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玻璃の娘 黒の王~カイン、あるいは殊魂の話~  作者: 実緒屋おみ@忌み子の姫は〜発売中
第Ⅲ幕:過去と現に流れる記憶

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3-17.閃風のデュー


 デューが父であるキュトスス公爵に褒められたのは、二十年の中でたった一回だ。投げやりな褒め方だった気がする。それでも、確かに褒められた。お前は馬の乗り方だけは一人前だと。それを賞賛とは誰も呼ばないだろう。でも、デューの中でそこだけは無碍にできない柔らかな思い出となって、微かに心の奥底に沈殿している。優しい思い出、捨てられない、捨てることがどうしてもできない執着という名の過去。


 森の中に用意された障害物を馬に乗り、背筋を正して飛び越える。金色の相棒はデューの呼吸に合わせて美しく弧を描き、自分でも手応えを感じるほどに上手く着地してくれた。まだだ、と手綱を巧みに操りながら他の参加者を横目で見る。自分を入れて十人の参加者の中、今のところデューは三番手にいる。慌てなくていい、そう思いながら髪と口元を隠す長布を正し、馬を走らせる。


 一番厄介そうなのは、参加番号六の金髪男で、デューの横にぴったりくっついてきていた。姿勢もいいし、なにより飛び方がこなれている。若いが騎士なのだろう、前をまっすぐ見て馬を走らせる姿には貫禄があった。


 くねった道を曲がり、森の中を自分の歩調を崩さぬよう手綱と鞭を操る。先頭を走る茶髪の男は少し、速度が速すぎる。後ろから見ても姿勢が若干傾いている。抜くのは容易だがまだそのときではない。


 速度と姿勢、両方を保ちながら馬と一体となることこそ競馬会の意義だ。単なる速さではなく美しさを馬と共にどれだけ描けるか、その技を競うなら、デューにだって分はある。半月みっちりと、昔のやり方を思い出すように訓練してきたのだ。貴族の乗馬は華麗さを主とし、一方傭兵や剣士たちは速さを重視する。速さなら負けはしない。華麗さだって忘れていた頃を思い返せた。馬の調子も相性もいい。馬はデューの呼吸に身を預けるように走ってくれている。いい馬だと、育ててくれたパードレウに感謝する。


 風を切り裂き、茣蓙に座って歓声を送る観客の声を受け流しながらデューは走る。楽しかった。純粋に楽しいと、心の底から思えた。闘争心を抜いても心から湧き上がる高揚感は身を震わせ、布で隠した口元が緩むのを自覚する。葉の臭い、馬の駆ける振動と音、降り注ぐ陽射しの熱さ、それらを全身に受け止めながらデューは跳ぶ。これ以上ないほど美しく、高らかに。

 

 生きている、そう思えたのはいつくらいぶりだろう。デューは思いきり笑いたくなった。でも、草で喉をやられて上手く声が出ない。かすれた声が、息が厚い長布を湿らせる。劇薬でもある薬草を試してみて半月、まだ副作用は喉にしか出ていないが、これ以上の使用は避けたい。いや、もしかしたら裡から湧き上がる高揚感はそれが原因か。わからないけれど本当に気分が良かった。

 

 樫の木の下で乗馬を習っていたとき、幼い頃のたったひととき、楽しかった時間を思い出しながらデューの心は弾む。ずっとこのときが続けばいい、終わらないでほしいとこいねがう。勝ち負けなどもう、デューにはどうでも良かった。ただこのままずっと走り、風を浴びて駆けていたい。

 

 幼少の自分が馬を使い、走っている姿が前方に浮かぶ。まだ見捨てられていなかった頃、居心地は悪いが屋敷で馬と戯れ、使用人たちが微笑ましく自分を見ていてくれたときの光景が、目の前にさえざえと浮かんで、観客たちの声が使用人のそれに取って代わった。


 シェデュ様、シェデュ、捨てた名前と懐かしい声に耳朶を叩かれて、デューは知らずのうちに小さく唇をほころばせていた。単なる幻覚と幻聴だ。でも、目の前の自分は誰よりも楽しそうで、もうなくなってしまった純粋さがあの頃の瞳にはある。それを追いかけるように跳び、駆け、背筋を正す。

 

 深い森の中、デューは生きている、その実感を快感と懐かしさに変えて全身に甘い痺れを流し続けながら、あどけない喜びの吐息を漏らした。


  ◆ ◆ ◆


「現在の順位。一位、ミツォーク男爵嫡男オルビナ。二位、カラリス子爵代行者ソロン。三位、パードレウ伯爵代行者シド」


 物見台のそこここから順位を挙げる声が響き、歓声が観客席をどっと沸かせた。カインは果実酒を飲みながら、三位にデューの名前があることに安堵した。けれどすぐに速さだけが審査基準ではないことを思い出し、唾と共に酒を飲み干す。遠くからは観客たちの声の他、客たちの足の動きとは違う振動が近づいてきている。


「へえ、なかなかやるね。三位か。まだまだ逆転の可能性は十分にある」

「あれは昔から、馬に好かれていますから。そこだけは父も認めていたはずです」


 観客の大声に紛れこませるよう、そっとフィージィがハンブレに答え、口の端をつり上げた。笑みも相まってかずいぶん自慢げで、どこかデューのことを誇っているようにも見える。星霊湖リム・テルシュケの一件があってから、フィージィはやけにデューとの距離を縮めようとしているな、そんな風に思った。もしかしたら、殊魂アシュムの件がなくともフィージィの描く『理想の弟』であるなら、彼女はもっと素直にデューとの仲を縮めていけていたのではないか、ふとそんなことを考える。カインは小さく頭を振った。もしものことを考えたって、どうしようもない。


「昔のやり方も思い出せたようですし、この調子なら入賞は間違いないでしょう」

「うむ、さすがはわっぱよ。わしが見こんだだけのことはあるわい。それにしても、青持ちがいればな。影の術でもっと間近な状況を聞けるというに」

「次回からは審査員に、青の殊魂アシュムを持つ人間も入れた方がよさそうですわね。参考にしましょう」

「それがいいじゃろうて」


 二人のささやき声を尻目に、カインは目を細め、近づいてくる振動の方、森側を見つめる。振動は見ているうちに大きくなり、カインの目は入り口に入ってきた一頭の馬の姿をとらえる。


 町の中に用意されている柵を飛び越えたのは栗毛の馬で、勢いをつけすぎたのだろう、着地時に少し体勢を崩した。それでも競馬会に出るだけのことはあり、馬の扱いは巧みだ。転落するのを手綱の握りと姿勢、馬の横腹へ足を入れることによってすぐに体を立て直した。その技巧に観客たちから拍手が起こる。ちょっとした不慮の出来事も観客の刺激となるのだろう。だが、見ているこっちは気が気でない。土煙を上げる馬の後ろにデューが乗る、金色の馬の姿を見てカインは身を乗り出した。

 

 そのすぐ斜め後ろに、金の短髪を風に舞わせて馬を走らせる知らない誰かがいた。拮抗する。柵を跳び越えるごとに二頭の馬は順位を変え、金髪の男はデューを挑発するようにぴたりと横につけている。でも、デューはしっかり前だけを見据え、背筋を伸ばし、障害物やくねった坂道を次々と突破していく。誰の目も入っていないように、カインには思えた。それほどデューは馬と一体化していたし、観客たちの応援にすら目を向けない。まるで、とカインは筒盃フィッザを知らずのうちに握りしめながら思う。今この瞬間しか知らないみたいだ。

 

 観客から野次と声援が飛び交い、辺りは耳を塞ぎたくなるくらいにやかましくなる。名前を呼ぶ声、揶揄する声、健闘をたたえる声、あらゆる声のるつぼがカインの耳を叩き、それはきっとデューにも届いているはずだ。けれど彼は見向きもしない。獲物を見つめる鷹のような勢いで、デューは馬を走らせ、跳び、広場までの道のりを最短の動きで進んでいく。

 

 風だ、とカインはぼんやり思う。『閃風せんぷうのデュー』の名に恥じない動きと速さ。それは金馬の美しさもあってか、見ているカインを虜にする。隣で感嘆のため息を、フィージィが漏らした。パードレウは杖を振り回し、シド、シド、と大きく叫ぶ。さしものハンブレも声を上げてはしゃいでおり、興奮の中に身を置いているようだ。カインは背筋が痺れるのを感じた。美しいとしかいえぬ光景は、手の先までもを痺れさせ、視線をデューへ釘付けにさせる。

 

 いつの間にか野次は消え、歓呼の声音だけが辺りを制した。誰もが名を叫ぶ。シド、と。観客も多分、デューの馬の動きに見惚れ、魅入られたのだろう。今競馬会を制しているのは、一位の栗毛の馬ではない。デューだ。

 

 最後の直線に入った。こちらに向かってくる栗毛の馬、赤茶の馬を抜いてデューが馬に鞭を入れた途端、金髪の男も同じくデューを追う。だが、デューの勢いは留まることを知らない。一陣の風と化し、金髪の男の追従を許さぬ速さで正しく柵を跳び越え、こちらにぐんぐん姿を現しはじめている。最初から飛ばしていたであろう栗毛の馬は、失速し、ついには柵にぶつかって後ろの連中を巻きこんで転倒した。でも誰もそちらを向かない。全員が一丸になるようにデューに夢中になっている。

 

 美しい曲線を描き、残された柵をデューが跳ぶ。黄金の弧のように見えて、カインにはそのまぶしさと壮麗さにまた、目を細めた。金髪の男はついて行くことが叶わず、他の乗り手も同様だ。壺型になっている広場へデューは勢いを殺さず、白線を越えた瞬間、旗が大きく振られる。鮮やかな緑の、デューの目と同じ翡翠色の旗が。金髪の男も目標の白線を越える。次いで、赤茶の馬が。観客が立ち上がり、言葉にならない声で彼らの健闘をたたえ、カインもその場で大きく拍手をする。

 

 大歓声の中、かろうじてパードレウのすすり泣きが聞こえた。フィージィとハンブレは観客と同じくその場に立ち、惜しみなく手を鳴らす。


「三位、カラリス子爵代行者ソロン。二位、リルス男爵第二子タレーク。一位、パードレウ伯爵代行者シド!」


 速度だけの結果が出て、それでも観衆はシドの名前を叫ぶのを止めはしない。デューはまるで走ることをやめたくないといわんがばかりに、広場を軽く一周し、それからようやく馬を止めた。デューが片手を挙げ、はじめて声援に応えるような動作を見せると、歓声はもっと大きくなって周囲を包みこむ。白い鳥が放たれ、花火がまた上がる中、デューはこれ以上なく生き生きとした様子で馬から下りようとしない。

 

 総合順位はどうなのだろう、誰かが結果はまだか、そう叫ぶと、それはたちまち周囲に感染してざわつきに変わる。でも、カインはなんら心配していなかった。町に入ってからしか見てはいないが、デューの乗り方は凛としており、跳び方も美しかった。乗馬に詳しくない己が垣間見てもわかるほどだ、審査員たちの印象だって、そう悪くはないだろう。カインはどこか惚けた顔をしているフィージィを見つめる。彼女はすすり泣くパードレウの背中を優しくさすっていた。


「総合順位は、集計してから出すのか?」

「ええ。……でも少し遅いですわね」


 背中に手をやりながら、フィージィが不思議そうに頬へ指を沿わせたそのとき。


「一位の結果は無効である」


 ぞっとするような、酷薄な声が大きく周囲に響いた。聞いたことのある男性のものだ。だが、凍土の上に惜しみなく降り積もった吹雪を思わせる声音は一瞬、カインの頭を混乱させる。聞き覚えのある声音の中の男性は、もっと鷹揚であった気がしたから。

 

「パードレウ伯爵代行者、シドとやらは参加を許されてはおらぬ」

 

 さざめく観客たちに、否、町中全てに届くであろうほど大きな声音は、どこまで行っても平坦で、少しの先も見えない雪嵐の平原みたいに冷たい。フィージィが顔を蒼白にさせてよろめき、倒れこみそうになるのを支えながらカインは声の元を探す。すぐにわかった。高台よりも高い位置にある唯一の屋敷、キュトスス撲公ぼくこうの屋敷から放たれているだろう声の主は。

 

「お父様……!」

 

 フィージィの悲鳴みたいなささやきに、カインの頭は一瞬、真っ白になった。

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