれたのかもしれなかった。
そうして俺は、ある場所に流れ着いたのだ。
「あ、ぁ……」
そこには、確かな見覚えがあった。訪れた記憶も新しい。何より、俺にとってそこは、こうなる原因が生まれた場所だからだ。そう。俺がいつのまにかたどり着いていた場所は、三山の家だった。
なぜ、ここに来てしまったんだ。たどり着いてしまったんだ。思い出してしまうじゃないか。悔いてしまうじゃないか。何が、俺じゃあ力になれそうもない、だ。三山がどんな思いで俺に相談をしたのかも考えずに。三山がどんな気持ちで、俺にあの日記帳を見せたのかも考えないで、俺は。
涙が出そうだった。
情けない。なんて情けないんだ、俺は。自分勝手もいいとこだぜ。相談されたことを軽い気持ちで放り出して。それでしんどくなったら相談してくれた人間に助けを求めて、ってよ。
「ああ、クソ……。そんなこと、わかってるんだよ。わかってるけどよ……!」
それでも、なんでだろうな。人間の手というのは、すぐにオアシスに伸びてしまう。たとえそれが罪であるとしても、どうあがいても掴もうとしてしまうんだ。俺はどうしても、救いが欲しかった。
どうか、出てくれ。
そう願いながら、家のインターホンを押した。一〇秒ほど待ったが、返事は無し。中から僅かにチャイムの音も聞こえてくるので、インターホンが壊れているという訳ではない。そして三山は、いつも学校が終わるとまっすぐ家に帰ると言ったことがあるから、この時間は確実にいるはずなのだ。
頼む。
二度目。反応無し。胸が、少し苦しくなった。
いや、違うだろう。こうなって当たり前なのだ。インターホンの構造的に、家の中のモニターで外の様子はわかっているはずだ。つまり、俺が今訪れていることを三山は知っている。それでいて、ドアを開けない。当然だ。他人は助けず、自分だけ助けて欲しがっているような俺を拒みこそすれ、受け入れるなんて普通はあり得ないのだから。
だから、次出なかったらおとなしく帰ろう。
そう心に決めて、もう一度インターホンを押した。家の中から聞こえる僅かなチャイム音が鳴り止んだ。
三山は、姿を現さなかった。その瞬間、俺は何か大切な物を失ったときのような喪失感に襲われた。ぽっかりと、胸に穴が開いたような感じがした。もはや、何もかもから拒絶されているようにも思えた。
「…………」
無言で踵を返し、三山の家に背を向ける。ちゃんと謝ろうと思っていたのだが、それすらも受け付けてもらえないのではもうどうしようもない。きちんと決めた通り、俺は帰路へと一歩踏み出した。
その時。
「あ、ぁぐ、ッ……!?」
突然、猛烈な頭痛が襲ってきたのだ。俺は、そのあまりの痛みに立っていることすらできず、地面に座り込んでしまった。それが、普通の頭痛でないことはすぐにわかった。ただ、とにかく何もできない。
「う、ぐぁ、ぁぁ……!!」
頭が割れそう、などというのはまだ優しい表現だ。これは、脳を直接かき混ぜられているような感覚だ。もちろん実際にされた経験は無い。だが、これまで経験したことのない痛みなのは確かだ。大声を出して痛がろうにも、痛みが強すぎて声が上手く出ない。結果として、半開きになった口から呻き声と唾液が落ちていくだけだ。
それから何秒ほど経ったのか。
「ぁぁ、あ……あれ?」
あれだけ俺の頭を苛んでいた激痛が、まるで嘘みたいにぱたりと消えたのだ。これは流石に予想していなかったため、思わず拍子抜けした声が出てしまった。
しかし、世界征服を目論んだテロリストがただでは死なないのと一緒で、俺の頭を襲ったその頭痛も、とんでもないモノを残していったのだ。
「……なんだったんだ、今のは? 睡眠はちゃんととってるはずなんだけどな」
それは、頭痛の原因が何なのだろうかと思い返しながら立ち上がった時、始まった。
立ち上がり、さあ帰ろうと歩きだした時だった。
「ん……」
耳の奥で、きぃぃん、という音が鳴り始めた。痛みは無い。
ただの耳鳴りか。
初めはそう思っていた。しかし、最初は集中しないと聞こえなかったような音量だったのに、数秒経った今では気を向けなくとも聞こえてしまう程に音量が大きくなっていた。そして、音量が大きくなるにつれて一つ気付けたことがある。その音からは、何かの規則性が感じられた。一定のリズムで、なおかつ音程もぶれることなく、ずっと鳴り続いている。気になって、俺はその音に耳を傾けた。
時間が経つにつれて、それは確かに聞き取れるようになっていき、やがてはっきりと聞き取れるようになった。その『声』は、確かにそう言った。
『オマエは、誰だ?』
【第四章】
原因不明の頭痛と、突発的な耳鳴りに見舞われた俺は、その週の学校を休むことにした。そうして迎えた金曜日の朝。俺は、市の総合病院に来ていた。目的はもちろん、この謎の耳鳴りについて診てもらうためだ。耳に関することなので、科は耳鼻科だ。
聞こえ始めて次の日ぐらいは、頭痛の余波みたいな物で、すぐに治るだろうと思っていた。ところが、そんな俺の予想とは裏腹にまったく止む気配が無かったのと、どうにも聞き続けていると頭がふらつくのとで、病院に来たという訳だ。
『オマエは、誰だ?』
あの日、そう尋ねてきた『声』は、こうしている今でも俺に問い続けている。その『声』は、俺の存在を否定するために、俺の本質を問うのだ。なにぶん頭に直接響いてくるもんだから、無視しようにも叶わないのが、とてもタチが悪い。
「五番の方。診察室に入ってください」
そうこうしていると、俺の受付番号が呼ばれた。それを聞いて、俺は待合の席を立って診察室に入った。
「こちらです」
促された先にあるカーテンを手で避けて、中に入る。
「おはようございます」
「あ、おはようございます」
俺を待ち構えていたかのようにあいさつをしたのは、三〇台ぐらいの若い男の医者だった。俺も失礼の無いように同じくあいさつを返した。
「どうぞ。かけてください」
「はい」
そう言われ、俺は耳鼻科特有の処置イスに座った。
「今日は、どうなさいました?」
やわらかい声で、彼は言った。話しやすそうだなと、思った。
まあ、隠しても仕方ないしな。信じてもらえるかはわからないが、正直に話そう。
「今週の火曜日からなんですが、耳鳴りが酷くて……」
「耳鳴りですか」
「はい。それで、ですね。いきなりで信じてもらえるか不安なんですが、どうもその耳鳴りが、誰かの言葉のように聞こえるんです。『オマエは、誰だ』、って、ずっと語り掛けてくるような感じがするんです」
「はあ……、耳鳴りが、誰かの言葉のようにですか……。それは、とても不思議ですね」
彼は、そう言いながら何か考えるように顎に手を当てた。
「言葉に関しては原因がわかりません。ですが一応、耳のことなので耳鼻科なら何かわかるんじゃないかと思ったんです」
「なるほど。ちなみにその耳鳴りは、どちらの耳から聞こえますか?」
「両方、ですね」
「……わかりました。では、耳鳴りの原因を調べるためにも、まずは耳の中を見てみましょう」
「はい。お願いします」
「では最初に、左から見ていきますね」
そう言って彼がスイッチを操作すると、イスが稼働音とともに半回転した。ちょうど、俺の左耳が彼に向いているかたちだ。すると、耳の入口あたりで、もぞもぞとした感触が動いた。彼が言っていた通りだと、今は耳の中を見ているのだろう。
そのあと何度か器具をもぞもぞと動かして、彼が言う。
「次、反対見ますね」
言って、先程と同じようにスイッチを操作してイスを半回転させる。すると、言ったように今度は右耳の中を調べ始めた。
それから、二、三ほど方法を変えて検査したあと、彼は言った。
「耳の中ですが、解くに異常は見当たりませんでした」
「そう、なんですか?」
「はい」と、彼は答えた。
「もう一度お尋ねしますが、その耳鳴りは今も聞こえていますか?」
「はい。今も、同じことを言ってきてます」
「なるほど……」
俺の回答を聞いて、彼はまた考え始めた。そして、一〇秒程してから口を開いた。
「アナタのその耳鳴りですが、もしかするとストレス性のものかもしれません」
やや悩ましげな口調で、そう言った。
「ストレス性、ですか……?」
俺が訝しげに言うと、彼は顎に手を当てたまま答えた。
「はい。通常、耳鳴りというのは強い刺激によって生じる突発性のものと、病気などによる慢性的なものに分かれます。話を聞く限りですと、ライブなどで大音量の音を聞いたわけではないので、まず突発性ではない。しかし、中を見ても炎症が起こっているでもなく、傷がある訳でもなかった。となると、あとあり得るのがストレスによるものぐらいなんです。それに、誰かが何か言っているように聞こえる、というのも一種の精神的ストレスの影響ということも考えられますから。そうなると、ボクらの領分を出てしまうんですよ」
「と、言いますと?」
彼は、カルテをクリアファイルに入れて俺に差し出してきた。俺がそれを受け取ろうとするのを見て、俺の質問に答えてくれた。
「すぐに連絡をしておきますので、この後ここの精神科に行ってください。場所は二階になります」
「わかり、ました。ありがとうございました」
最後にそう言って、俺は診察室を出た。
「精神科、か」
少し不安になった。だが、行けと言われたのだから行くしかないだろう。あまり気は進まないが、俺はそこに足を運ぶことにした。
まあ、少しでもこれが治る可能性が高くなるんだ。行って損は無いはずだ。そう、思うことにした。
「はぁ」
足取りは重かった。けれども、意外にもあっさりと精神科の窓口に到着した。
「あの、これを」
俺がファイルを出すなり、その女性は中身を確認することなく尋ねてきた。
「今しがた連絡のあった耳鼻科からの方ですね?」
なんと、仕事が早い。
「はい。そうです」
「それでしたら、すぐにお呼びできると思いますので近くでお待ちください」
窓口の女性は、そう言って診察室がある方へ歩いて行った。
ふと、周りを見てみた。精神科の待合にいるのはどうやら俺だけらしい。果たして、これは時間帯や曜日のせいなのか。
そうしていると、診察室のドアが開いて看護師が顔を覗かせた。彼女は俺の姿を確認して言った。
「診察室にお入りください」
「わかりました」
その呼びかけに応じ、俺は診察室に入った。中には、俺を呼び出した看護師と、白衣の初老の男がいた。彼が精神科の医者らしい。
「どうぞ、座って座って」
「ああ、はい」
彼からは、先の耳鼻科の医者に比べて随分とラフな印象を感じた。これはこれで話しやすいのだろうか。
俺がイスに座ると、彼は人差し指を立てていきなりこんなことを言ってきた。
「キミ。今、ワタシが随分ラフな人だと思っただろう?」
「え」
てっきり本題に入るものだと思っていた方からすると、その指摘は肩透かし以外の何物でもなかった。ぽっきりと出鼻をくじかれた俺は、思わず言葉を詰まらせてしまった。だが、何か答えないといけないだろうと思い、なんとか喉から言葉を絞り出す。
「あ、まあ、はい。そう、ですけど」
「ははは。そうだろう。うん。顔を見ていたらよくわかったよ」
俺の返事に、彼は満足そうに笑って言った。まだ実態を掴めていないが、とりあえず彼が取っ付きやすい性格をしているということだけはわかった。とはいえ、俺はここにおしゃべりをしに来ているのではないのだ。
「あの」
「耳鼻科の彼から、話は聞いているよ」
そう思い、本題を振ろうとした俺の出だしに、彼はまるで狙ったかのように言葉を被せてきた。この男は、人の調子を挫くのが趣味だったりするのだろうか。
俺がそんなことを考えているとは知らない彼は、俺の顔に焦点を定めて話し始めた。
「キミ、ずっと誰かの言葉が聞こえているんだってね。ここに書いてある通りだと、『オマエは、誰だ』と。ちょうど今週の火曜日かららしいが」
「はい。そうなんです。オカシイですよね、はは」
俺が自虐的に言うと、彼はまた朗らかな笑みを見せた。
「ははは。オカシクはないさ、キミ。ちょっと、調子が悪くなっただけさ」
「調子が悪くなっただけ、ですか……?」
調子が悪くなっただけとは、また聞いたことのない例えだった。その真意を掴みかねていると、彼は芝居めいた所作で人差し指をピンと立てて言った。
「そうそう。誰だって風邪をひくし、病気になったりするだろう? それと同じさ。今回は身体じゃなくて、心が調子を悪くしちゃったんだよ」
「な、なるほど……」
なんとわかりやすく、優しい例えだろうか。この人なら、俺の悩みを解決してくれるかもしれない。なんの根拠も無いが、心がそう言ってきた気がした。
彼は「さて」と置いて話し始めた。
「じゃあ、本題に入ろうか。さっきキミから聞いた限りだと、キミのそれはまず間違いなくストレスによるものだ。それも、けっこう危ない、ね。そういった幻聴の類は、うつ病の症状の一種になるんだけど、最近何か強いストレスを感じたことがあるかな?」
強いストレス、か。だったら、あれしかないな。
「あります。人間関係なんですけど」
「うん。それも、人の心を弱らしめるには十分だね。続けて」
「はい。先日、友人――女性なんですけど、にある相談を持ち掛けられまして。その時に俺は、彼女が聞いてきたことに関して何も知ってる知識が無くて……。それで、酷い回答をしてしまったんです。それから、彼女は学校を休むようになってしまって……」
ひとしきり、吐き出した。それらがまともに情報を拾えるようになっていないことは、わかっていた。並べている暇が無かった。そうしようとしたら、溢れ出してしまったのだ。
彼は、そんな俺の言葉を嫌な顔一つせず聞いていた。そして、俺が言い終わると、落ち着いた様子で言ってきた。
「ふむ。じゃあまずは、その友人がキミにしてきた相談の内容を教えてくれるかい?」
「……わかりました。彼女が俺にしてきた相談は、自分の日記には確かに俺と遊んだことが書いてあるのに、その記憶が無い、というものでした。聞いた時は、楽しくなくて印象が薄かったのかと思いましたが、どうもそうではないみたいで。本当に、何をしたのかも、どこに行ったのかも記憶が無いそうなんです。ただ、唯一覚えているのが、そのとき楽しさは感じていたということだけらしいです」
「ふむ。体験としての記憶は無いが、そのとき抱いていた感情ならば覚えている、と。それは少し変わったケースだね」
そう言って、彼は顎をさする。「うーん」と、唸りながら思考している。そうして、彼は俺に尋ねてきた。
「ちょっと聞いてみるんだけど。その友人の日記をキミは見せてもらったりとかしたのかな?」
「見せてくれました。向こうから」
「じゃあ、例えばそこに何か気になるところとかなかったかい? なんでも言ってくれていい」
恐らく、その質問は彼の中で核心に迫るために必要なことなのだろう。
ああ、それも覚えているとも。忘れるはずがない。あんな、雷に打たれたような衝撃。忘れてしまう方が無理ってもんだ。
俺は、三山の日記を頭に思い浮かべながら彼にそのことについて話した。
「彼女の日記は、なんだか不気味でした。何と言えばいいのか言葉に迷いますが、見たそのままの印象を言うと、そこの記述だけ、まるで普段の彼女とは違う別の人物が書いているようでした。普段、彼女はあまり口数の多い方ではなく、友人関係の俺に対しても丁寧語で話しているんです。ですが、日記の文章はそんな彼女らしくない、まるで同年の明るい女の子のような口調と文体で書かれていたんです。例としては、語尾に音符があったりだとか、そんな感じです。普段の彼女は、まったくそんなキャラではないんです」
「ただ単にキミの前ではそういうキャラを装っているとか、そういう訳ではなく?」
「俺は、少なくとも彼女が他の生徒と会話をしているところを見たことがありません。それに、俺に相談をしてきたときも筆跡から見て自分が書いたのだと主張しているような言い方でしたので、それは恐らくあり得ないと思います」
とは言ったものの、三山が俺以外にはあの態度で接しているという可能性を想定したくなかった、という思いもその根底に存在していた。こういうやり取りに私情を挟むべきではないのだろうが、つい口を突いて出てしまった。
そして、彼はトントンと人差し指で顎を叩きながら言った。
「なるほどねぇ……。差し支えなければだけど、他にもその彼女のことで、キミが知っていることがあれば教えてくれないかな?」
彼はそんなことを申し入れてきた。それ以上は、確実に三山のプライバシーに触れる。だから、彼が言ったように話さないという選択肢もある。元よりヒト一人のプライバシーを俺の一存で他人にひけらかせるというのも可笑しな話だが、実際彼女のそういった情報を知っているのは俺ただ一人だ。
それに、今は状況が状況だ。もしかすると、俺の症状が治るついでに三山の問題解決に関しての糸口が見つかるかもしれない。話そう。俺は、決断した。
「わかりました。お話しします」
「ありがとう。じゃあ、早速頼むよ」
「はい。相談の過程においてですが、彼女は自分の家庭環境についても話していました。なんでも、物心ついた時から何もかも母親の言う通りに従わされてきたとか。何もかもというのは、私生活はもちろんのこと、人間関係などの学校生活に至るまで文字通り『何もかも』です」
「ふむ……。相当。いや、尋常ではないほど厳しいお母さんだったんだね。愛を注ぎすぎた結果、悪い方向に行っちゃった典型だね」
「はい。幼い頃から母親に管理されるように育ってきた彼女でしたが、彼女が小学六年生の時に両親が離婚し、母親に引き取られたそうです。それから、母親の管理もさらに過剰になったそうです。しかし、彼女が中学二年生になった時、彼女の母親が亡くなってしまい、彼女は生き甲斐を無くしたと語っていました」
「それは、気の毒だったねぇ」
俺の言葉を聞いてそれきり、彼は険しい顔をして黙ってしまった。
待て待て、もしかして何もわからなかったとかじゃないだろうな?
少し不安になってきた俺は、回答を急かすように彼に言った。
「何かわかりませんか? このままじゃ、困るんです! 俺も、彼女も!」
「ふむ……。まあ、待ちなさい。時にキミ。この後、時間はあるかな?」
「あ、え、時間? あ、ありますけど……って、そうじゃなくて! あれだけ情報を出したんです! 何か答えてもらわないと――」
その時、掴みかかりそうな勢いで言う俺の眼前に、ピンと立てられた人差し指が入り込んできた。それは、紛れもなく彼の物だ。彼は、俺の勢いが一瞬止まった隙に言葉を差し込んできた。
「なら、一階ロビーで待っていなさい。そこで、すべて語ってあげようじゃないか」
「は、はあ……? でも、後の診察は?」
「実は今日、ワタシは早上がりでね。この後はちょっと作業してから上がりだ。じゃあ、また後で」
「え、ちょ、ちょっと……」
そう言うだけ言って、彼は俺が引き留めるのも聞かずに奥へ去って行った。正直なところ、患者の声を無視する医者はどうなんだ。
「…………」
肝心の医者がいなくなってしまったのでは、もうここにいる理由は無い。俺は、仕方なく診察室を出た。まったく、変な医者がいたものだ。
* * *
会計を済ませ、言われた通り一階ロビーのソファで待っていると。
「やあ、すまない。待たせてしまったね」
と、申し訳なさそうに頭を掻きながら初老の男性が姿を現した。服装は白衣から意外ときっちりとしたスーツ姿になっているが、その話し方と雰囲気は間違いなくあの精神科の医者だった。
「服装、思ったよりきちんとしてるんですね」
「そりゃあ、ワタシだって働く大人だからね。第一印象くらいはしっかりとしているつもりさ」
「第一印象だけですか」
「ははは。ま、冗談はこのくらいにして、と。横、座るよ」
そう言って、俺の許可を待たずに彼は俺の隣に座った。そして、手に持ったビジネスバッグをごそごそと探ったかと思うと、そこから缶コーヒーを一本取り出した。彼は、それを俺に差し出してきた。一般的な三五〇ミリ缶のブラックだった。
「ほら、これでも飲みながらゆっくり話そうじゃないか」
「ああ、どうも」
と、俺がそこまで明るい反応をしなかったからだろう。彼が怪訝な表情で言った。
「む。ブラックは苦手だったかね? ワタシがキミくらいの時はカッコつけのために飲んでいたからね。てっきりキミもそうなんじゃないかと思っていたんだが」
「別に、飲みますよ。ありがたくいただきます」
「そうか。それは良かったよ」
俺が言うと、彼は安堵したように微笑んだ。もらった物だからありがたくいただくが、そんな顔をされたらここで飲まない訳にはいかなくなってしまうじゃないか。
そう思い、俺は缶コーヒーの封を開けた。小気味よい開栓音が鳴り、ほんのりと香ばしいコーヒー独特の香りが立ち上る。一口含むと、酸味の少ない味わいであっさりとした苦みとコクが口内を満たし、芳しいアロマが鼻を抜けて行った。たまたまだろうが、これは実に好みの味だった。そんなコーヒーを味わえたからか、自然と気持ちが落ち着いたような気がした。
「さて。では、本題に入っても構わないかね?」
すると、彼はにっこりと笑顔を浮かべながら俺に言ってきた。さては、俺がこうなるのを見越していたのか。そんな考えが一瞬頭をよぎった。
彼はああ言ってきたが、その前に解消しておきたい疑問が一つあった。
「いや、その前に一つ確認してもいいですか?」
「なんだい?」
「どうして、今なんでしょうか? 別に、さっきの時間中でもよかったはずでは?」
「ああ。あの場では、医者としてしか物を言えないからね。だが、あそこから出て白衣を脱いでしまえば、それ以外の立場から物を言える。例えば、研究者としてのワタシ。例えば、ただのおじさんとしてのワタシ、といった感じでね。これでいいかね?」
難しい言い方をするなぁ……。何を言わんとしているかはなんとなくわかったけれども。
聞いている限り、気さくな雰囲気を崩してはいないが、彼からは本題を早く話したがっているような思いが感じられた。俺もだいたいの意図は伝わったし、引き伸ばすのも野暮か。
「はい。言いたいこと、わかりましたよ。ですので、もう本題に入っていただいて結構です」
「そうかい。ははは。理解が早くて助かるよ」
そう言いながら、彼は表情を崩して笑った。俺にはなぜか、その笑顔が、彼が俺に見せる最後の笑顔のような気がした。そうして、言葉を切った彼は、一瞬前とは打って変わって真剣な顔つきになった。どうやら、本題というのはかなり深刻な話題らしかった。
「さて、では本題に入ろう。キミは、人間の身体に対してどんな印象を持ってる?」
「人間の身体に対しての、印象?」
いきなり難しい問いを投げかけてきた。しかし、俺に何かの答えを求めている訳ではなかったようで、不可解そうに復唱したところで彼はすぐに口を開いた。
「ワタシはね、精密機械だと思っているよ。人間の身体は精密機械のようなものだ、とはよく言ったもんでね。人間ってのはどこかに異常――故障が出てしまうと遅かれ早かれ全体に影響を及ぼしてしまうんだ。おっと、なにも肉体面に限った話ではなくてね、人間にとっては、『心』もそれはそれは大切な部品の一つなんだ」
「はあ、なるほど……」
その例えは、言い得て妙だな。なるほど。あのときの自分の患者達に対する見解もこの考えを聞いた後ならよりしっくりくる。だが、なぜ今その話をした? いや、した、ということは本題に絡んでくるんだろうが、またもや意図が掴めなかった。
そんな俺の思いを知らない彼は、自身の胸に手を当てて続ける。
「職業柄、ワタシはいろんな人と会ってきた。それでね、その中にはいるんだよ、一定数。キミ達のような、本当の意味で心を病んでしまった人がね。ワタシはそんな人達を、ネジ欠け、と呼んでいるんだ」
「ネジ、欠け……」
そう、彼は言った。いや、待て。
「キミ達のような、と、言いましたか? それって……」
「そう。キミと、キミの友人の彼女のことだよ」
その宣告を、俺は何度か頭の中で反芻した。そうしてようやく意味を理解して、彼に言う。
「それって、俺と三山が精神病に罹ってると言っているのと同じじゃないですか!?」
「そうだよ。まあ、厳密に言えば病気と障害とは別物だけどね。ともかくワタシは、初めからそのつもりでキミにそう言っている」
「そんな……」
それを聞いた瞬間、全身から力が抜け落ちていくのを感じた。思考が絶望に塗りつぶされたような、そんな気分がした。
その時、気分を沈ませる俺に、彼が言った。
「ま、とは言っても、キミのは軽度も軽度。何せ、彼女に影響されただけだからね。ほら、よく言うだろう? 長い期間同じ人間と一緒にいるといつのまにかその人間の喋り方がうつっていたりとか。キミのはそれと同じさ。彼女と(・)、長く(・・)いすぎたん(・・・・・)だよ(・・)。だからね、なんなら一日二日で治療することもできる。だけれど問題は、友人ちゃんの方だ」
「な、それって……」
俺が言葉を詰まらせ気味に訊くと、彼はそれまでより一層眉間にシワを寄せて言った。
「具体的な名称としては、解離性同一性障害。これの可能性が高い。そして、病状はかなり深刻だ」
「解離性同一性障害……?」
「通称、多重人格と言ったりもするね。ただ、あの呼び方は的確とは言えないが」
「あの……」
その名称を聞いて、ようやく病名と症状が結びついた。しかし、まだ合点がいっていないことがある。
「でも、俺と三山が多重人格だって……。どうしてそう言えるんですか!?」
「それについてはまず、友人ちゃんの方から説明しようか。じゃあ、初めに再確認だ。彼女は、幼少期から母親に生活のすべてを管理されるようにして成長してきた。そして、それは小学六年時の離婚とともにさらに激化し、中学二年時にその母親が亡くなってしまった。これで間違いないね?」
「はい。それと、母親の死因についても彼女は過労だと言っていました」
「なるほど。死因も把握しているということは、そのぶん精神的なダメージも大きいだろうね。ああ。より確信できたよ」
そう言いながら、彼はうんうんと頷く。
「いや、俺の方は何も納得できてないんですが……」
俺がそう言うと、彼は「ああすまない」と言って続きを話し始めた。
「じゃあまずは、解離性同一性障害とワタシが判断した根拠となる、症状の説明に入ろう。まず、解離性同一性障害というのは一般的によく知られる多重人格とは似て非なる障害なんだよ。多重人格というのは、一人の人間に複数の人格が同時に存在するという現象だよね。フィクションなんかでよく用いられるから、キミも知ってるんじゃないかな。対して、解離性同一性障害というのは、一人の人間が何らかの強い精神的ストレスから自分の『心』を守るため、該当時期の記憶や感情を切り離すことによって残った人格の一部分が勝手に成長してあたかも別人格ができたようになってしまうという障害だ。少し、難しかったかな?」
彼は、その長セリフを一度も噛むことなく言い切った。ただ、申し訳ないが少しイメージし辛かった。なので、その一言に甘えるとしよう。
「ああ、はい。できればもっとわかりやすくお願いします」
「すまないね。しっかり説明しようとすると、どうにもこうなってしまうんだ。じゃあ、イメージしやすいように具体例として友人ちゃんの場合で説明しよう」
「ありがとうございます」
「彼女の場合、幼少から母親に管理されるように生活してきたという話だから、かなり早い段階から精神的ストレスが蓄積され始めたと推測できるね。特に幼い時というのは世の中のすべてに興味が湧く時期だ。そんな時期にそれらを抑圧されていたんだから、余計にストレスを感じていただろうね。そして、長年蓄積され続けたストレスが母親の死をトリガーとして爆発。彼女の脳が自分の心を守るためにそれまでの記憶・感情を切り離した。そうして、それによって空いた穴を補完するため、彼女の脳は元の人格の一部分を急成長させ代わりの人格を形成させた、といったことだろう。ちなみに、こうして新たに生まれた人格を交代人格という。さて、だいぶ簡単にしたつもりだけど、ここまでで何か質問はあるかい?」
そう言われたので、遠慮なく質問を飛ばすとしよう。
「はい。彼女は、俺に幼少期のことを事細かにソラで俺に説明しました。その説明だと、彼女が幼少期の記憶を持っていないことになりますが、これはどういうことなんですか?」
「良い質問だ。さっきワタシは、その時期の記憶・感情を切り離すと言ったが、なにもすべてを切り離してしまう訳ではないんだ。交代人格という名の通り、いずれは元の人格に戻らないといけないからね。その交代をスムーズに行うためにも、ある程度記憶を共有させたりすることがあるんだ。彼女がすらすらと説明できたのはそのせいだろう。恐らく、『今』の彼女にはキミに話した以外の昔の記憶は思い出せないんじゃないかな」
俺の質問に、彼はそう答えた。
なるほど。そう考えるとアレに関しては頷ける。だが、これまでの説明だけではまだ足りない部分がある。
「もう一つ質問があります」
「いいよ。言ってごらん」
「ありがとうございます。それだと、彼女に起きた異変の原因は何になるんでしょうか? 先日から、急に病気療養と言って学校を休んでいて、家に様子を見に行ってもなんの反応も無いんです。家にいるはずなのに」
「ふむ……」
その疑問を聞いた彼は、少し思案してから口を開いた。
「それに関してはただの予想になってしまうけど、構わないかね?」
「はい」
「わかった。ワタシが考えるぶんには、恐らく元の人格と交代人格とで共存ができていないんだと思う。今は交代人格の方が強く出て来ているが、もしかすると元の人格も同時に出て来ようとしているのかもしれない」
「と、言いますと……?」
「さっきも言ったろう? 一人の人間には一つの人格しか存在することができない、と。つまり、二つの人格が同時に存在したり、表出することはできないんだ。交代人格というのは、元の人格が蓄積した疲労を回復するまで、ストレスを肩代わりするのが役割だからね。だから通常、疲労を回復しきるまで元の人格は出て来ないはずだし、その時になったら交代人格は引っ込んでしまうはずなんだ。もしもそれらが同時に存在しようとした場合、人格同士がケンカをしてしまうんだ。今の彼女に起こっているのは、それかもしれない」
「人格同士が、ケンカ……」
「そう。まあ、何か別の障害か病気を併発している可能性も考えられるけれど、ワタシはそうだと思っているよ。だから、かなりマズイ状態かもしれないね、彼女は」
「そんな……!」
それを聞いた瞬間、俺は立ち上がっていた。一刻の猶予も無いぞと、第六感が告げているような気がした。
「おや、もう行くのかい?」
背中に、彼のそんな悠長な一言がぶつかった。
俺は、彼の方に顔を向けて言う。
「だって……。ということは、もう三山は危険な状態にあるかもしれないってことじゃないですか。そんなことを聞いて、ゆっくりとコーヒーなんて飲んでいる暇なんて無いですから」
「そうかね? ワタシは、構わずコーヒーをいただくとするがね」
すると、彼はバッグからコーヒーを取り出したかと思うと、気持ちをはやらせる俺の前でそれを開けたのだ。そして、ぐいっ、と缶を傾けて口いっぱいにコーヒーを含んで飲んだ。
「ぷはぁぁ。ああうん。いいもんだね、やっぱり。これは、缶コーヒーにしてはおいしいな」
俺には、そうして一服している様子が理解できなかった。同時に、俺の中で何かが湧きたった。
「なに、を……」
「ん?」
「なにを、やってるんですか!?」
吹き出した。とうとう蓋を跳ね飛ばして、沸騰したモノが噴出した。
「人が一人、危険な状態にあるかもしれないんですよ? それなのに、どうしてコーヒーなんか飲んでいるんですか!?」
「そりゃあ、缶コーヒーは開けたら飲まないといけないだろう? 捨てるのはもったいないじゃないか」
「そうではありません! そんな危険な状態にある人間を治療できるかもしれない人がどうして悠長にしているのか聞いているんです!」
「む。……ああ、なるほど。そういうことかい」
彼は、頬を掻きながらそう言った。
ようやく。ようやくわかってくれたか。
「今日はもう、勤務時間は終わったんでね。もう、働く気は無いよ」
「なっ……」
走った衝撃。自分の中で何かがひっくり返った、そんな気がした。
「おいおい。おじさん、荒事は嫌いなんだけどな。頼むからその手をどけてくれ」
彼が、降参するように両手を上げてそう言った。
気付くと俺は、彼のスーツの襟を掴んでいた。足元から、缶が転がる音が聞こえた。
まさか、これは俺がやってるのか? 俺が、自分から進んで?
俺には、自分自身が行っている行動が、まったく理解できなかった。それこそ、俺以外の誰かに、俺の身体を操られているかのように。
「っ……」
「おっとと……」
恐ろしくなって、手を離した。なんだか、彼のことを直視できないような気がして、俺は病院の玄関の方に体を向けた。
「すみませんでした……」
それだけ言って、俺はその場を駆け出した。
「キミにとって、後悔の無い選択であることを祈っているよ」病院を出るとき、背後からそんな声が聞こえたような気がした。
そんなことは当然だ。あのままゆっくりとしていて「手遅れになりました」という事態になるぐらいなら、俺がなんとかしてみせる。その方が、何もできなくて失敗する方が後悔を残すに決まっている。
向かうのは、無論三山の家だ。ここからは、全力で走っても三〇分は掛かる距離だ。
それだけの距離、スタミナが保つだろうか?
一瞬、そのような思いが頭をよぎったが、すぐに消え失せた。そうだ。保つかどうかではなく、やらなければならないのだ。俺は、あの時に果たすことのできなかった責任を、今度こそ。今度こそ、全うしなければならないのだ。
たとえ全力で走り続けて足の筋が切れようとも、肺が潰れようとも、たどり着かなければならないのだ。たどり着いて、三山を救わなければならないのだ。これは、俺に課せられた試練であり、果たすべき責任なのだから。
彼は言った。人間は、部品一つが歪んだだけで不具合を起こしてしまう程の精密機械だと。心は、その大切な部品の一つだと。
そして、その部品を完全に修理できるのは、彼のような専門家であり、俺には不可能なことだ。
であれば、俺にできることはただ一つ。部品を修理するのではなく、その歪みを肩代わりすることだけだ。そうすれば、それ以上に歪みが広がっていくことはない。俺にはもう、それしかできない。
「っ……、あ、ぁあ……ッ!!」
足裏が燃えるように熱い。足が熱を持ってきた。太ももが千切れてしまいそうだ。腕がだんだんと重くなってきた。口が乾燥している。乾ききった喉が悲鳴を上げる。肺が痛い。穴が開いてしまいそうだ。喉に何かが引っかかった。吐き出すと、それは赤い色をしていた。痰に、血が混じっていた。
だが、止まらない。止めることができない。足を止めてしまったら、そこで燃え尽きてしまいそうだから。
「あ、はぁ、はぁ、はぁ……」
燃え上がりそうなほど発熱した体をなおも動かし続けて、俺はようやく三山の家に到着した。家の前にある門は、鍵がかけられていないために、ゆらゆらと風に揺れて寂しく泣いていた。
俺は、その門を見送って玄関まで立ち入った。インターホンを押す。反応は無い。
だったら、ダメ元でここが開いてるかを確かめてみるか。
そう思って、俺は玄関のドアノブを握り、いつものようにゆっくりと下した。そうして、ドアを開こうと手前に引いた。
「あ、っ……」
すると、ドアは何の障害に阻まれることなくスムーズに開いた。
どうしてドアが開くんだ。ここは、普通なら鍵がかかっているはずなのに。つまり、彼女は今、普通ではない状況に置かれているということ。
原因はわからない。だが、俺にはどうしても、三山が助けを求めているように感じられた。
「待っててくれ。今、行くからな」
祈るように言って、俺は家の玄関に上がった。
まず確認するのは一階のリビングだ。そこに足を踏み入れると、不意にあの日のやり取りが思い起こされた。ああ。だが、あの時とは決定的に異なるところがあった。物が散乱し、部屋が散らかっていた。三山らしくもない。とはいえ、それも今の彼女が普通の状態にないことを考えれば不思議なことではない。
普通ではない。危険。異常な状態。
その時、ふと、あの精神科医の言葉が脳裏に蘇った。
『ワタシが考えるぶんには、恐らく元の人格と交代人格とで共存ができていないんだと思う。今は交代人格の方が強く出て来ているが、もしかすると元の人格も同時に出て来ようとしているのかもしれない』
待てよ。もしもそうだとすると、俺が三山と初めて会ったとき。あのときからすでに、三山は交代人格になっていたってことにならないか? だとすると、生まれる疑問が一つある。
『今の三山は、果たして俺のことを知っている三山なのか?』
それがどちらになるかで、三山と相対した時の対応が変わってくるだろう。こればかりは、実際に会ってからでないと確認のしようがないことだが。
まさか、ここにきてイレギュラーが発生するとは思わなかった。だが、ここまで来たのだ。もうやるしかない。俺自身の手で、三山を救うしかないのだ。
その後、一階の部屋を一通り見て回ったが、三山の姿を確認することはできなかった。ということは、残るは二階だ。そこに、三山はいる。
「…………」
俺は、一段ずつ慎重に階段を上がっていく。その一段毎に、プレッシャーが増していくのを感じた。
二階に上がると、まず目に留まったのは何かしらの部屋に続くドアだった。続いて左右を見ると、廊下の両端に一つずつ部屋があるのがわかった。二階の部屋は、この三部屋だ。この中から三山のいる部屋を見つけないといけないのだが、それにはすぐに見当がついた。それは、他の二部屋と違って、正面の部屋のドアだけが閉じられていたからだ。
「ん、っ……」
ごくり、と、唾を飲んだ。完全に緊張した手つきでドアをノックする。静寂の支配する空間に、木を叩く音が空しく響いた。次は、声をかけてみることにした。
「三山、俺だ。お前、そこにいるのか?」
無言。
「最近、全然お前を見ないからさ、心配になって来たんだよ。なあ、そこにいるのかよ?」
無言。
「三山。お前、大丈夫なのか? なあ、なんとか言ってくれよ」
無言。
「……わかった。入るぞ。お前が何も言わないのが悪いんだからな。入ってから文句を言ってきても、それはお前のせいだからな」
無言、だった。
半ば不安になってきた。本当にここに三山がいるのか。そもそもこの家にいるのか。元はと言えば、確認を怠った俺に非があるのだが。
いや、もうそんなことを考えている暇など無かったか。そう自分を叱咤し、まるで闘いに赴く剣闘士のような心持で、もはや躊躇いなくドアを開いた。
「三山、おま――」
その部屋の中を見た瞬間、俺は言葉を失った。
その部屋は、およそ人の住む住居の中にある部屋だとは思えなかった。電気が点いていなければ、カーテンも閉められているため、部屋は全体的に薄暗い。また、床には文房具や教材など、いろいろな物がこれでもかと散乱しており、その中には何らかの薬品の瓶も見当たった。ただ、それでも置いてある家具から辛うじてここが女の子の部屋だということがわかる。
そして、部屋の中心に彼女はいた。両足を抱えて座っている。顔は見えない。しかし、思わず二度見した。彼女がまとう雰囲気が、まるで別人のように感じられた。一目見ただけでは、彼女が俺の捜していた『三山楓』だとは到底思えなかった。
「三山、なのか……?」
恐る恐る、俺は聞いた。すると、三山と思しき少女は無言のまま顔を上げた。その顔には、確かに三山の面影があった。しかし、俺の知っている三山の顔より、その顔は少しコケているように見えた。
そうして、俺が信じられない状況を前にして立ち尽くしていると、変わり果てた三山が口を開いた。
「……どうか、されましたか?」
「――ッ」
三山のその一言に、俺は思わず吐き気を覚えた。ふと、思ってしまったのだ。奇しくも今のこの状況は、三山と初めて言葉を交わした、あの放課後の教室での構図とまったく一緒だ、と。
ああ、そうか。
俺は、そこでようやく確信を持った。三山は、あの時にはすでに交代人格になっていたこと。そして今、俺の目の前にいる少女は、俺のことを知っている方の三山楓だということに。
衝撃のあまり、足がよろめいた。ふらりとして、こけないように足を一歩踏み出したら、コツンと薬品の瓶が当たった。
だが、どうしてだ。なんだ、この違和感は。なぜ、三山は笑っているんだ?
ぎこちない。あまりにも歪なツギハギのエガオ。これは、三山のもう一つの人格――つまり、元の人格と内側でケンカをしているからなのだろうか。だとしたら、俺に何ができる? どこから切り込んでいいのか、まったくわからない。
「なにを、なさりに来られたのですか?」
その時、三山がそう尋ねてきた。今の俺には、その心遣いが逆に恐ろしかった。
「お前を、助けに来た」
「私を、助けに……?」
三山は、不思議そうな口調で言った。
その反応に、俺はどこか違和感を覚えた。
「ああ、そうだ。ほら、あの日。お前から相談を受けた日のことだ。覚えてないか?」
「覚えていますよ」
「その時だ。俺は、お前の質問に答えられなかっただろ? だから、今度はちゃんと答えられるように、いろいろ調べてきたんだ」
「そう、なのですか。私なんかのために。ええ。では、聞かせていただけますか?」
「もちろんだ」
そのやり取りの後、俺は彼の話したことを頭に思い浮かべながら説明を始めた。
「俺の力だけじゃどうしてもわからなかったから、病院の医者に意見を聞いた。結論から言うと、お前の症状は解離性同一性障害っていう精神障害の症状に合致するそうなんだ。これは、強い精神的ストレスから自分を守るために、脳が元の人格以外にもう一つ、ストレスを肩代わりするために別の人格を形成する障害らしいんだ。そうして作られた人格のことを交代人格と言って、文字通り元の人格と交代して元の人格の回復を促す役割があるそうだ」
そこで、俺は一息入れた。三山は、俺の説明を黙って聞いている。その間に頭の中で情報を再度整理し、説明を再開する。
「それで、通常ならどちらかの人格が表に出て来ているときには、もう片方の人格は奥に引っ込んでいるはずなんだ。だが、その医者の話だと、三山の場合はもう一つの人格が無理矢理表に出ようとしているから、人格同士がケンカをしてしまっているらしいんだ。それが原因で調子がオカシクなっているみたいなんだ。だからな、どうしてお前に俺と遊んだ記憶が無いのかって言うと、あの時は一時的にお前の元の人格が出て来ていたからじゃないかと考えてるんだ」
「そう、なのですか」
俺が言い切ると、三山は特に驚いた感じも見せず、ただ俺の言葉を飲み込むように返事をした。
これで、あの時の責任は果たした。だが、まだ気を抜いてはいけない。まだ、俺には三山を救い出すという大きな役目が残っているのだ。そのためには何が必要か。ああ。もう思いついていただろう。
そして、俺が説得を始めようとした――その時だった。
「私は、どうなってしまうのでしょうか?」
そんな質問を、三山がしてきた。
「どう、なるって……?」
どうなるも、調子が治って元の人格に戻るのだろう。それしかないのではないだろうか。質問の意図がわからなかった。
すると、三山はエガオを消して、泣きそうな顔を俺に向けた。
「もしも治ってしまったら、私は――この『私』は、どうなってしまうのでしょうか?」
「この、私……」
今の三山が言う、この『私』。少し考えると、その意味が理解できた。それはつまり、元の人格に戻った場合、交代人格である『自分』はどうなってしまうのか、ということだ。
三山は、続けて言う。
「初めから、あの日あなたに相談した日から、私はもうわかっていたのかもしれません。自分の抱えたモノについて。ですから、いつか『自分』が消えてしまう日が来るのかもしれない。私は、それが怖かったんです。病院の先生にも話を聞いたあなたはすでにご存じかもしれませんが、私には、あの時お話しした以外の昔の記憶が無いのです。それは、あなたと遊びに行ったあの日のことが記憶に無いのと同じようにです。それはきっと、私ではなく、『彼女』の記憶だから。だから、思うのです。だから。だから……」
三山は、俯きながら「だから」と繰り返し言う。繰り返す度、その声には水気が混じっていく。
三山は、言葉を探しているのだ。
そして。
「だから、私は」
決心したように、三山が顔を上げた。その顔は、見覚えのある無表情ながら、眼からは滴がいくつも流れていた。
「私は、消えたくないです。あなたとの思い出を、失いたくないです」
三山は、頬を僅かに紅くしながらそう言った。
その言葉で、俺は理解した。この三山が伝えたいこと、三山が俺との思い出についてどう思っているか、俺を、どう思っているかを。
「でも、消えそうなんです……!」
そう言って、三山は突然痛みを堪えるように頭を押さえた。
「おい、どうした?」
「ずっと、頭が痛いんです……。酷く、酷く痛むんです……。そして、痛みは日毎に強くなっていって……。私を、塗り替えようとしてくるんです……」
「な……、それって」
その告白を聞いた時、俺はその現象に強烈に思い当たった。三山が言っているそれは、こうしている今も俺の思考を脅かそうとしてくる『声』に似ていた。だから、俺にならそれを解決するための手助けができるかもしれない。そう思った。
「三山。それ、実は」
「わかって、いますよ。あなたも、そうなんですよね……?」
顔を上げて、三山は言った。
「あ……」
そう言った三山の声からは、どこか諦めを感じられた。とっくに看破されていたのだ。俺が『声』に侵されていることも、それに対して今のところ為す術も無いということも。
「きっと、私と馴れ合いすぎたからです。だから、少なくとも初めは普通だったあなたが、私の異常性に引き込まれた結果、そうなってしまったんです」
「く……」
その時、唐突に彼の言葉がフラッシュバックした。
『彼女と、長くいすぎたんだよ』
確かにそうだ。学校の中で、三山は俺以外の人とほとんど一緒にいることがなかった。もしそれが、三山が自身の異常性を理解した上で、自分から他との交流を避けていたのだとすれば。そんな中で、俺だけが学校にいる時間のほとんどを三山と過ごしていた。
つまりは、それが原因で俺が『声』に悩まされるようになったということだ。確かに、そうかもしれない。だが、違う。
俺は、胸のうちから強い思いがこみ上げてくるのを感じた。同時に、それがどういう意味を持つ物なのかを理解した。
なんて恥ずかしいこと考えてんだよ、俺は。よくもまあこんな思いをするようになったもんだ。
それでも、俺はその思いをそのまま三山にぶつけた。
「俺は、お前と長くいすぎたからだとか、だから俺までオカシクなっただとか、そんな風に思ったことなんてない! お前と過ごした時間は、俺にとって最高に楽しい時間だったんだ! だから、だから――」
その時、俺は自分自身が何をしようとしているのかまったくわからなかった。だが、理解はできた。
そうだ。俺には精密機械を直す技術は無い。だが、俺自身が部品になって歪みを肩代わりすることはできる。
気付いた時には、俺は三山を抱きしめていた。
「な、なにを……」
耳元で、三山の困惑した声が聞こえた。
悪いな、三山。その疑問には、今は答えられそうにない。
俺は、三山が混乱しているのに構わず、内で固めた決意を告白した。
「俺が、代わりになってやる! 俺が、歪みを肩代わりしてやる! 俺が一緒に、なんとかしてみせる!」
「なんとかっ、て……。どうされるつもりなんですか? まともな医療知識の無いあなたに、何ができると言うのですか? ただでさえ、私といると精神に異常を来たしかねないというのに」
厳しい、突き放すような口調。三山の、激情が込められた言葉。なんだか、お前ならそう言ってくる気がしたよ。
俺は、三山の言葉に全力で言い返す。
「確かにそうだ。だが、さっきも言っただろ。肩代わりするって。治すことはできなくても、そうやって辛いことを背負うことはできる。だから、そんな、自分と関わるからだなんて言わないでくれ……! 俺は、あの時間を本当に楽しいって思ってるんだからさ……」
「ぁ……」
小さい、喉から呼気と一緒に吐き出されたような声が聞こえた。その次の瞬間、右肩に何かが落ちて、温かい感触がじんわりと広がった。
「お馬鹿さん、ですね……」
三山が、まるでオイタをした子供に言い聞かせるように、そんな言葉を口にした。
「え、なんで!?」
よもや罵倒されるとは夢にも思っていなかったので、三山を抱きしめたまま驚いてしまった。そして、三山にその真意を確認しようと身体を離そうとする。しかし、三山が両手で俺の身体をしっかりと抱いていたためそれは叶わなかった。俺がその行動を諦めると、三山は安心したのか腕の力を緩めた。はらりと、片手が離れたのが背中越しに伝わった。
そうして、三山は俺の耳元で言葉を紡ぐ。
「あなたの言う通りなら、『私』の役割が無くなってしまうではないですか。それだと、『私』の想いを叶えることはできませんよ?」
「あ……。たしかにそうだな。はは……参ったな」
「さては、何も考えずに発言しましたね?」
「ああ。恥ずかしい話だが、けっこう勢いで言ったよ。だってよ、あんなセリフ、勢いじゃないと言えないって……!」
「ええ。まあ、そんな気はしていましたよ。流石にあれだけの時間を過ごしていたのですから、それぐらいはわかります」
「だったらな、そこは言わないっていうのが優しさってもんなんじゃないか?」
「ふふ。ですが、『本当の私』は、少し意地悪みたいですよ?」
「なんだそれ。あははっ」
「言葉の、ままですよ……」
ひとしきり言い合った。時に悲しい気持ちになったり、微笑んだりしながら、俺達は談笑を楽しんだ。互いに自分をさらけ出して話しができた。そう思った。
すると、三山が「はぁ」と満足そうに息を吐いて言った。
「楽しかったです」
「そうか? それは良かった」
「はい。ほんとうに。これで、もう満足です」
「おい……?」
俺は、その瞬間、唐突に不安を感じた。密着した身体を通じて、三山が下ろしていた片腕をまた上げているのがわかった。
三山が何を考えているのか、一切わからなかった。
「おい、何をするつもりだ」
ただ、何か良からぬことをしようとしているのは確かだ。だから、何とかして止めようと身体を引き離そうとするが、三山は残った片腕で制してくる。
「私は、このような想いを持ったのは初めてです。けれど――いえ、だからこそ、消してしまいたくないんです」
「待てっ! この手を離せ! なにするつもりだ、おい!」
俺は全力で引き離そうとするが、三山の腕の力は一向に緩む気配が無い。とてつもない力。この少女のどこに、こんな力があるというのか。
そうして、三山は言った。これまでに一度も聞いたことも無い程に、歓喜に満ち溢れた声で。
「とっても、楽しかったですよ」
どうしてか、次に聞ける言葉が最後のような気がした。そして、そんな予感がしているにも関わらず、俺の手はもう動かなかった。
ゆっくりと、三山のもう一方の手が、俺の背から離れた。
「さようなら」
その声は、俺の耳の、少し先から聞こえた。
【エピローグ】
俺は今、とある場所に向かっている。手には、途中の花屋で買った一輪の花が挿してある小瓶を持って。一介の高校生に過ぎない俺では、たくさんのキレイな花で作った花束のような高価な物は買えない。だが、そのぶん気持ちは込めたつもりだ。
あれから、どれだけの日数が経ったのだろう。
あれから、俺は何度そこに赴いたのだろう。
もう何度目かの訪問かも知れない。それでも、彼女はいつでも俺の訪問を喜んでくれる。相変わらず無機質な文章を書くが、顔を見れば感情が理解できるから十分だ。
さて、今日も到着だ。
ノックして横開きのドアを開けると、その音に気付いた様子でベッドの上の彼女がこちらを向いた。そして、俺の顔を見るとやわらかな笑みを浮かべた。
俺は、彼女に軽くあいさつをして部屋に入った。そうしてベッドの横まで行き、テレビなどが一緒になっている棚の、彼女から見える場所に、持ってきた手のひらサイズの小瓶を置いた。
【それはなんですか?】
そう書かれた紙を、彼女がしきりに俺に見せてくる。なんと言ったかな。この花の名は。
少し考える。その間、必死に思い出そうとする俺の顔を、彼女は下からのぞき込むようにして見てくる。
そうだ。クローバーの花だ。
俺がそれを伝えると、彼女はノートに急いで何かを書いていく。書き終えると、それを俺の顔の前に突き出してきた。
【かわいいお花なんですね】
にっこりと、向日葵のような笑顔を添えて。
-終ー